5
「おかしい……やっぱり何かがおかしい……」
その日の夜、寝支度を整えてベッドに横になったエルーシアはブツブツと呟いていた。
今ごろ客間では、オルキスが休んでいるだろう。
エルーシアは一人、キスされた手の甲をもう一方の手と胸とで押さえ込むようにして、必死で考える。
どう思い出してみても、エルーシアの記憶にあるオルキスはこうではなかった。
せっせとエルーシアに会いに来ることはない。
出かけるエルーシアに付いて行こうとすることもない。
視力よりエルーシアがいればなんて、砂を吐くような台詞と共に手の甲にキスなんてこともしない。
そもそも、キスなんてされたことが今までにあっただろうか?
あれば大事な大事な思い出として、絶対に忘れずにいるはずだ。
唇なんてもってのほか、額や頬や手の甲にだってキスされたことはなかった。
文字通り、死ぬまでなかった。
十六歳にもなっていたのに。
「違いすぎる」
死ぬ前のオルキスと、今のオルキス。
視力のこともそうだ。
以前のオルキスは両目とも同じ色の青い瞳で、右目が見えていなかった、などということはなかった。
間違いなくオルキスであるはずなのに、違う人物のようだ。
「……ここは違う世界なのかしら」
いつか物語で読んだことがある。
平行世界という、似たようでいて全く違う世界があるという。
それは作者の創作であり、だからこそ面白い話だったが、それが自分の身にも起こっているのだろうか。
しかし、エルーシア自身が大きく変わった。
前回と何から何まで全く一緒、とはいくはずもないだろう。
例えばエルーシアは好んで乗馬をするようになったので、馬丁と仲良くなった。
前回はほとんど言葉を交わすこともなかったのに、今ではちょっとした軽口まで叩く仲だ。
音楽を教えに来てくれる教師とも仲良くなった。
あまり授業に参加しようとしなくなったエルーシアを追いかけて、屋敷中でかくれんぼのような有様になるのだ。
小言を言いながらエルーシアを探して、大きなハープの前に座らせて満足したところで、喉が乾いたと言って一緒にお茶を飲んで、音楽と関係ない世間話を少し楽しんでから授業に入る。
以前は真面目に授業を受けていたので、余計な会話などなかった。
侍女のモニカについては最たる例で、本来であれば今頃は既に亡くなっているはずだった。
質の悪い風邪をこじらせて、それでも無理をしてしまったために最期は高熱にうなされながら帰らぬ人となってしまったのだ。
それを知っていたエルーシアは、モニカが風邪を引いたと聞くやいなや、彼女をベッドに縛り付ける勢いで自ら看病した。
完全に治るまでにむやみに動いたら一生口を利かないし目も合わせないと脅したら、想像以上にモニカには効いたようだった。
そのかいあってかモニカは大事には至らず、今ではすっかり元気になっている。
エルーシアは変わった。
そして、エルーシアの周りもそれに影響されている。
オルキスが前回と違うのも、そういうことだろうか。
「……いやいや」
やはりそれは違う気がした。
他の人がそうだとしても、今のオルキスがエルーシアの目の前に現れた時から既にあの調子だった。
エルーシアに影響されて徐々に変化していったということではない。
それはつまり。
「どういうことなの……」
ぐるぐると考えがまとまらず答えの出ないまま、エルーシアは眠りに落ちた。
オルキスがもう一つの爆弾を持っていることを知る由もなく。
*
翌朝、王都へ帰る前にオルキスは言った。
「来月から士官学校に入るから、しばらく会えない」
「あぁ、そうだったわね」
前回のオルキスは魔法騎士だった。
父であるヴァロア大公は王国屈指の魔法の使い手で、オルキスもその才を受け継いでいる。
しかも武芸にも秀でていて、剣も魔法も扱える器用な人間だった。
この国に騎士や魔法士は多くいるが、魔法騎士となるとかなり数が減る。
にも関わらず、オルキスは士官学校を卒業してすぐ、魔法騎士の一人となっていた。
加えて未来の大公であり顔もいいので、以前のエルーシアは案外苦労していたものである。
これからもまた、オルキスに想いを寄せる令嬢たちからの視線を浴びなければいけないのだろうか。
思わずため息をつくと、オルキスがじっとこちらを見つめてきた。
「僕に会えなくなると寂しい?」
僅かに笑いながら、そんなことを言う。
エルーシアがむっとするのも分かっているだろうに、むしろ楽しんでいる節さえあるような気がする。
「貴方ほどの才能があれば、きっと魔法騎士になれるでしょう? 未来の魔法騎士様の婚約者は針のむしろだから、私のためを思うのなら今すぐ婚約解消してほしいと思っていたところよ」
「エルーシアのお願いなら何でも聞きたいところだけど、それは無理。あと……」
調子に乗っていたオルキスが、言いにくそうに言葉を区切った。
「僕は魔法騎士にはなれないから、安心して」
「そんなことないでしょ。貴方ほど剣も魔法もうまく扱える人なんて、めったにいないわ」
「でも、魔法が使えなくなってね」
「え?」
今、何を言った?
