Extra Episode:少年と白銀の狼
昔々あるところに心根の優しい少年がいました。
一年の半分が雪に埋もれる北の村は決して豊かではありませんでしたが、狩が得意な父と美味しい料理を作る母の元で幸せに暮らしていたそうです。
そんなある夏のこと。雪が溶けた山は少年にとって格好の遊び場です。
野うさぎを追いかけたり、食べられる草を集めたり、その日も楽しく遊んでいると、倒れている子犬を見つけます。
泥で塗れた毛は見るからに薄汚く、何かに襲われたのか、所々には血らしきものも滲んでいます。
少年はいてもたってもいられず、服が汚れるのもなんのその。子犬を優しく抱きかかえると急いで家に連れて帰りました。
少年の両親は薄汚れた子犬を見て少し困った顔をした後、ちゃんと世話をするならと条件をつけて飼うことを許します。
少年は大喜び。勿論だと頷くと、毎日毎日傷へ薬草を塗り、餌を与え、献身的な看病を続けました。
その甲斐あって弱っていた子犬は徐々に元気を取り戻し、一月も経つ頃にはすっかり傷も癒えて、あちこちを飛び跳ねるようになったのです。
体調を取り戻した子犬を、少年は川で丹念に洗ってやりました。するとどうでしょう。灰色に汚れていた毛並みは美しい白銀の輝きを取り戻しました。
これには両親もびっくりして、きっと山の神様の化身に違いないと喜んだのです。
それからというもの、少年は子犬にハクという名前をつけて、どこへ行くのも何をするのも一緒になりました。
同年代の子どもが周りにいなかった少年にとって、ハクは大切な友達になりました。
言葉は話せなくとも、ハクは少年の言うことをまるで人間のように聞きました。とても頭がよかったのです。
夏が過ぎ、秋が来て、雪が降り、冬になるとハクは少年の身長を通り越してしまいます。
少し悔しい気もしましたが、今に追い抜いてやるからなと少年は笑いました。
ハクは父親にとっても大切な仕事仲間になりました。
冬の山はとても厳しく、少しの油断で命を落とすこともあります。
けれどハクが傍にいてくれるだけでそんな心配は無用でした。
道に迷ってもこっちだと頼もしい鳴き声を聞かせてくれます。猛吹雪に巻き込まれても暖かい毛皮で守ってくれます。
獲物を見つければ一声鳴いて、父親のいる方向へ追い立ててもくれました。
厳しい狩の仕事はずっと楽になり、少年の生活に余裕をもたらします。
夏になるとハクの毛が生え変わりましたが、これには母親が大喜び。綺麗な白銀の毛を集めると毛糸になるのです。
そうやって編まれた靴下や手袋はびっくりするくらい頑丈で、冬の厳しい寒さをものともしない理想的な防寒具になりました。
ずっと悩まされていた手足の霜焼けもこれ一つで解決してしまったのです。
少年の家族にとって、ハクは神様が遣わしてくれた山の化身に違いありませんでした。
けれど、幸せは長く続きませんでした。
1年が過ぎる頃にはハクの身長が父親を超えてしまったのです。こんな大きな犬がいるとは思えません。
食事も少年が用意するものでは足りず、時折山に出かけては一人で獲物を狩っているようです。
もしかして、ハクは魔物なのではないか。いつか凶暴さを増して少年に危害を加えるのではないか。両親は不安を感じずにはいられませんでした。
一方、少年にとってハクはハクのまま。大きさなんて関係ありません。むしろ大きく育った親友を誇らしく思っていました。
この頃から、少年と両親はハクに関して意見が合わなくなってきました。
あれは山神様に違いない。山へ戻してあげないときっと大変なことになるという両親に対し、少年は一緒に暮らすと譲りません。
実を言えば、あまりにも大きく育ちすぎたハクの存在は他の村人に恐怖を与えていたのです。
あんなものに襲われたらひとたまりもない。山の動物を全て食ってしまうんじゃないか。
人の妄想は際限がなく、ハクをよく知らない彼らにとって、ハクはただのバケモノでしかありませんでした。
少年は怒りました。ハクは今まで数え切れないくらい村の為に狩を手伝っているというのに。
餌にしても1週間に1度、中くらいの鹿を食べてくるくらいで、腹持ちは異常によかったのです。
山で遭難した村人の匂いを辿って救出したこともありました。
確かに図体は大きくなりましたが、少年とハクは変わらぬ……いいえ、もっと強くなった絆で結ばれています。
ですが、村の人達の意思は頑なでした。遂にはハクを追放しないなら少年一家を追放するとまで言い出したのです。
実を言えば、ハクを一番恐れていたのは村の長でした。ハクが来てからというもの、少年一家の存在感はますばかり。
