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卒塔婆島での怪異、粂田のアフロがボンバーヘッドになる  作者: 尾妻 和宥


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7.卒塔婆島の頂に着く。そもそも卒塔婆とは?

 そこはまさしく卒塔婆だらけだった。

 てっぺんはまるで高千穂峰山頂の、ニニギノミコトが降臨したときに立てたとされる天逆鉾あまのさかほこが乱立したような光景を彷彿ほうふつとさせた。とはいえ、あの神々しさとは雲泥の差があった。


 無秩序に埋めこまれ、斜めに傾いだそれらが風にあおられるたびに、たがいにぶつかりあうカタカタカタ……という、腰がひけてしまうような、なんとも言えない薄気味悪さと、墓場そのものの寂寥せきりょうが立ちこめていた。

 眼下で潮騒だけがささやいていた。


 真上から見おろすかぎり、卒塔婆島の周囲は東西四〇メートル、南北が一〇〇メートルほどの広さだ。

 あがってきた南側の傾斜だけがゆるやかで、それ以外は急峻な断崖絶壁で落ちこみ、登りおりするのは危険すぎた。


 西側にも段差がきついものの、つづら折りの道のようなものがあり、なんとか登れなくもない。海面までは八メートルと、足がすくむほどの高さだ。

 山頂は窪地くぼちになっていた。窪んだ部分の面積は、小学校のプールがそのままおさまるぐらいのサイズで、なぜか砂で埋め尽くされていた。


 その砂地に数えきれないほどの卒塔婆が突き立てられているのだ。したがって卒塔婆を立てにきているとされる人物も、労せずしてねじこむことができるというわけだ。

 卒塔婆にまじり、等間隔に小さなほこらまで祀られていた。

 内側にはむき出しの地蔵を祀ったものや、観音扉に閉ざされたものもあった。これも子鯨を供養するためのものなのだろうか?




 卒塔婆は近年、僧侶が卒塔婆プリンターで印刷する時代だし、はてはWindows対応ソフトと専用プリンターさえ揃えれば、素人でもパソコンから印刷が可能だ。

 そんなプリンターで書かれた文字はフォントが統一され、いかにも印字然とした整理された文字だが、ここに立てられた卒塔婆の文字はあきらかに人の手によって書かれたものだ。

 どれもが南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏、などと経典の一部だった。もっとも長年の風雨にさらされ、墨が涙のように流れ落ちてぼやけ、木板も朽ちかけたものがほとんどだ。




 そもそも卒塔婆とはなにか? 墓石や石塔とは、どう異なるのか?

 卒塔婆とは故人の追善供養のために供される細長い木板のことを指す。

 追善供養というのは、畢竟ひっきょう、『生きている人の善行が故人への冥福につながる』との考えからきている。


 仏教においては法要や盆、彼岸といった際に卒塔婆を立てることで善行を積むことが奨励しょうれいされている。

 卒塔婆の起源はサンスクリット語の『ストゥーパ』にあるとされており、これは釈迦しゃかの遺骨を納めた塔のことであり、モデルとして作られたのが五輪塔で、時代とともに変遷へんせんしたものが卒塔婆だという。


 毎年、盆や法要のたびに木板を立てていけば、物理的にかさばるだけなので、本来は古いものから処分されるのが一般的だ。

 だが島には大昔からの累積か、年間どれだけの数が立てられているのか定かでないが、砂地のプールにおさまりきれないほどの数が捨てられもせず、やみくもに林立していた。この数こそが、すなわち島の歴史なのだろう。


 飄然と立つそれは、卒塔婆島にかぎっては不気味な印象を抱かせるに充分だが、世間一般における卒塔婆は、なにもマイナスイメージのものばかりではない。日本の歴史上においては、こんなエピソードがある。


 広島県廿日市市(はつかいちし)宮島町の厳島神社の境内には、『卒塔婆石そとばいし』と呼ばれる史跡がある。平清盛ゆかりの神社に清盛を打倒しようとした者の名残りとされている。これは『平家物語』巻第二『卒塔婆流そとばながし』に描写されているほど由緒ある遺物なのだ。


 安元三(一一七七)年六月、京都の東山鹿ヶ谷(ししがたに)(現在の京都市左京区)の山荘にて、藤原成親ふじわらのなりちか、西光、俊寛しゅんかんらの平家打倒の密議を開くも、多田行綱ただゆきつなの密告により策謀が漏洩した(もっとも近年、この陰謀事件は平清盛によるでっちあげだとして真偽を疑う説を推す学者もいる)。

 この集まりの際、平康頼たいらのやすよりも捕縛。俊寛、藤原成経とともに、薩摩国のはるか沖にある鬼界ヶ島(きかいがしま)に流された。以下は『卒塔婆流』の引用文。




 『康頼入道、故郷の恋しきまゝに、せめてのはかりごとに、千本の卒塔婆を作り、阿字の梵字、年号月日、仮名、実名、二種の歌をぞ書たりける。

 薩摩潟沖の小島に我ありと、親には告よ八重の汐風(薩摩潟の沖にある小島に私はいると、親に伝えておくれ八重の潮風よ)。

 思ひやれしばしと思ふ旅だにも、猶ふるさとはこひしき物を(思いやっておくれ、ほんのしばらくの旅でも故郷は恋しいものだ。ましてやいつ帰れるかわからない状況で、どんなに心細いか)。


 これを浦に持て出て、「南無帰命頂礼、梵天帝釈、四大天王、けんらう地神、王城の鎮守諸大明神、殊には熊野権現、厳島大明神、せめては一本なり共、都へ伝てたべ。」とて、沖つ白波の、よせては帰る度毎に、卒塔婆を海にぞ浮かべける。

 卒塔婆を造出すに随て、海に入れければ、日数の積れば、卒塔婆の数もつもりけり。その思ふ心や便の風とも成たりけむ。又神明仏陀もや送らせ給ひけむ。千本の卒塔婆のなかに、一本、安芸国厳島の大明神の御前の渚に打ちあげたり。』




 信仰心のあつかった康頼は配流はいるにあたり、出家入道し、性照しょうしょうとあらためた。成経と康頼は京に住んでいる老母を偲び、二首の歌を千本の卒塔婆に書いて流したという。

 そのうちの一本が安芸国厳島へ流れ着いたとされているのだ。はるばる漂着した卒塔婆は都に運ばれ、これに心を打たれた平清盛が哀れに思い、康頼を赦免しゃめんしたと言われている。


 余談だが、鬼界ヶ島に俊寛だけを残して、康頼と成経が帰京するのは歌舞伎や能で、あまねく人口に膾炙かいしゃしている。理由は、俊寛は謀議の張本人ということから赦されなかったからだ。のちに俊寛は死を決意し、食を断ち自害。かたや、生還した二人はふたたび都で活躍することとなる。


 同罪ながら同じ遠流おんるの刑を受けても、その後の人生は天地の差があろう。それだけに、平曲を聴く者は運命の不条理さに涙をさそうのだという。

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