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World's End Online Another -僕がネカマになった訳-  作者: yuki
第二章-境界の彼方、幻想の世界-
37/43

辺境の街と夢幻の救者-10-

「多分、取り巻きが強化されてます。白銀の賢狼の近くにいる狼は段階的に能力が強化されるの、かも」

 動きが鈍ったといえ背後から近づかれつつあるのは事実。ここで悠長に全てを語っている時間はない。

 最大の懸念事項に絞って話すとみんなの息を呑む音が聞こえた気がした。

 狼の群れの中で高い地位にある固体ほど取り巻きとしての力を得られるとすれば、今まで狩ってきた森狼は最底辺なのだろう。

 確か白銀の賢狼の取り巻きは総勢50匹に及んだはず。ここには多くても20匹程度しか集まってなかった。

 仮に取り巻き強化能力がゲームと同じ規模まで及ぶとすれば、少なくとも30匹近い狼がどこかに控えている可能性がある。

 加えてそれらの狼の強さが先ほどの狼と同程度に留まっている保障もない。毛並みが銀に変わっていることすらありえる。


 不確定要素が多すぎる。出来れば一度持ち帰って検討と調査を加えたい。

 でも、ここまで追い詰めた白銀の賢狼を見逃すのは適切な判断といえるんだろうか。

 日を空けることで取り巻きがますます強化されてしまう可能性もある。

 あれだけのダメージを負わせたのだから、下手に回復の時間を与えて学習されるより、危険を承知で先へ進む方が結果的に安全になり得るのではないか。

 自分の判断に自信が持てず、だから提案という形でみんなの意見を聞くことにしたのだ。


 正直に言えば、今は女の身である僕が言い出せばその方向に流れるだろうと思っていた。

 ハルトの必殺技で骨も残らず消し飛んだ狼は回収不能だけど、背後から迫ってくる一団を一網打尽にすればそれなりの成果になる。

「俺は……俺はここで倒しておきたい」

 だから、迷いながらもアキツさんが反対を表明した時は心底驚いた。

「本当はらんらんの魔法で弱ってたところを狙えば倒せたはずなんだ。なのに情けなくもビビって動けなかった」

 苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てる。サスケさんと自分を比べてしまうのだろう。でも、あれは別にアキツさんのせいではない。


