成功
毎朝の滝行を初めて約二年。ハクタはついに神の目標としていた三時間の耐久を確実に出来るようになっていた。修行の後疲れて眠ることも無くなり、体は再び正しい生活習慣を取り戻した。浮いた昼間の時間は剣の研鑽に励み、時には神に相手をしてもらいながら、その腕をあげていく毎日だ。
しかし、その一方で、転移魔術にステップが移行する気配は全く見えない。その事で不満を言ったのは一度や二度ではないが、返答は「まだ早い」の一点張りだった。
いつになったら、オーケーなんだ?割り切れないモヤモヤを抱えたまま、ハクタはまた朝の恒例を初めた。
そして、それは突然だった。
世界中から、あらゆるものが消えたのだ。ハッとして周りを見ようとしても、全ては暗闇の中だ。自分が目を閉じているのかと錯覚を覚える。もう暗記した文章を、口で紡ごうとするが、声は聞こえない。唇が動いているのかも分からない。
しかし、それらは驚くほどの快感もまたもたらしていた。全身が、何も伝えてこないのにも関わらず、いつになく鋭敏になっている気がする。
フワフワとした柔らかい浮上感に包まれ、どこまでも流されそうな体に、不安と期待がごちゃ混ぜになる。戻らなくてはという想いと、このままどこまでも流されたい、という相反した気持ちとがせめぎ合う。
「ーー戻れ」
「ふぅお!!」
ハクタは、ガバッと体を起こした。目の前には三神全員の顔。背中に当たるのは、硬くひんやりとした石の床。
最後の記憶は、奇妙な快感に包まれ、自我が失せていくところで途切れている。
「……また、俺気絶したのか?」
「そうだ」
「まだまだってことかよ」
フッと、笑いが零れた。不平不満を垂れ流していたのに、結局また気絶したのだ。
「いや、むしろ前進だ。明日からは、転移魔術の練習に移行するぞ」
「何だって?いや、何で?」
自分自身への失望を隠そうともせず、項垂れるハクタに、予想打にしてない一言がかけられた。
「貴様は、極限の集中状態にまで自分を追い込めた。気がついていないかもしれないが、今日の水行は、五時間を超えている。その間、あらゆる存在を無として、貴様はただひたすらに自分自身と向き合っていた。ここまで集中を高められるのなら、転移魔術は出来る。あの自我が消える瞬間に不安を持っているのなら、まだ滝行をでもいいが、もういい加減飽きたろう?」
「……たりめぇだよ」
二年。長くてたまらなかった。どんなに辞めたくても、両親の顔を想って続けていた。
それが今、実を結んだのだ。ハクタの頬を、温かいものが滑り落ちていくのも当然だろう。
気のせいだろうか、いつもは冷たい無機質な光のみを揺らめかせる神の眼光が、どこか温かい光を宿しているように見える。
「人という種族において、生物としての強さがここまで達したのは、歴史の中で剣聖と貴様のみだ。しかし、剣聖には天賦の才に加えて体に流れる血の半分が竜のものだった、というアドバンテージがあった。一方で貴様のその力は、努力の賜物だ。ーー神として、最大限の敬意を表したい」
涙を押さえつけようと、うっ、うっ、という喉の潰れたような声で泣くハクタに、言葉がかけられた。
「「「シンザキハクタ。貴様の今までの努力と行動、これからの未来に栄光と健闘を祈り、神としての祝福、師としての賞賛とする」」」
「あり、がとうぅ」
「明日からは、転移魔術の練習に移行する。起床はいつもの時間、場所は神殿だ。今日は、自分への褒美だと思ってゆっくり休め」
こんなに泣いたのは、いつ以来だろうーー隻腕で、顔を拭いながら、ハクタは考えた。
そして、次の日の朝。修行は、宣言通りに転移魔術に移行していた。
「転移魔術には、決められた詠唱文がある」
「それを紡ぎながら強力な魔力を使えば、成功する」
