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櫻の君のいうことには

作者: みどりてっしゅ

和風なファンジーと日常。

 頭上の太陽が夕日に変わろうとしている。先ほどまで感じていたぽかぽか陽気からゆったりと温度が下がっていくのがわかった。河川敷の土手で短く刈り込まれた草むらに寝ころぶのもう少しでお終いにしないといけない。それまではゆっくりと、ただゆっくりとこのまどろみの時間に浸っているつもりだ。



 初恋は常に正しい、とあの人は言った。



 遠くから自転車のブレーキ音が聞こえた。そしてさらに遠くから車の走り去る音が聞こえた。空は夕焼けの残滓を西の片隅に残し、漆黒のカーテンが覆い尽くそうとした。昼の部は以上で終了です。引き続き夜の部をお楽しみください。

 当たりは静けさを増し、空気がずんとわたしを押さえつけようとしている。川の流れる音が聞こえる。冷えた空気が体温を奪っていく。


 もう帰ろう、とわたしは思った。


 立ち上がると制服のスカートが歪んでいて、何だか歩きづらい。当たりに誰もいないことを確認した後、上着の下て手を潜らせて直した。


 振り返ると、土手の向こうのコンビニが闇の中から光を放っていた。



 ◇◆◇


 片平君はずっと学校を休んでいる。


 昼休みの教室は騒がしい。友達のユッコと同じ机で弁当を食べていると何かが飛んできた。ワリィワリィと男子生徒が近づいてきた。机のそばに落ちたのは少し大きめな消しゴムだった。どうも消しゴムでキャッチボールをしていたらしい。なぜ消しゴム?と思わなくもないが、男の子は手のひらに収まるのものなら取りあえず投げてみたくなるものらしい。ばーかじゃないの?とユッコは言った。わたしもそれに肯定の頷きを返した。教室の教壇近くで何かの本を見せあいっこしていた女子生徒も呆れたような視線をキャッチボールをする男子生徒に向けた後、また自分たちの会話へを戻った。

 その騒がしい教室は授業中のように全ての席に生徒が座っているわけではない。教室外に行く生徒も多く、席はまばらに埋まっている。はっきり言って空席のほうが多い。

 ただそのなかでもわたしの視線は自然と片平君が座っていた席のほうへ向いてしまう。当然そこには誰も座ってはない。その誰も座っていない席が妙に周りから浮いて見えた。記憶にあるのは何時ものようにだらけた姿勢で弁当を食べている片平君の姿。いつもそこにあるはずのものがすっぽりと消えてしまうと、そこはこの世の底につながっていそうな不気味な洞窟の入り口にも似たアンタッチャブルな空間のように感じる。


「ミキ、大丈夫?」


 ユッコが箸を持ちながら心配そうにわたしを見ている。どうやらぼうっとしていたらしい。


「ん、大丈夫」


 わたしは慌てて視線を戻した。



 ほんと、片平君はどうしたんだろうか……?



 ◇◆◇


 最近、すこし遠回りして学校に通っている。


 これといった理由は思い至らない。ただいつも通りの道を通って高校へ通うのが窮屈に感じるようなったのだ。最短時間を目指すことにとても嫌になったのだ。直進のまわりをめぐるめぐる周り道の最近の通学路、嫌いではない。そのためちょっと朝を早く出なくてはならないとしても、この最短最速を目指すのとはまた別のゆるやかさ、縮まっていく学校までの距離にあらがうかのような足取り、ちょっと視線が高くなったかのような意識の高揚、わたしは自分を通学路の貴族と名乗り上げてもいいと思っている。朝日の中をせかせかと歩き通り過ぎていくサラリーマンのスース姿を軽蔑と哀れみをもってわたしは見やる。そしてほほほと笑ってみたくなる。そばに立つ郵便ポストに会釈を投げかけたくなる。まさに貴族だとわたしは思う。


 そんなバカなことを考えていたからアレに出会ってしまったのだろう。



「お嬢さん、お嬢さん」


 学校からの帰り道、またしても遠回りして家へと一人帰るわたしの後ろ姿に誰かが声をかける。

 ちょうど坂の上の住宅をよこぎるちょっとした小道に入るところだった。


「?」


 誰かな?と振り返ると、



 ――そこには麻呂がいた。



 つんと上を向いた烏帽子の下のぱっちりとした両眼。肌の色は日に焼けたことがない、というか日に当たったことがないかのように白い。膨らんだ両頬とぷっくりとした唇。細やかな柄の入った萌葱色の直衣はゆったりとしていて、服に着られているといった雰囲気がぴったりだ。古文の授業で聞いたことがある。狩衣装束というやつだ。

 平安絵巻の片隅からだ出てきたようなその少年公家はわたしをじっと見ている。

 背は低い。わたしが女子の平均だから、それよりも目線を下に向けないといけないということは男子としては背が低いほうというくらいだろう。というか身体全体が小さい。



 通学路で公家に会うことは滅多にない経験だと思う。

 しかもその少年公家は宙に少し浮いていた。


「……だれ?」


 どうしよう、宙に浮いている人間に対してかける言葉ではない。


「神さまです」


 少年公家は右手に持つ扇を広げてそういった。

 優雅な上から目線の笑みと共に。ちょっとイラっときた。


「間に合ってます」


 わたしは広げられた扇に対抗するかのように入道のように広げた右手を差し出して断った。


「えっ?」


 少年公家は目を見開いた。


 坂の上から乗用車が降りてくる。できるだけスピードを殺しながらゆっくりゆっくりと降りてくる。運転しているのは白髪のおばあさんだ。おばあさんは県道に接する信号機のない三つ角にさしかかるとしばらくじっとした後、エンジンを大げさにふかして県道を走っていく。しばらくして坂の上から中学生男子が乗った自転車が猛スピードで降りてきて、大きくブレーキ音を響かせた。そして県道を横切って、坂下の住宅道路へと入っていく。



 その間、わたしと少年公家は見合ったまま無言を貫いた。



 黙っているとなんとなくこちらが悪いように思えてきてしまうのはわたしがお人好しだからだろうか。というか目の前に宙に浮く公家が現れて平然としている人がいたらそれは大物だと思う。少年公家も目が泳いでいる。どうしていいか判らないようだ。先ほどまでの余裕はどこに行ったのやら、苦笑いさえもできていない。頬がひくひくと動いている。少年もわたしも頬がひくひくと動いている。お互いどうしよう?と顔に書いてあるようだ。