「アキツさんには警戒を頼んでました。本当ならあの時動かなきゃいけなかったのは……」

 自分であると告げようとしたところで静かに首を振られる。

「警戒なんて片手間でこなすもんだろ。俺の役割はアタッカーで、カナタちゃんの役割はヒーラーなんだ。未知の相手にヘイトを稼がせる時点でアタッカー失格だよ」

 小さなギルドで切磋琢磨を繰り返していただけあって基本的にみんな負けず嫌いなのだ。

 結局のところ、自分がどう思うかに尽きる。アキツさんがそう思ってしまった以上、今さら僕が何を言っても無駄だろう。


「拙者もアキツの意見に賛成でござる。みなの期待を裏切りたくないでござるよ」

 何の誇張もなく救済者(セイヴァー)と呼ばれる機会が元の世界にあると思えない。

 誰かに認められることが嬉しかった。感謝されるだけで突然こんな世界に連れてこられたことにも意味があるように思えた。

 今朝の盛大な送迎も記憶に新しい。そんな人たちの為に頑張りたい、期待を裏切りたくないという思いは理解できる。


 僕にだって覚えがないわけじゃない。拝まれるのは勘弁して欲しかったけど、頼られるのは決して不快ではなかった。

 でも、頼みごとは善意だけで成り立つわけじゃない。

 小さい頃から色んな依頼をクエスト感覚で請け負っていたハルトに付き合ったことで散々なくらい学ばされたのだ。

「誰かの為に頑張るのは、必ずしも正しいわけじゃないんです」

 暗い心のささくれが微かな呟きとなって漏れる。


「ん? 何か言ったでござるか?」

 聞き取れなかったサスケさんが不思議そうな顔で僕を見た。残念だけどここで語れるほど簡単な話題じゃない。

「いえ。町に戻ってから話したいことがあるってだけです。あとで時間をくださいね」

「も、勿論でござるよ!」

 サスケさんにもそれを知っておいて欲しくて、短い約束を取り交わした。


「あー、らんらんはカナタちゃんを支持するわ」

 豚さんが控えめに申し出たことで意見は真っ二つに分かれてしまう。

 あとはハルトの意見で決まるのだけれど。

「悪い、さっき撤退を進言しといてあれだが、俺もアキツ達に賛成する。ここで諦めたら次はない、そんな気がするんだ」

 やっぱりというかなんというか、予想通り過ぎて声も出ない。

 アキツさんとサスケさんが撤退に反対した時点で勝負はついていたのだ。


 白銀の賢狼が周りの狼に与える影響と、現在の戦力がどの程度まで膨れ上がっているのかを調べるには膨大な時間が必要になる。

 森狼の強化はアズール商団にとっても凶報だ。

 時間経過で危険性は際限なく高まっていくと知れれば契約は打ち切り、そのままクーイル商会を離れる公算が高い。

 仮に調査完了まで契約を続けてくれたとしても、白銀の賢狼が本当に取り巻きの強化能力を持っていて、その規模がゲームと同程度の銀狼レベルにまで達するなら討伐は諦めるつもりでいた。

 最優先すべきは自分達の救済であって他の誰かであってはならない。

 卑怯者と謗られようが、薄情者と罵られようが、安全マージンの取れない不確定要素の塊へ突っ込んで荒らしまわるなんて真似はごめんだった。

 

