第6話 遠慮はいらないとは言ったけど1
俺と風璃は向かいあって座っていた。テーブルにはA4の紙が一枚とサインペンが置いてある。
ふたり暮らしのルールを決めるのだ。
「わたしはべつにルールなんていらないと思うけど……」
「いや、ここを曖昧にしておいたばかりにトラブルが起こったなんて話はよく聞くからな。大事だぞ」
「ううん……」
風璃は気が乗らない様子だ。
「わたしはほら、あとからお邪魔した形だから……。奏くんが全部決めていいよ」
意志の強そうな印象の風璃は、意外と押しが弱い。
――またそういうところもかわいいんだけどな!
でれでれしそうになる顔を引きしめ、俺は言う。
「だめだめ。そういう控えめなほうが貧乏くじを引かないようにするためにもルールは必要なんだ。まず……、そうだな、俺に対して『こうしてほしい』ってことはあるか?」
「『こうしてほしい』……」
風璃はなぜか顔を赤らめた。
「いっぱいある」
「ええっ、まじで? な、なに?」
「それは言えないけど……」
「生殺しなんですけど……!」
「違うの。気に入らないところがあるとかじゃなくて」
「じゃあなに?」
「それは言えないけど」
結局言わないらしい。
気にはなるが、不満があるというわけではないらしいし、言いたくないのに無理に聞きだすのはよくない。
「そうだ、ひとつめのルールは『相手のプライベートを侵さない』にしよう。聞かれたくないこともあるだろうしな」
「うん」
こくりと頷く。
俺は紙にルールその一を書きこんだ。
「あとは、そうだなあ……。門限とか? いや、これはべつに決めなくてもいいか。日をまたがなければ」
あまりうるさいことを言って束縛はしたくないし。
「ううん、これは絶対決めておくべき」
風璃は急に押しが強くなった。
「お、おう。じゃあ何時にする? 〇時?」
「十七時」
「軍隊かっ」
「ちょっと早い?」
「とても早い」
「じゃあ一七時十分」
「刻んでくるねえ……。というかお前はそれでいいのか?」
「わたしはべつに。学校が終わったらすぐに帰りたいし」
「でも俺がバイトの日は家でひとりになるぞ?」
「あ、そうか。じゃあ何時でもいい」
話がきれいに一回りした。
「え、ええと、それじゃあ〇時で。でも二十二時より遅くなるときは連絡する、という感じで」
「それでいいんじゃない?」
風璃は爪を見ながら生返事をした。
なぜ急速に興味を失ってしまったのか真意を知りたいと思ったが、できたてほやほやのルールその一がさっそくの障壁となった。
「つぎは……。食事かな。できるだけ一緒に食事をする、っていうのは?」
すると風璃は俺をにらむように見た。
「生ぬるくない?」
「え、生……、え?」
「『できるだけ』とか甘っちょろいよ。『毎日』にして」
「ええ? 縛りがきつすぎない?」
「じゃあ『毎食』」
「話聞いてた?」
風璃はあごに指をやってつぶやく。
「あ、でも学校がある日の昼食は無理か……」
「風璃さん?」
「じゃあ『できるだけ毎食』で」
「ねえ聞いて?」
ものすごいがんじがらめにしようとしてくる。『わたしはべつにルールなんていらないと思うけど……』と言っていた控えめな風璃はどこに行ったんだ。
かと思えば、それ以降のルール――家事の分担などにはまったく興味を示さず、
『半分半分でいいんじゃない?』
などと大雑把なことこのうえなかった。
「だいたい決まったな。じゃあこれを壁に貼って――」
「ひとついい?」
「なんだ? どんどん言ってくれ、共同生活なんだから」
「まさにその共同生活に関してなんだけど……」
風璃はちらっとリビングの端のほうに目をやった。そこには俺が使っている布団が折りたたんである。
「わたしが洋室を独り占めするのはなんか違うような気がする。ベッドだってもともと奏くんが使ってたやつだし……」
「べつにいいだろ。ここがリビング兼俺の部屋、洋室が風璃の部屋。なんの問題もない」
「これじゃあ奏くんのプライベートがないでしょ。定期的にベッドを使ってほしいの。一週間交代くらいで」
「風璃……」
彼女の気遣いに胸がじぃんとする。
「気持ちはありがたいんだが気にしないでくれ。風璃は女の子だし、男の俺なんかよりプライベートは大事だろ」
「で、でも奏くんもたまにベッドで寝たいでしょ?」
「マットレスを敷いてるし、たいして変わらないよ」
「床とのあいだに空間があったほうが断熱効果が高いっていうし」
「気温も高くなってきたし、問題ない」
「高さがあると床のほこりを吸いこまないっていうし」
「ちゃんと掃除してるから大丈夫」
「毎朝たたまなくていいから楽だし」
「たいした労力じゃないよ」
「いいからベッドで寝てよ!」
風璃が突然キレた。
――ええ……?
風璃は怒気を孕んだ声で言う。
「なに? なんでそんなに照れてるの?」
「い、いや、照れてはないですけど……」
なぜか俺は敬語になってしまった。
「じゃあベッドで寝てよ、定期的に。一週間交替くらいで」
「でもベッドってあんまり共用で使うものじゃないし……」
「そんなつまらないルールに縛られては駄目」
「がちがちのルールで縛ろうとしてたのに……?」
風璃は「ふぅ……」と演技がかった様子でため息をついた。
「わかった。じゃあこうしよう。寝なくていい。寝ないで、横になって」
「はい?」
「ベッドに横になって。眠らなくていいから」
「なんかもう趣旨おかしくなってない?」
「だってもう奏くんの匂ぃ……」
「え?」
風璃はなにか言いかけて、しまった、という顔で息を飲んだ。
「いまなんて?」
「なにも言ってないけど?」
「いや、なんか俺の――」
「言ってないって言ってるでしょ!」
風璃は人差し指を立てた。
「ルールその一! 『相手のプライベートを侵さない』、発動! 相手の聞かれたくないことを聞いてはいけない!」
「なんだよそのカードゲーマーみたいな乗りは!?」
「聞こえない聞こえない」
風璃は目をつむり耳を塞いだ。
俺は思わずうめいた。
――難しい……。
気を遣っているようで妙に押しつけがましくもあり、風璃の意図がよくわからない。しかしなにか言いづらいことを抱えているようなのはわかる。
つまり、まだまだ遠慮があるのだろう。
「風璃」
「……」
「聞こえてるんだろ?」
風璃は目を開け、耳から手を離した。
「言いたくないことや言えないことがあるのは仕方ない。誰にでもある」
「……」
「でも、俺はこの家を心安らげる場所にしたいんだ。お互い腹に一物抱えたままじゃ息苦しいだろ?」
「……うん」
「よし。じゃあもう遠慮はなしだ。風璃が苦しいと俺も苦しいしさ。少しずつでいいから、オープンにできるところはオープンにしていこう」
「ごめん。ありがとう……」
風璃は目を伏せたまま、しかし嬉しそうな表情で礼を言った。
「いいっていいって。それこそ遠慮はするな、だよ」
俺は微笑んだ。
「俺たちは家族じゃないか」
その瞬間、風璃は敵に勘づいたミーアキャットみたいに顔をあげ、険しい表情で俺をにらんだ。
「え、なに……?」
風璃は意味ありげな笑みを浮かべ、
「了解」
とだけ言った。
なぜか背筋がぞっとした。
「じゃあ、わたしお風呂に入ってくるから」
そう言い残し、風璃は風呂場のほうへ消えた。