 ふと自分も視線が泳いでいることに気づいた。そりゃ身体を動かせもしないのだから自然と眼が動いてしまう。



「キミはミキ君だねっ?」



 哀れさを誘うような表情で少年公家は言った。どうやら先ほどのわたしの拒絶カウンターは無かったことにするらしい。



「そ、そうだけど」


 わたしがそう答えると、少年公家は明らかにほっとした息をもらした。

 なんだかわたしもほっとしたように息を漏らししまった。


「キミは困っている」


 断定口調だった。ふわりと舞う狩衣。

 この時の少年の顔は自分の殺意を誘発すせざるを得ない何かがあった。


「……困っていません」


 この人と関わっちゃダメだな、と思う。

 だからわたしは否定する。


「んぐっ……」


 何かを飲み込みそうになる少年。

 目元がきらっと光ったような気がした。


「い、いやぁー、わかるよ。ボクには。

 なんせボクは神様なんでぇー」


 取って着けたように扇を口元にあてて流し目をこちらに向ける少年公家。


「いやいや全然っ、困っていませんから」


 近所のおばちゃんもかくや、というニコニコ笑顔で手をブンブンふって否定する。


「おいおい、神様のまえで嘘をいったら

 祟られるってこと知らないかなぁー」


 脅迫かよ。


「困ってないったら、困ってないんです」


 自分の言葉がとげとげしくなっているのを感じる。


「んぐっ……」


 すん、と少年公家は鼻をすすった。

 扇がぷるぷると震えている。


「そんなぁ……」


 そしてとどめに口から出てきたのは涙声だった。


 わたしもちょっと悪かったかな、と思う。

 しかしこういう胡散臭いのとはできるだけ関わりたくない、というのも正直な気持ちだ。


「僕は神様なんですけどー」


 扇を下に向けて所在なさげにぶらぶら揺らしている少年。

 これは完璧にいじけている。ちらっ、ちらっとわたしの方に視線を向けている。



 コイツ、めんどくせぇ……。



 ぶらぶら、ぶらぶら。


 揺れる扇を見ていると、鼻にすんっと強い花の香りが入ってきた。

 


 何だろうと思った。


 ガラスで覆われた温室の中に突然迷い込んだように、このまま花溢れる別世界へ連れ去られるような強い強いむっとする甘い香り。その香りを吸い込むことで身体がふわりと三センチほど宙に浮かび上がりそうになり、さらに身体が何重にも香りのベールで優しく包まれるような幸福感。この香りはわたしは知っている。それはとても微かにこの世界に存在するはかない存在。もう過ぎてしまった春の痕跡。


 櫻の香り。


 舞うようにゆらめく大きな扇は、その痕跡からピンク色に色づいた櫻の花びらをふさり、ふさりと勢いよく産み出していた。櫻の花びらはそのまま引力に引かれて落ちる、ということもなく強い風に吹かれるように上へ上へと舞い上がっていく。見上げるわたしのはるか上にまでらせん状に櫻の花びらの帯は生きていくかのように夕方前の空へと昇っていく。


 帯から溢れた登り切れなかった櫻の花びらがふわりふわりとわたしの周りに落ちていく。




「ほら、僕は神様だから春が終わった今でもこんなコトが出来――ええっ?」



 少年貴族はふらふらと扇をゆらしながら得意げな顔でわたしの方を見て、そして言葉を途切れさせた。



 わたしはその桜吹雪の中で泣いていた。



 ぽろぽろ、ぽろぽろと涙が溢れてくる。



「あ、あの-、まさかそんな風になるとわ思わなくて

 ねぇ、泣かないでよ……ねぇ…って」


「……困ってる」


「え?」


「困ってるんです……」



 こうしてわたしは神様と出会った。



 ◇◆◇


 片平君の家は学校から歩いて十五分程度離れた住宅街の中にあった。

 この住宅街は五十年ほど前に宅地として売り出された土地で、公務員だった片平君の祖父がローンを組んでこの家を手に入れた。モダンなデザインの中に所々和のテイストが入っているというよく見かける形のものだ。周りの土地の購入者もほぼ同じ時代に同じようにローンを組んで購入した。今この住宅街でもっともよく見かけるのは宅配便のワゴンだが、次によく見かけるのは介護サービスの大型バンだった。最近町内会の役員の自慢は動物園から脱走したサルを警察と協力して捕まえたことだった。

 もう夕暮れが終わりかけになるこの時間は、道を歩くひとが全て陰になり表情が知れない。

 誰彼時とはよく言ったものだ。



 夕焼け空を警告灯を点滅させながら旅客機が飛んでいる。



「何なの、あれ」


 夕暮れの中に半分陰になっている片平君の家を、角の家の影から覗き込むわたしと少年貴族の視界にはちょっと信じられないようなものが移っている。


「狐?」


 狐がいるのだ。家の前にある取ってつけたような門の上、周辺、その奥の車庫の中にまで白色の体毛に覆われた大量の狐が埋めつくすように大量に鎮座していた。きょろきょろとあたりをうかがうように首を振っている。


「狐ですねー」


 少年貴族は扇を口元に充てて何やら思案顔だ。


 狐たちの中にはまるで何かに警戒するように二本脚で立ち上がり、遠くを見ているように首を傾げているものもいる。まるでプレーリードッグ。

 夕暮にオレンジ色に染まる片平君の家と白毛の狐たち。あとここは北海道ではないし、キタキツネの体毛は茶色だ。


「あ」


 少年貴族が声を漏らした。


「なに?」


「気づかれた」


「はぁ?」


 少年貴族の視線の先にあるのは片平君の家。

 片平君の家の前には狐たちがいる。

 


 そして彼の一言と同時にその無数の眼がこちらに向けられた。視線が合った。思わず息をのんだ。狐はなにを食べるんだっけと考えた。多分肉食。


「狐ってなにか病気を持っていなかったっけ?」


 すでに噛まれるところまでわたしの頭の中のシミュレートは進んでいた。


「狂犬病ですか?」


「犬じゃなくて、キツネの話」


「いや、だから……狂犬病です」


「キツネって言っているでしょ?

 あの、エコっぽいやつ」


「多分エキノコックスことを言っているんだと思うんですけど

 噛まれることを想像していますよね?

 だったら怖いのは……狂犬病」


 ※狂犬病は犬に限らずほ乳類一般の病気です。


「……いまはそんな細かいことにこだわってどうするの?

 なんか……ヤバいわね」


 きりっと顔をつくり、ほ乳類ネコ目イヌ科イヌ亜科の群れに顔をむけるわたし。


「いま自分の間違いに気づきましたよね?