 だから多分、この瞬間が僕らの未来の分岐点なのだ。

 進むか戻るか。僕が選んだのは『保身』。アキツさん達が選んだのは『犠牲』なんだろうなぁ。

 どちらにせよ賽は投げられた。なら、この選択を最良とするしかない。

 そもそも白銀の賢狼は大ダメージを負っているのだから、僕らが優勢なことにかわりはない。


「3対2で追撃ですね。まぁこの状況で撤退は臆病すぎますしね」

 自分で言ってて凹むけれど、僕は逃げ回る方が得意なのだ。石橋はガシガシ叩いてからじゃないと渡りたくない。

 時には勇気を出して前へ進まないと好転しない状況があることも知ってる。

 だからこれは背中を押して貰ったと考えればいい。

「時間を使わせてしまいました。急ぎましょう。アキツさん、追えますか?」

「任せろって。ちょっと急ぎ目でいくぞ」


 気が急いているのか、急ぎ目どころの話ではなかった。

 アキツさんもサスケさんもAgiが高いので手を抜いているつもりでも僕からすれば全力疾走と大差ない。

 足場の悪い森の中でよくもまぁこれだけ素早く動けるものだ。

 ルートを選定してもらっているので後ろを走る僕らはついていくだけで済むぶんだけ楽なはずなのに追いつく気配はない……どころか少しずつ引き離されていた。

 今はハルトに手を引かれ、躓きそうになる度に引き上げてもらいどうにか難を凌いでいる。

 いっそ背負おうかとも聞かれたけどちっぽけなプライドが許さなかった。咄嗟に武器を取れないのも危ないし。

 どちらにせよ豚さんも居るのだ。足の長さの違いで若干差をつけられているとはいえ、僕を背負っても全体的なペースは誤差の範囲に収まる。


「血の感覚が短くなってる、速度を緩めたらしい!」

 あれだけの深手を負いながら走り続けるのは白銀の賢狼でも不可能だと睨んだ通り、先へ進むごとに真っ赤な斑点の間隔が短くなっている。

 これだけの血を流しておきながらまだ動けるのが不思議なくらいだ。

「は、早すぎます! もうちょっと速度を緩めて……」

 だけど僕はそれどころじゃなかった。息も絶え絶えの状態ではまともな声にならない。既に戦列は縦に間延びしつつある。

 盾役のハルトが僕にかまけて前に出られないのもまずい。かといってなけなしのプライドを放り出し背負って貰ったとしても、今度は豚さんが置いてきぼりになってしまう。


「2人とも突出しすぎだ! この出血ならいつまでも逃げ続けられない、アキツも索敵はしっかりしてから進め!」

 ハルトの声にようやく2人が速度を落とす。ついでに索敵を始めたのかアキツさんが目を瞑った。

 普段は20メートル間隔で索敵を行い、少なくとも50メートルの至近距離に入られるよりも早く敵を見つけるよう心がけていた。

 だけど今はどう少なく見積もっても60か、70メートル間隔でしか行っていない。

 索敵直後にぎりぎり範囲外だった敵がこちらに気付き向かっていた場合、接敵するまで気付かないといった事態も起こりえる。


 何の準備もなく敵と出くわすのは例え格下であっても避けるのが定石だ。

 それ以前に、この状態で敵と遭遇してまともに戦えるとも思えない。

 頭は酸素が足りず霞が掛かっているような気分だし、手足はいつ倒れてもおかしくないくらいふらふらだった。

「こっちに開けた場所がある。そこで休憩しよう」



「ひぃ、ひぃ……らんらん死ぬわ、マジで死ぬわ。もうおうち帰りたい」

 荒い息を吐きながら豚さんが汚れるのも気にせず倒れ込む。回復魔法で疲労が和らいでも足りない酸素はどうにもならない。

 僕の方も似たようなもので、小休止を入れてもらわなければ遠からず目を回していただろう。

「どうして、そこまで急ぐんですか」

 ようやく落ち着いてきた呼吸を制しながらたずねる。


 元より時間を取らせたのは僕の落ち度なので言えた義理ではないのだけれど、それにしても急ぎすぎだ。

「いや、なんていうか勘みたいなものなんだけどさ。あの状況で逃げるって事はまだ何か打つ手が残ってるんじゃないかと思って」

「……? 打つ手がないから逃げたのではなく?」

「ああいや、あの場で打つ手がなかったのは確かだと思う。でも逃げたところで手立てが残ってないなら大将はあの場で最後まで抗い続ける、そんな気がしたんだ」


 どうやらアキツさんと僕では根本的に考え方が異なるらしい。

 僕は生き残るために逃げ出したのだと考えていた。白銀の賢狼さえ生きていれば幾らでも群れは作りなおせる。最悪、この森から撤退すれば良いだけだ。

 一方でアキツさんは、白銀の賢狼の目的はあくまで僕らの殲滅であると考えているようだった。

 あの時点では勝ち目がなかったから、部下を犠牲にしてでも一度は逃げ延び、勝ち目のある状況で勝負を決めようとしている。

 仮に勝ち目を見出せないのなら、たとえ死ぬと分かっていてもその場に留まり部下と運命を共にしただろう、と。


 考えてみれば初めて遭遇した時もそうだった。僕らが守りに徹すると決めた時点でそれを察し、周到に用意した奇襲を放棄して撤退した。

 え、ちょっと待って。じゃあこれはただの追撃戦じゃないかもしれないってこと?

「次の手を打たれる前に追いつかないとやばい気がして、気付いたらかなり無茶してた。ごめん、焦ってたんだと思う」

 僕らは白銀の賢狼が逃げるまま北東目指して突き進んでいる。確か最初に白銀の賢狼が出現した方角も北東だった。

 北東から来て、北東に逃げている。つまり、来た道を戻っている?

 そういえば狼の包囲網も北東には近づかせまいと画策していたっけ。

 てっきり巣でもあるのかと思っていたけれど、本当は北東で何か準備でもしていたから近づいて欲しくなかった、とか?


