4.不帰浜由来である座頭鯨の座礁伝説と卒塔婆島について
いまでこそ山陰の、都市部から見捨てられたような不帰浜は、かつて豊漁時は活気に満ちあふれ、出稼ぎ労働者や行商が出入りし、御殿を建てた地元漁師もめずらしくなかった。
天正十三(一五八五)年、羽柴秀吉が天下平定の拠点として大坂城を築城した春、前年に従三位に叙されてからわずか四ヶ月で内大臣にのぼったばかりのころ――。
当時、不帰浜はまだ名もなき漁師の共同体にすぎなかった。その年の秋口、泣瀬に鯨が座礁したとの連絡が入った。
泣瀬とは、現不帰浜と掠里集落の漁場の境界線上にあり、文字どおり漁師泣かせの瀬のことだ。暗礁が多いのが難点ながら、周辺で魚群が異常に湧くことがあり、二村はこの漁場を拠点に魚を獲りあっていた。
座頭鯨が座礁した知らせが舞い込み、村は色めき立った。
若者五十六人が船にのり込み、勇んで漁場へ向かった。ここでも捕鯨業は確立されており、その技術を伝えたのが伊勢湾の熊野水軍をはじめとする各地の水軍・海賊出身者たちであった。
当時から寄り鯨の到来で七浦が潤うともいわれ、恵比寿神が身を挺して、住民に恵みをもたらしてくれると信じられていた。
泣瀬につくと、そこには親子鯨が難渋していた。子鯨が座礁して、息も絶え絶えになっており、母鯨とおぼしき親は浅瀬を離れ、どうすることもできず遠巻きに見守っていた。
子連れの鯨を捕獲するには、まず子供からしとめるにかぎるとされている。というのも、母鯨は一度は逃げたとしても、母性本能から我が子を救おうと子鯨のまわりをグルグルまわる習性があるからだ。そんなときの母鯨はたやすくしとめれられるのだ。
その習わしにのっとり、情け容赦なく子鯨に銛が打ちこまれ、ほどなく絶命した。
子供を殺された母鯨は暴れに暴れた。
若者たちの血気盛んなこと。母鯨にも無数の銛が突き立てられた。裁縫道具の針山さながら打ちこまれても、息の根をとめることはできない。
鯨の眼は憤怒に燃えていた。
巨体を叩きつけ、次々勢子船や双海船を粉砕し、凍てつく海中に水主を放り込んだ。鯨は死を呼ぶ荒神のように猛威をふるい、結局子連れ鯨を捕えるいつもの事例とはちがい、包囲網を突破され、沖へ逃げられてしまった。
のちにその背中に、一文字の梵字が、まるで家紋のように入っていたと証言する水主もいたというが、神秘性を高めるための後付けの話である線が強いという。
生き残った水主は、どうにか子鯨だけでもと浜へ引っ張った。ところが途中海が荒れ狂い、子鯨もろとも船はことごとく波に飲み込まれた。親父船すら例外ではなく、誰も生還することはなかった。
以来、この漁村を戒めをこめて『不帰浜』と呼ぶようになった。
そののち、泣瀬のなかほどにある無人島に誰かが卒塔婆を立てるようになった。子鯨を供養するためのものであるというが、諸説があり、推測の域を脱していない。現在でも真新しい卒塔婆が定期的に立てられているという。
子鯨が捕殺された命日は文献に残されておらず、卒塔婆が立てられる日も気まぐれらしく、誰がそこへ運んで立てているか、見た者はいない。待ち伏せしてまで目撃しようとする物好きも不帰浜にはいず、村のちょっとした怪談話のひとつとして語り継がれている。
いずれにせよ、卒塔婆で埋め尽くされたその島を、いつしか人は卒塔婆島と呼ぶようになった。
無数の木板が刺さったそのこんもりした島の外観は、奇しくも銛を突き立てられた子鯨のように見えるという。




