死にたがり聖女は真綿でくるんで✕✕しましょう。
◆……聖女
◇……王さま
◆
『あなたの役割は、聖女として国のために死ぬことよ。胸を張りなさい。死にたかったあなたが、人のために死ねる栄誉な仕事なんだから。だからもう少しだけ頑張って―――』
そう微笑んだのは女神様。
毒親にも、クラスメイトのいじめにも耐えきれなくなって、助けてくれる大人もいなくて、みんな不幸になっちゃえ、沢山の人に迷惑がかかれって思って、遮断機の降りた踏み切りに立った。
そんなわたしは電車にぶつかったと思った瞬間に、真っ白いだけの部屋にいた。
そうして自分を女神だと名乗ったその人は、そう言ったのだ。
わたしの役割は死ぬことだって。
聖女として国のために死ね、と。
あぁ、わたしは神様からも死んでほしいと思われている人間なんだと思った。
だったら望み通り死んでやろう。
早く死なせてくれるなら、人身御供のようなその聖女とやらの役割も果たしてやる。
一石二鳥でいい事ずくめだねと笑って頷いたわたしに、女神様は何か言いたげだったけれど、女神様はその後何も言わずにわたしを地球とは違ういわゆる異世界とやらへ送り込んだ。
そうしてわたしは目覚めた。
聖女を殺してくれるという、異世界の王国で。
◇
「聖女様がいらっしゃったぞ!」
神官長の声にハッとして顔を上げれば、聖女の御座に十七、八ほどの少女が座っていた。
体が細く華奢で、きっちりとした紺色の衣服をまとっているのに、表情を隠す黒い髪はざっくばらんとしていて少々不気味にも見える。
とはいえ、たとえ身なりが少々いただけなくとも、誰も座っていなかったこの聖女の御座に現れたからには、彼女こそが女神様の恩恵により授かった聖女に違いがなかった。
その場に同席していた私は不謹慎だとも言われそうだけれど、正直興奮したよ。
彼女が自分の代の聖女なのだと。
賢王の代名詞とも呼ばれる父のように、私もまた、この国の後継として聖女を得られたのだと。
「陛下、どうぞこちらへ」
神官長に言われ、前へと一歩踏み出す。
謁見の間ともいえるこの広間で、聖女の御座は一段上にある。階段を登り、その聖域に踏み込むのを許された私は、その胸の高鳴りを感じながら御座へと歩み寄る。
ひざまずき、聖女の手を取った。
「我が国を守護せし女神よ。我が御代に聖女を遣わしてくださりましたこと、御礼申し上げます。我が国へもたらしていただきましたこの慈悲は、聖女の美しき魂とともに天上へとお返しいたしますことをお約束いたします」
聖女を通した女神への奏上。
言い切るや否やのところで、私が包んでいた小さな手のひらが小さく震えた。
顔を上げれば、長く垂れる漆黒の髪の向こうに見える、二つの黒曜石のような瞳。
美しいのに、どこまでも暗く、少しも光を返さないその瞳に、私の背筋がぞくりとした。
◆
わたしが目覚めたのは、すごく美しくて、すごく窮屈そうな場所だった。
わたしは大理石が敷きつめられた広間の一段高くなった場所で、椅子のようなものに座っていて、知らない人たちにかしづかれていた。
しかも、わたしの手は私の目の前にかしづいていた、銀の髪にアメジストの瞳を持つきれいな男の人にとられていて。
にっこりと微笑んだその人は、自分からこの国の王様だと名乗ってくれた。
そう、この人が国のためにわたしを殺してくれる人。
痛いのは嫌だけど、優しそうな顔をしているから、ひどい殺し方はしなさそうだとちょっとだけ安心した。
「聖女様、どうぞいらっしゃいました。まだいらっしゃったばかりで勝手もわからないでしょう。どうぞ今日はゆっくりお休みください。私はまた後日、落ちついた頃にお伺いしますので」
