9.あ れ は い っ た い な ん な ん だ ?
一瞬、アオダイショウがとぐろを巻いているように見えた。
祠が傾いたせいで、内部におさめられていたものが、まるで意思が宿ったかのように転がり出てきたのだ。
粂田のまえに、黒々とした塊が毬のようにバウンドしてきたので、かるい悲鳴をあげ、だらしなく尻餅をついた。
そばの卒塔婆を手にとって塊をつついてみた。
塊は微動だにしない。少なくとも生き物ではない。
細長いものが丸められてるようだ。ロープにしてはやけに太い。
眼をこらせば、丸められた長い髪の束らしいことがわかった。
白髪がまじり、すっかり水分が抜け、パサパサに乾燥していた。
かなり古いもののようだ。なぜ髪の毛がおさめられていたのか?
「なんでえ、おどかしやがって」と、粂田は裸足になり、雪駄の下に入りこんだ砂を捨てながら言った。「髪の毛をねじ込んであるなんて、田舎にはワケのわかねえ風習があるもんだな」
うおッ?――次の瞬間、粂田は白目をむいてうめいた。
立ちあがったとたん、足もとがおぼつかなくなり、地面に横倒しになった。
ぐにゃりと視界がねじ曲げられた。
飲みすぎたせいだろうか? 粂田は眼を強くつむり、頭をふった。
エレベーターの昇降にともなうときのような眩暈に襲われた。
内耳の平衡感覚が乱されるような不快な揺れ。眼に映るものが二重にぼやけ、視界すべてが赤く変色した。
これはただごとではない。二日酔いにしては急すぎたし、かつて味わったことのないほどの異様な螺旋運動に戸惑いを憶えた。
これしきの酒量で、つぶれたことがないというのに……。
いささか悪ふざけがすぎたかもしれない。
ここはいったん撤退すべきだ。昼間の疲れも重なっているにちがいない。
丸められた髪の束を蹴り飛ばした。不気味な毬はバウンドしながら遠くころがっていった。みごとなコーナーキックだ。
つばを吐き、ため息をついた。
とにかく拠点である掘っ建て小屋に帰ることにした。気を取りなおしてお食事といこう。
魚は片側だけ焼けた状態で、かまどの炎は弱々しい熾火となっていた。
薪をつぎ足し、チヌをひっくり返し、料理を続けた。
今度はむやみに動きまわらず、小屋のなかで待機することにした。
香ばしい匂いがたちこめてきた。
またぞろ性懲りもなく一升瓶を傾けて流し込んだ。さっきの眩暈はどうにかおさまり、吐き気も去っていた。粂田は己の頑丈さと、生みの親に感謝した。
入り口から卒塔婆の切れっぱしを追加し、火力を強めた。
石のテーブルに置かれたチヌの皮は火ぶくれをおこして裂け、ホクホクの白い身をのぞかせた。
充分火がとおったのを見計らってから、かまどの薪をどけて火力を弱めた。
箸にかわるものは見当たらなかったので、ナイフでチヌの身をえぐり、じかに口へ運んだ。
「……微妙だな、こりゃ」と、顔をしかめて口を動かした。
食感は悪くないのだが、いかんせん独特な磯臭さは消えておらず、梅野が手がけたハマチの味を憶えているだけに、その落差は大きすぎた。
交互に酒を流しこんでは、淡白な白身をついばんだが、結局片半分の途中で嫌気がさし、食べるのをやめた。チヌも当たり外れがあるのは知っていたが、どうやら後者を釣ってしまったようだ。
深夜一時四十七分になろうとしていた。
酒瓶は三分の一までなくなり、すっかり泥酔していた。
掘っ建て小屋のなかで横向きに寝そべり、かまどの熾火を見つめていた。
まぶたがさがりがちになり、船をこぐようになる。
このまま眠りに入ろうかとも思ったが、なんとかこらえることにした。
もはや分析的思考は望むべくもない。――先ほどの祠からころがり出てきた物体は、なぜ髪の束だったのか、理性的な答えが導き出せるはずもなかった。
あれさえも、岡添らが仕組んだ悪趣味なイタズラの一つだって考えられた。だとしても、ずいぶん安っぽいうえにまわりくどく、手がこんでいたが。
そのときだった。
静かな潮騒にかぶさる形で、遠くでかすかな人声を耳にしたような気がした。
耳をそば立てた。
たしかに、ううう、と切れ切れに聞こえた。苦しげな女のうめき声のような――。
粂田は反射的に跳ね起きた。
うたた寝による夢と現実のボーダーライン上の聞きまちがいかとも思った。
いや、あきらかに人の声だ。全身の神経を張りつめて、聴覚に集中させる。
…………う、うううう…………
やはり人の声だ。聞きまちがいではない。
距離は遠く、方向まではわからない。
それとも眼下の磯のあたりからか?
