15.置き去りにされた女たち
すでに三時をまわっていた。
夜が明けるまであと三時間もあるまい。
どうにかそれまで耐えしのがなければ。
小屋のなかで粂田は寝そべると、眼をつぶった。
このまま心穏やかに眠りにつけたら御の字だが、神経が高ぶっているいまは、とても寝つけるものではない。
奇怪な六本腕の化け物は出るわ、古い時代の男たち――掠里の住人たちと不帰浜の網元――も出るわで、これにくわえて別のものも姿を見せる可能性もあったが、現れたとしてもこちらから干渉すべきではない。
これ以上、面倒に巻きこまれるのはごめんだ。
こうなったら狸寝入りを決め込み、日の出まで関わらないに越したことはない。
厄介ごとはやりすごすのが一番。いままでは、ちょっかいを出しすぎたゆえに、えらい目にあっただけだ。
――と思ったのもつかの間、女たちのうめき声が聞こえてきた。
どうやらわずかな睡眠さえゆるさないほど、卒塔婆島の怪異は追加サービスの盛りだくさんで攻めてくるらしい。
声は懊悩し、怨みを訴え、末期的な絶望の底から放たれるかのようだ。巫女である老女の集団のものだろう。
北の方角から聞こえ、いまだ絶壁をよじのぼっているらしく、いぜん距離は感じる。
「聞こえない、聞こえない、あー、聞こえない……。おれの知ったこっちゃねえや」
と、粂田はつぶやきながら耳をふさいで、身体をエビのようにまるめ、外界からの刺激をしめ出した。
あいつらはおれに干渉できない、と強く念じた。
老女たちは、無情にも儀兵衛たちの奸計にあい、島に置き去りにされた。
しょせんはさまよえる無念の残滓と変わり果てたにすぎず、儀兵衛たちのパターンとは異なる、と決めつけた。
だからおれの姿は見つけられないはずだ。
粂田の度胸はここにきて本来の太さを取り戻していた。
儀兵衛と真剣勝負し、なんとか退けていたし、もはやどうにでもなれといった心境だった。
こうなったら現実逃避するしかない。
強く眼をつぶり、劣情をもよおすような女体を思い描いた。
淫らな身体をくねらせ、粂田を誘惑するように股を開く女を想像した。
もはや強引に空想のなかで女を抱くことによって苦痛の時間をやりすごし、それがリラックス効果を生めば、あわよくば眠りにつながるかもしれないと考えたのだ。
闇のなかで、ほんのり汗をかいたしなやかな肢体の顔がしだいに像を結んでいった。
それは見憶えのある女の顔だ。
芝崎組長の姐である千景だった。――かつて、銀座クラブ『鷹島』でナンバーワンの座を射止めたことがあるマブい女。
組長に頼まれて、千景を店まで送迎したことがあった。
何度か車内で言葉を交わしているうちに、いつしか心が通じあい、身体まで重ねる関係になっていた。
どちらからというわけではない。強引でもない。
川の流れを堰き止められないように、流されるがままそんな仲になってしまったのだ。
他人の女を寝取ることを業会用語では、いわゆる豆泥棒といった。豆がなにを意味するかは言わずもがなだ。
組長に露見すれば、永久絶縁処分である赤字破門は必定だ。
それ以前に、なんらかのおとしまえをつけなければおさまりがつくまい。
芝崎組長は千景と籍を入れて、一年目のこともあり、ぞっこんだった。
それを寝取ったとなると、いったん暴走すると手がつけられない激情型の芝崎の性分からして、どんな制裁がくわえられるか予想もつかない。
さっさとやくざから足を洗い、ほうほうの体で逃げた。
侠気もくそもなかった。
泣く泣く千景を突き放した。
その千景とは縁を切ったつもりでいたが、いまだ粂田の心にしがみついていたとは。
夢想のなかの裸体の千景は粂田を誘惑した。