銀の髪とアメジストの瞳を持つ、月のような静けさを持つ王様はそう言って、神官長という白い髪のおじいさんを紹介してくれた。
呼ばれてすぐに殺してくれるものかと思っていた分、ちょっとだけ拍子抜け。
神官長から聖女の過ごし方を色々聞くうちに、精進やら潔斎やらと聞いて、聖女というからには死ぬにも段取りがあるのかもしれないと思い直したけど。
たぶん、国のために聖女が死ぬってことは、何か儀式みたいなものがあるんじゃないのかな。
図書館で読んでいた物語にそういったものがあった気がする。
ちょっと面倒だなと思ったけど、そうしないと殺してくれないというのなら、まぁ付き合うしかない。本当は、ずっと扉の前に立っている白い鎧を着ている兵士っぽい人たちが持つている槍で、心臓を一突きしてもらっても良かったんだけどさ。
神官長に「お疲れでしょうから」と言われてお風呂に入る。
女性の神官さん達がお手伝いしてくれると申し出てくれたけど、断った。子供じゃないから一人でできるし。
久しぶりのお湯はすごく温かった。
温泉みたいに広い湯船に、入浴剤が入っているみたいでとっても甘くていい匂いがした。
せっかくだからと使うように言われた石鹸を使えば、ぼろぼろと面白いぐらいに垢が取れた。
クラスメイトに汚い、汚いと囃し立てられていたのを思い出した。
こんなにも垢がついていたなんて、やっぱり私は汚い人間だったんだ。
そう思うと、綺麗にお湯がはられた湯船をいただくのが申し訳なくなって、私はそそくさとお風呂をあがった。
……久しぶりのお風呂なんて、自分の嫌なところを再確認するだけだった。
やっぱり死ぬのに身ぎれいにするのは無駄なんじゃないかな。
どうせ死んだ後には汚い汚物がそこに遺るだけなのに。
◇
不思議な報告を聞いた。
聖女が人に肌を見せるのを拒むと。
「もしかしたら聖女は恥ずかしがりやなのかもしれないね」
「そうであればいいのですが……」
気がかりそうな神官長に私は軽く返事を返す。
私も父が病死し、国王として即位したばかり。
まだまだやることが多くて、一つのことに多くの時間は割けれない。
神官長が聖女につけた女性神官から上がったという報告は、それほど気にするようなことでもなさそうだった。
この国でも貴族の女性は肌の露出は控えるものだし、大衆浴場も平民が利用するくらいだ。貴族なら着替えや湯浴みに人手を借りることにも慣れてるだろうけれど、平民なら慣れていないだろうし。大衆浴場も利用しない平民なら人に肌を見せることに慣れていないのも当たり前だ。
「ですが、あれは慣れないというよりも……」
「なんだい?」
「……いいえ。この件はもう少し様子を見てみましょう。我々の考えすぎかもしれませんからな」
神官長が何かを言いかけていたけれど、結局話すのはやめたらしい。そこまで中途半端に言われれば、かえって気になってしまうものだけれど、まぁいいか。
「それと陛下、もう一つ。聖女様の食があまりにも細すぎます。お食事をお出ししても食べられるのは小鳥の涙ほど。これではお身体が持ちませぬ」
「それは困るな。彼女に今死なれてしまうと非常に困る」
食事が口に合わないのだろうか? それとも慣れない場所で精神的な負担になってしまっているのだろうか? 少しずつでも食べる量を増やせると、こちらも安心なのだけれど。
「原因は分かるかい?」
「お口に合わないわけではないと聞いております。ただ、初日にあまりにも食べられる量が少なかったのでもう少し食べるように助言したところ、半分も食べないうちに戻されてしまったとか。それからは胃に優しい粥などをお出ししてますが、それでもケーキ皿の半分も召し上がれません」