 一瞬、目が泳いだように見えたんですが……」


 ※エキノコックスは狐に触れたあとの経口感染により人に発症する可能性があります。


「うるさい」


 ばしっ。


「ふにゃ!」


 思わず手が出てしまい、少年貴族の顔面にヒットする。

 そしてその口からネコみたいな声を出す。


「猫なで声があるならば、猫たたき声というのもあるのかしら……?」


「……酷いでしゅ。神様愛護と動物愛護的にいろいろと」


 鼻頭を両手で丁寧になでている少年。



 片平君の家の前にいたキツネたちは、その中の一匹がこちらにじりじりと歩み出すと、それにつられるように数匹が歩み出し、さらにその数匹が別の数匹の歩みを誘いだしていた。

 じっとこちらを見る無数の眼。自分の呼吸と心臓の音がとても大きく感じる。



 うん、こりゃ絶対狙われてるわ。わたし。



 野生のプレッシャーを感じて、おもわずわたしは一歩後ずさった。

 そして運の悪いことに、後ずさった足の踵で小石を蹴ってしまった。小石はそのまま電柱にぶつかった。



 その瞬間、狐たちは地面を蹴り上げ跳んだ。

 動物の運動能力というのは人間に比べて異常である。人間にはできない動きで挑みかかってくる。まるで大きな弾丸のように空を駆けてわたしの方に飛んでくる。


 動けない。

 わたしは動けない。


「ひゃっ!」


 無意識にわたしは顔を庇った。自分の視界を覆う愚かな行為かもしれないがわたしはそうした。

 ぎゅっと目をつぶる。からだも同時にぐっと力を込める。


「破っ!」


 ぶんと風を切る音。

 何かを打ち付ける音が幾つも、幾つも。

 その合間に聞こえる狐の短い悲鳴。……狐って鳴くんだ。



「白狐ごときが僕にかなうと思ったか」



 ……?


 目を開けるとそこには狩衣装束の後ろ姿が。

 ばっと両手を広げてわたしを守るように立っている。右手には広げた扇。


 少年貴族の足下にはぴくりぴくりと身体を震わせている狐たち。

 その向こうの残りの狐の群れもこちらをじっと見ながら身動き一つしない。



 ……、ど、どうしよう。


 わたしは自分の身体の硬直をゆっくりと解いていく。



「僕は約束を護らねばならぬのだ」



 パチンと扇を少年は閉じた。



「スゴイ……なんか神様っぽい」


 素直な感想がわたしの口から漏れてしまった。



「……神様ですけどー」


 向こうを向いたまま肩を落とす少年貴族。



 その後、わたしたちは視線を狐たちに向けたまま後ずさってその場から立ち去った。

 熊に出会ったときの対処法だよね、これ。



 ◇◆◇



 近くのマンションに囲まれた公園のベンチに座るわたしと少年貴族(神)。

 今日もまた日が沈んでいく。


「狐……なんで狐?」


 そしてわたしは頭を抱えていた。

 隣に座る少年貴族はんーっ、とちょっと考えた後ちょっと広げたいた扇をパチンと閉じる。


「たとえば、結婚式場に招待していない人が来たらどうしますか?」


「はぁ?」


 ナニ言ってんだコイツ。


「しかも、その人女性でかつ新郎側の関係者だとしたら……」


 横目ですいっこちらに視線を送る少年貴族(神)。


「関係者なのに招待状を出していない、いや出したくない異性って……

 まぁー、トラブルの予感しかないよね」


 ブライダル業界の裏話として定番のネタだ。

 少年貴族はうんうん頷いてわたしの言葉を肯定する。



「で、ナニが言いたいの?」



 わたしの問いかけに、そそと口元を少し広げた扇で隠す少年貴族(神)。



「……いや、片平君の関係者ってあなたしかいないじゃないですか?」


 脈絡もなくそう言うコイツ。


「は?」


 やばい、いまのわたしの顔はそうとう怖い顔になっている。

 訳の分らない会話につきあわされた怒り、というか。


「え?」


 そんなわたしの反応が予想外だったのだろう、少年貴族(神)の目元がちょっと潤んでる。そういう反応をされると、不条理な罪悪感が。


  しばらく目をうるうるさせていると、はっと何かを思い出したように、少年貴族はポンと手を叩いた。涙はすでに止まっている。


「……あー。あっそうか。

  言って無かったです……。


  片平くん婿入りするん……ですよ

 ひっ!」


 いつの間にかわたしに不動明王をがおりていた。世の中には言ってはならんことがあるのだ。音で表現するとゴゴゴゴゴ。


「鬼じゃ……鬼がおる」


  ぶるぶると扇を震わせる少年貴族。


「神様のくせに言霊のこともわからないの。言ったことが本当になるんだから……」


 自分でもよくわからないこの感情。


「もうすでに本当のことになっておる

……ぶへっ!」


 少年貴族の服は案外襟首がつかみやすい。だからフルパワーで掴んでやった。


「ああっ、何んだって!?」


「落ち着いて、落ち着いてください」


 少年貴族はぐぁんぐぁんと頭をゆらしながら、懸命に言葉を繋げようとしている。それがますます自分のいらつきを加速させる。この存在が許せない。


「あー! 今日はもう終わりっ!」


 目を回している少年貴族を見ていたら、こんなにも動揺している自分が、とても嫌になってきた。だから逃げるように公園から立ち去った。地面に転がっている少年貴族(神)を残して。



  夕闇が私を押し倒し潰そうとしている。



 ◇◆◇



 ……来ちゃった。

 なんてね。


 次の日の夕方、 結局私は もう一度 片平君の家の前まで来ていた。昨日あんなことがあったというのに、懲りずに来ているわたしは相当……いや何でもない。

  今日は少年貴族には合わなかった。昨日現れたあの場所にまた現れるのかと思ったが、そんなことは無かった。


神様は気まぐれなのだ。


 今日も白毛の狐たちが家の前を守っている。その数は変わらない。



 ーー片平君にあいたい。



 ただ、その思いが強くなっている。

 気づいていたけど気づかないフリをしていた。自分もだまされていた。

 だけど、昨日あの場から引き裂かれるように離れたときに、この思いはまるで最初からその場所にあるように現れたのだ。現れてしまったのだから、自覚せざるをえない。



 昨日はっきりと自覚した、 この思いは本物だ。



 わたしは、片平君に恋をしているのだ。

 始まりはどうだったかなんてもう憶えていない。

 でも気づいたときには、ずっと恋を継続していた。

 気づいてしまった恋は、じつはずっと過去からつながっているラインだったのだ。



 だから。

 だから、今すぐ片平君に会いたい。すぐに、すぐに、すぐに。



 そして。


 結婚するって嘘ですよね?


