6.「無知ってのは怖いもんだ。勇気と無謀も紙一重さ」
時間はすでに二十二時をまわっていた。
夜の海は星のない宇宙そのものだ。光源は満月が放つ淡い燐光だけだけに、あまりにも非日常的すぎた。
海面はベタ凪に近く、あいかわらず潮騒も老婆が歌う子守歌のように眠気をさそった。
船は時速二十五ノット(約四十五キロメートル)で、LEDの作業灯をたよりに、黒いシーツを断ち切るように進んでいった。
本土からずいぶん離れたというのに、まだ泣瀬と卒塔婆島とやらは見えないてこない。
粂田は船首を陣取り、真っ暗な前方をにらんでいたが、かわり映えのしない景色に飽き、うしろをふり返った。
操舵室では、岡添が舵をあやつっている姿が見えた。
とても飲酒運転とは思えないほどの落ちつきだ。
梅野がそのかたわらで、先ほどの小心ぶりとは打って変わって、岡添と笑いをまじえながら話をしていた。
ガラス窓の向こうなので、会話の内容はわからない。
おおかた粂田がケツを割るか――いったん島へ置き去りにされたら逃げようがないのだが――、賭けでもしているのだろう。数本の指を立てているのが見えた。
港を出るまえから、すでにゲームの説明は受けていた。
難しい要素はない。たんに島で一夜を明かすだけだ。
島でなにが出るかは想像もつかないが――あるいは取り越し苦労ですむ可能性の方が高いのではないか――、どうにか恐怖に耐えるか、あるいは物理的に殴り倒せる相手なら叩きのめしてのり越えればいいだけだ。
島から泳いで本土にもどってくるなどの不正は認められない。
そもそも泣瀬を取り巻く海域は流れが速くて危険だし、仮に抜け出たとしてもいささか遠すぎた。
迎えは明朝七時に来るよう約束させた。
それから十分もすぎたころ、やがて泣瀬とおぼしき、広範囲の岩礁帯が見えてきた。
海の下にもギザギザの暗礁がひそんでいるため、土地勘がないと近づくのもためらうにちがいない。
遠くに、ひときわ眼をひく台形のシルエットが見えた。
夜目になれた眼には、夜空は藍色に近く、島影の方が墨をこぼしたように黒々と映った。
あれが卒塔婆島なのだろうか?
岡添はこなれた様子で岩礁帯の中心部へ船をすべりこませていった。
減速させたまま進むにしたがい、前方の台形の島が視界いっぱいに広がっていく。
夜空や海よりも黒く、舞台の緞帳のような規則正しい縦の襞が、かすかに見えた。
標高はいちばん高いところで八メートルほどながら、島の周囲はとっかかりすら見つからないほど切り立っていた。
木々はいっさい生えていない。人が住むには適しておらず、むろん人家の類はない。そもそもインフラの設備などが引かれているはずもないのだ。
ひと目見るなり、粂田は背中がそそけ立つ思いにかられた。
聞いたとおり、こんもりとした山頂には卒塔婆らしき木板がななめに傾いだ状態で突き刺さっているのが見えたからだ。
それもおびただしい数。華道の生け花に使う剣山もかくやと思われるほどの密集ぶりだ。なるほど、地元の人間が恐れをなして近寄りたがらないのもわかるような気がする。
いまさらながら粂田は、言い出しっぺの自分が、とんでもない過ちを犯したのではないかと思えてきた。
やがて船は島の左側面にまわった。断崖がゆるやかな部分があり、下は湾曲し、接岸するのにちょうどいい磯になっていた。
船を横づけし、エンジンを切った。
操舵室から二人が出てきた。
どうやらあとに退けなくなったようだ。粂田は腹をくくるしかなかった。
梅野が突き出た腹をさすりながら、満面の笑みをこぼし、
「おれはあんたが泣きを見るのに、五万賭けちゃったよ。根をあげるったって、このまま置いてけぼりにされたら、ギブアップしようがないんだけどね」と言い、尻ポケットからスマートフォンを出した。「なんだったら、ケータイで連絡くれたら迎えにきてやってもいいけど。……おっと。残念ながら、このへんは圏外みたいだ」と、これ見よがしにスマホの液晶画面を見せつけた。