「以前に一度、実際にその目で見たことがあるのだが、覚えているか?」
「ここから下界に戻る時だろ?」
そう、ハクタはもう転移魔術を体験していた。確かあの時は、ラファルとガブリルの二人が、それぞれ時間と転移の魔術を使っていた。
「そうだ。あれを行なう上で最も重要なのは、自分が目指す転移先をイメージすることだ。今の事は忘れ、行きたい場所の事のみを思う。それが重要だ。」
神妙な面持ちで神の話を聞く。ここまで二年を費やしてきた事の、集大成なのだ。結果を望む気持ちは極めて強い。
「最初のうちは、急激な魔力放出で魔力酔いするかもしれないが、無理矢理でも続けろ。気絶も限界までするな。一度、意識を失ったらそれが癖になって治らなくなる」
「分かった。」
「よし。次は、詠唱文を教えようと…」
「ああ、それなら大丈夫。前に一回聞いた時、覚えたから」
ハクタの言葉に、神の顔が驚きと不信感の折り混ざった色になる。
「いや、便利そうだし、なんか使うことあるかもなぁと思って、集中して聞いてたんだよ。大した長さじゃなかったし、あれならよっぽど周期表覚える方が大変だよ」
「周期表が何なのかを知らないが、にわかには信じられないな。貴様、ミカルと話していたでは無いか」
「疑り深いなぁ。『生きとし生けるもの〜』って始まっていくんだろ?全部覚えてるよ」
軽く手をヒラヒラと振りながら、受け答えする。その回答は正解だった。たった一度しか聞いていないはずなのに、しっかり覚えているハクタに神は苦笑する。
「分かった。なら早速始めよう。最初のうちは失敗するかもしれないが、ひたすらに繰り返せ。貴様が初めてここに来た時と同じだ。数で、体に叩き込め」
「よし来た。ーー始めるぜ」
空気が、一瞬で変わった。肌にピリピリとした緊張感を伝える力の奔流は、目を瞑り祈るように手を胸の前で絡めたハクタを中心として渦巻く。
「生きとし生けるもの全てを存在させるもの、空間よ」
ゆっくりと、詠唱が尊い響きを持って紡がれる。足元には様々な大きさの漆黒模様の幾何学魔法陣が、折り重なるようにして美しく展開した。
「我が望みは、今再び戻るべく空間の転移」
脳裏に、強く故郷を想う。会いたい人を、行きたい場所を、心に焼き付いた思い出を、強く祈る。
「その力、矮小の我が身に刮目させ給え」
魔法陣が、凄まじい発光をした。下から龍のごとく天高く登る黒い稲光に、ハクタの姿は包まれ見えない。豪風もまた生まれ、中身のない服の左腕部分を激しく踊らせる。抑えきれない魔力はバチリという乱暴な音で黒くスパークする。
今にも足が攫われそうな強風。瞼の奥に突き刺さる突光。だが、その全てはハクタに届かない。極限の集中渦にある今、何者もその絶対領域へとは踏み込めない。
その魔法陣の数と完成度、激しい光と風に、まさかという思いが神の心をよぎる。
ーー俺は、戻るんだ
ギュッと力が入り、一際強く響いた心の声に、魔術が応える。
ハクタを震源として、黒光と豪風が爆ぜた。天高く、地遠く、四方八方へと飛び散ったそれらは、一泊の後逆再生するかのように術者へと吸い込まれる。
そして。
目をくらませるような強烈な黒い光と、全てを薙ぎ払うかのような爆風が世界を満たした。転移魔術が完成したのだ。ハクタは、ようやくここで薄らと目を開き、直ぐにそれを大きく丸くした。
「成功したのか!?」
光の洪水の向こうにいる、神に大声で問いかける。
「そのようだ。貴様には、本当に驚かされる。」
ハクタが、お礼の言葉を伝えようと口を開いた時。
バシュンと光が弾け、今までの光景が嘘だったかのように雲散霧消した。
そして、もちろん術者も消えていた。
ハクタは、二年の月日をかけ、遂に世界さえも超えたのだった。