 と尋ねよう。



 自分と片平君の家の間には大きな窪みがある。それは深くて、足をすくませるには十分なものだった。白毛の狐だけが障害じゃない。いや、物理的にかなりの障害だと思うけどさ……。でもそれよりもずっと自分の足を竦ませ――つまり恐怖心をこの上もなくかき立てるものがそこにある。それは自分のこころ。

 こころが凶暴な野獣となってこの窪みの中から獲物が落ちてくるのをずっと待ち続けている。そのうめき声がわたしの耳をつんざき、足を震わせる。白毛の狐なんて見えているだけで全然怖くない。……いや、やっぱり怖いのだが。それよりもこの窪みのそこに居る野獣は見えない。透明なわけではないが、ただ見えない。それがわたしをどうしようもなく心を震わせ、身体を震わせ、空気を震わせる。がたがたがた。


 ところが、である。

 人間とは不思議なもので目の前に恐怖があるのならば、それにできるだけ近づいてそっと見たいというどうしようもない性質がある。怖いもの見たさのなんとやら、というやつだ。好奇心は猫を殺すということわざがあるが、きっとわたしの前世は猫であったのだろう。昼はぐーたらにしているのが結構好きだし。


 そういうわけで、身体をぶるぶると震わせながら、顔になんともいえない引きつった笑みを浮かべて、わたしはそっと夕暮の中に沈む片平君の和洋折衷住宅の門前へと半歩づつ近づくのであった。いまなら逃げれる、いまなら逃げれると呪文のように唱えながら半歩づつ、完全に腰を引かせたままに前へと進む。


 白毛の狐たちの表情はうかがい知れないが、前回のような敵意にみちた表情はしていないと思おう。なんていうか、どちらかというと好奇心が満ちあふれた表情というか、くりくりした目がよりくりくりさせて、あらかわいいと思ってしまうような感じというか。


 なんとなく、勝ったような気分になる。

 ナニに勝ったのか?と問われれば、「わたしのこころです」とどこぞの警部のような表情で答えるのに違いない。はっきり言ってわたしは小さな征服感に酔いしれていた。


 半歩がやがて一歩になり、じりっじりっと片平君の家の門前まで近づくことができた。

 白毛の狐たちの息づかいが聞こえてくるようだ。あれ?この狐たちは獣のような息づかいをしていない。どちらかというと微風のような深く長い呼吸をしている。


 その獣たちの不思議な息づかいに心を癒着させてしまったせいだろう。

 わたしは狐たちの群れの後ろに誰かが立っていることに気づくのが遅れてしまった。視線を狐たちに合わせて下ろしていたら、なにか別な気配がして、「片平君?」と声を出しながら無意識に視線をあげると。



 そこには全身真っ黒で輪郭がぼやけている「影」としか言い様のないものが立っていた。



 短い悲鳴が、出なかった。声がでなかった。これが恐怖だ。

 身体が竦む。身体が急激に冷えてくる。このまま凍り付いて死んでしまう、と思った。



 夕闇が闇へと変わっていく。

 あたりは闇へと染まっていく。


 そのなかでその「影」はその風景から超越するかのように、

 不気味は雰囲気をまとわせたまま、ゆらゆら揺れながら立っている。



 息ができない。

 逃げることができない。

 わたしは背くことができないまま、じっとその「影」を凝視した。


 わたしは分裂する。


 この場に留まろうとする自分と、

 この場から逃げ出そうとする自分に。


 その均衡のなかでわたしは、身体にかかる重力を感じていた。

 つまり重力に逆らうように立ち、この重力に逆らう意思をどちらに振り向けようか、

 意思の振り子が振られる方をじっと心の中で観察していた。



「ぁ……ひゃ!」


 声が出た。悲鳴が出た。変な悲鳴だと醒めている自分もいた。


「ああっ!」


 身体が動いた。バランスを崩した。足がもつれた。だけど、後ろへ一歩下がることができた。

 身体が逃げ出すことへその存在理由を変えた。立ち尽くしていた身体は破棄された。


 後ろを向く。道はすでに真っ暗。

 所々に街灯がともっている。そこに、その少しだけマシな暗闇に逃げ込むしかない。


「ああっ! ああっ! ああっ!」


 はき出す息がそのまま声帯を震わせていく。

 足がすこしだけ速く動いたような気がした。

 恐怖に身体を取られないように、ただ片足を前に、もう片足を前に進めていく。



 ――振り返らなきゃよかった。



 そう思ったのは、思わず後ろを振り返った後のこと。


 息もたえだえに後ろを振り返ると見たくないものが映っていた。

 それは白毛の狐たちを引き連れたあの「影」。

 家の門内にいたはずの「影」が、門から外に出て、のっそりのっそりと歩いている。

 わたしに向かって。


 「影」は街灯の下をくぐる。

 光の中でもやっぱり影は影だった。

 くっきりとした水銀灯の明かり下にでても、輪郭は循環する空気のように揺らしたままだった。


 真っ黒でぼんやりとした存在がわたしの後を歩いてくる。

 その速度は遅いようで、速い。

 一歩がすすむごとに、滑るように身体が数歩前に移動している。



 逃げた。


 とんでもないことになったと思った。


 街灯に照らされた道の中、わたしは誰にも出会わない。


 人の息吹がまったくしない住宅街はここまで不気味だったのだろうか。



 住宅街の箸にあるコンクリート製の階段を駆け上がる。



 階段を上りきった先には信号付き横断歩道がある。

 その先はいつもわたしが歩き慣れている川沿いの歩道だ。



 ……そういえばこの横断歩道を渡るのは久しぶりだ。



 この横断歩道を渡って、階段を降り、住宅街を抜けて学校に行く。

 入学してからずっとこのルートで学校に通っていた。



 でも、最近のわたしはずっとこの横断歩道を渡らない。



 そう考えると急に身体が重くなったように感じた。

 階段をのぼる一歩一歩に費やされるエネルギーが急に枯渇してしまったような感じだ。

 なんだんだ、なんなんだ、「影」がすぐ後ろに迫っているというのに。

 わたしの身体は階段に吸い込まれるように急に動かないようになった。後ろを振り返る。

 「影」は階段のところまであと数歩のところまで来ていた。わたしに向かって手を伸ばす。恐怖がこころを突き抜け、そのまま空気が抜けたようにこころが小さくしぼんでいく。わたしの存在が急に小さく、小さく、極小にまでの無限の歩みを進めていく。死ぬんだ、わたしここで死ぬんだと、小さく、小さくなりながら思った。



