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初夏の夜空に花火が打ち上がった時、大公が階段から突き落とされた。
先の戦で足を負傷していた大公は、ついにその傷が完全に元に戻らないまま治癒していた。
歩くことはできるが常に杖を突き、階段も誰かの介添を得て上り下りすることが多かった。
その日は大公公子の婚約者である令嬢が、階段を降りようとする大公に付き添っていた。
突然、転がるように階下へ落ちて、それから指一本動かすことのなかった大公の周りにはあっという間に人だかりができて、使用人たちによってそのままどこかへ運ばれていった。
すぐに大公の主治医が駆けつけてくるだろうが、絨毯に広がる赤い染みを見て誰もが絶望的だと思った。
アルハン辺境伯の娘エルーシアは、現場に居合わせた従兄弟に腕を取られ、人混みに埋もれそうになっていたところを招待客たちの面前に引っ張り出された。
大公殺しの犯人として。
「ちが、違います、私ではありません……」
この日は大公夫妻が主催する夜会が行われていた。
大公家が主催するシーズン中の夜会だけあって、招待客は多い。
現場に集まってきた招待客たちの冷ややかな視線を一身に浴びて、指先が氷のように冷たくなっていくのを感じながら、それでも婚約者であるオルキスに訴える。
「……」
「オルキス様……」
何も言わないオルキスの代わりに、エルーシアをこの場に引きずり出した従兄弟のモーリアンが声を上げた。
「オルキス公子、私が現場を目撃しておりました。我が従姉妹であるエルーシアがヴァロア大公閣下の背を押す瞬間を!」
エルーシアたちを取り囲む招待客からどよめきが起きた。
アルハン家の令嬢が?
大人しそうな顔をして。
ああいう人間こそ何を考えているか分からないから。
手で扇で口元を隠しながらも、招待客たちの囁きは波のように広がっていく。
まるでエルーシアが手を下したことは確定しているかのような物言いはしかし、エルーシア本人の耳には入って来なかった。
被害にあった大公の一人息子であり、エルーシアの婚約者であるオルキスが何も口にしない。
エルーシアを見ようとすらしないのに、オルキスはモーリアンに声をかけた。
「……あなたは確か、ルズベリー子爵の」
「は。モーリアン・ルズベリーと申します、公子」
「モーリアン殿、僕の婚約者が父の背を押したと?」
「それだけではありません。閣下の杖を蹴って、支えをなくしたところで背を押したのです。我が従姉妹でありながら、何と恐ろしいことを……」
「モーリアン兄さん、どうしてそんなでたらめを言うのですか!?」
エルーシアは正真正銘、そんなことはしていなかった。
ヴァロア大公はエルーシアにとっては婚約者の父親であり、幼い頃から可愛がってくれた人でもある。
まさしく二人目の父のように慕っていた大公に、そんなことをできるはずがなかった。
「恐れながら……わたくしもその瞬間を見ましたわ」
ざわめきの中から、一人の令嬢が前に出てきた。
ディアナ・ルズベリー。
エルーシアと同い年の従姉妹であり、モーリアンの妹である。
つややかに波打つ赤い髪に、長いまつげに縁取られる緑の瞳。
どうあっても目立つ色彩に愛らしい顔立ち、それに加えて話し上手で社交的。
今年デビューした令嬢たちの中では、一番の社交界の華として人気が高い。
「わたくし、兄を探しておりました。見つけたと思ったら、エルーシアさんが大公閣下のお背中を押しているところでしたの。大公閣下がとっさにエルーシアさんの手を取ろうとしたのも、振り払っておいででした。杖を蹴っているというところは、エルーシアさんが影になったせいか見ておりませんが……わたくしの見たものが、参考になりますでしょうか」
「エルーシアは私達にとっては本家の者でありますが、だからこそ到底、許されることではありません。どうか正しい裁きが下されますよう」
頭を蹴られたかのような衝撃を受けた。
エルーシアはやっていない。