それは確かに深刻だ。
ケーキ皿の半分も食べられないとは、それでは身体が参ってしまうだろう。ケーキ皿は茶菓子に丁度いいサイズであって、三食の食事をそれでは少なすぎる。
「ふむ……根本的解決ではないが、間食を増やすように。甘いおやつや果物などで、少しでも食べる量を増やさせよう。少々値がはってもいいから、滋養のあるものを取り寄せてあげて」
「かしこまりました」
一度に沢山食べられないなら、食事の回数を増やすしかない。
今、聖女に倒れられると国も倒れかねない。せっかくの女神様のご慈悲に報えなくなってしまう。
「……少し聖女の様子を見に行こうか。神官長の話を聞いていると、少し心配になってくる」
そうだ、そうしよう。
のど越しの良い菓子や果物を持って、ちょっとしたお茶をしてみよう。聖女の話も色々聞けたらいい。彼女は私の聖女だから、気にかけるのもおかしくない。
聖女は私に遣わされた女神様のご慈悲なのを忘れてはいけない。
この国のため、聖女の生死は私が預かっているのだから。
◆
この国の人はみんな優しい。
でも優しいフリをしているだけ。
わたしを自分たちに都合が良いように殺すために、わたしのことをおいしく調理しているだけ。
この国の食事はどれもおいしい、と思う。
最後に温かいご飯を食べたのはいつだっただろう。
一日三食が食べられるだけでも贅沢なのに、最近はおやつまで出してくれる。
前は一日一回、お昼に購買のパンを買えれば良い方だった。コンビニで百円のおにぎりを一個買うよりも、購買の五十円のパンを二つ買った方が、お昼も夕飯も食べられた。たまにいじわるなクラスメイトに、そのパンをドブに捨てられることがあって、そういう時はなくなっちゃうけど。
毒親はわたしに一銭すら与えるのを惜しんだから、一週間に一枚与えられる五百円玉のやりくりが大変だった。たまにその五百円すら貰えないこともあったから、贅沢なんてできなくて。
その上、クラスメイトにお財布を盗られることもあったから。あの悪質さ、なんでバレなかったんだろう。大人って全然、子供のことを見ていない。
でも今はそんなことを考えなくていい。
ご飯を出してもらえる。
それだけでも十分、わたしにはありがたい。
「どうしたんだい? お気に召さなかったかな」
「いいえ、とても、おいしいです。でも、お昼ごはんを食べたばかりで……」
そっかと微笑むのは、銀の髪にアメジストの瞳をした王様。
三日ぶりくらいだろうか。桃っぽい果物を持ってきて、わたしを訪ねてきた。
「生活には慣れそうかな」
「はい。みなさん、良くしてくださるので」
「そうかい。それならいい。君にはまだまだ元気でいてもらわないといけないからね」
その『まだ』はきっとわたしを殺すまでってこと。
わたしは今すぐにでも殺してくれて構わないのに。もったいぶられてしまうと、ちょっと萎える。
早く、わたしの首を断頭台の上に持っていってくれないかな。
そんなことを思いながら、月のように静かに微笑んでいる王様とのお茶会の時間は終わった。
◇
聖女は笑わない。
それは私が国王で、身分的なものに緊張しているのかとも思ったけれど、そうでもないようで。
神官長から食事の話を聞いて以来、執務の合間を縫っては聖女の元へ通っている。
菓子や果物を差し入れているけれど、確かに彼女が食べる量というのは、年頃の娘にしては少ない。一口食べて終わることもある。
これでは神官長が心配するのも無理はない。
そもそも体だって十七という年のわりには成熟しきってはいないようで、折れそうなほどに細く、また血色の悪さゆえか顔色は青く見えるほどに白い。
