色眼鏡
七時二十五分。
いつも通り電車に乗った。
通勤時間であるため、電車内には多くの人が乗っている。
眼鏡を軽く押さえて目の前にいた、小太りのサラリーマンに目を凝らす。
(……灰色、か)
元々視界が灰色であるため、少し見えにくいが確かに灰色を纏っている。灰色は確か、苦労や退屈、真面目。そんな感じだったはずだ。
見た感じ、三十代後半から四十代といったところか。少しだが、額に汗が浮き出ている。よく見ると生え際は後退し始めているとうに見える。
何というか、そのまんまだな。見た目は優しそうだけど、実は腹黒い悪女みたいなのがいたら面白いんだけどなぁ。
なんて考えながら車内を見回す。次に目に留まったのは灰色のスーツを身にまとった若い人懐っこそうなOLだ。眼鏡を押さえ、灰色の視界に再び目を凝らす。
(オレンジ、か)
オレンジは元気の良い、愛想の良い、そんな感じだ。人懐っこく見えるが、実は腹黒いっていうのを期待したけど、そうそう居ないか。
そんな人間観察を繰り返す内に電車は会社の最寄り駅についた。何とも憂鬱な気分だ。すぐさま身を翻して自宅に帰りたくなる。踏み出す足に軽く力を込めて歩き出す。それと同時に眼鏡を外した。突然視界に色が戻り、眩しさに目を細める。
人通りの多い交差点を抜け、会社へと向かう。本当なら眼鏡をかけてすれ違う人々を観察したいところだ。だが、街中で色を失うのは危険だろうし、何より一人一人観察しながら歩くのは危険だ。そう自分に言い聞かせ歩いた。
俺がこの眼鏡を手に入れたのは四日前の夕方のことだ。会社帰りに隣の駅にある商店街を覗いた時だった。馴染みのある店主が面白いものが手に入った、と言って見せてきたのだ。
「眼鏡……ですか?これがどうかしたんですか」
俺がそう問うと、店主はニヤリと笑った。
「この眼鏡はな。人の内面の色を見ることが出来る眼鏡なんだ。面白いとは思わんか」
「へぇ。付けてみていいですか?」
店主が「構わん」と言うのを聞いて眼鏡をかけた。すると、少し世界の色が薄くなったように感じた。辺りを見渡した後、店主に焦点を当てる。すると、店主の周りが黄色に近いオレンジのような色をしていた。
「何色にだった?」
「黄色に近いオレンジです」
そういうと、店主は面白そうに「なるほど。そう見えるのか」と呟いた。
「オレンジにはどんな意味があるんですか?」
そうだな、と少し考える素振りをした後、「元気とか陽気とかそういう意味だな」と言った。元気か。そう言われてみると、確かにこの店主は楽しそうだ。
「どうだ?買ってくか?」
あれから半年たったが、後悔はしていない。相手の内面を見ることが出来るのだから、あまり良い色がしない人には近づかないようにしている。と言っても、黒に近い色を持っている人は嫌いな奴が大半だったから、今までとあまり変わらないが。
そんな平凡な生活を過ごす俺にも新たな出会いがあった。三か月前に合コンで会った、二歳年下の女の子だ。既に結婚を前提にお付き合いをしている。おっとりしていて、気が利く、俺なんかには勿体ない美人さんだ。
勿論、眼鏡で彼女の内面は確認してある。白に近い黄色で、物凄く誠実そうだ。
そういえば、彼女のお父さんが病気でいよいよ手術を受けなければならない状態らしい。けれど彼女のお金だけじゃ足りなくて、三十万円貸してほしいと言われていたな。後で卸に行かないと。
はぁ……。早く結婚したいなぁ。
そういえば、あの眼鏡を掛けても視界に色が付いたままになっっていた。不思議なものだ。
「ねぇ、父さん。半年くらい前に仕入れてた眼鏡ってどうなったの?」
商店街の一角に建てられた店内で二十歳くらいの女性が父親らしき男にに問いかけた。
「確か、人の内面が見えるとか言ってたけど、本当に視えるの?」
男は懐かしそうに微笑んだ。
「売ったな。常連さんに声をかけてみたら、その場で買ってたよ。ただ、本当は内面が見える訳じゃなかったんだよなぁ」
「え? どういうこと?」
女性が問うと、男はバツの悪そうな顔で言った。
「あの後、仕入れ先から連絡が来てな。本当はただの色眼鏡だったんだ。あれから店に来てないから、訂正も出来なくてな。あの人、元気にやってるかねぇ」
空は既に夕刻を過ぎ、暗くなり始めていた。二人が見上げた空に月はなかった。