やっていないものを、どうして二人もの人間が見たと証言できるのだろうか。
しかもそれはエルーシアの従兄妹だ。
親戚であっても会う機会はそれほど多くはなかったが、それでも幼い頃から顔を見知ってる仲だと言うのに。
*
オルキスはエルーシアに対して何も言わないまま、彼女を大公家に留め置いた。
それは体のいい軟禁だった。
何人もが入れ替わり立ち替わり、エルーシアに当時の話を聞きに来る。
大公が階段から落ちたのと、花火が打ち上がったのがほぼ同時だったため、招待客たちは花火の方を見ていたらしい。
大公に付き添っていたのも広間の大階段ではなく、会場から少し離れた区画にある小さな階段であったことから、たまたま後ろからやって来たルズベリー兄妹しか目撃者がいなかったのだと言う。
モーリアンは夜会を辞する挨拶のため、ディアナはそんな兄を探すためだと聞かされた。
エルーシアは一貫して、自分はやっていないと話し続けた。
介添えとして階段を一緒に降りていたのは確かだが、杖を蹴ったり背中を押したりはしていない。
落ちる寸前、大公がとっさにエルーシアに手を伸ばしたのも事実だ。
エルーシアも頭で何かを考えるより先に手を差し出したが――それは間に合わず、大公は階段から落ちてしまった。
すぐにエルーシア自身も転びそうな勢いで階段を駆け下りたが、動かない大公を目の前にして足が竦んでいるうちに、モーリアンに腕を掴まれた。
大公家に閉じ込められて一週間が経った頃、夜会以来初めてオルキスがエルーシアの部屋へやってきた。
たった一週間で、少し痩せたように見える。
エルーシアが体調を気遣う声を掛けるより早く、オルキスが口を開いた。
「今、父が亡くなった」
「……そんな……」
オルキスは大公の一人息子として大切にされていた。
オルキス自身も、父をよく慕っていた。
そんな父を、こんな理由で失うことになったオルキスの悲しみはいかほどだろう。
少しでも慰めたくて、その悲しみに寄り添いたくて伸ばした手は、一歩後ろに下がったオルキスには届かなかった。
代わりに、あの夜会の時ですらエルーシアを見ようとしなかったオルキスが、ようやく彼女と視線を合わせる。
エルーシアには彼の深い青の瞳が、氷の膜で彼の感情を覆ってしまっているように見えた。
「伯父上が……国王陛下が、大変お怒りでおられる。父を殺した容疑者を、直々に取り調べると」
「オルキス様……?」
「君がやったのだと二人が証言している。証言に矛盾は見られないし……他に見た者はいない」
「信じて、くださらないの……? オルキス様……」
何も言わなくなったオルキスの、背後に位置していた部屋の扉が開いた。
ぞろぞろと入ってきた騎士たちに腕を捕まれ、引きずられるようにして部屋を出る。
「オルキス様! 私を信じて! オルキス様、どうしてっ……!」
オルキスは振り向かなかった。
無情にも、オルキスを残して部屋の扉が閉じられる。
エルーシアにとっては、それが最期に見たオルキスの姿となった。
城の牢に移されて数日後、エルーシアは大公殺しの犯人として処刑台に上がった。
もう声も涙も枯れ果てた。
斬首台に上がって、膝をついた。
首を切りやすくするため、長く伸ばしていた髪は襟足まで短く切られた。
寒くない季節のはずなのに全身が冷え切って、うまく思考する事ができない。
それでもエルーシアはこの瞬間、まともに動かない頭でオルキスのことばかりを考えていた。
二人目の父として慕っていた大公の死でも、面会を許されず最期にひと目見ることも叶わなかった家族のことでもなく、――婚約者である、オルキスのことを。
オルキスが好きだった。
婚約者という関係になれた時は本当に嬉しかった。
将来大公家を継ぐオルキスにふさわしくなれるよう努力をしていた。
そうしていつか、オルキスにもエルーシアを好きになってほしかった。
せめてエルーシアの無実を、オルキスにだけは信じてほしかった。
どれも叶わない夢だった。
最期に息を吐き切って、エルーシアの十六年の生涯が終わった。
誰かが遠くで、エルーシアの名を呼んでいたような気がした。