粂田は千景の頬を触ろうとした。
艶然と微笑む女。
この空想もまんざらではあるまい。千景はあたかもそこにいるかのように像を結んでいる。
と、そのときだった。
小屋がガタリと揺れたので現実に引き戻された。
たちまち飛び起きた。
粂田は眼をむいた。
むき出しの入り口に、白い着物姿の老女の一人が立ちふさがっていた。
月明かりを受け、なかば影絵となっていたが、まぎれもない、死人の顔であることが判別できた。
老女は割れ目のような唇をがくがくさせながら、こう言った。
「やっと見つけたよ……。こんなところにかくれていたなんてねえ。さみしかったんだ、あたしたちは」
粂田はカラスみたいな悲鳴をあげ、小屋の壁に張りついた。
首筋に生温かい吐息を吹きかけられたような気がして、ふり返った。
卒塔婆で組み合わされた壁や天井のすき間には、ほかの老女たちが覗き込んでいた。
瞳孔のない白い眼を見開き、口々に、
「いた……。まるでヤドカリじゃないかい。内弁慶だこと」
「よくもわたしたちを見捨てたね……あなたも苦しめばいいさ」
「お願い……。わたしたちをなかに入れておくれ。後生だからもう殺さないで」
「ゆるさない。呪ってやるから。頭からかじってしまいたい。脳みそを吸い尽くしてあげる」
「飢え死にしそうなんだ……。誰でもいいから食べ物をちょうだい。その眼がほしい。眼をペロペロしゃぶりたい」
と、言った。
粂田の一物は瞬時にシシトウのように縮んだ。
臆面もなく醜態をさらし、女の子みたいに内股であとずさり、首をふっていやいやをした。
入り口にいた面妖な老女が腹這いになり、粂田に近づいてきた。
両眼は真っ白で、赤い毛細血管だけが血走っていた。
盲目なのか、粂田の居場所を特定できない。両手で地べたをまさぐり、アナグマみたいに鼻をひくつかせ這いよってきた。
「隠れても無駄だよ。追いつめたから。お尻の穴から内臓を引きずり出してあげるよう」
と、寒気をもよおすしゃがれ声を出し、歯のない口をすぼめ、にやりと笑い、舌なめずりした。
「こんちくしょう、あっちに行きやがれ、死にぞこないが!」粂田は裏声でわめいた。とっさに手探りで仕込み杖をつかんだ。「いてこますぞ、クソばばどもが!」
あまりに耐えがたい恐怖もあったが、粂田の場合ふりきれると、とんでもない行動に出た。
むしょうに腹が立ってきたのだ。
小屋のなかですっくと立ちあがった。
二メートル近くある長身が直立すると、たやすく天井を突き破り、反動で四方の壁までもが倒壊した。
卒塔婆小屋は、まるで蓮の花が咲いたような状態になった。
杖の鞘を抜き放つと、両手にかまえた。
「さあこい、妖怪どもめが! かたっぱしから蹴散らしたる!」
粂田はあたりに睨みを利かせた。
なんてことだ。九人の老女はなかった。
周囲を見わたしたが、死人の姿はかき消されていた。
遠くで波頭が砕ける音。
濃い潮の香りが鼻腔をさし、青白い月明かりが清澄な視界をクリアにしている。
背後をふり向けば、卒塔婆が林立し、うらぶれた寂寥感が取り巻いているだけだ。
卒塔婆同士が折り重なり、風にあおられるカタカタという音がうつろに響いていた。
その向こうは天鵞絨をたらしたかのような闇が落ちていた。
「なんなんだよ、またお得意のハッタリってか」
粂田は足もとの卒塔婆を乱暴にどけた。
倒れた卒塔婆が邪魔になって見えなかったが、目のまえにはチヌを焼いたかまどがあった。
途中で食べるのをやめた焼き魚に、巨体を誇る異様な生き物がむしゃぶりついているのが見えた。
甲殻類じみた頭部の先端にあるクワガタ然としたあごを咀嚼させていた。