「渡れ!」



 向こうから声が聞こえた。

 昨日会ったばかりなのに聞き慣れた声だ。



「渡れ! この『橋』を速く渡れ!」



 その声を聞くと急に身体に息が吹き込まれたかのように、小さくなっていたわたしのこころがドクンと息を吹き返した。動ける、身体が動ける!そう思った瞬間に、わたしはコンクリートの階段を数段飛ばしで駆け上がった。

 目の前に広がる道路とその向こうの堤。

 その堤の下にある歩行者専用の信号。その下には見慣れた狩衣すがたの少年貴族。


 わたしは階段を昇りきった。



「渡るんだ! この『橋』を!」


 少年貴族の前には横断報道がこちらまで続いている。

 橋?と一瞬思ったが、そんな疑問などかなぐり捨てるようにわたしは横断歩道の上を走った。

 そういえば横断歩道の信号を見るのを忘れたけど、よく考えたらそれどころじゃないよね。



「た、助けて!」


 横断歩道を渡ったわたしはずっと言いたかったことを、少年貴族の手に縋りながら言った。


「……助けたよ」


 そう言って少年はそっと片手でわたしの目元を拭った。どうやらいつの間にか泣いてしまっていたようだ。


「うん」


 ごしごしとわたしは目を拭う。

 なんだかこの少年貴族のそばにいるとどんなコトが起きても大丈夫なような気がする。

 神様だもんね。



 気がつくと少年貴族はわたしの後ろをじっと見ていた。

 その視線を見て、自分は何から逃げていたのかを思いだした。まるで遠い過去の記憶の様に。


 わたしも彼とあわせて後ろを振り返る。



 横断歩道の先にはあの黒い「影」が立っていた。

 ゆらりゆらりと身体の輪郭を揺るわせながら。

 不思議と恐怖心はなかった。


 歩行者横断歩道のした、その「影」がじっとして動かない。

 横断歩道を前にしてそこが行き止まりかのように動かない。

 そんな「影」の周りと白い狐たちが護るように座っている。


 少年貴族の表情は少し悲しそうだった。

 どうしてそんな表情をするの?と尋ねようとした瞬間、わたしはその「影」に言う言葉を突然思い出した。



「……あ」



 その時横断歩道の上を大型トラックが通り過ぎた。

 車道に掛かる横断歩道なのだから車を通るのは当たり前だ。


 視界が一瞬大型トラックの海原を書いたコンテナで埋め尽くされた。



 そしてトラックはわたしたちの前を通りすぎた。



 横断歩道の向こうにはもう誰もいない。


 「影」も白毛の狐たちも消え失せてしまった。



 歩行者信号が青に変わった。



 ◇◆◇


 その日の夜、わたしは自室のベットの上に寝転んでいた。

 時間はよるの八時前。

 いつもなら駅近くの塾に行っている時間だ。こうして塾をさぼってぼんやりとしていることが多くなったのはいつからのことだろう。割と最近の気がする。

 自分は将来何になりたいなんて血の気の多いことは考えてはいないが、でも行っておかないと妙に不安になってくるのだ。塾の生徒を妊娠させたとの噂がたつ先生がいたり(本当は塾生の母親を妊娠させたらしい)、同性のトイレに隠しカメラを仕掛けた先生がいたりなど、なかなか愉快な空間だ。塾が入っているビルの階段のぼって、開きなれたドアを押し開けて目に入る学校とは違った何となくちょっとだけいっぱしの大人になった気になるあの空間。自分が全能感が広がり、学校よりも塾にいるほうが本当の自分になれるようなあの空間。


 そんな空間からわたしの足は最近遠のいている。


 何故か。

 なぜだろう。


 一番即物的な理由は、

 わたしが塾に行かなくなっても誰も咎めないからだ。


 塾に行かなくたって嫌な思いはしない。

 だからわたしはこの時間に自室に引きこもって天井を見上げている。


 親は子供の自立を願って放っておいてくれているのか?

 それはないない。

 近所の子供が塾に行くと知って、食卓に中学受験のパンフレットを満漢全席のごとく並べたあの親だ。どれか好きなものを選びなさいと言ったあのときの母親の顔はよく覚えていない。でもあの時の妙に重々しい空気に逃げたくなったことは今でもよく憶えている。わたしはあの時から上っ面の表情よりも空気を読む人間へと舵を切ったのだろう。


 そうそう。

 いま通っている塾は片平君が通っていたから選んだんだ。


 あー。

 なんかわたしって純情だよな。


 そう思いながら口をぽっかり開けて閉じて、タバコの煙でわっかを作る前をしてみた。

 実際にそういうことをしているところに立ち会わせたわけではない。わたしの両親は父も母もタバコは吸わない。

 でもこうやって、ぽっかりと口をあけて、閉じる。この行為が海をただようマンボウのイメージとシンクロしてわたしに安らぎを与えてくれる。


 そのときげほっとせき込んでしまった。


 頭中にあの暗闇の道を置き換えてきた「影」の姿が浮かんできたからだ。

 忘れていた。わたしは今日の帰り道にあの「影」に追いかけられたんだ。

 もっと怖がっていいはずなんだ。自室で半狂乱になり布団にくるまって震えていてもいいはずなんだ。きっとあの「影」はわたしにトラウマを与えたはずなのに、そのトラウマがどこかで昼寝をしている。もうちょっと真面目に仕事をしてほしい。いや、してほしくないけど。


 「影」に追いかけられたわたしは神様に助けられて「橋」を渡った。

 「影」はその「橋」とされる横断歩道を渡ることができずにじっと立ったままだった。

 そして「影」は消え、わたしは神様に付き添われて家まで帰った。

 家のドアを開けたときには付き添っていた神様の姿は消えてしまっていた。


 ちょっとだけ家まで付いてきたらどうしようと思っていたから、ほっとしたのは事実だ。



 はて。

 わたしはあんなにも恐怖の体験をしてしまったのに、こんなにのんびりとしているのは何故だろう。自分は思ったよりも図太い性格なのかもしれない。


 ないない。

 自分は将来一小市民として一生をまっとうするつもりなのだ。


 そばに神様がいたから?

 いやいや、そうだとしたらこの神の不在の部屋にわたしはもう少し居心地の悪さを感じても良いはずだ。


 では、なぜ?

 なんで?



