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誰もいなくなったバルコニーで、オルキスはエルーシアの言葉を反芻していた。
『浮気だと思うのならそれで結構』
『私に固執する理由はなんですか?』
『どうして私だけを一方的に責められるのですか?』
『私は、貴方のことなんて』
大嫌いだと、その言葉が最後まで出る前に相手の唇を塞いだ。
間髪入れず頬を叩かれて、焦って油断していたこともあって尻もちまで付いて、口の中には血の味が広がっている。
大公公子とあろう者があまりにも無様だ。
「エルーシア……」
オルキスに恋をしていた少女。
エルーシアはオルキスのことが好きなのだと、誰が見ても分かる程の好意が向けられていた。
無償で向けられる笑顔の中に信頼と恋慕があったのは遥か昔のことなのだと、痛む頬に現実を突きつけられる。
王都からアルハン領へやってきた時、ようやく会えたエルーシアの口から出た「婚約解消」の言葉が信じられなくて、どうしても繋ぎ止めておきたくて、足繁く通った。
彼女との婚約を解消しないためなら金も時間も、いくらでも利用した。
遠くアルハン領まで来ても顔を見られないことが多く、在学中離れていても手紙の返事を貰えることの方が珍しかった。
まるで昔とは真逆のエルーシアも、オルキスにとっては新鮮で魅力的で、愛おしかった。
『浮気なんてしてないわ。何のことを言っているの?』
あの程度で浮気だと言う方がおかしいと、自分でも分かっていた。
溢れる僅かな明かりに照らされたバルコニーで、自分以外の男を頼ろうとしたことに腹を立てただけだ。
エルーシアはきっと、あの場にいたのがオルキスだったとしたら、素直に花びらを取らせてはくれなかっただろう。
オルキスが勝手に男に嫉妬して、苛立ちの矛先をエルーシアに向けた、ただそれだけだった。
あまりに狭量な己に乾いた笑いが漏れる。
そしてはたと思い出した。
『――またそうやって、貴方は私を信じてくれないのね』
小さな声だったが、彼女はそう言ってはいなかったか。
また、と。
「……君も覚えていたのか?」
再び会えたエルーシアが全てを覚えていた。
そんなことはあるはずがない。
あの魔法は、術者にしか記憶を残さない。
しかし、もし、もしもそうだとしたら。
「覚えているならさぞ、僕が憎いだろ……」
違う、信じていたと言っても、それこそ信じてはもらえないだろう。
何者かに貶められたエルーシアを証拠もなしに庇うことは、オルキスのその高すぎる身分が許さなかったのだ。
身内や親しい者を不当に庇うため権力を濫用したと、他の貴族や民に思わせるようなことがあってはならない。
王家ではないと言いながらも、あまりに王家に近すぎる立場が足枷となった。
王は自ら審議するためと言ってエルーシアを城へ閉じ込めて、そのまま首を切り落とした。
亡くなった父の爵位を継ぐ、その手続さえできていなかったオルキスに、冷静を欠いた王の凶行を止めることなどできなかった。
エルーシアが死んだことで事件は終わったものとされて、結局本当の原因が何だったのか、真犯人がいたのかも分からないまま数年後には王も崩御した。
あの時、エルーシアを連れて行こうとする騎士を全員殺してでも、二人でどこかへ逃げてしまえばよかった。
結局は何もできず、必死に訴えるエルーシアの目を見ることさえしなかったオルキスが何を言おうと、今となっては全て言い訳にしかならない。
「エルーシア……」
魔力と視力を失うなど些末なことだった。
何年も、何十年も、もう一度エルーシアに会うためだけに生きてきたのだから。
そのエルーシアが、この手から逃れて行ってしまう。
何度必死に引き留めようとしても、彼女には留まる意思がない。
全てをやり直し、この手でエルーシアを幸せにするために禁忌の魔法に手を出した――本当の代償がこれだった。
*
「よう、おはよう」
オルキスが重い体を引きずって寝室の扉を開けると、続き部屋の丸テーブルでグレイが朝食を食べていた。
片手を上げて挨拶する光景に、士官学校時代を思い出す。
「…………なんでここにいるんだ」
「覚えてないの? 昨日、全部聞いたぜ」