 嫌な予感が伝染(うつ)ったか。急に辺りが気になって視線を彷徨わせる。

 開けた広場のような一帯は森の気まぐれで背の高い木が一本も生えていない。

 おかげで見通しもよく、万が一敵に襲われても対処しやすそうだ。ここなら地形を気にせず魔法を使えるし。

 特に木立の中は狼の姿を見失いやすいうえ、木々が射線や剣の軌道を阻害するので厄介だったりする。

 前に一度、魔法を使ったら巨木がこっちに向かって倒れてきて大騒ぎしたこともあったっけ。

 そういった観点から言えばここは休憩所として申し分ない。むしろその為にあるとさえ思えた。

 ここらで休憩場所を探すならここしかないだろうと思わせるくらいに。


「アキツさん、周囲に敵影はありますか?」

「いや、特には感じられないけど」

 アキツさんの索敵範囲と精度はこれまでの経験で証明されているし、この辺りは安全なのだろう。

 だって敵はどこにもいないのだから。そう、どこにも。前は勿論、後ろにも。

 今さらになってようやく違和感の正体を思い知らされる。

「背後にもいないんですか!?」

「……え、あっ!」

 なら、僕らを追ってきた狼はどこに消えたというのか。


 生憎と僕の足は全力疾走したところで狼よりずっと遅い。

 引き離した可能性を除けば、諦めたか、迂回したか、合流したか。

 ここに来るまで鳴き声らしきものは聞いていないし、コミュニケーションなしで意思の疎通はできないはず。

 考えられるとすれば、最初から合流地点を決めていたとかだ。

 手負いの賢狼、消えた狼、休憩に適した広場、合流の目的。

 幾つもの単語がぐるぐると頭を巡り何かを思いつきそうなのにあと少しが足りない。

 まるでそれをあざ笑うかのように、白銀の賢狼と思しき遠吠えが響き渡った。

「行きましょう」

 休憩は十分に取れた。既に呼吸も落ち着いている。あれが召集だとしたら集まる前に仕留めてしまいたい。


 白銀の賢狼の反応は休憩していた広場の目と鼻の先で見つかった。

 近づきつつある僕らに気付いているはずなのにその場から動く気配はない。

「残り20メートル。そこの茂みを越えれば目視できると思う。他にも狼が6、今のところはこれで全部みたいだな」

 先頭を歩くハルトは警戒を緩めず目の前の茂みごと斬り飛ばす。開けた視界の先では不自然に森が途切れ、明るい太陽の陽射しが直接差し込んでいた。森を隔てる岸壁に到達したらしい。