 ――あの「影」は怖くないから。



 わたしはがばりとベットから起き上がった。

 そのときはじめて自分は制服を着たままにベットに寝ころんでいたことに気づいた。


 何か急き立てられるかのように、きゅっとスカートの皺を伸ばすとそのままドアへ突進した。


 ばんと大きく音をたてドアをあけ、そのままリビングへと向かい、買い物袋から野菜を取り出し冷蔵庫にしまおうとしている母親の後ろ姿に近づいた。


「ちょっと、ドアで大きな音をだしたらダメでしょ!」


 母親は顔をしかめながら振り返る。

 手にはネギが握られていた。



 ――思い出せ。

 あの時、わたしはあの横断歩道で何と言おうとした?


 「影」が消えた瞬間、わたしは直前まで頭に思い浮かべていた言葉をどこかへ失くしてしまった。失くしたという記憶さえも失くしてしまった。


「……どうしたの?」


 母親はぎょっとした表情になりわたしをのぞき込んできた。

 その反応に自分がいまどんな表情をしているのかが判ってしまった。



 この世ならざるものに出会った表情にしているのに違いない。



 この世ならざるものとは何か?

 神か?いや違う。あれは当たり前のように存在していたではないか?

 ではあの「影」か? ……違う。あれは、この世にいていいはずのもの?だ。


 では改めて問う。

 この世ならざるものとは何か?


 うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと。

 そんな逆さまの世界に生きるものの「この世ならざるもの」とは一体何か――。




「お母さん、片平君ってやっぱり――」




 さかしまの世界に生きるヒトにとって「この世ならざるもの」とは現実だ。




「死んじゃったの?」



 涙が、涙が、両眼から流れ落ちてくる。


 母親は口に両手を当てた後、自分をじっと見た。

 わたしと同じように両眼から涙があふれていた。


 そのままぎゅっとわたしは母親に抱きしめられた。

 久しぶりに嗅ぐ、化粧交じりの母親の匂い。

 ぽんぽんと背中を優しく叩いてくれた。


 よく来たね。この世界によく来たね。

 現の世界におかえり。


 背中に感じる振動がそうやさしく語りかけてくれているように感じた。



 ◇◆◇



 片平君が死んじゃった。

 わたしの目の前で死んじゃった。

 あの横断歩道で真っ赤な血を流して死んじゃった。

 はねた乗用車はそのまま歩道を突き破ってひっくり返っていた。

 ガラスがきらきらと散らばっていた。


 朝の通学路。

 いつもは横断歩道の向こうにまっているはずの片平君が

 めずらしく横断歩道をわたってこちらに歩いてきた。


 うれしかった。

 ちょっとだけ二人の関係が変わり始めたのだ。

 わたしたちは変わり始めていく。


 そのはずだった。



 大きな音がした。

 目を開くと横断歩道が真っ赤に染まっていた。


 ひくりひくりと動く右手。

 人間なのにべつの生き物のように見えた。


 片平君じゃないと思った。

 でもそのカバンは片平君のもので。

 近づこうとして、足がすくんで。


 ぱらぱらと周りに人が集まって。大声をだしていて。

 騒がしくなって。救急車の音が聞こえて。また人がさらに集まってきて。


 その中でわたしはぽつんと孤立していて。

 その場から動くことができなくて。


 足下に広がっている血だまりをじっと見つめていて。

 わたしと血だまりの境目がなくなったような気がして。

 片平君の残滓とわたしが融合しきって、ぐるぐると循環して、出口のない世界をさまよい始めて。


 このままわたしはこの世界から逃げ出せないだろうと思っていたら、ぽんぽんと背中を叩かれてはっと現に引き戻されて。

 やさしい顔をしたおばあさんが小さなペットボトル入りのミネラルウォーターを差し出してくれていた。じっとそのペットボトルをうけったまま何もできずに呆然としていたら、そばにいた同じく優しそうな顔をしたおじいさんがきゅっきゅっとペットボトルのふたを開けてくれた。飲みぃと言葉を添えて。

 そのときやっと初めてわたしは自分で、自分の手をを動かすことができた。


 一口飲んで、喉が潤いを取り戻したとき、初めて歩道をのりあげひっくり返った小型車があることに気づいた。


 救急車はとうの昔に立ち去り。そこには警察車両と警察官。ひっくり返った無人の車。そして横断歩道の血だまりが残された。



 ――この時からわたしの別世界は始まった。



 わたしは偶然、知らない人の交通事故現場に立ち会ってしまったのだと、思い込んだ。

 いつも横断歩道の向こうでまっている片平君は、今日はなにかあって来てはない。

 もともといい加減な奴だから、横断歩道での待ち合わせに現れないことなんてよくあることだ。

 あの野郎、乙女を待たせたことをネタに今度なにか奢ってもらうんだ、と決意した。あいつなら絶対ごめんごめんと頭を掻きながらコンビニでアイスの一つぐらい奢ってくれるだろう。


 うん、ちょっと嫌な光景をみちゃったけど。

 今日も気分は上々だ。



 ◇◆◇



 次の日、わたしは学校をさぼった。

 そして塾近くの花屋が開店するまでコンビニで時間をつぶし、開店したと同時に花束を作ってもらった。お墓に花を添えるために。


 片平君の葬式が終わってからすでに2週間も経っていた。

 わたしはその葬式には参加をしていない。ずっと家に引きこもっていた。

 周りの時間は過ぎていくのに、わたしの中の時間は停止されたままだった。悲しくたってお腹はすくし、眠くもなるし、トイレにも行く。だけどそれは心の中の時間を再起動させるわけではなかった。すべてが刹那に行われ、それは記憶の外の出来事だった。


