巣立ち②
第一章 巣立ち②
少し夢中になりすぎた。
止めどなく溢れる汗が服に吸い込まれ、肌に貼り付く不快な感触と妙な冷たさが気持ち悪い。
早く汗を流したい。とは思うものの、この家で僕の世話をしてくれる人なんていない。貴族の家に生まれたといっても、家族の誰もが僕を無視すれば使用人だって僕と関わろうとしないのは分かっている…。
もう慣れたことだ…。
浴場に入ると服を脱ぎ捨て湯浴みの準備をする。
一人で入るには大きすぎる湯船からお湯をくむ。お湯?
冷たい…。
そっかー。まだ湯浴みの時間には早いからお湯を沸かしてないのか…。
もちろんお湯の沸かし方なんて知らない。いつもは家族の皆が使った後に入っていたから忘れていた…。
「……。」
高そうな瓶にくんだ水を勢いよくかぶる。
冷てぇぇぇ。
ふぅぅ。こんなことで泣いたりなんてしない…。
さっきまで剣を振っていたせいで高揚していた気持ちが静まってちょうど良いじゃないか。
今が春で良かった…。真冬だったら寒すぎて水浴びなんて出来なかったよ…。
汗を流してさっぱりしたところでふと前を見ると、大きな鏡に自分の姿が映っている。
身長はそんなに高い方ではないが、毎日剣を振っていたためか体には無駄な脂肪はなく引き締まっている。
父様の太った体を思い出し将来の自分の姿に身震いする。
体をさすりながら鏡に近付くと自分の顔がよく見えた。
これでも一応貴族の血を引いているのか顔立ちは悪くないように思える。ただ髪の色は濁った金色のようで所々黒い髪の毛が見える。これはこれでありかな。瞳の色は透き通るような綺麗な黒で、時おり射し込む光の反射でキラキラと輝く様は星空を連想させる。
と、自分のことをまるで美少年のように語ったが、実際のところ母様との違いに愕然とした…。
こうでも思わなきゃ自分が嫌いになりそうだった。
父様も母様も鮮やかな金髪だし、父様の瞳の色はよく覚えていないが黒ではなかったと思う。母様の瞳の色にいたっては間違いなく金色だった。食事の時によく目が合うから覚えてる。まじまじと自分の顔を見ていたら両親のどちらとも似ていない気がしてくる。父様のような鋭い目つきはしてないし、母様のように優雅さの滲み出るような整った顔立ちもしていない。
背筋が凍り付き、言い知れぬ不安が黒い靄となって心にたまり始める。
今更だ…。今更、母様との違いを確認したってどうしようもない。どっちにしろ明日にはオルトラント家の名を捨て、兵士になるんだし考えても仕方ないことだ。
そう自分を慰めていると、また体を震わせる。
「へぶしっ…。」
それはそうだ。水浴びをした後に長い間裸で突っ立ってれば体も震えるさ…。
「フッ…。」
渇いた笑いを一つこぼして浴場を出る。
夕食を摂る気分でもなくなった僕は、水滴を拭き着替えを済ませると真っ直ぐに寝室へと向かった。沈んだ気持を引きずりながら。
自分の部屋にたどり着くと扉を開け中に入る。真っ暗な部屋を進みベッドに倒れ込む。今日一日の疲れが出たのか瞼を開けていられない。
眠る時だけが全てを忘れさせてくれる幸せな時間だ…。
いつの間にか、静かな寝息だけが聞こえていた。
──夢を見ていた。
黒髪黒目の可愛らしい女の子が見える。
誰だろうか?
彼女は優しい眼差しで僕を見下ろし話しかけている様だ。
よく聞こえない。
夢の中の僕に耳を澄ませと念を送る。
…歌だ。心の不安を取り除いてくれる様な優しい優しい歌が聞こえる。
夢の中の僕は安心したのか瞼を閉じ始める。
僕もまた深い眠りへと落ちていく。
淡い微睡みから目覚めると部屋には明かりが差し込み、太陽の光に溢れていた。ベッドから体を起こし、寝ぼけた意識を覚醒させるとある違和感に気付いた。顔に涙の後がある。寝ている間に泣いていたようだ。夢で聞いた歌のせいで鈍らせていた感情が無意識に戻ったのかも知れない。悪夢以外の夢を見るのは久しぶりだった。
よし、とベッドから立ち上がり窓に近づく。昨日の鬱屈とした気持ちなど知らんと言わんばかりに輝く朝日を見上げ、母様との対面に気持ちを引き締める。
今日、家を出よう。鞄に着替えを入れれば身支度は整った。
今の時間なら母様はもう仕事中だろう。ここオルトラント伯爵領が領地として上手く運営されているのは母様の手腕によるところが大きいだろう。元々オルトラント伯爵家の血を継ぐのは母様で父様はただの婿に過ぎない。政務をないがしろにする理由にはならないが、その能力で勝てるはずもないだろう。
母様の執務室に着いた…。
怖い。足が震える。何を話せば良いんだろう…。
やっぱりやめようかなぁ…。
でも一言の挨拶もしないで去るのもどうなんだろう?
躊躇い、葛藤、逡巡を押し込め、扉をノックした。
「……。」
反応がない。いないのかなぁ?
