手。
『手』は見送る。プラットフォームで。側を離れゆく車体を……。ぷるりと見送っている。
男と女は互いの名を呼び合いホームで、他人の目など鼻にも引っ掛けず、背中に手を回し、ひしっと抱き合う。多くの人が目的地が違う、それぞれに応じた車両の到着を待つ中で。
なになに?やだぁ、不倫カップル?、なになに?年の差じゃん。写メ!くくく。ったく……、いい年をしてみっともない……、ザワザワ。
好奇な視線、怪訝な視線、嫌悪、無関心、彼等たちに投げつけられるものをまとめると、邪魔。
幸せ真っ只中の二人は、とりあえず座りましょうと、ホームの待合室へと向かう。
「ねえ、缶コーヒー買いましょう、貴方、コーヒー好きだから」
「ああ!待って……僕が買うから」
男はスーツを着込んでいた。手には旅行鞄を下げている。女は白いワンピース。キャリーケースをコロコロと動かす。空いている手はしっとりと絡めて、恋人つなぎにしている。
「やっと夢が叶ったわ」
自販機の前で嬉しそうに女が言う。男は鞄を足元のコンクリートの上に置く。手を離したくないからだ。空いた片手でポケットを弄ると、小銭があった。
「あ、これだな。君はこれ……」
ガコン、ガコン。飲み物が落ちる。それを身をかがめて取る手。男と身体の動きを合わせる女。
「君には苦労をかけた」
ミルクティーを差し出しながら話す男。女は嬉しそうに受け取る。取り出し口に手を突っ込み、商品を取り出す男、女はじっと寄り添い見ている。手の中の缶コーヒー。ブラックか、それとも金色の微糖の……。
「自販機か、久しぶりだな」
金色ね!そうよ貴方!女は、再び抱きつきそうになるのを、じっとこらえた。座って飲みましょう。待合室でなくてもここにベンチがあるわね。と仲良く寄り添い座る。
「おいしい……、この缶コーヒー、デザイン変わったんだ。ボトルになってるね」
カシャ、ネジ切る様に蓋を開け、一口飲むと笑いながら話す男。女は甘いミルクティーのペットボトルのキャップを、グッと回す。
「そうね、デザイン一新って、コマーシャルでよく聞いてた気がするわ」
……、……、しばし無言の時を過ごす。隣どうしの手と手は、柔らかく重ね合わされている。目の前を通り過ぎる人、先程の光景を見ていたのか、チラリも目をやる人。
アナウンス、電車が入り止まる。四角い入口からぞろぞろと吐き出される人。黙々と身体を斜にしながら乗り込む人。
アナウンス、警笛と共に発車する。プラットフォームは一時の、ガラリとした広さを感じさせる、無機質な長方形の空間になる。
やがて二人は飲みつつ他愛のない会話を始める。
「……ああ。この日を夢見てたわ。離婚は定年退職の時、だったもの……。私頑張ったでしょう!貴方と添い遂げる為に頑張ったの……」
「ああよく頑張った……、長かった。本当にすまない」
「いいの、貴方こそ頑張ったわ、本当に……、私の事だけを想って。ねえ、これからは楽しく過ごしましょう」
女は薄っすらと涙を浮かべて男を見る。これまで過ごしてきた時を、フツフツと湧くように思い出していた。
女は日陰の身を敢えて選んだ。愛する男と添い遂げる為に。女が選んだ相手は妻も子供もいる裕福な社会人。俗に言う不倫。現代日本としては、不謹慎極まりない愛の形。
男と女。真実の愛を結ばれぬ二人は交わしているのか、それとも打算と策略があるのか。
きっかけは、今、二人がいるこのプラットフォームで、女が男に声をかけられたのが始まり。
「……何をしているのかね?危ない、こっちに来なさい……。さあ」
白線の外側、切り立ったコンクリートギリギリにしゃがみ込み、下をじっと見ている女に、男が声をかけたのだ。女が放つただならぬ陰気に気がついた男は、白い大きな花束を両腕に抱える様に持っていたのだが、片手を離して女に差し出した。
「君はまだ若い。惜しい事をしてはいけない……」
女は答えずその場でじっとしゃがみ込んでる。濡れた黒真珠の様な目には、何かが映り込んでいるのか、一点を見つめ、紅引かぬ唇は、会話をする様に小さく動かしている。
男は上から黒いワンピースの女を見下ろしている。うつむいている為に、うなじからちらりと奥が見える、背はどきりと白い。細い肩。華奢な身体つき。
……いいな。
そう思った。心を病む様な風情が、男の何かを唆る。勝手な妄想が始まる。
……失恋か?男に棄てられ、どうしようも無くなってるのか?