 その手前に血と泥でマーブル模様になった白銀の賢狼が蹲っていた。


 僅かに顔を上げ僕らを一瞥する。しかし立ち上がる気配はない。代わりに6匹の狼が傷ついた主を守ろうと牙を剥き出し唸る。

 色は今までの森狼に比べ薄いもののまだ銀狼には達していないようだ。

 傍から見るとまるで僕らが悪役のようで……。いや、実際に彼らからすれば悪なのだろう。善悪の判断基準なんて立場ひとつで容易く翻る。

 正義の反対はもう一つの正義。負けた方が悪におとされるんだっけか。

 さっきからとりとめもないことばかり頭を過ぎるのは未だ罪悪感を消しきれていないから。でも、今さら迷うつもりはない。


「周囲に敵影なし。あとは逃げたのか、逃がしたのか」

 あの遠吠えは新天地を目指して逃げろという意味だったのかもしれない。

 この6匹は主と共に滅びる道を選んだとか。大した忠誠心である。

「ここまで来たら一気に終わらせましょう」

 僕らが構えたのを見て白銀の賢狼がよろめきながら立ち上がる。座して死ぬつもりはないらしい。

 身体は見る影もないほどぼろぼろなのに、瞳だけは微塵も劣らぬ敵意で満ち溢れていた。


 敵は手負い。取り巻きは6匹。誰がどう考えても僕らの圧倒的優勢に違いない。なのに、どうしてか違和感を拭えなかった。

 支援として敵の大規模攻撃の前兆を見逃すまいと観察し続けてきた直感が何かおかしいと告げている。

 傷ついた身体を限界まで酷使してこんなところまで来た理由はなんだったんだろうか。

 綺麗な白毛も今では血と泥が固まって団子になってしまっている。そう、固まっているのだ。身体の何処を見渡しても目新しい血の痕が見つからない。

 そういえばあれだけ目立っていた血痕の数々が、広場からここまでの間にただの一滴もなかったではないか。



「ありえない……。傷が全部塞がってる!」

 違和感の正体を叫んだ直後に敵が打って出る。白銀の賢狼は初めて遭遇した時と変わらぬ俊敏さで飛び上がった。

 どう考えても大怪我を負った状態で出来る動きじゃない。でもどうして。あれだけの傷がこの短時間で自然回復するわけがない。

 傷を回復できるような『何か』があったのだ。


 もっと早く気付いていれば。得られた猶予は半呼吸にも満たない短い時間。だけどみんなはその僅かな時間を無駄にしなかった。

「させるかっ!」

 ハルトは飛び出そうとしていた足を強引に押し留め、剣ではなく盾を突き出す。

 攻撃態勢から防御態勢へのシフト。豚さんを中心に左右をサスケさんとアキツさんで固め、背後に僕が立つ。

 事前の取り決めと正反対の隊列がハルトの突発的な行動だけをキーに組み立てなおされる。

 飛び込んでくる狼を冷静に打ち払い、防御の厚さを感じ取った白銀の賢狼がすかさず後退した。

 まさかあの局面で満足に動けない振りからの奇襲を仕掛けてくるとは。どんな手品か知らないけど、乱戦に持ち込まれていたら数発は覚悟する必要があったかもしれない。


 作戦が失敗に終わったのを感じ取り、狼達は強引な攻めを諦め距離をとる。だが背後は崖で逃げ場なんてない。

 無防備に背中を向けようものなら、アキツさんの矢と豚さんの魔法を容赦なく降り注ぐだけだ。

「おほー、でかいの行くわ!」

 無論、膠着を続けるつもりもない。敵が動かないなら纏めて吹き飛ばす絶好の機会。

 白銀の賢狼の奇襲に対応できた時点で趨勢は決している。あとは焦らず単純作業を繰り返すだけでいい。


 もはや誰の目から見ても勝利は明らかで、故に、頭上を影が掠め去っても咄嗟に反応できなかった。

 とん、と何かが軽やかな音を立てて目の前に着地する。

 今までよりもずっと白に近い灰色の体毛。森狼よりも更に一回り大きな体躯。より凶悪さを増した牙が口元からギラリと覗いていた。

 時間にして僅か半呼吸程度の遅延。たったそれだけで状況は一変する。


 頭上を飛び越えた1匹はしなやかな身体をたわませると背後から豚さんを強襲。

 死角からの完璧な一撃にプロテクションの薄青い防護幕が弾け飛んだ。

 ぎりぎり、どうにか直撃は防げたけれど、衝撃の全てを吸収しきれず地面に跳ね飛ばされる。

 完了間際だった詠唱は敢え無く失敗に終わり、崖側にいる狼達は束の間の自由行動を許された。

 アキツさん達は正面の敵に集中していて崩されつつある背中に気付いていない。

「後ろっ!」

 たった3文字ですらもどかしかった。そうこうしている間に新たな影は次々と頭上を飛び越え豚さんを取り囲んでいく。

 いや、豚さんだけではない。ちらりを周囲を伺えばいつの間にかとてつもない数の灰色狼に包囲されていた。


「馬鹿な、反応はなかった!」

 最も驚いていたのは索敵を担当していたアキツさんだ。

 索敵くらい片手間でこなすという先の発言が慢心とは思えない。多分、これにも何か理由があるはず。

 ぐるりと辺りを見渡すと灰色の影が地面から飛び出してくる瞬間が目に留まる。

 後には黒い穴がぽっかりと顔を覗かせていた。そういえば、狼は巣穴を掘るんだっけ。


 索敵スキルはどの職業でも覚えられるが、対象の種族によって効果は大きく変わる。

 アキツさんみたいな狩人系なら動物が得意だし、サスケさんみたいな盗賊系なら人間が得意になる。

 職業毎の特性により、各種族に設定されている隠匿(ハイド)効果を打ち消すボーナスが得られるからだ。

 そう、索敵は隠蔽できるのだ。人間が木の裏に隠れたり、昆虫が体の色を変えたり、幽霊が姿を見えなくしたり、灰色狼みたく地中へ穴を掘ったりして。


 地上と地下は空間が断絶している。穴の中でじっとしていれば音も気配もなく、視界にも映りようがないのだから、最大の隠匿効果を得られてもおかしくない。

 アキツさんの索敵も地中に対しては効果がなかった、ということなのだろう。

 どうしてもっと詳しく検証しなかった!

 今さらのように押し寄せる後悔を、しかし今は棚に上げる。そんなもの、後で幾らだって巻き返せばいい。


「あぐぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 硬直は背筋の凍るような悲鳴によって打ち消される。

 豚さんのプロテクションが限界を迎えたのだ。中央にはすでに4匹もの灰色狼が侵入している。

 近接戦闘能力の乏しい豚さんでは囲まれると太刀打ちできない。特に魔法は使用にあたって極度の集中を要する。恐怖と痛みでパニック状態に陥れば自力での対応は不可能だ。

 誰かが助けに入る必要があるけど、ハルトは正面の狼から目を離せない。かといってアキツさんとサスケさんも灰色狼に囲まれている。動けるのは僕しかいなかった。

 何故か知らないけど灰色狼は僕を飛び越えるだけで襲ってこないのだ。問題は僕があれをどうにかできるかだけど……ええい、どうにかするんだ!