失望と安堵が混ざり合い諦めようと踵を返した時、凜とした声が室内からかけられた。
「お入りなさい。」
心臓が跳ね上がる。扉越しでもドキッとした…。
「失礼いたします。」
母様の声を聞くのはいつ以来だろうか…。そんなことを考えながら、緊張と恐怖で強張る表情を繕い、震える体を隠して母様の前に立つ。
「今日、家を出ようと思います。最後に挨拶にと思い参りました。」
母様はどんな反応をするだろうか?喜ぶだろうか?少しは悲しむだろうか?寂しがるだろうか?
「…そうですか。」
それ、だけ?
そう思い母様の顔を見る。
母様がしっかりと僕を見ていた。その瞳には記憶の中にあるような嫌悪感はなく、温かさすら感じる。
最後だからですか?だからそんなにも優しい目で見るのですか?そう問いかけたくなる。
そして、どうしても尋ねたい事が一つ。
挨拶だけと思っていたが心に残るわだかまりが棘のように鈍い痛みを感じさせる。
答えは分かっていても、母様の口から聞いておきたかった。
「母様。僕は母様の本当の子供ではないのですか?」
一瞬母様から動揺の気配が漂う。それはすぐに貴族の衣の奥に隠されたが確かに感じた。
「…ええ。あなたの母親はわたくしではありません。」
再び聞かされる真実に動揺はしない。分かっていたから。でも悲しいと思うことは止められなかった。
「あなたの母親はこの家に仕える女中見習いでした。」
母様が静かに語りだす。
僕の本当の母親の話を。
周囲を明るくさせる元気な少女の話を。
真面目で一生懸命な少女の話を。
太陽のような暖かな母親の話を。
「彼女があなたを身籠もったのは14歳の頃でした。」
その少女は、どこで調べたのか自分に子供が出来たことを知るとすぐに母様に全てを打ち明けたそうだ。
父様の寵愛をうけていたこと。
その子供を孕んでしまったこと。
そして懇願したそうだ。
『どうか、どうかこの子だけはお救いください!』
自分はどうなってもいい。お腹の子供の事だけを願った言葉だった。自らの罪深さを理解しつつも赦しをこう訳でもなく、ただ一途に子供を想う気迫に伯爵家に生まれた私が気圧されていた。
最初にその事実を聞いたときは動揺し、怒りや悲しみがわき上がったが同時にあり得ると納得もした。
目の前の娘には未成熟であるが故の、可憐で清廉で元気溢れる魅力があった。その行為が過ちであることに違いはないが、この娘に惹かれたあの人の気持ちも理解できる。
だが、だがしかし理解できても赦せない事はある。
最早私はあの人を心から愛する事は出来ないし信頼する事もないだろう。
心の整理がつき目の前を見ると、未だに跪き頭を下げる娘が目に入る。
この娘も不憫な娘だ。
好きでもない男に女にさせられ、好きでもない男の子供を孕むなど…。
「顔をお上げなさい。」
目が合う。
その瞳には後悔も懺悔も迷いすらもなく、覚悟と希望が映っていた。
「私があなたを害さないと思っているのですか?」
娘は無言で見つめ返してきた。
「はぁ。どうしてそこまで子を産みたがるのです。あの人を愛してしまいましたか?」
よもや二回り程も年の離れた男を愛するとは思えないが、この娘の覚悟の理由が知りたかった。
「…旦那様を愛してはおりません。でもこの子の事は誰よりも愛しています!」
「産まれてくる命に罪はありません!その命には生きる権利があると思います!皆生きたいと願って産まれてくるのです!生を願わぬ命などありはしません!」
「初めて命の重さというものを感じました。どくん、どくんと脈打つ度に生きたい、生きたいと聞こえるのです。今、この子の願いを叶えてあげられるのは世界中で私だけ、母親である私だけです!」
「でも…私はまだ子供でこの子を守ってあげることができません。だから、だからどうかこの子の命をお救いください!」
私は無言で娘の言葉を聞き、思いを受け取る。
理由など知れたことだった。
我が子を想う母の愛である。
これ以上の理由などありはしない。
目の前に跪き私を見上げる娘は、もう立派な女性の、いや母親の顔をしていた。
ここにきて私に新たな感情が芽生えた。
敬意である。
自分の半分程の年しか生きていない娘に、人として、女として、そして母として尊敬の念を抱いたのだ。
認めざるおえまい。この娘の覚悟を。
「今、私のお腹にも子がおります。」
「!?」
娘の目が開き驚きの表情をつくる。
「産まれる時期もそう変わらないでしょう。」
「……。」
娘が決意の表情で私の言葉を待つ。
「産まれてくる子供たちを双子とし、伯爵家の家族として迎え入れます。」
「あ…ああ…ああありがとうございます!ありがとうございます!!ありがとうございます!!!」
今まで張り詰めていた決意の糸が切れたのか、顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら感謝を述べる。
私は膝を折り娘を抱き寄せながら言う。
「あなたを私の部屋付きにします。この部屋には信頼する者しか入れませんから心配いりませんが、あの人が事実を知ったら、あなたを害そうとするかもしれませんから私の側を離れてはいけませんよ。」
「ぁい!はい!!」
返事から嬉しさが滲み出ている。
私はもうこの娘を愛おしいと感じている。ならばこの娘も家族として迎えよう。
「貴女、お名前はなんと言いましたか?」
「ディアと申します。」
「ディア、元気な赤ちゃんを産みましょうね。」
「はい!奥方様。」
二人の間には幸せが満ちていた。