このままでは次の村長が自分の息子ではなく、少年になってしまうのではないかと危機感を抱いていたのです。
そこで村長は村人達にハクがいかに危険かを説いて周り……要するに印象操作を続けていたのです。
村人達も最初はまさかと聞き流していましたが、ハクの身体が大きくなるに従って恐怖を感じるようになり、最後は村長の言うことを信じるようになってしまいました。
少年はそんな大人達の都合でハクとの別れを迫られました。断れば村から追放されてしまうかもしれない。
どうしたらいいか分からなくなった少年に、両親は覚悟を決めます。
お前がどうしたいかはお前が決めなさい、と父親は少年の頭をなでました。
もしハクと別れたくないのなら、こんな村なんて出て行ってもいいの、と母親は少年を抱きしめました。
自分達はもう村から出てやっていける歳じゃないけど、お前一人ならどこへでもいけるし、なんにでもなれる。
本当はもう少し大きくなるまで待つつもりだったけど、ハクと一緒なら独り立ちもできるだろう、と。
少年は一晩考えに考えて決めました。ハクと一緒にこの村を出て、自分の居場所を作るのだと。
いつかそこに両親を呼び、仲良く暮らすのだと。
旅立ちの日、両親は少年に沢山の贈り物をしました。
風邪を引かないよう、ハクの毛で作った外套。
お仲が空かないよう、自分達の食事を節制して作った保存食。
時折来る行商人との取引で貯めたお金。
それから、一生懸命作った旅道具の数々。
少年はいっぱしの旅人になりました。両親は少年にお別れを告げて、それからハクにこの子を守って欲しいと頼みます。
ハクは小さく吼えた後、ペロリと両親の頬を舐めました。
そうして少年はわからずやの故郷を後にして世界へ旅立つことにしたのです。
旅路は苦労の連続でした。でも少年の隣にはいつもハクがいました。
どんな場所でもハクさえ居てくれれば安全に眠れます。危険な動物がいてもハクが一声鳴くだけで逃げ出すのです。
普通は入らないような森の中でもハクさえいれば問題ありません。
危険な場所は教えてくれますし、疲れても背中に乗せて跳ぶように走ってくれるのです。
少年の旅路は、大よそ一般的な旅人が予想するそれと大きく違い、限りなく快適なものになりました。
そんな時、生活用品を買う為に立ち寄った村でこんな話を耳にします。
家畜が狼に襲われてどうしようもないんだ。
少年はそれを可哀想に思い、僕に任せろと胸を叩きました。
ハクを人前に出すと恐れられてしまうのは旅の前半で理解しました。こんなに可愛いのに、と思っても誰も理解してくれないのです。
仕方なく、人の住む場所に入るときはどこかに隠れてもらっています。
少年は早速村の外に出てハクを呼び、事情を話しました。村の家畜を襲っている狼を説得してやめさせてほしいと。
ハクは小さく頷くと少年を背に乗せて走ります。
やがて森の中に入るとよく通る声で鳴きました。すると10匹もの狼がわらわらと出てきて、あろうことかハクの前に跪いたのです。
ハクは何かを説明するかのように短くなくと、狼達は何度も頷きました。家畜を襲うことを辞めてくれたのです。
ですが、狼は困ったような声で言います。それでは食べるものがありませんと。
少年はそんな狼達を可哀想に思い、持っていた食料を差し出しました。
何日も呑まず食わずだった狼達は喜んで食べ物を口にします。
でも、これで問題が解決したわけではありません。
村の近くの森は度重なる開墾と焼畑で面積を削られ、恵みが少ないのです。狼達が人間の家畜に手を出したのも、他に飢えを凌ぐ方法がないからでした。
このままではいずれ同じことの繰り返しです。
するとハクはまた一声鳴きました。ならばついてくるがいい。枯れた森に縋る必要などない。この私がお前達を導こうと。
狼は喜びに打ち震え、少年もまた、友達が増えたことを喜ぶのでした。
各地で食いっぱぐれた狼を集める内に、少年は人々から狼使いと呼ばれるようになります。
ハクの指揮の元で訓練された狼は一糸乱れぬ動きを披露し、時には大道芸で小銭を稼いだり、時には行商人の護衛を買って出て旅費を稼いだりしました。
少年は有名になりました。1人と1匹の操る狼は軍団にも等しく、騎士団でさえ歯が立たなかった魔物の討伐を引き受けることもありました。
そうして確信します。ハクはバケモノなんかじゃない。人間の役に立てるのだと。
それからというもの、少年は人に危害を加える魔物の噂を聞くと駆けつけ、沢山の人達の為に戦いました。
そんなある日、爵位の高い領主から是非とも頼みたいことがあると依頼を受けます。
