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 ガシャン、という音を聞いて目を開いた。


 手元を見れば、カップがソーサーの上に転がっている。

 当たりどころが悪かったのかカップは二つに割れて、まだほとんど飲んでいなかっただろうお茶がこぼれた。


「まぁ、お嬢様! 立ってくださいな、すぐにお召し物を変えましょう。火傷などしていなければいいのですが」


 音を聞きつけて、後ろに控えていたらしい侍女が駆け寄ってくる。

 テーブルを伝って落ちた熱い紅茶がスカートに染みていくのもそのままに、エルーシアは目を見開いて呆然と呟いた。


「わたし、死んだ……のよね?」

「何をおっしゃいますか。お茶をこぼしたくらいで人は死にませんから、ご安心くださいまし」


 促されるままに椅子から降りると、床までの距離が近い気がした。

 不思議に思って足元を見ると、まだ子供だったころの大のお気に入りだった靴が目に入る。

 成長に伴って、すぐに履けなくなってしまった靴だ。

 大事にしすぎるあまりにほとんど履かず、そのうち足が大きくなって履けなくなったことに後悔したのは、今でもよく覚えている。


 いよいよ混乱してきたエルーシアは、自分の手を引いて歩く侍女を見た。


「モニカ?」

「心配しなくても大丈夫ですよ、エルーシアお嬢様。スカートもペチコートも重ねてありましたからね。でも念の為、少し冷やしましょうね」

「……うん」


 モニカはエルーシアが十三歳の冬、病気で死んでしまった専属の侍女だ。

 続き部屋になっている衣装部屋に入って、エルーシアは鏡の前に立たせられる。

 てきぱきとドレスを脱がせにかかるモニカを鏡越しに捉えながら、そこに映る自分の姿に血の気の引く音を聞いた。

 どう見ても、十六歳のエルーシアには見えない。


「ねぇモニカ。わたしって今、何歳だっけ?」

「まぁ、どうされてしまったのでしょうね、今日のお嬢様は。先日十三歳におなりになったばかりでしょう」

「……そうだったね」


 これが走馬灯というものだろうか。

 エルーシアは確かに首を切られたはずだ。

 痛みは感じられなかったのか、覚えていないだけなのか、それは幸いだった。


 それにしても、スカートに紅茶が染みた時は熱かったし、今は濡れた服が肌に張り付いて気持ち悪い。

 走馬灯というのはこんなにも現実味のあるものだろうか。


 着替えを済ませたエルーシアはその後、家庭教師の授業を受け、家族と食事をし、湯浴みを済ませてベッドに横になった。

 モニカが下がって完全に明かりが消えてもなお、目が冴えて眠れなかった。


「わたしは……生きている?」


 ついに声に出して言ってしまった。

 言ってしまえば納得してしまいそうで、それでも言わずにはいられない状況まで来ている。


 最初は走馬灯かと思っていたが、それにしては長いし、のんびりしている。

 走馬灯というのはその日その日をしっかり振り返って見るようなものではないと思っていた。

 生まれてから死ぬまでの出来事を駆け足で見るような印象だったので、中途半端に十三歳からの走馬灯というのにも違和感を覚える。


 眼の前に手をかざして、片手でもう片方の手の甲をつねってみる。

 間違いなく、痛みがある。


 国王によって処刑されたはずだった。

 エルーシアが付き添って階段を降りていた大公を、階段から突き落として殺した犯人として、首を切られた。

 神に誓ってエルーシアは無実だが、従兄妹がエルーシアが犯人であると証言した。


 亡くなった大公は、現国王の同腹の弟にあたる。

 大公として臣籍に下ったのはオルキスも生まれる前、隣国との戦争が終わってすぐのことだったという。

 兄王との仲はすこぶる良好ではあったが、王子は生まれたばかりで立太子もしておらず、まだ国内外が荒れていた時期のどさくさに紛れて良からぬ事を企む輩もいたらしい。

 そこで当時王弟だった大公は王族籍からの除名を自ら願い出て、幼い王子についで第二位だった王位継承権も永久に放棄すると宣言、署名した。

 これが戦争後の荒れた政治を早急に立て直す要因の一つになったことは確かであり、貴族だけでなく平民にも広く知られている有名な話である。


 誰よりも信頼していた臣下であり、最愛の弟でもある大公をあのような形で亡くし、国王の怒りや悲しみは相当だろう。

 そんな大公の命を故意に奪ったとなれば法を鑑みても、手を下したのが女子供であろうが死罪を免れないのも分かる。

 しかし、エルーシアは無実の罪で殺された。


「生きてるんだ……」


 それも、十六歳で死ぬあの日より三年も前に戻ってしまっている。

 ベッドから抜け出して窓を開けると、夜のひんやりとした空気が入り込んできた。


 ここは父が治めるアルハン領の邸宅だ。

 社交界デビューする前の子供時代はここで暮らしていた。

 エルーシアが処刑されたのはデビュタントからしばらくしてのことだったが、もう懐かしいような気がする。

 

