巣立ち③
『元気な赤ちゃんを産みましょうね。』
ディアと私の約束。
伯爵家という貴族の中でも高位の家に生まれた私には、純粋に友達だと言える人などいなかった。
幼い頃から貴族としての生き方を教えられ、気が付けば常に人の心の裏を読むようになっていたから、気を許せる友達など作れるはずもなく、またそれで良いと思っていた。
伯爵家に生まれた者の運命だと。
人より優秀になるには友達と遊んでいる暇などないと。
心を許すことは隙を見せることだと。
そう思って生きてきた。
そんな私に友人ができるなんて思っても見なかった。
ディア。初めての友人。
私の夫の子供を身籠もった元女中見習いだが、今では年の離れた妹の様にさえ感じている。
そんなディアと過ごす日々はとても楽しいものだった。
たわいもない話で笑い合い、未来への希望を語り合った。
一緒に子供の名前を考え、まだ見ぬ我が子に夢を膨らませた。
楽しい日々はあっという間に過ぎ、出産の時期が近付くとディアの表情にも不安の色が見え隠れするようになった。
「アメリア様、この子は無事に産まれてきてくれるでしょうか。」
ディアにとっては初めての出産だ。期待も不安もあるだろう。恐怖もあるかも知れない。
私はディアを勇気づける様に優しく手を握り、微笑む。
「大丈夫ですよ、ディア。きっと上手くいくわ。」
大丈夫、準備は万全だ。付き合いのある助産士にも来てもらってるし、女中たちにも待機してもらっている。
ディアの体調も良いし、上手くいかない訳がない。
でもこの不安は何だろう?
いや大丈夫だ。無事に産まれてきてくれるはずだ…。
きっとディアの不安や緊張が移ったのだろう…。
私が不安になってどうするのよ。しっかりしなさい。
そう自分を叱っていると、助産士のロム婆さんが声をかけてきた。
「奥方様、ディア様の出産が始まりそうですじゃ。」
そろそろディアの出産が始まるらしい。
頑張れディア!
「ああああ〰〰〰。」
ディアが叫びをあげる。
女の、いや母親の戦いが始まった。
「あああああああ〰〰〰。」
ディアが常にない力で私の手を握ってくる。
初めての痛みに負けないように。
孤独に心が折れてしまわないように。
誰だって初めての事には恐怖がつきまとうし、一人で成そうとすれば無理だと挫折する事もあるかもしれない。
そんな時こそ支えてくれる誰かが必要なのだ。
ましてやディアの出産は誰にも望まれず、祝福もされないだろう。
その恐怖はどれほどだろうか。
分からない。私には想像する事しか出来ないが、それはとても恐ろしく、ひどく寂しい事だと思う。
だったら私は、せめて私くらいはディアの味方でいよう。
私はディアの手を強く握り返す。
私はここにいるよと、頑張れ!と想いを込めて。
「ディア、目を開けてこっちを見て。」
「?」
ディアが不安そうに私を見る。
「そんなに緊張しないで。怖がらなくていいのよ。私はそばにいるから安心して産みなさい。」
ディアの顔に笑顔が戻り、体から無駄な力が抜けたことが分かる。少しは普段のディアに戻れたようだ。
良かった。先ほど感じた不安は…。
やっぱりディアから移ったのだろう…。
ディアが頑張る。
どれだけ時間がたっただろうか。
まだ産声は聞こえない。
私は励ます。
頑張れ!頑張れ!頑張れっ!