峠を越えた先に出る魔物のせいで沢山の犠牲者が出ているというのです。
少年は躊躇うことなく頷きました。お任せください。この私と、相棒のハク。そして仲間達が必ずや魔物を討伐してご覧に入れましょうと。
こうしている間にも被害は出ているかもしれません。少年は人々の助けとなるべく、情報収集もそこそこに旅立ちます。
今までハクと仲間達が苦戦したことはありませんでした。自分達より大きな魔物でも、何倍という群れをなす魔物でも、ハクには傷一つつけられなかったのです。
きっと今回も大丈夫。ハクに勝てる魔物がいるはずない。そんな油断がありました。そしてそれが命取りになってしまったのです。
領主の言う場所に魔物はいませんでした。
かわりに武装した騎士団が待ち構えていて、峠の上から奇襲を仕掛けてきたのです。
高い崖に囲まれた道の両端を土砂で塞がれ、逃げ場のない頭上から岩と矢と魔法が降り注ぎます。少年達はもはや袋のネズミでした。
あれだけ強かった狼達も、少年を守る為に1匹、また1匹と数を減らしていきます。
ハクが必死になって道をこじ開ける頃には、少年とハクしか生き残っていませんでした。
少年には一つの誓いがありました。
ハクの力を人間同士の争い、戦争には使わないというものです。
だけどそんな誓いは、誰からも理解されませんでした。
少年の力は圧倒的です。騎士団ですら倒せない魔物を次から次へと倒してしまうほどに。
そんな少年の存在に領主は恐怖しました。もしも彼が自分に牙を向いたら、間違いなく勝ち目はないだろうと。
だから少年を騙して罠にかけ、殺してしまうつもりだったのです。
計画は失敗しました。けれど少年も、ハク以外の仲間達を失いました。
お調子者のジニー。ひねくれもののジョン。寂しがり屋のジョセフィーヌ。少年にとって、誰もが大切な仲間でかけがえのない家族でした。
それを殺された悲しみと憎しみは心を引き裂くほどで、失意の底に沈んだ少年は実家に、両親の住む村に帰ることにしたのです。
しかし、ハクの背に揺られながらたどり着いた村に両親の姿はありませんでした。
少年が村を去ってからというもの、村人達の生活は一変します。
真冬の狩は以前の苛烈さを取り戻しました。獲物を追うのにも一苦労。それを倒すのにも一苦労。道に迷えば待っているのは凍死です。誰も助けには来てくれません。
ハクの存在がどれだけ村人達を助けてくれていたか、居なくなってようやく気付いたのです。
非難の目は両親に向けられました。お前が少年を追い出したから悪いのだと、謂れのない言葉を投げかけられ、やがては村八文となり、心労が祟って病気でこの世を去ったのです。
村人達は少年に向かって言いました。
お前の居場所はない。ハクを置いてここから出て行けと。
まるで正反対の言葉に、限界だった少年の心が、ぱきりと砕けました。
ハクは身体が大きいけど魔物ではありません。優しい心を持っているからです。
なら、魔物とはなんなのでしょうか。少年は思います。
魔物とは、何かの心の中に巣食う、悪意なのだと。
少年にとって目の前の村人達は魔物でした。
かけがえのない仲間を奪った領主も魔物でした。
少年にとって人間は、『魔物』だったのです。
その日、小さな村が一つなくなりました。
同時に、優しかった少年の心根もなくなりました。
このまま仲間を殺した領主も同じ目にあわせてやりたいと思いました。
でも、それはできません。少年とシロの2人では力が足りないのです。
少年は決めます。それができるようになるまで、どこか別の場所でゆっくりと力をつけようと。
だけどもう、『魔物』を救う気にはなれませんでした。
苦しめばいいと思いました。狼に『魔物』を襲わせるのです。
それなら一緒にお金も奪ってしまおう。でも、殺して奪うだけでは効率が悪い。
そうだ。狼で『魔物』を苦しめて、助ける振りをしたらどうだろう。
馬鹿な『魔物』は感謝してお金を沢山くれるに違いない、と。
少年は各地を巡る内に青年へ成長しました。
そして狼以外の仲間とも巡り合う機会を得ました。
彼らは誰もが心に青年と同質の傷を負っていて、同じ人間だと思えたのです。
やがて数を揃えることに成功した青年は遂に自分の旗を上げます。
数年後。遠い地方の一角で、狼に詳しいアズール商団の噂がまことしやかに囁かれることとなりました。
『魔物』は知りません。それが団長でもある男によってもたらされたものであると。
そして彼は笑うのです。自分の中の仄暗い欲望を満たすために。
或いは、失ってしまった者たちへの鎮魂歌として。