ただ救いなのは、出会った時には乾いてかさついていたはずの唇が、今は潤っていることだろうか。ここでの待遇が少しずつ彼女の体を快方へ向かわせてくれていることは感じ取れた。
ならば私がやっていることは間違っていない。
女神より与えられた慈悲である聖女。
このまま彼女が、女神の望む通りになってくれればいいのだけれど。
「今日は紅茶味のケーキを持ってきた。この茶葉、気に入っていただろう? きっとこのケーキも気にいると思う。さぁ食べてごらん」
「ありがとうございます。……いたたきます」
彼女は出されたものを自分からは口にしない。
私が一口食べて、食べるよう勧めて、ようやく食べる。
まるで食事をしつけられた犬のように、こちらの様子をうかがう。
今日のケーキは彼女でも完食できるように小さめに作らせた。クッキーの一回り大きいだけのケーキを複数個作らせて、残っても後でつまめるようにしてもらった。
聖女の頬がゆるむ。
あまり表情の動かない聖女だけれど、美味しい物を美味しいと感じる味覚はちゃんとあるようで安心する。
人間は味覚を失うと、人生の半分を損してしまうから。
「おいしいかい?」
「はい。……とっても」
内緒ごとを話すようにささやくように放たれた言葉。
それが彼女の本心なのだと分かって、私の頬も自然とゆるむ。
優しく流れる時間はとても愛おしいものだ。
お茶会を重ねるにつれ、国のために喚び、召されてきたこの聖女のことを、ただ一人の少女として愛おしく思わずにはいられなかった。
◆
気が狂いそうだ。
この場所は居心地がいい。
ずっといたいと思ってしまいそうになる。
どうしてこんなにも優しくするの。
あなたたちは、わたしを殺してくれるのでしょう?
それなのにこんなに優しくして……。
わたし、どうにかなっちゃいそう。
◇
それは突然のことだった。
いつものようにお茶をするために聖女に会いに行った。
お茶会の席で、出会った頃よりふっくらとして、顔色もずいぶんと良くなった聖女に言われた。
「この国の人たちはみんな優しいですね」
「そう思うなら、皆、君のことが好きだからだよ。好きだから優しくできるんだ」
「冗談がお上手ですね」
くすくすと笑う聖女。
他のことならたいてい笑って受け流すけれど、さすがに聖女である彼女が人の否定するのはよくないと思って、私は苦言を呈してしまった。
「冗談ではないよ。人の好意を否定してはいけない」
「……好意、ですか。たとえ偽りでもわたしに好意を寄せられたら困ります。いざその時が来たら、未練や恨みつらみが生まれてしまいそうです」
「その時……? それはなんの話だい?」
聖女が妙なことを言い出した。
これを放っておくのはよろしくないと感じて、踏みこんでみる。
そして、踏みこんでみて、正解だった。
こてんと首をかしげた聖女は、とんでもないことを言い出したのだから。
「なにって、いやだな。みなさんがわたしを殺してくれる時ですよ。女神様はわたしにこの国のために死ぬ聖女になれと言いました。人身御供のように、あなた達はわたしを殺してくれるんでしょう? こんなに優しくされてしまったら、もうこの両手じゃ足りないくらいの恨みを抱えていかなくてはならないじゃないですか」
聖女の黒曜石の双眸と交わることは滅多にない。
聖女がいつも、故意的に視線をそらしているからだ。
だけど今は、その黒曜石の瞳がきらきらと輝いて私を見ている。
絶句した。
聖女は自分を私達が殺すと思っている。
どうして。
どういうこと。
女神が、言ったのだろうか?
それは聖女による女神の託宣なのか?