 【ホーリーランス】は灰色狼ごと豚さんを貫く可能性があるので使えない。【プロテクション】の再展開をしても4匹相手じゃすぐに破られる。

 ならもう当たって砕けるしかなかった。最初から僕の取れる選択肢は多くない。思い切り杖を振りかぶってから渾身の力で唱えた。

「【スターライト】ッ!」

 豚さんに覆い被さっていた1匹と接触した瞬間、先端が煌き、ボゴォという華奢な杖とは思えない打撃音が響く。

 大人が本気でぶん殴った程度の威力なんて微妙な表現ばかりされるけど、豚さんに覆い被さる灰色狼の脇腹を殴り飛ばすには十分だった。

 姿さえ確認できれば攻撃できそうな箇所も洗い出せる。この中でも特に矮小な姿をした僕がよもや仲間を吹き飛ばすとは思わなかったのだろう。

 どこか間の抜けた顔の鼻先めがけて【ホーリーランス】を振り下ろした。


 喉元から胴体を貫通させられた狼が絶叫と共にびくんびくんと痙攣してから絶命する。

 至近距離から狙ったものの、方向が限られていたせいで致命打は1発だけだった。残りの4本が2匹を追うも、胴体を掠めるに留まる。

「すぐに回復します!」

 脇腹と足には歯形の穴が開いていて夥しい量の血液が流れ出ていた。酷い傷だ。受けた痛みは想像もできない。

 すぐ傍に狼がいるのも構わず意識を集中して傷を癒す。暖かな緑の燐光が傷口へと吸い込まれ、見る見るうちに塞がっていった。


「あ、ありがとう……」

 震える声でお礼を告げられる。ちらりと見た顔には涙の痕がくっきりと残っていて今も怯えていた。

 違う、こんな顔をさせるつもりなんてなかった。ただ僕は……。

 言い訳染みた思考は、しかしすぐさま別の悲鳴によって打ち消される。


 見ればアキツさんとサスケさんもプロテクションを貫かれ傷を負っている。

 足元には灰色狼の死体が幾つも転がっているけど、それを余りある数が未だに包囲を続けていた。

 目の前の狼を振り払ってもすぐに背後から別の狼が襲ってくる。下手をすると更に左右からも。

 元より遠距離職のアキツさんは防戦一方で、近距離職のサスケさんも利き手を噛まれたらしく普段の精細さは欠片もない。


 数えなくてもわかる。多分全部で30匹。最悪の予想は当たってしまった。

 銀狼ほどではないにせよ、灰色狼は森狼と比較にならない能力を持っていた。

 もはや白銀の賢狼なんてどうでも良い。どうにかこの場を切り崩して撤退しなければ命に関わる。

「ハルト!」

 味方を巻き込まなければ地形を書き換えたって構わない。王室騎士の全スキルでこの窮地を救って欲しい。

 だが、その願いを叶えるには聳え立つ壁があまりに大きかった。



「く、そがぁっ!」

 普段は見せることのない本気の怒号を口にしながら剣を振るう。あちこちから聞こえてくる悲鳴はハルトにも届いていた。必死に名前を呼ぶ声もだ。

 何とかしてやりたいと思っているのに自由が利かない。

 白銀の賢狼と6匹の狼はハルト一人を四方八方から攻め立てていた。一番危険なのは白銀の賢狼で、攻勢の気配を感じれば対応せざるを得ない。

 その瞬間、多方面から6匹の狼が波状攻撃を仕掛けてくるのだ。かといってそちらに意識を向けると今度は白銀の賢狼が重く鋭い一撃を加えてくる。

 怒涛の連携攻撃には隙らしきものがなく、頼みの綱のスキルも死角からの一撃で体勢を崩されればまともに当てられない。

 今はただ機械のような正確さで攻撃を耐え忍びながら突破口を探るしかなかった。

 だが、本当にそんな物があるのだろうか。果ての見えない攻防の最中に湧き上がる諦めにも似た感情を再び怒号に変えて吐き出す。


 単純なステータスで言えば灰色狼如き敵ではない。

 1匹1匹を冷静に、確実に対処すれば5分と掛からず殲滅できる。でも、それは結局のところ机上の空論でしかなかった。

 囲まれれば焦るし、牙を剥かれれば恐ろしい。噛まれようものなら筆舌にしがたい激痛に苛まれもする。

 幾ら身体に強大な力を持たされても、心が弱いままでは意味がなかった。

 痛みを食いしばって耐える根性も、逆境を跳ね返す粘り強さも、恐怖を打ち払う度胸も、現代のぬるま湯に浸かりきった僕らには備わっていない。

 最初から何もかも間違っていた。ゲームとこの世界を比較すべきではなかった。等身大の、現実の自分に即した身の振り方をすべきだった。

 安全な町の中に引きこもって助けが来るのを待つとか、誰でもできそうな仕事を貰って慎ましく生きるとか。やりようはあったはずなのに。


