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「もしかして、ご婚約者がいらっしゃった?」


 全ての音が消え去ったのかと思うくらいの静寂に包まれたバルコニーで声を上げた金髪の男は、この場に現れたオルキスが何者であるか気付いたにしては明るい声音で言った。

 エルーシアからぱっと手を引き、相変わらず人好きのする穏やかな笑顔を浮かべている。

 オルキスとは対照的過ぎて、エルーシアは愛想笑いもできない。


「そうとは知らず失礼を。このお役目は婚約者殿にお譲りするべきですね」

「……」

「……」


 男はエルーシアに一礼して離れていった。

 

「僕はこれで失礼しますから、ご令嬢は引き続きここをお使いください」


 そう言って、男は今来たばかりだというのにバルコニーを出て行ってしまった。

 結局残ったのはエルーシアと、後から来たオルキスだ。


 中からは夜会の喧騒や音楽が聞こえて来ているはずなのに、なぜこうもバルコニーは静かなのだろうか。

 オルキスが来てからエルーシアは動けないでいた。

 そうして固まっているところにオルキスが近づいて、手を伸ばしてくる。


「……っ」

「……取れたよ」


 オルキスの手から、ふわりと花びらが飛んで行った。


「僕がいながら、浮気しようとしてた?」

「……なんですって?」


 エルーシアが何も言わないからだろう、先程の男についてオルキスが言及する。

 その言い方に、声音に、内容に、エルーシアは伏せていた顔を上げた。


「浮気なんてしてないわ。何のことを言っているの?」

「今の男が君の髪に触れようとしていた。君もそれを許しているようだった」

「それのどこが浮気なの」

「花びらが付いたくらいで他の男に髪を触らせようとするなんて、何を考えている? 別にそのままでもいいじゃないか。控えている侍女に取らせるとか、いやそれより、僕に言えば良かったんだ」


 髪についた花びらを取ってもらおうとしただけで浮気だなんて、どこの国の法律だ。

 呆れて言い返せないでいるエルーシアに、オルキスは続ける。


「だいたい、二人でこんな暗いところにいたなんてありえない。僕が見ていないところで何をした?」


 耳を塞ぎたくなるような言葉だった。

 あの男とは何もない。

 彼はバルコニーに来たばかりだったし、エルーシアも出ようとしていたところだった。


「これで浮気ではないと、どう信じろって言うんだ」


 手足が重くなるようだった。

 両手両足に冷たい氷の枷がぶら下がっているようで、死んだあの日を思い出す。

 オルキスだけでも信じてくれていたのならと、あの時どれだけ願っただろう。


「――またそうやって、貴方は私を信じてくれないのね」


 今まで出したことのないような、低く冷たい声だった。

 オルキスは言葉を聞き取れなかったようで、訝しげにエルーシアを見ている。


「浮気だと思うのならそれで結構。すぐに婚約破棄してください。王家にも連なる公爵家に、浮気症の女などふさわしくない」

「……エルーシア、何を言って」

「何を? 何年も前からお願いしていることです。私との婚約を解消してくださいと。ついに私に瑕疵が見つかりましたね。これでも婚約破棄しないと仰るのですか?」

「違う、そんなつもりで言ったんじゃない!」


 今更自分の発言を後悔しても遅い。

 縋るように伸ばされたオルキスの腕を見て、エルーシアは一歩後ろに下がった。


「どうして浮気だと責め立てるのですか? 私は婚約解消してくださいと、ずっとお願いしていました。私に固執する理由はなんですか? アルハン領の魔獣でしょうか。財力は比べるまでもありませんものね。持参金目当てでないとは思っていますよ」

「エルーシア、止めてくれ」

「私の願いをずっと無視しておいて、どうして私だけを一方的に責められるのですか? もっとはっきりした言葉で言わないと分かりませんか?」

「止めてくれ、僕が悪かった、エルーシア。もうこれ以上は」


 人殺しと疑われた時。

 引きずられるように騎士に連れて行かれた時。

 硬い鉄格子の牢でただその日を待っていた時。

 斬首台に膝を付いた、その時。


 いつだってずっと、オルキスにだけは信じていてほしかった。


「私は、貴方のことなんて大き、っ!」


 言い終わる前に、口が塞がれた。

 唇にぶつかる、柔らかいもの。

 それが何かを理解する前に、手が出ていた。


 ――バチン!