私達が聖女を殺すなど、あり得ないのに。
我らが使命は聖女を幸せにすること。
聖女の幸福こそが、女神の恩恵の対価であるからこそ、私達は聖女に心を尽くす。
女神の化身たる聖女を通じて、女神の守護をたまわるのだから、その聖女が天命半ばに死んでしまうようなことがあれば、女神に見放されてしまう。
「……なにか、思い違いをしているようだね。私達は君を殺したりなんかしないよ」
「面と向かっては言いづらいことですもんね。そういうことにしておきます」
違うのに。
本当に違うのに。
伝えたいことが正しく伝わらなくて、聖女との間に分厚い壁があるような錯覚に陥った。
今までで一番楽しそうに話す聖女のことを、気味が悪いとさえ思ってしまって、私はその日のお茶会を早々にお開きにしてしまった。
◆
発想の転換、なのかもしれない。
恨むのに疲れたのなら、この国の素敵な人たちのことは恨まなくていい。
優しくしてもらったことを恨むのではなく、この人たちのために死ねると思えば、自分の死に素晴らしい意味が生まれる気がする。
私の死体がそんな高尚なものに昇華されるのなら、それも一興だ。
人を呪って死ぬよりも、何倍も素敵なこと。
そう、思う。
◇
疲れた顔の面持ちで神官長がやって来たのは、聖女の招来から幾月か過ぎた頃。
あれほど重ねていたお茶会も、最近では忙しさにかまけてめっきりと減ってしまって、聖女のことは人づてでしか知らない。
その上、最初は二、三日に一度、神官長から聖女の報告を聞いていたのも、しばらくすれば、五日に一回、十日に一回と間が伸びてしまっている。
この国に慣れれば聖女も神殿から出て、外の世界を見たがるだろうと思って色々と下準備はしていたものの、その全てが空振りに終わっているのが残念だった。
そんな折にやって来た神官長の定期報告。
そろそろ国巡りで気分転換でもさせようかと思って、半月も顔を出さなかった神官長を定期報告がてら呼び寄せた。
そうしたら。
「……こたびの聖女は、この国を滅ぼすやもしれませぬ。女神様は我らをとうとうお見放しされてしまったのやも…………」
さめざめとそんな世迷言を言い出した神官長。
女神が遣わした聖女が国を滅ぼすなど……なぜ、そんなことに?
私達は何か間違った対応をしてしまったのだろうか?
国の王たる私だからこそ、神官長の嘆く事の重要さを理解できていると思っている。
だが、いくら考えようとも聖女がこの国を滅ぼす理由がわからない。
「聖女様は申されるのです。ご自身が死ぬのはいつなのかと。笑顔で。ここ数日は毎日のように申されて。これ以上、焦らされると困ってしまうと憂えられているのです」
「それは、どう意味だ。どうして聖女が死ぬ必要がある?」
「そんなこと、ありえません。聖女は女神の化身。天上に召されるその日まで、聖女をもてなし、満足ある生を生きていただくのが我々に科された女神への供物でございます。そんな聖女様を死なせてしまっては、女神の怒りを買いましょう」
「だが、聖女は……」
ふと、いつかのお茶会での言葉を思い出した。
聖女が女神からの託けを何か話していなかっただろうか。
記憶のそこにあるそれをゆっくりと手繰り寄せる。
―――女神様は私にこの国のために死ぬ聖女になれと言いました。
確かあの時も、聖女は。
「……聖女は思い違いをしていると思う。女神はなんと?」
「聖女様が仰るには、女神様はこの国のために自分に死ぬように申されたとか。ですが、それは、おそらく……」
「意味が、違うだろうね……」
やはり、聖女が女神の意思を違えているように思える。
女神が望むのは「幸福な生に満ち足りた死」のはずだ。
だが、あの時の聖女を思い返すと、これをこのまま伝えてしまえば。
「……聖女に真実を告げても、信じてもらえそう?」
「非常に難しいと思われまする。今の聖女様は微妙な均衡の中で日々を過ごされておいでです。それが決壊してしまえば……」