優しくすれば堕ちるか。先の展開を考えていると、女が、すっと立ち上がった。男に青ざめ震えつつも、礼を述べる。
「ありがとうございます……。少し休んでいただけですの。あの……、失礼ですがそのお花は?」
たおやかな口調がゆるりと出る唇に、いいなと思い聖人君子を装う男。
「ああ。ここで目をかけていた部下が死んでしまってね……。惜しい人材だったよ。命日には花を供えて、手を合わせるのさ」
置きっぱなしは駄目だから、手を合せた後は、持って帰るのだけど。としんみりと話す。
「まあ……、そうなのですか。部下の方も、良い上司を持たれてたのですね」
きっかけだった。男と女は急速に仲を深めた。すぐに男の妻に仲を知られたのだが、とうに冷えていたのだろう、定年退職迄はこのままで、若い女に誑かされたとなれば、世間体が悪いのですわ。
「定年退職迄は判子は押しません。家族としてのお務めは、果たしてもらいます。子供達が独立すれば、お互い自由になりましょう」
実家が資産家という男の妻は、冷たくそう言い切った。
「定年退職をしたら離婚届を出すよ」
「そうなの?じゃぁそれまで待つわ」
男が花束を供える日には、必ず女は側にいた。共に手を合わせた。
「関係ないのに……」
「いいの、私がそうしたいだけだから」
女は笑って言う。終えると辺りを憚らず男と腕を組む。人目を気にして窘めるが、この時ばかりは、何故か従順な女は男の言う事を聞かなかった。
そしてその夜は女の部屋で、手料理を食べて夜を過ごすのが、男の決まり。男は……充実感に満ちていた。
やがて時が過ぎ、すっかり馴染んだ頃、男は花を供えに行かなくなった。男はそもそも、若くして死んだ部下の事など、どうでも良かったのだから。
……、全く!ちょっと寝ずに仕事をさせたら飛び込みしやがって……、昔はそんなこと序の口。なのにイビったの虐めたの!こうして花でも供えに来てたら、誰も何も言わなくなるだろうな。それまでは、適当にやっとこう。
「彼氏……は、どんな男だった?」
腕枕をしつつ、時々薄闇色の中で耳朶に聞く男。少し嫉妬が彼の中にはある。男の妄想の中で、少し軽いノリの若者の姿が、愛する女とここで……の姿が過ぎるからだ。それには笑うだけの女。アロマが趣味という女の部屋は、キャンドルとオイルの甘い香りで満ちていた。
「君の味噌汁は美味しいね、妻はこういうのは作らないから、嬉しいよ」
泊まりの翌朝は、決まって和風の朝食を並べる女。
「今は若い人はお味噌汁飲まない人も多いもの。私も大豆のアレルギー少しあるから……食べれないの」
じゃぁ僕の為だけに!ええ、お好きだと手作り惣菜で有名なあの店のランチの時に、話してたじゃない。と屈託なく話すと片手鍋の前に立つ女。冷蔵庫から出汁を入れたボトルを取り出すと、トプトプ……、一人分を鍋に注ぐ。
煮立ったら豆腐に油揚げを入れようと、キッチンに立っている。小さなすり鉢に味噌を入れる。胡麻、ごくごく微量のおまじないの粉、合わせてよく混ぜ合わせる。かき集めたけど、ヘアブラシにはそれほど残っていなかった。
……、定年退職、そうよ。定年退職まで頑張らないと。誠さん、上手く行くかわからない。……で待ってて……、きっと大丈夫、上手くいくわ。