 豚さんを助けなければと飛び込み、なけなしの攻撃魔法で1匹を仕留めたまではよかった。

 だけどそこまで。元より僕に攻撃力はない。今までは偶然にも興味を持たれなかっただけで、渦中に飛び込み取り囲まれればなすすべはなかった。

 せめて誰かの手が空けばと願ったものの戦況は劣勢で望みは薄い。

 みんなの手元には回復薬がある。高位の防具は灰色狼程度の攻撃ならびくともしない。

 仮に押し倒されても、ハルトとサスケさんは勿論のこと、アキツさんも最低限のStrはあるから跳ね除けられるはず。

 頭さえしっかりと守れば逆転の目は十分に残されているのだ。

 最悪、身の軽さを生かして逃げればいい。劣勢の原因は乱戦に持ち込まれた身体。全力で距離を取ってから態勢を整えるだけで一息に殲滅できる。

 ただ、僕と豚さんはそうもいかない。


 目の前にはぱくりと開かれた狼の口があった。ぞろりと並んだ牙はどれも鋭利で、僕の身体などいとも簡単に引きちぎるだろう。

 漂う生臭さに思わず顔をしかめる。逃げようにも仰向けに押し倒され、四肢を抑えられてはどうしようもなかった。

 さっきからずっとあらん限りの力で暴れているのだけれど、灰色狼は涼しい顔で微動だにしない。

 体格差がありすぎる上に僕のStrは1。たぶん、身の丈に合った年相応の力しかない。

 100㎏を超えるであろう巨体を跳ね除けるのはどう考えても不可能だった。


 魔法を使おうにも恐怖で頭が上手く回らない。仮に使えたとしても【ホーリーランス】の再使用にはまだ時間がかかる。

 挙句、手元には愛用の杖もない。ただでさえ低威力の【スターライト】が何の補正も受けられない素手の状態で灰色狼を吹き飛ばせるとは思えなかった。

 完全なる詰み。おまけに両手を封じられていて頭を守れそうもない。鋭い両足の爪を完全に遮断してくれているクラルスリアは、鎖骨を隠してはいけないとかいうふざけた理由で襟元が開いている。

 このまま無防備な首筋を、ディールさんや弟子のキールさんと同じように噛み千切られたら数分と持つまい。

 やはり装備に装飾とかお洒落要素は要らなかったんじゃなかろうか。辞世の句にしては余りにも情けなかった。


 すぐ傍からは半狂乱の悲鳴が止めどなく続いている。

 僕の上に跨った狼が僕の小さな身体を完全に覆いつくしているせいで取り付ける場所がなく、他の狼は揃って豚さんの方へ群がっているのだ。

 引き倒される直前に頭へマントを巻き付けておいたから、致命傷となる部位への攻撃は通らない、はず。

 ただ、それが正しい選択だったのか自信は持てない。

 露出している手足を噛まれる度にぬちゃりという粘着質な音が耳の奥にへばりついてくる。

 死なないというのは終わりがないということで、豚さんは気を失うまでずっと、或いは気を失ってもすぐに目覚めて、身体を貪り食われる痛みに苛まれ続けることになる。

 だとすれば、楽に死ねそうな僕は幸せ者なんだろうか?


 つつ、と湿った狼の鼻先が首筋を這う。いよいよその時が来たのかと思って身を強張らせた。

 その時を直視するのが怖くて目を閉じる。すんすんと鼻が鳴るたびに漏れてくる生暖かい風が肌を粟立たせた。

 死にたくないという思いと、何もできない無力感に涙が零れる。

 頭上から短い吠え声が響いた。勝ち鬨のつもりか。それが悔しくて瞑っていた目を開けた。やっぱり最後くらい一矢報いたい。


 決死の【スターライト】が狼の鼻先に炸裂する。だが、何の効果も見受けられない。ほんの少し鼻先を逸らしただけ。

 軽く殴りつけるくらいの威力はあったのかもしれない。灰色狼を相手では怯ませることすらできなかった。まして吹き飛ばすなんて夢のまた夢。

 万策尽きて身体から力が抜け落ちる。もはやこれまでと諦めるしかなかった。さぁ殺せと投げやりに構えてその時を待つ。

 なのに、待てども待てども狼は動かなかった。


 隣からは変わらず悲痛な叫び声が続いている。狼も未だ群がったままのようだ。攻撃の意思をなくしたわけではあるまい。

 今はお腹がすいていないとか。でも獲物を弱らせるくらいのことはするだろう。

 よもやこの容姿が野生動物にすら有効だとでも? 笑えない冗談だ。食べるところがないっていう方がまだしも可能性がある。

 狼は時折こちらを見てふんと鼻を鳴らす。余裕を取り戻しつつある頭で周囲を見渡すと、クラルスリアに突き立てていたはずの爪すらしまっていた。攻撃の意志がないのは明らかだ。