「五万の臨時ボーナスがあれば」粂田はアロハシャツの胸をはだけさせて凄んだ。「美津子に黙って、ピンサロやソープへ行ったり、デリヘル呼んだあと、豪遊もありだな。ところがごあいにくさま。きっと泣きっ面にしてやるからよ。おれがその賭けに勝つからな」
「う」梅野は硬直した。が、すぐに気をとりなおし、「美津子……。おりゃあ、こればっかは治んないんだよ。これが男のサガなの!」
「反対におれは」と、岡添はあご髭をかきながら、「祝儀のつもりで、おまえさんが無事な方に賭けたよ。明日の朝、『屁とも思わなかったぜ』って、捨て台詞を吐くおまえさんの姿を期待してな」
「さすが、明日を担う漁協の幹部さんだけある。ぜひとも声援にこたえなくちゃな」
「未来の不帰浜を背負うかもしれん若手候補を、粗末にあつかうわけにはいくまいよ」
「謝花のじいさんは酔いつぶれちまったが、つぶれるまえなら、なんて応援の声をかけてくれたかな」
「賭けにはのらんだろうが……。あの人はお堅い人だからな」と、岡添はのろのろと言い、「代弁すればこうだ。――こうなった以上、おたがい引っこみがつかなくなった。おまえさんがひと晩、正気でいられるのを信じて待ってる、とでも言うんじゃないか。それと、けっして島から身を投げて死ぬんじゃないとも」
「は。自殺するなとはおおげさな」
「まんざら、そうでもないかもよ」
「おれならこんな挑戦、願いさげだね」さすがの梅野も卒塔婆島を見あげ、我と我が腕を抱いて言った。「卒塔婆島で夜をすごすなんて、考えただけでふるえがとまらないよ。おお、寒ッ。……岡やん、早いとこ、帰ろ。美津子がきっと心配してっから」
「焦りなさんな。せっかく遠出してきたんだ。もちっと、辛抱しろい」と、岡添はあきれたように言い、足もとに立てていた日本酒の一升瓶を粂田に手渡した。「これはおれからの餞別だ。持ってけ。夜は冷えるからな。どうせまだ入るクチなんだろ? ほかに要望はないか。かなえられる範囲でなら、聞いてやってもいいぞ」
「だったら、あそこの釣竿を貸してくれ。それに、ナイフと塩でもあればいいんだが」と、操舵室の壁に立てかけられた、遠投磯竿三号のカーボンロッドを指した。「ちょうどいい暇つぶしになるかもしれん。夜は長いしな。寝ずの番をするつもりだ」
岡添は口をOの字にあけ、感心した様子で、
「こいつは肝っ玉の太いことをやってくれそうだ。たのもしいかぎりだな」と、乾いた笑い声を立てた。
岡添は操舵室に入り、棚をごそごそやってから皮ケースにおさめられたナイフらしきもの取り出してきた。
それと望みどおり、小瓶に入った食卓塩も見つけた。それらと釣竿を粂田にゆずった。
ためしにナイフを抜いてみた。ブレードの形状はフラットで、ミラー仕あげになっており、ぎらりと月光をはね返した。
刃渡り八〇ミリを超え、たいした重さはなくとも掌にしっくりくる。ステンレス製だろう。切れ味とともに耐久性も信頼できそうだ。
「ナイフは護身用に、持ってりゃ安心するのはわかるとして、食卓塩はなんなのよ」と、梅野。
「酒の肴に舐めるのもいいんじゃないか」と、粂田はとぼけた。「さすがにツマミの類は持ってないんだろ。だったら、これで我慢するさ」
「磯釣りと言えば、おどかすつもりじゃないが」と、岡添が操舵室の壁に寄りかかりながら言った。「平成十年の夏の終わりに、よそから来た釣り客が渡船でこの島にあがって、夜釣りをしたことがあった――無知ってのは怖いもんだ。勇気と無謀も紙一重さ――。釣果はどれほどだったかまでは知らねえ。釣りの途中、仕掛けのつけかえのときに、うっかり小バサミを浅瀬に落っことしちまったらしい。手探りで海に突っこむと、手ごたえがあった。引きあげてみた。それはハサミなんかじゃない。なんと骨だ。ちょうど人間の大腿骨ぐらいのサイズの」