味噌汁を待つ男は女を愛し、女は別の男を愛していた。先を見据え、利用する為に、女は今の男の側にいた。
「君が、アイツとここに来るたび、どんな気持ちだったか……あれが無かったら、とうにヘタって成仏してたかもな」
ベンチに座り男は女の手を握り話している。
「その為に一緒に来てたのよ。誠に見せつける様にね……。嫉妬は何よりの糧とか言うじゃない?バカみたいにあの『男』と仲良くしたの」
向かい合う、誠と呼ぶ男の手を愛しく力を込め握る女。この手は、この手だけ。と身体を男に向けると、両手で男の左手を包み込み持ち上げる。キスを幾度もした。
「貴方そのままね。手の甲にあの『男』は黒子なかったもの、こっちの傷も、誠さん、そうでしょ?バイクで転んだ時のやつ、あらやだ。指輪が……ある」
「覚えてくれてる!嬉しいよ幸子、そうだね、指輪は、着ている服と一緒じゃないかな、残ってるのは」
幸子と呼ばれた女は、淡いチェリーレッドな口紅を引いたそこから離すと、悪戯っぽく笑い、左手をぐいっと胸のふくらみに引下ろし当てる。
「こんなところで、何をするんだよ。でも『手』しかないぞ。後はあの憎き上司そのままの姿格好だ……、バラけたからな。完全にパーツが揃ってたのは、左手だけだった……なんとかホームをよじ登って、帰りたかったんだ。幸子のところに……、あー!俺、やっぱ生きたかったんだよ、バカなことしたなぁ……」
「もういいんじゃない、帰って来れたのだから。手だけでも貴方だもん。誠の手だからいいの、嫌だったな。誠のノイローゼのきっかけの奴に、あちこち触られてさ、料理まで食べさせて……」
女は憎々しげに吐き出す様に言うと、プラットフォーム、線路の方を凝るように睨みつける。二人は立ち上がる。そこに近づく。
『手』が……、直角のそこにしがみついている。線路側にぶら下がる様に。ギリギリとコンクリートに、ブルブルと震えつかまっている。
「未練があるのかしら!てっきり、あの時消えるかと思ったのに」
幸子はせせら笑いながら、ホームに見える指先を見下す。身を乗り出して姿を見る。つい先程の出来事だ。ここで幸子は、『男』から贈られた指輪を、それらしく落とした。
コン!コロコロコロ………
神様……上手く誠さんの『手』の近くで止まって!
声に出さずに祈った。全身全霊をかけて祈った。この時の為に、少しでも何かをしたくて、ヘアブラシに残っていた髪の毛を焼いて、灰をほんのちょっぴりずつ、『男』に味噌汁に混ぜて飲ませ続けた。しかしそれもしばらく経つと無くなった。
このホームは通勤に使う彼女。人混みが少ない時間を狙い、電車を選んでいた。そして必ずしゃがみこみ、手だけになったフィアンセと心を通わせていた。彼女には見えていた。消えそうになる『手』に、懸命に声をかけ支えた。
ホームの端にギリギリとしがみつく、愛しい誠の手。
コロコロ、コロ……コロコロ……、クルリと回って、神の采配による場所に、パタリと止まった偽りの愛の輪の片割れ。
「サイズがもしかして……、大きかったかな」
結婚指輪なんだから、気をつけないと。『男』が指輪を拾おうと、側に近づく。しゃがみ込み、床に手を近づけたその時!