まだ産声は聞こえない。
ディアの出産は思った以上に難産になった。
ディアの年齢は14歳。子供が出来る体になったとしても成熟したとは言い難い。
若く体力もあると言っても、初めての出産でその消耗は激しいし、長時間の出産で赤ちゃんの体力も心配だ。
私は祈る。それしか出来ない。
どうか神様、二人が無事でありますように。
ディアの叫び声が聞こえる。
私は祈る。祈らずにはいられない。
どうか神様、ディアが無事でありますように…
時間の感覚も曖昧になり始めた頃、握りしめていたディアの手から力が抜けたのが分かった。
ハッとして顔を上げると、そこには疲れきりながらも微笑むディアの顔があった。
遅れて私の耳に赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。
「ディア…」
私は喜びと安堵で涙が溢れディアを抱きしめる。
「おめでとう、ディア。よく頑張ったわ!」
「ありがとうございます。私の赤ちゃんなんですね…。無事に産まれて良かった…。アメリア様、私なんか凄く疲れちゃいました…。」
「無理もありませんわ。初めての出産ですもの。今はゆっくり休みなさい。」
「はい…。」
そう言うとディアはすぐに眠りについた。
「おめでとう…。」
眠るディアにもう一度声をかけ、額の汗を拭いてあげる。
10時間以上にも渡る出産だった。相当に疲れているだろう。
それにしても、二人とも無事で本当に良かった…。
ロム婆さんと女中たちに赤ちゃんの世話や片付けを任せ、私も部屋に戻る。
「うっ…。」
陣痛がきた。私の出産もそろそろかもしれない。
今日は私も疲れた…。ゆっくり休んで出産に備えよう。
そして、ディアの出産から3日後に私は元気な女の子を産んだ。名前はルリシアと名付けた。
眠りから目覚めて真っ先に向かうのはルリシアの所、その後にディアのもとに向かう。
出産後のディアの体調は優れない。医術士に見てもらったが原因は分からず、出産の疲れによるものだろうと言われた。それでもディアは幸せそうだった。
ディアの赤ちゃんはルークスと名付けられた。瞳の色は彼女と同じ黒色でとても綺麗だ。
ディアはベッドに腰掛けてルークスを抱き、時にあやし、時に笑わせ、時に語りかけて一日を過ごす。
そして夜は死んだように眠るのだ。
何でもない日常を過ごす事すら今の彼女には命懸けであるように見える。
だからこそだろうか、今の彼女はとても美しく、とても幸せそうだ。
やがて1年が過ぎると、ディアはベッドから起き上がる事も出来なくなった。
原因は未だに分からず、私はあちこちの医術士を呼び、あらゆる薬を試したが効果は無かった。
日々衰弱していくディアを見るのは辛く苦しかった。
ある日の朝、眠るディアの手を握っていると彼女が私の手を握り返してきた。
「……ア…。」
ディアが声を出そうとするが、長い間使っていなかった喉はその機能を忘れてしまっている様だ。
必死に口を動かし、声を出そうとする。
私は一言も逃さぬ様に耳をかたむける。
「アメリアザマ、ルーグズヲ、ヨロジグオネガイジマズ」
ひどくかすれていたが、力の籠もった声だった。
「任せなさい…。」
何とか返事を返したが、私は涙を堪える事が出来なかった。
顔を伏せ涙を流す私の頭をディアが優しく撫でる。
私は号泣し、涙が枯れるまで泣き続けた。
翌日、ディアは永遠の眠りについた。
それはもう安らかな寝顔だった。
涙は出なかった。
彼女との思い出と約束が私を支えていた。
───育ての母が語る本当の母の話。
15歳という若さで亡くなった彼女は幸せだったのだろうか。
そんなことを最初に思ってしまった。
今の僕とそう歳も変わらない女の子が僕を産んでくれた。まさしく命を掛けて産んでくれたのだ。
ふと昨日見た夢を思い出す。あの女の子は僕の母親だったのかも知れない。
あの幸せそうな顔を思い出す。
あの優しい歌声を思い出す。