「うおッ! なんじゃこりゃ?」
粂田は絶叫しながら尻餅をついた。
尻に卒塔婆の先端が食いこんだが、痛みよりも、眼前いっぱいに広がる気味悪さの方が勝った。
チヌを食べているのは、おぞましい物体だった。
体長三メートルはあろうかと思われる巨大なフナムシが、もぞもぞと残飯処理をしていたのだ。
どこをどう見てもフナムシのお化けだった。
アルビノなのか、白っぽい体色をしていた。扁平な身体に、十以上もの体節がわかれ、脚はぜんぶで十四本あった。
ひときわ長い触覚が、まちがいなく昆虫であることを裏付けていた。見てくれは巨大なダンゴムシといった風情だ。
ただし、その脚は虫特有の構造をしていない。青い静脈が走った人間の二の腕だった。それぞれの先端には掌がついていた。骨ばった手はがっしと地面をとらえ、砂地を歩くのに適しているように思えた。
いまはチヌの食いかけをまさぐり、いやしく口に運んでいた。見るもおぞましい姿だった。
思わず粂田は口もとを押さえなければならないほど、吐き気を催させた。
それはいやしくも餓えたように魚をむさぼり食らい、すっかりたいらげると、粂田に向きなおった。
なんの感情もあらわしていない黒い複眼が巨大なアフロをとらえた。前肢の先端の五指をくわっと開き、爪を立てた。今度はおまえの番だというわけだ。
巨大フナムシは卒塔婆を蹴散らしながら、除雪車みたいに突っ込んできた。
粂田は右に跳んで転がってかわした。
ふり向きざま、仕込み刀を逆手に持ち、その醜い背中に突き立てた。
切っ先は背中の体表をすべった。亀の甲羅のように硬いわけではないが、突き立てるにはフナムシじたい動きがすばやく、致命傷を与えるのは至難の業だ。
フナムシはくるりと向きなおり、また粂田に体当たりしてきた。
月明かりのなかでは、巨大な生ける藁草鞋といったフォルムだ。見ているだけで頭の毛がハリネズミのように逆立ちそうだ。
粂田は意を決すると、真上に飛び、フナムシの背中にのった。
馬のりになり、体節のすき間めがけて刀の切っ先をねじ込んだ。
柄に掌をかけ、ぐりぐりとこねくった。
たっぷり傷口を広げたあと、撫で斬りにする。
たちまちフナムシは巨体を持ちあげて、棹立ちになった。
耳を覆いたくなるような、老若男女の断末魔をミックスしたような声で鳴いた。
――これでわかった。
断じてこいつは不死の怪物などではない。ちゃんと弱点をもった有機生命体にすぎないのだ。
背中の切り口から、黒いマシンオイルみたいな体液がほとばしり、不吉な複眼が粂田を睨みあげた。
十四本の老女たちの腕があべこべに動き、節くれだった手が爪を立てた。
粂田はフナムシの背中からおりると、すかさずまわりこみ、腹を蹴りつけた。虫はだらしなくひっくり返り、揺り椅子よろしく前後に揺れた。
「おおッ?」粂田は思わずたじろいた。
驚くべきことにフナムシの白い腹には、いくつもの老女たちの顔が浮き出ていた。どれもが苦悶の表情で粂田を恨めし気にねめつけてくる。
そのなかの中央に、なんとあの女の面貌までもが混ざっていた。
――千景その人にほかならない。白目をむき、酸素不足のグッピーのように口をあけ、舌を突き出していた。人相は見るも無残に変わり果てていたが、まちがいなくかつて惚れた女だった。
思えば、おれでさえこの老女たち同様、千景を置き去りにしたも同然ではないか。
この島は過去の歴史を再現し、いつまでも無念の残滓をとどめているのだ。
のみならず、おれの心の芯にまで食い込み、瘡蓋をはぐように後ろめたい感情を現出させた内省の島なのだ。
夜ごと、怨嗟と絶望の環をエンドレスでくり返してきたにちがいない。