漁船にのせられて来た当初、島の外観を見たかぎり、たしかに無人島のはずだった。
それとも、奇人変人の世捨て人でも隠れていたのか?
あるいは粂田以外に、島へ夜明かしにきた人間がいるとでも?――またしても無知な釣り客が渡ってきたことだってあり得るかもしれない。
女の苦鳴は風に流されもせず縷々と続いた。
粂田は思わず連想が浮かんだ。
高校一年のときに、末期の肺癌に苦しむ病床の祖母を見舞いに行ったことがあった。
病室では胸をかきむしり、尿毒症をも併発して、パンパンに紫色の顔面をふくらませた祖母が身悶えていた。しきりに痛い、痛いと訴えた。
粂田の姿を認めると、やにわにつかみかかってきて、
「頼むから楽にさせておくれ。ひと思いにとどめを刺してちょうだい」
と、眼窩から目玉を突出させて叫んだものだ。
あの手のほどこしようのないうめき声を思わせた。死という海底に引きずりこまれて溺れ、窒息しかけ、苦しみに耐えきれぬのならいっそ自死したいという人間の尊厳をかなぐり捨てた声。
粂田は身体を硬直させたまま、成り行きを見守った。
磯にいるらしい女は、苦しんでいるだけではない。
いつしかボソボソと、誰かと会話しているような声になった。
盛りのついた猫にも似た奇声までが加わる。
やけに騒がしくなってきた。
とるものもとりあえず、粂田は小屋から這い出た。
いまだ酔いが重く残っていたが、爆発的にアドレナリンが四肢をかけめぐり、身のこなしに切れがよみがえった。
女――それも複数か?――の正体を見極める必要があった。
岡添たちと交わした約束もあるが、なにより得体の知れないものが狭い領域で存在するのを、明朝七時まで放置させておくのは精神衛生上、好ましくないように思えた。
正体を確認しないことには、生きた心地がしない。
それとも見ない方がいいのか。
なまじ、見てはならないものを見てしまったゆえに、取り返しのつかないことになることだってあり得た。
なんてことだ。
声は、かまどを据えた正面、つまり東側の真下から聞こえてくる。
砂地をイグアナよろしく這いつつ、断崖のふちに近づいた。アロハシャツの胸もとに砂が入ろうともおかまいなしだ。
ふちに手をかけ、ゆっくりと眼下をのぞき見た。
ここまで来たら見るしかない。
背中に戦慄の氷柱を押し当てられ、とたんに心臓が早鐘のように打ち鳴らされた。
なにかが絶壁の真下の磯を走りまわっていた。
月光にさらされ、眼にも鮮やかな白い布が幻想的にはためき、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしていた。
青白い四角形のシーツ状のものが、風にあおられるにせよ、物理的法則を無視して吹き飛ばされることなく低空飛行をしていた。
風をはらんだ凧みたいに、バタバタという音まで聞こえた。
なぜ白いシーツが意志をもって動いているのか、次の瞬間あきらかになった。
布の端から、にゅっと蜘蛛の脚のようなものがいっせいに六本現れた。それが推進力なのだ。
いや、脚ではない。青白い人間の腕――六本の腕だ。
手はたくみに地面をつかんで、かろやかに動きまわり、立ち止まっては磯のすき間に手を突っこみ、まるで餌になるものでも探しているようなそぶりを見せていた。
砂礫がたまったところでは、潮干狩りでもするかのように熊手状にした手でかき出している。なにかを見つけると、シーツの内側に口でもあるのか、いやしい仕草で突っこんでいた。
うけけけけけ、と気が触れたみたいな笑い声がした。
――あ れ は い っ た い な ん な ん だ ?
粂田はこぶしを口に当て、漏れそうになる悲鳴をこらえた。手の甲に歯を立てて、低くうめいた。
魅入られたように、まばたきすらできない。