単なる夢の話だ。あの女の子が僕の母親だと確かめる方法は無い。偶然夢に出てきた知らない女の子を勝手に母親だと思いたいだけなのかも知れない。
「母様、母は…ディアさんは僕を産んで幸せだったでしょうか?僕を産んだせいでディアさんは…。」
彼女は幸せだったのだろうか。後悔していたのではないだろうか。そんな不安が押し寄せる。
「…ディアは幸せでした。あなたが産まれたとき彼女は本当に喜んでいましたよ。あなたを抱いている時のディアは、それはもう幸せそうな顔をしていました。」
それは、生まれて初めて聞く祝福の言葉だった。
誰もが僕の誕生を疎み、拒絶し見ないようにしていると思っていた。
『産まれてきてくれてありがとう。』
──そう聞こえた気がした。
「ルークス、今更かも知れませんが私はあなたに謝らなければなりません。」
唐突に母様が謝ってきた。どうしたのだろうか。
「母様?」
「もう少し早く話をするべきでした…。私があなたを避け続けたばかりに、あなたには長い間辛い日々を送らせてしまいました。心のどこかでディアの死の原因をあなたに押し付けていたのかも知れません。私は愚かで弱い人間です。ディアとの約束も守れなかった──。ごめんなさい…。」
そう言って母様は泣き崩れた。
あまりの光景に僕は言葉を失う。
初めて見る母様の涙、後悔の吐露であった。
泣き続ける母様を見ながら、僕はこれまでの日々を思い出していた。誰にも相手にされない寂しい日々だったのは間違いない。
でも、温かい食事が出ない日は無かった。
凍える日に服を与えられない事は無かった。
暗く寂しい夜に潜り込むベッドと布団があった。
具合の悪い日には、枕元に食事が用意されていたし、誰かがずっと側にいてくれた気がする。
こんな事を今更になって思い出す。
家族を恨み自分だけが不幸だと思っている間は、全く気付かなかった幸せな日々を僕は当然のように送っていたのだ。
「母様、どうか泣かないで下さい。」
「あなたも泣いているではないですか。」
「そうですね。泣きたいときは泣きましょう。」
「ふふっ」
母様が微かに笑ってくれた。
「母様、確かに僕は寂しく辛い日々を過ごしてきましたが、不幸ではなかったと今分かりました。食事の時、よく僕の方を見てましたね。僕が寝込んだ時に看病してくれたのは母様ですね?どんなに僕を避けてもずっと見守ってくれていた事にやっと気付きました。」
「母様が僕を避けていたのと同じように、臆病な僕は母様に近づくことを諦めていました。おあいこですね。」
母様、今なら言えます。
「僕は母様の家族になれて本当に良かった──。」
「ルークス!」
母様が僕を抱きしめる。
僕も静かに抱きしめ返す。
「母様と呼べるのも今日で最後ですね。」
母様がより強く抱きしめてきた。
「僕は立派な兵士になって民を、そして家族を守る盾となり剣になります。どうか見守っていて下さい。」
「ええ。」
「母様、いつまでもお元気で。」
抱擁を解いた母様の顔には、いつもの凛々しさが戻っていた。
「ルークス、この剣を持って行きなさい。」
「これは?」
「伯爵家に伝わる宝剣です。」
「そんなもの!」
「持って行きなさい。」
その言葉には有無を言わせない強制力があった。
剣を手に取るとずしりとした重みが伝わってくる。
片手直剣で刀身の幅は細く細剣の様でもある。
宝剣と言うわりには装飾など無く、戦闘用の剣の様だ。
「その剣の名は【夜明けの剣】(デイブレイカー)と言います。きっとあなたの力になるでしょう。」
「ありがたく使わせていただきます。」
まだ僕には使いこなせそうにないな。
まずはこの剣を自在に振れるような強靭な体作りから始めよう。
「では、行って参ります、アメリア様。」
「いってらっしゃい、ルークス。」
こうして僕はオルトラント家の名を捨て、ただの平民の一兵士としての道を踏み出した。
──後に待つ血と泥にまみれた戦場の世界など想像すら出来ず、王国の守護者の一員になるのだと、その時の僕は精一杯の決意を胸に宿していた。