「壊れる、と。……なんとも女神は、私の代に限って粋な試練を与えてくれるね」
執務机に頬杖をついて、ため息をつく。
厄介なと思うのは簡単だが、そう思うことこそ女神への背徳になる。
だからこそ私達は、聖女に対して常に真摯であらねばならない。
聖女に私達の心を伝えるにはどうしたらいいのか。
神官長と二人、ため息をついた。
◆
まだ死なない。
まだ殺してくれない。
女神様は嘘つきだ。
◇
「……聖女様は限界でございます。最近はどうしたことか、乱暴な言動が目立ち、世話役としてつけた神官たちが怯えてしまっております」
年のわりにはまだまだ若々しかったはずの神官長が、一気に老け込んだ面持ちで報告にきた。
聞くに、最近の聖女は人の好意を踏みにじり、嫌われるような行為を繰り返しているという。
私の御代の聖女だ。
私がいる限り、聖女はいる。
聖女がいる限り、私はいる。
古くからこの国には、王の即位ごとに聖女が与えられてきた。
つまり私と聖女は一蓮托生。
聖女にまつわる全ては私が責任を持つべきであると先王からは教わった。
壊れかけている聖女に会わずにはいられないと感じて、側近たちの静止を振りきって聖女のいる神殿へと馳せ参じる。
聖女は神殿の奥にある聖女の寝室で、私を迎えた。
帳の下ろされた寝台の上で、少女のシルエットが動く。
「……誰が入っていいと言ったの? 誰にも会いたくないの。出ていって」
「久方ぶりだというのにそれは悲しいね。忙しさにかまけて会いにこれなかったけれど、元気だったかい」
寝そべっていた少女のシルエットが上体を起こした。
「……王さま?」
「うん。そうだよ、聖女。どうしたの、皆を困らせて。神官たちが粗相をしたのかな。そうであるなら、聖女たる君の意思に背いたとして、その者を罰さないといけない。そのために私は来たんだ」
「……」
聖女が黙りこむ。
不自然な沈黙は、自分のしていたことが間違ったことだと気づいているのかもしれない。本当に神官が粗相をしているのなら、素直に報告してくれて構わないのだから。
「どうしたんだい、聖女。君の願いなら何でも叶えてあげる。私はそのために君に会いにきた。君の願いを言ってご覧。女神にも言えない、本当の願いを」
じっと黒曜石の双眸を覗きこみながら、聖女の本心を探り出す。
ほんの僅かに揺れる黒い瞳の光彩が、彼女の迷いのようなものを映しているようだ。
聖女の瞳が潤む。
そっと親指に玉のような雫をすくいとる。
「ほら、聖女。教えてよ」
耳をそっと彼女の唇に寄せる。
聖女はか細い声でささやいた。
◆
王様は国の人。
だからとても忙しくて、わたしに会いに来るのも難しい時があると聞いた。
それなのに彼は、わたしの心が折れそうな時に限って、どうして。
「……わたし、死にたいの」
「死んでどうするの」
「何もないところに行きたいだけ。怖いの。人間は汚いものだって知ってるのに、ここにいる人たちが、まぶしすぎて。わたし、こんなに、良くしてもらえるような、人間じゃないのに……」
不思議につるりと言葉がすべっていく。
何も考えたくないのに、何も話したくはないのに。
あやすように問いかけられたら、聞いてほしいと思ってしまう。
「幸せにはなりたくないの? ここにいる人たちは、君に幸せになってほしい人たちばかりなんだ。だから優しいんだよ」
「そんなのはまやかしだわ。だって女神様は言ったもの。わたしに、国のために死んでって。みんな、私に死んでほしいと思ってる」
「そんなことはないよ」
「いいえ、あなたもきっとそう」
いいの、いいの。それが私に与えられた使命だから。
早く、早く、言ってほしい。
あなたの口から、私に死ねと命じてほしい。
そうしたら「やっぱり人間は汚いんだ」って、未練もなく死ねるのに。
あなたが、ここの人たちが、わたしに優しくすればするほど……わたしは。