「全部? 何を」
フォークでソーセージを刺しながら言う友人の前に自分も腰掛けて、続きを待つ。
朝食はもう一人分用意されていたが食欲は全くなかったので、水差しからグラスに水を注いで口を付けた。
妙に喉が乾いていた。
「姫さんを生き返らせるために魔法で時間を戻したんだろ。その代わりに魔力と視力をなくしたって。あ、ついでに姫さんの愛も?」
「っ、!? ごほっ」
「ほんとに昨日のこと、覚えてないのな。酒も入ってたからなぁ」
グレイの言葉に驚いて、水が気管に入ってむせた。
呼吸を落ち着かせるまでの間も、グレイは呑気にパンを齧っている。
ヴァロア大公邸には初めて来ているくせに、士官学校の寮にいるのと変わらない寛ぎっぷりだ。
「まさか信じたのか?」
「そりゃ最初は何の冗談かと思ったけど、お前に魔法を教えてもらった身としてみれば、信じてもいいかなって」
改めて水を飲みながら友人の目を見る。
隠し事の時は視線が泳ぐことの多いグレイが、真っ直ぐオルキスを見返した。
「はぁ……このことを初めて話すのが、まさか君になるとは……」
「バルコニーで尻もち付いたまま呆けていたお貴族様を不自然に思われないよう連れ帰って一晩中泣き言に付き合ってやった俺に対して、他に言うべきことは?」
「ありがとう。グレイが友人で良かったと思ってる」
「よし」
昨日の夜会で偶然会ったのがこのグレイだった。
士官学校を卒業して軍に配属されたのは二人とも同じではあるが、所属が違うので会うことはまずない。
しかも平民出身である友人が貴族の夜会に来ているとは夢にも思わず、つい話し込んでしまったのだ。
その友人はというと、朝食の皿に視線を戻し言葉を続けた。
「でさ、お前どうせ、好きだってちゃんと言葉で伝えてないんだろ? 態度だけじゃダメだって絶対」
「昨日の俺は一体どこまで話したんだ」
「真面目に聞けよ。結局同じこと繰り返してるからな」
グレイの放つ正論が頭に反響して、素直に返事ができなかった。
それでも容赦ない意見が次々と飛んでくる。
だんだん頭が痛くなってきた。
グレイの言うところには、昨日は酒を飲んでいたらしい。
どれほど飲んだのか考えたくもないが、これは間違いなく二日酔いの症状だ。
目が覚めたのにまだ霞がかったような役に立たない頭で考えても分かる。
昨夜のエルーシアに対しての言動は、最悪のものだったと。
「…………僕はどうしたらいいだろうか」
「問題の規模が予想外に大きい。俺なんかに何が言えるってんだよ」
散々好き放題に言っておきながら、ここで突き放すのか。
半目で睨みつけると、グレイは食事を続けながら肩を竦めた。
「オルキスは元々言葉少ないじゃん、それ自覚してるよな?」
これにはオルキスも素直に頷いた。
物心がついて自分と周囲の関係を理解するにつれて、オルキスは言葉少なで、表情の変化も乏しい子供に成長していった。
良くも悪くも注目を浴びる立場故に、必要以上に感情を表に出さないことを学んだのだ。
時間を巻き戻してからはエルーシアに生きてもう一度会えた嬉しさと、婚約解消を考え直してほしいがため、感情を隠さないことも多くなっていた。
彼女からしてみれば、オルキスこそ豹変して見えただろう。
「姫さんの愛情の上で胡座かいてたお前が悪いから、とにかく謝る。で、今も昔もずっと好きだってちゃんと伝える。これしかない」
会えて嬉しいとか、綺麗だとかは伝えていても、肝心なことは怖気づいて未だに言えていないのだということまで、昨日の自分が話したのだろうか。
それでも、これほど最悪の状況になってもなお、好きだとか愛しているだとかを言う勇気は出せそうになかった。
今のエルーシアがオルキスを嫌っていることは間違いない。
つまり、この気持ちを打ち明けたところで玉砕するのは確定しているようなものだ。
一度目はエルーシアの命が失われ、二度目にはエルーシアの気持ちを失い、更に婚約者という細い糸すら断ち切られたらと思うと、考えただけで生きた心地がしなかった。
「俺はなんて身勝手なんだ……」
「実は前から思ってたけど、オルキスって結構ヘタレだよな」
オルキスに友人の言葉を否定できるはずもなく、気怠い朝が過ぎていった。