粂田はヒステリックに高笑いした。
「徹底的にビビらせにきたな。なんだそれ。ここに卒塔婆をおっ立ててるってことは、誰かを葬ってる場合もあるってことか? で、埋葬しきれなかった奴は、海に沈んでると? ずいぶんとにぎやかな場所だな。まさか島そのものが、不帰浜専用の墓地ってわけじゃねえよな。だとしても遠すぎる」
「墓地は、ちゃんと本土の集落のはずれにある。さっきも言ったように、卒塔婆そのものは不帰浜由来の伝説の名残りのはずだ。大昔の子鯨の霊を慰めるものだと、古い世代は言ったもんだ。もっとも、この釣り人の話とどういった関連があるかまでは知らねえがね。ためしに素もぐりしてみると、海底にはなぜか人骨がゴロゴロしてたって言う人もいる。なんにせよ、こんな怪談がころがってても、ふしぎじゃないんだ、ここは」
「そうだったな。泣瀬の鯨座礁伝説。ほんとうかどうか怪しい眉唾の伝説――」
「そろそろ引き返すか。お遊戯の時間のはじまりだ」岡添が梅野の肩を叩いて言い、粂田に向きなおった。「これより試合開始だ。どんな形であれ、ひと晩、健闘してくれ。コールドゲームなんてなしだぜ」
「あんたらはたがいに賭けてると言った」と、鳥の巣そこのけのアフロヘアーをかきながら、ゆっくりと言った。「おれがこの肝試しに勝ったら、どんな特典が得られるんだ、え? それを決めずして、フェアプレイとは言わせねえぜ」
「ですよね」と、梅野が舌を出した。
岡添がうなずいた。
「……もっともな意見だ。おれたちは自分勝手すぎた。そうとも、先に決めておく必要がある。おまえさんの勇気に免じて、なにか、くれてやるべきだ。――ちょっと待て。聞くまでもあるめえ。おまえさんがいっとう、欲しいものが読めた」
粂田は釣竿を肩にかついだまま、小首をかしげ、
「おおとも、漁協の正組合員よ。それも、ただちに。まどろっこしく、長年待つなんてごめんだ」
「おいでなすった」岡添は長い顔をほころばせ、手を打った。「……とくべつに認めよう。おまえさんがぶじ、卒塔婆島から生還したあかつきには、不帰浜の正組合員たる漁師として迎えると誓う。インチキはしない」
「約束だぜ。……となると梅野さん、なんとしても全力で、あんたの鼻を明かさなきゃならなくなった。悪いが、なけなしの小遣いは消えたも同然だ」
梅野は岡添の背後にかくれて強がった。
「明日の朝まで、その粋がりが続いてりゃいいけどね」
「引っこめよ、塁審」
「言うねえ。審判に暴言吐いたら退場処分にすっからな」
「この状況で、どこへ退場させるんだって?」
「まあまあまあまあ……」岡添が両手で制し、とりなした。「じゃあ、明日の朝七時に迎えにあがる。心配しなさんな。時間厳守の男だよ、おれは」と言い、背中を向けかけた。ふり向いて、「まさか、これがおまえさんを見た最後の姿になった……なーんてことが、なければいいが」
「怖気づくのは、あんたらばかりだったりしてな。迷信に縛られて、思考停止してるだけで、毎回毎回ナニが出るもんか。えてして、幽霊の正体見たり枯れ尾花だったりするもんさ。……ま、なんにせよ、いろんな意味で、期待にそえるよう頑張ってみせるさ」
岡添は快活に笑い、
「せいぜいうまくやってくれ。それじゃ、おれたちは撤収だ。あばよ」と、手をふった。
粂田が卒塔婆島におり立つと、漁船は島の真横をかすめ、暗礁を避けながらもと来た方角へ去っていった。
蛍のようなLEDの作業灯の光が遠ざかり、闇に溶けこむまで十分とかからなかった。
粂田は最後まで見送ることなく、なだらかな傾斜を選びながら島の頂上めざしてのぼった。