「魔法が使えないと言うか、魔力がなくなってしまった」
「……な、なんで……?」
簡単に言うが、これは一言二言で片付けていいような話ではない。
この日エルーシアは、帰ろうとするオルキスを初めて引き止めた。
アルハン邸を出る直前だったはずのオルキスは嫌がるどころか心底嬉しそうな様子で頷いて、もう一泊を決めたのだった。
*
一日引き止めたからといって、大した話が聞けたわけではなかった。
「視力と魔力がなくなったのは、同じくらいの時期だったよ」
「数ヵ月前に魔法で……少し失敗して。それで視力と魔力全部、持っていかれてしまった」
「父は当然、もう知ってるよ。魔法騎士への道が閉ざされたことは、残念がっていたけどね」
「片目が見えないのも魔法が使えなくなったのも、もう慣れたよ」
――まぁ、こうなってしまったものは仕方がない。
そう締めくくったオルキスに、エルーシアはかける言葉が見つからなかった。
エルーシアは元々魔法が使えないから、魔法で失敗した結果視力や、魔法が使えなくなるほど魔力を失うというのがどういうことなのか、本当の意味で理解することはできない。
一般的な感覚で、これは相当大事なのではないか、ということが分かるだけだ。
しかし目の前にいるオルキスは深くソファに腰掛け、優雅に紅茶を飲みながら話している。
まるで緊張感がないので、当人としてはあまり大きな問題ではないのだろうか。
「さすがに心配してくれたんだ?」
「当たり前でしょ。目のことと言い、何でずっと黙ってたの」
「ごめん、君を心配させたくなかったんだ。矛盾してるけどね」
オルキスは謝ったが、エルーシアに文句を言う資格などない。
婚約解消してまで関わりたくなかった相手なのに、どうして今まで教えてくれなかったのかと言うなんて、それこそ矛盾している。
そんなエルーシアの心中を知ってか知らずか、オルキスは話を士官学校の方へ戻した。
「魔法は使えないし片目もだめになったけど剣は握れるから、士官学校には予定通り通うことにしてるんだ。全寮制の二年間、君に会えなくなるのが残念だけど」
「こんなに頻繁に来るのはここ一年くらいのことでしょ。今まで通りに戻るだけじゃない」
「手厳しいな」
言いながらも、オルキスはまた笑っていた。
時間が遡ってからというもの、オルキスの表情が柔らかくなったように感じる。
以前は珍しかったオルキスの笑顔を、一日に二回も三回も見る日が来ようとは。
「手紙書くから」
「はいはい」
「返事、待ってるから」
「はーい」
エルーシアの適当な返事でも一応は満足したのか、オルキスは翌日、今度こそ王都へ帰っていった。
やはりこの世界は少しおかしくはないだろうか。
エルーシアがオルキスに対してしたのは、婚約解消を申し出たことと、彼に対する態度を真逆の方向へ変えたことだけ。
前回とは明らかに違う、なぜかエルーシアに好意を寄せているような気がするのも、視力と魔力を失っているのも、エルーシアが何かを働きかけたからという説明では納得ができない。
オルキスだけ、全く別のオルキスに入れ替わってしまったのではないだろうか。
エルーシアにそれを確かめる術があるはずもなく、小さくなっていくオルキスの後ろ姿にため息をこぼした。