その先に絶望があると分かっていても、この束の間の陽だまりに根づいてしまいまくなる。
だから、王様。
「幸せになる前に、わたしを殺してよ―――」
◇
聖女の心はガラスの粉のように、擦り切れてしまっていた。
透明で、美しく、光を七色に反射するガラスを挽いてできた粉は、目に見えないほど細かいのに、触れればその鋭さであらゆるもの傷つける。
そんなガラスの粉のような聖女の心は、どんなものも傷つけてぼろぼろにしかできないのかもしれない。
悪意も、優しさも、聖女の心をざらざらと撫でて、傷つけることしかできない。
ならば私は、彼女が自ら欲するものだけを与えよう。
それが彼女の平穏となるのなら、多少の偽りも女神は目をつむってくれるはずだ。
「……君は聡い子だ。この国の聖女は国のために死ぬしきたりになっている。これまで嫌がる聖女ばかりだったのに、君はなんて立派なのだろう。あなどっていたよ」
部屋の隅で成り行きを見守っていた神官長が、驚きのあまりに息を呑む気配がした。
背中に熱い視線が刺さっているけれど、口出しはさせないよ。
「これをお飲み。毎日一匙ずつ、飲むんだよ。そうしたらきっと、痛みもなく、眠るように死ねるから。ただし、一気に飲んではいけないよ。吐いてしまうから。この毒は体に残るから、毎日少しずつ飲めばいい。約束できるのなら、君へこの毒薬を送ろう。―――私が責任を持って殺してあげるから、ね?」
毒だなんて嘘。
本当はえづいてしまうくらい甘くて胸やけのするシロップだ。
だけど聖女はそれをあっさりと信じてしまう。
「あぁ、すごい。ありがとう。これで私は皆のために死んであげれるのね。すごい。うれしい。わたしが、誰かのために、なにかできるなんて」
今までで一番、可愛らしい笑顔だった。
それがたとえ、破滅を望むものだとしても。
うれしい、うれしい、と繰り返す聖女。
彼女のその不器用な死に方を、どうかこの先も長く続く生の中で、大切にしてあげよう。
それだけがきっと、この聖女の拠り所なのだから。
◆
この国の人はとても優しい。
優しすぎて、憎いくらいに、優しい。
王様がくれた甘い毒は、ただ甘いだけ。
一瓶を空っぽにしたって、わたしはまだ死なない。
まだ、死ねない。
「聖女、お茶をしよう」
「よろこんで」
いつしか、銀の髪にアメジストの瞳を持つ月のような人とお茶をすることが苦痛ではなくなった。
それはきっと、紅茶にたらす、一匙の毒のせい。
「今のは少し多いんじゃないかな」
「そんなことないわ」
苦笑いする王様は私が紅茶の中に入れたものが何かを知っている。
そしてそれが優しい嘘だってことも、わたしは知っている。
優しい、優しい人。
わたしに、死んでほしくなんか、ないくせに。
ほんとは気づいてる。
優しい王様の心づかい。
その奥に垣間見える本当の気持ち。
わたしもきっと、おんなじ気持ちが芽生えてる。
でも。
「わたしは幸せね。もうすぐきっと、願いが叶う。みんなも幸せね。もうすぐきっと、女神様に声が届く」
「そうだね」
おしゃべりなあなたが微笑むのは、その本心を隠したいとき。
きっとあなたはわたしに死んでほしくないと思ってるはずなのに、あなたは決してわたしに「生きろ」なんて言わない。
それが嬉しくて、寂しくて。
わたしのありのままを受け入れてくれるのに、わたしにあなたを受け止めさせてくれない。
だって、わたしが弱いから。
でも、わたしはいつか。
あなたに「生きて」と言ってほしい。
そうしたらきっと、わたしも素直にあなたの優しさを、この世界の人たちを、好きになれる気がするのに。
私の心はとっくに癒えている。
あなたが素敵な毒をくれたときから。
でも、みんなが、優しいから。
私も甘えるのをやめられない。
やめ方が、わからない。
だからわたしは今日も。
「はやく、死にたいなぁ」
うそぶくの。
end.