ホームにしがみついていたソレが、人差し指、中指、薬指、小指にグっと力をいれると、第二関節を上にぬぬう……と上げる。ぷるぷると震えながら、親指が顔を見せ、ホームによじり出てきた。
ニュルリとした動きで、コンクリートの上にペタリと手のひらを置くと、ぐ、ぐ、ぐ……ぐ、ぐぐ!開いている五本の指、手のひらを上に持ち上げる。
カシャカシャカシャ!指が動いた!這う!這う!這う!
手首がカサカサカサ!カシャカシャカシャと!
ワシッ!ワシワシッワシ!点字タイルの凹凸の上を、器用に動く。
すぐ側に来ていた獲物に近づいた。獲物を食う様に、ガシリと指が手首を掴む。
……、『男』は……、一瞬氷の塊が心臓を掴んだかのように感じ、しゃがみ込んだまま動かない。血管にジュルリとした物が走る奇妙な感覚……。それは全身を即座に駆け巡り脳にたどり着き……、真っ暗になり意識が飛んだ。
やがて気がつけば、何もかもが変わっていた。わかるのは目もないのに、何故かわかるコンクリートの世界、下の線路、何処から見てるのかわからない、パノラマ視覚がナニカに響く。
脳みそも無いのに、爪先がじんじん痛む。耳も無いのに、微かに聴こえるかの声。見えているのか感じているのか、抱き合う二人の姿。囁きあう言葉……。
「誠さん!」
「幸子!」
「上手くいったのね!身体を乗っとれたのね!嬉しい、嬉しい!」
「とんでもない計画だったけど……、上手くいった。ヤツの財産も何もかも、これで俺の物になるのか……」
どうして……どうして?どうして……誰だ、あそこに居るのは……。
『手』は……、片割れの愛の輪を失くし、じっとしがみついたまま、何故とそれだけを思い、線路側にぷるぷると、未練がましくぶら下がっている。
「全く……罪滅ぼしのつもりだったのかしらね、まさか花を供えて、手をあわせに来ているなんて……、そこそこ混んでる時間に……いい人間をしたかったのね、そのおかげで出会えたのだけど」
「ほんとにな、俺、気がついてなかったよ、微妙にずれた場所だったんだろ、幸子のおかげで……、あーあ、この顔嫌なんだけどなぁ。だってこの顔!俺をいびり続けていた顔なんだよなぁ……、きっと忘れてたと思うよ。自分のやった事に気がついて無い。そんなもんだろ」
「長かった。もっと早くに考えたけど、それじゃ二人で暮らせなかった。復讐したかったし……、辛くて別の人も考えたけど」
「別の奴なら俺は動かなかったな、てか、出来なかったよ。復讐は……うん、良かった。力がぐぁーって出てきた」
『手』の側で、見せつける様に身を寄せて話す二人。足元の指が震えている。やがてくるりと背を向け、ベンチに向かう。
「電車、来るわね。荷物持ってこないと」
「ああ、手回りの品ばっかりだけどいいの?」
「いいのよ、みんな棄てるの。海外移住よ。あの男しっかり、ひと財産築いてたの。それだけは感謝ね。うふふ。古臭いものはいらない、家は購入してるし……、しばらくホテル住まいをして、誂えて行けばいいわよ」
幸子は笑いながら、ポケットに入れていたそれを取り出す。ベンチに置かれていた、ボトルコーヒーの缶に落とす。それに誠も続く。
カラン。カラン。
それぞれに済ますと、誠がギリ、とキャップを締めた。側のゴミ箱にガコン、と棄てた。アナウンスとメロディ、それは二人の門出の歌の様に明るく流れた。
幸子と誠は仲良く、到着した車両に乗りこんだ。
二人の新たなる時が始まる。二度とここには来ない。
ドアが閉まりガタンと車体が大きく揺れる、電車は先を目指して進む。
『手』は見送る。プラットフォームで。側を離れゆく車体を……。ぷるりと見送っている。
終。