 わたしのなかの時間が動き始めたのは葬式の翌日のことだった。

 わたしは普段通り起床し、普段どおりに朝食をとり、普段通りに学校へと向かった。


 通学ルートは変えた。


 あの横断歩道に続く道は通らずに、少し遠回りになる駅前からのルートを辿って学校へといった。

 再登校した最初の日は、別の曜日の準備をしてきてしまった。でも、こんな失敗なんてよくあることだから、あははっと笑ってなしにした。

 片平君の席は空席になっていて、それでも学校の授業は進んで、わたしは黒板の内容を書き写していた。なんていうか、学生をしていた。


 ぽっかりとこころの中に空洞ができたような気がした。


 生きようとする気持ちが全てそこに吸い込まれていくような気がした。


 それでも授業が始まり、終わり、始まり、終わり……そして放課後になっていた。

 こんな日々が続いた。



 ――あの、少年貴族に出会うまでずっと。

 神様に出会うまでずっと。



 ◇◆◇



 通学時間が過ぎた通学路はの風景はとても新鮮だ。

 あんなに制服でごちゃごちゃしていた道がどこまでも視界の障害物なく見渡せるというのは、とても不思議だ。そんな不思議な道をわたしはてくてくと歩いてく。


 川の土手沿いの歩道を歩いていく。

 ちょっと前まで花びらをまき散らしていた道端の桜は葉桜となってしまい、なんか個性のない普通の広葉樹に見えてしまう。桜がきいたら非常にむっとしそうだけど。


「そうですね。

 大変失礼だと思います」


 その狩衣を着た神様は葉桜の下でわたしを待っていた。


「……昨日は、ありがとう」


「えっ?」


 神様は動揺する。

 わたしはそれ以上何も言わないで、その傍を通り過ぎる。


「あ、ちょ、ちょっと」


 神様は小走りでわたしのうしろに追い付いてきた。


 そしてふぅっと息をはくと、そのまま黙ってわたしの後ろについてきてくれた。



 わたしは足を進め、風景はどんどんと前に進んでいく。

 ある「儀式」をわたしは行おうとしていた。

 だから駅近くの花屋で束をつくってもらったあと、もう一度来た道を引き返したのだ。


 わたしが今歩いているのはずっと使っていた通学路。

 片平君の事故が起きる前まで使っていた通学路。


 わたしはこの道を再び歩み始めるのだ。

 今度は一人で。



 そう思うとまた涙がこぼれそうになる。


 でも、逃げたくはないのだ。

 わたしの記憶から。



「小学、中学とずっと一緒だったんでしょ?」


 神様はわたしの後ろからそう尋ねてきた。


 わたしは何も答えない。


「……彼はそう言っていたよ」


 わたしはちらりと後ろの神様をみた。


「ん」


 短くうなづいて、わたしは再び歩き出す。



「初恋は常に正しいんだ。

 ……残念なことにね」



 ちょっと神様が言っていることが理解できなかった。

 でも、その言葉を聞いて、自分の涙の意味が変わったような気がした。


 これが「生きる」ってことかな。



 歩く。歩く。

 川の土手沿い歩道を歩く。


 そして忘れられない横断歩道にたどり着く。

 歩行者信号は赤。この時間は朝のピークが過ぎており、車の通りもまばらだ。


 向かい側の歩行者用信号の下にはペットボトルに刺した数本の花があった。

 どの花もすでにしおれており、時期に片づけられるに違いない。


 信号が青になった。



 わたしは横断歩道を渡った。

 昨日とは逆方向で。

 いつも通学に通学に使っていた方向で。


 足を出す。

 白黒の模様の上を歩く。歩く。


 そして渡り終えた。



「――よし」


 ふんと息を吐いてわたしはぐっと両手を握った。



 横断歩道を渡り切ったことで、

 わたしの「儀式」は終わった。


 やっとわたしはもう一度「生きる」ことを始められそうな気がした。



「……おめでとう」


 神様はそんなわたしに微笑んでくれた。



 ◇◆◇



 そしてわたしと神様はもう一度駅前へ行き、駅から出ているバスに乗った。

 神様は「後で追いかけていくから」と言ってわたしを見送ってくれた。


 バスの行先は片平君の家のお墓のある霊園。

 そこに片平君も眠っている。


 バスは30分ほどで墓地へとたどり着いた。


 そこわたしは片平君のお墓のある場所を知らないことに気づいた。

 どうしようと霊園の入り口でおろおろとしていると、


「こっち、こっち」


 と神様がどことなく表れて案内してくれた。



 花を添えて。

 手を合わせ。

 合掌。



 片平家のお墓の前でわたしと神様が合掌する。

 神様が合掌するというのもなんなんだろう、と思っているが案外そこらへんはいい加減なものかもしれない。


 神様と人間との奇妙な墓参りだった。



 ◇◆◇



「……たまたま、あの横断歩道ら辺を歩いていたら

 彼に頼まれちゃったんだよね」


 合掌を終えたあと、なにか一仕事を終えたような力の抜けた気分になっていると、同じような感じになっていた神様がそうぽつりと言った。


「幼馴染が困ったことになっている。

 何とかしてくれって……」


 死んでもわたしの心配か。

 片平君らしいや。



「あの『影』って、片平君?」


 昨日追いかけられた「影」のことを思い出す。



「……そうだよ。

 何とかしてちょっとだけ戻ってきたんだろうけど……」



 死者だから「橋」は渡れなかったんだ。

 と神様はつづけた。



 結局、死者と生者の間には大きな隔たりがあったわけだ。



「悪いことしちゃったかな……」


「いや、それが普通だよ」


 しんみりとした空気が流れる。

 と、わたしはあることを思い出した。


 わたし、どうして昨日再び片平君の家の前まで行こうとしたんだっけ……。



「あ」



 少年貴族は手をぽんと叩いた。

 ちょうど今何かを思い出したかのように。



「……片平君の結婚って……?」

「そういえば今日、彼、婿入りする日だった」



 あたしの疑問は答えと重なった。



「はぁ?」


 わたしは少年貴族の襟元をぎりぎりと締め上げていた。

 片平家のお墓の前で。


「忘れていた、

 ちょっと忘れていただけなんですってっ!」


「そもそもなんで、死んじゃった人が結婚なんてするのよっ?」


「彼、人間にしては神格がけっこう上位だったんですよ。

 だから生前から婚姻相手に引く手あまたで……僕も噂になっている人間がどんなもんかと天界からちょっと見物しに来ていて……」


 だから片平君のこの腐れ神様は出会ったわけか。


「えっ、えっ? 結婚相手って神様なの?」


「……はい」


 わたしは神様の襟首から手を放した。



「そうなんだ……」


 なんと、

 生者と死者。これだけでも随分と断絶があるのに、

 さらに神とは。



 ……片平君、パネェ。



 わたしは墓石から目を離し、後ろの風景を振り返った。