 バルコニーに乾いた音が響く。

 エルーシアが次に目を開けた時、オルキスは尻もちを付いて叩かれた左頬を押さえ、口の端に血を付けていた。

 普段、馬や魔獣を御するその腕力は決して弱くはないようだ。

 エルーシアはオルキスが立ち上がり体勢を整えるより早く、バルコニーから出て行った。


「どうしたエルーシア? 血相変えて」

「ごめんなさいモーリアン兄さん。急用を思い出してしまったので、これで失礼します。ディアナさんにもどうぞよろしく伝えてください」

「公子は?」

「本当に急いでるから、いいのよ」


 周りの視線も気にせず会場を走り、運良く見つけたモーリアンに夜会を辞する挨拶を交わす。

 ちらりと後ろを振り返っても、オルキスの姿はなかった。

 エルーシアはまた走り、待機していたアルハン家の馬車に飛び込んだ。



 ベッドの中で大泣きしたのは、十三歳まで時間が遡ったあの日以来だ。

 翌朝ひどい風邪を引かなかったのは、成長して体が丈夫になったからだろうか。


 またオルキスに信じてもらえなかった。

 今更そんなことで泣いている自分が情けなくて、朝日が差すベッドの中で、再び涙が溢れてきた。


 今のオルキスは、なぜかエルーシアを好いているように思う。

 それは本当にアルハン領の魔獣のためだけだろうか。

 頑なに婚約解消を拒否するのも、浮気だと責めるのも、黙らせるためにキスで口を塞ぐのも、その理由がエルーシアには分からない。


 本当はオルキスから目に見えた好意を寄せられるのが嬉しくて嬉しくて、舞い上がる気持ちを過去の記憶で抑えつけていた。

 どれほどの目に遭おうと、その結果命まで失おうとも、浅ましくもエルーシアは未だにオルキスを想い続けているのだった。

 だから純粋な好意だったら嬉しいし、他に目的があって近づいているだけなら悲しい。

 そうやって一喜一憂する自分が憎くてたまらない。


 自分自身の本当の気持ちを認めたくなくて婚約解消を訴えて、無礼で冷たい態度も取り続けてきた。

 オルキスに浮気だと言われても放っておけばいいものを、わざわざ腹を立てたのは信じてもらえなくて悲しかったからだ。

 エルーシアの口を塞ぐためだろうが初めてのキスが嬉しかったし、初めてのキスはもっと大事にしたかったという悔しさもある。


 嫌いになりたいのに、嫌いになれない。

 結局は未だに、オルキスが大好きなだけの愚かなエルーシアのままだ。

 矛盾する自分自身が本当に憎たらしくて情けなくて、涙が止まらなかった。


「神様は意地悪だわ……」


 どうして素直に好きでいさせてくれないのだろうか。

 あのまま死なせてくれていたら、こんなに悩むこともなかったというのに。


 今のオルキスは何も悪くない。

 むしろ前に比べれば、かつてのエルーシアが夢見ていたそのままの現実だ。

 それでもこの現実を無邪気に喜んで受け入れることは、今のエルーシアにはどうしてもできなかった。


 この日からオルキスが訪問して来ても絶対に顔を合わせず、手紙が何通送られてこようが封を開けることさえしなかった。

 困り顔の使用人や、挙げ句の果てには父や母、兄たちまでもがエルーシアの部屋にやってきてオルキスからの言葉を伝言しようとするが、それを聞くことも拒否した。


 しかし一つだけ、エルーシアからオルキスに手紙で伝えたことがある。


 ――来月行われるヴァロア家主催の夜会だけは、貴方の婚約者として出席します。


 全てが変わってしまったあの日が、もうすぐやって来ようとしていた。

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