 夜風の冷たさも、領地の空気の懐かしい匂いも、全て現実としか思えない。

 改めてそう考えると、今度はぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。


「オルキス様」


 エルーシアの婚約者であり、好きな人だった。

 オルキスはいつもそっけなかったし、好きと言ってくれたことも一度だってなかったが、婚約者としてはエルーシアを大事にしてくれていた。

 エルーシアにはそれが分かっていたから、愛されていなくても平気だった。


 貴族の結婚とはそういうものだ。

 エルーシアのように、好ましいと思える相手と婚約、結婚できるとは限らない。

 中には結婚して初めて顔を見るような夫婦もいるだろうが、結婚した後に愛を育んでいくのだ。

 エルーシアも、そうできたらいいと思っていた。

 だからずっと静かに、オルキスの隣にいた。


「信じて、くれなかった……」


 愛に見返りを求める訳ではないが、信じてもらえなかった上にそのまま処刑されたとなれば流石に話は違う。

 将来の大公夫人としてオルキスの役に立つため以上に、オルキスに好きになってもらえるように色々なことをしてきた。

 オルキスの趣味や、食べ物や飲み物、色や服装の好み。

 ふとした瞬間に本人が言っていたり、周りの使用人に教えてもらったり、何かの拍子に気づいたりしたら、それを大事にしてきた。


 何をしてもそっけない態度ではあるが、「ありがとう」と言ってくれたり、お茶会や夜会に参加する時は婚約者として同伴させてくれたり、エルーシアの想いは少しずつでも伝わっていると思っていたのに。


 エルーシアの言うことを信じてくれなかった。

 最期に会う時まで、目も合わせてくれなかった。

 そうしてエルーシアは、一人で死んでいった。


「全て無駄だったのね」


 次第に嗚咽が漏れ始めても、涙は止まらなかった。

 窓も閉めないままベッドに戻り、枕に濡れた顔を押し付けて、それでも泣き続ける。

 夜通し泣き続けて夜明けに小鳥たちが囀る頃にようやく疲れて眠り、次に目を覚ました時、エルーシアは熱を出してベッドから起き上がれなくなっていたのだった。



 長時間夜風にあたり、窓も閉めずに泣き疲れて眠ってしまったのが原因で間違いない。

 体調を崩してすぐは喉もかすれてまともに喋れなかったが、それが多少良くなった頃、モニカが一通の手紙を持ってやってきた。


「お嬢様、オルキス様からのお手紙をお持ちいたしましたよ。よろしければ代わりにお読みしますが、いかがいたしましょう?」

「……読んで……」


 今のエルーシアからすれば「今更何の用だ」と言いたいところだが、ここは過去の世界だ。

 婚約者ではあっても甘いことなど何ひとつない婚約者からの手紙など、他の人に見られて恥ずかしいものでもない。

 代わりにモニカに読んでもらったところによると、エルーシアに会いにアルハン領に行く、ということらしかった。

 手紙がエルーシアの元に届いている今、既にオルキスは王都を出ているだろう。


「まぁ、良かったですわねエルーシアお嬢様! 滅多にお会いできませんから、ひと目だけでもお会いできるよう養生いたしましょうね」


 片や王都在住の大公公子、片や王都から離れた辺境に住む伯爵令嬢、婚約者とは言えそう頻繁に会っているわけではない。

 モニカと言えばエルーシアの気持ちを知っていることもあり、自分のことのように大喜びの様子である。

 しかも手紙にははっきり「エルーシアに会いに」と書かれているのだ。

 エルーシア本人も喜ばないわけがない。しかし。


「……お断りして」

「え?」

「オルキス様にはお会いしない。申し訳ないけれど、お断りするよう、お父様に伝えてくれる?」


 この時代のオルキスが何をしたわけでもないけれど、会う気にはどうしてもなれない。


「エルーシア様、ですが、せっかくこうして……」

「いくらなんでも、こんな体調でお会いできるわけないわ。もし移ったりしたら大変だもの」

「それはそうですが……でも、本当にひと目だけでも」

「だめよ。モニカ、お願いね」


 重ねて言えば、モニカは不満げながらも頷いてくれた。

 体調不良が理由ならば断りやすい。


 会ったところでオルキスに対して泣いたり怒ったりできるわけでもなく、かと言って今までのように笑いかけることもできそうにない。

 名残惜しい足取りで父のもとへ向かうモニカを見送ったエルーシアは、ひとまずの安心感を得て眠りについたのだった。

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