 片平家のお墓があるこの霊園は山の斜面にそって墓石が並んでいるタイプのものだ。

 お墓からきれいな風景が眺められるよう、とまで考えて設計されたのかどうかわからないが。

 だから、墓石に背を向けると一気に視界が開けたような気分になる。



 遠くにわたしが住んでいる街が見える。

 あの街の中で、わたしは、夢の中で生き、また現実へと戻って、

 ……なんかそういうことを繰り返して、

 生きている。



「……遠くへ行っちゃったなぁ。

 片平君……」



 わたしがこうして地上に縛られているというのに、

 片平君は見えなくなるまで遠くへ行ってしまって……。


 でもいつか慣れちゃうんだろうな、こういうのに。わたし。



 思い出すのは昨日の夜に横断歩道の向こう側にいた「影」になった片平君。

 あれが最後なんて、嫌だな。



「会いに行きましょう」


 神様はそう言ってぐっとわたしの手を握った。


「えっ」



「サービスです。

 僕にも神のプライドがある。


 『現』を返すお手伝いをすることが依頼だったけど

 ……僕は神だ。


 それ以上のことをしなければ

 僕は僕じゃないっ!」



「えっ」



「最後の奇跡をとくとご覧あれっ!」



 そうして、わたしは神様に連れられて宙へと駆け出す。

 季節外れの桜の花びらをまき散らしながら。


 ぐんぐん、ぐんぐんと地上から離れていく。

 ただ、駆け足のように足を動かしているのに、そのスピードは何よりも早い。


 数歩で雲の上に出、そして宇宙へと行ってしまいそうな速度で風景が切り替わっていく。



 そして。



「天界へようこそっ!」



 ◇◆◇



 目の前に長い長い婚列が続いている。


 エメラルドグリーンの空には大きな雲がゆったりと流れていて、黄金色の太陽が真っ白な地面を照らしている。写真で見るサハラ砂漠の風景から砂を抜いてその代わり綿あめを詰めたような風景だ。

 まわりはずっと真っ白で、その真っ白の中で丘ができたりしている。



「ここは天界の入り口付近だから、何もないんだ。

 何も修行をしていない生者が来られるのは、ここらへんが限界かなぁ……」


 隣にたつ少年貴族はきょろきょろとあたりを見回している。


「うるさい奴らもいないし……まぁ大丈夫でしょ」


「ねぇ、これって」


 わたしは目の前をしずしずと通り過ぎる紺列を指さした。


「彼の婿入れの婚列だね」


 笠をかぶり豪勢な着物を着た白毛の狐たちが、長い長い列を作ってゆるりゆるりと歩いていく。、 それぞれに指物や旗を持ち、また他方では何台もの豪奢な飾り付けがされた牛車をひきつれ、なにも目印のない白色の大地を進んでいく。


 歴史絵巻なんかで輿入れの行列を見たことはあるけど、

 実際見ると圧倒される。


「思ったよりも豪勢だけど……、まぁ、いいか」


 こめかみをぽりぽりとかきながら少年貴族は呟く。


「ほら、列の後ろにいる特別豪奢な牛車に彼は乗っているよ」


 少年貴族は列の後ろのほうにいるほかの牛車よりも倍以上おおきな牛車を指出す。



 あ、あれに乗っているのか……。



 わたしは呆然としていると少年貴族はしゅたっと身をひるがえし空へ飛びあがり、

 ……大きくなった。


 空中で体の大きさを10倍以上変化させると、そのまま上空でくるりと宙返りをし(このとき大きな風が吹いた)そのまま列の先頭へと立ちふさがる。


 腕組みをした少年貴族の大きさはちょっとした山のようだ。

 わたしはあんぐりを口をあけて見上げてしまった。


 巨人となった神様がずうぅっと息を吸い込んだ。



「待たれい!


 わが友人との約束がまだ済んでおらぬ。


 しばし時を頂きたい。


 よいなっ!」



 その声は雷鳴のようにあたりに轟き、婚列の狐たちは恐怖で全身の毛をぶわっ逆立てた。



 しばし狐たちは顔を見合わせ、どよめきがあったあと、

 白毛の狐たちはまるで人間のように全員が平服した。

 婚列の進みは止まった。



 すっげーっ。



 わたしの感想はそれだけだった。



「……というわけで、

 行きなよ」


 口をあんぐり開けたままのわたしの服をつまんで少年貴族はそう言った。

 すでに婚列に立ちふさがる巨人はいない。



「……、う、うん」


 わたしは列の後ろにあるひときわ豪勢な牛車へと目をやった。



「どうしよう? 何を言っていいかわからない……」


 神様のほうへと顔をむけると、神様もまた眉をひそめた。



「何もないはずないでしょ?」


「……だって」


「あー、もう。

 だったら『抱いて』とか言ってみたら……」


「う、うん。

 とりあえずそう言ってみる」


「え? マジ。

 ちょ、ちょっと、待っ……」


 わたしは神様の言葉にうなづくと、これ以上ないくらいの猛ダッシュで一番豪勢な牛車へと向かった。

 なにか神様がつけくわて何か言おうとしていたけど、それどころじゃないからっ!



 ◇◆◇



「……なんか色々と無理、って言われちゃった」


「だろうね……」


 わたしと神様は天界の地をすすむ婚列の後ろ姿を見送っていた。


「でも凄かったんだよ、片平君。

 こう何重にも重ね着した豪勢な着物をきちゃって……なんかどこかの新興宗教の教祖みたいだった」


「ひどい感想だなぁ……」


 神様はあきれ顔だ。



「最後に、ありがとう、って言われちゃった……」


 わたしはその時の様子を思い出し顔ににまにまと笑みをつくる。



「そりゃ……よかった」



 神様もちょっと笑った。





「バイバイ、片平君」


 わたしは遠くへいってしまった婚列に向けてそう言葉を投げた。



 ◇◆◇



 天界から地上に戻ったのはそれからしばらく後のことだった。


 見えなくなるまで婚列を見送っていて、それから何も見えない白の砂漠をまたしばらくじっと見ていて、ちょっと疲れたなと思ったら「地上にもどろうか?」とわたしは口にだしていた。

 神様は、ああ、と頷き来たときと同じようにわたしの手をひいて――来たときよりもスピードは遅めにして――地上へと降りていった。


 神様は「縁があったら、また会おう」と言って桜の花びらをまき散らしならが姿を消した。

 まき散らせすぎだろう、桜。



 小さな街で、またわたしの日常が進んでいく。

 傍らに居る人が一人少なくなったけど、たぶんこれが人生だ。



 変わったといえば、学校からの帰り道にたまに近くのひなびた神社によることが多くなったことだ。

 ここがあの神様の住処ではないと思うが、神づてにこんな女の子が来たよ、と伝えてくれるかもしれない。




 ――最近気づいたのだが、まれに境内に季節外れの桜の花びらが落ちていることがある。



 おわり

初恋は常に正しい、てこのフレーズ凄く好きなんですね。

このフレーズの為だけにこの話を作ったくらいに。

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