 だけど手放すつもりもないらしい。一体何のために。僕の回復魔法を白銀の賢狼に使わせようとしてるとか? 死んでもお断りだ。

 考えても答えは分からない。だけどそんなことどうでもよかった。これはきっと最初で最後のチャンスだ。

 視界の隅ではアキツさんとサスケさんも苦戦を強いられている。というより、痛みに喘いでまともな反撃が出来ていない。

 身体のあちこちから少なくない血を流しながらも孤軍奮闘を続けていられるハルトが異常なのだ。


 どうにかしてこの状況をリセットしなければ。

 動けるのは一度だけ。今は様子を見ているだけだけれど、何らかの行動を起こせば狼も許すまい。

 回復魔法で一時的に痛みを消し去たところで、狼の数が多すぎてジリ貧なのは変わらない。

 何もかも、全部ひっくるめて裏返す方策があるとすれば。


 かつてない集中力で術式を構築。同時に隣の豚さんの方向へ首と眼球を限界まで回す。

 敵の位置を把握。数は3。今度は絶対に外せない。一瞬でいい、僅かにでも動きを止めさえすればいける。

 行動は一瞬だった。すぅっと息を吸い込んでお腹の中から声を震わせる。

「おぉぉぉ~~んっ」

 下手な遠吠えの真似に、頭上の狼がなんだこいつという顔をした気がした。

 それは豚さんを取り囲む狼も同じで、発生源である僕へと一斉に視線を向ける。


 作戦は成功した。一瞬の硬直を突いて背後から再使用可能になった【ホーリーランス】を放つ。

 死角からの攻撃は硬直していた狼の急所を寸分違わず刺し貫く。同時に回復魔法を展開して豚さんの傷を治療。

 ここから先は賭けだ。あれだけの激痛に苛まれた豚さんが冷静にいられるか。僕の願いを聞き届けてくれるか。

「爆裂魔法!」

 ここからじゃ転がる豚さんの姿は見えない。その瞳に未だ光が残っているかもわからない。だけど確かに、あの奇怪な叫び声が聞こえた気がした。


 刹那、豚さんの上空に球状の紅い炎が生み出される。僕の声はしっかりと届いていた。

 バチバチと紫電を纏いながら膨張を続け、断続的に生み出される熱波が頬を焦がす。

 いや、確かに爆裂魔法って指定したけど、まさか最高位の魔法を選択するとは。でもこれなら間違いなく灰色狼を消し飛ばせる。

 ここまで崩れてしまった陣形を僕一人の力で立て直すなんて無理だ。結局のところ回復はその場しのぎにしかならない。今必要なのは敵を殲滅できるだけの火力。

 今この場でそれを期待できるのは範囲攻撃が得意な豚さんをおいて他にない。

 フレンドリィファイア? そんなもん知るか。みんなのレベルと防具からして、たかだか魔法1発で消し飛ぶとは思えない。

 例え手足が吹き飛ばされようが生きてさえいれば僕が絶対に治してみせる。


「【レジストファイア】! 両手で目と耳を塞いで地面に伏せて! 口も開いて!」

 火属性耐性を上昇させる魔法を展開しつつあらん限りの声で叫ぶ。きっと今頃、みんなも何が起こりつつあるのか察しているはず。

 虚空の炎はいよいよ臨界点に達しつつあった。内圧に耐え切れなくなった表面が歪み、ひび割れた場所からは粘り気のある炎がどろりと滴り落ちる。

 灰狼達も異変を前に騒ぎ建て始めた。白銀の賢狼は忌々しそうに空を見上げ、並々ならぬ脅威を感じ取ったのだろう。

 くるりと身を翻し森の中へ逃げ込もうとした、が。

「はっ、あれだけ好き勝手にやらかしといて逃げられると思うなよ」

 その正面に剣を構えたハルトが立ち塞がった。腕には生々しい噛み傷を幾つも刻み、割れた額から流れる血が顔を染め上げている。それでもなお、瞳に宿る闘志は揺るぎなかった。

 6匹の狼がすかさず飛び掛かるものの、雑魚に興味はないとばかりに軽く振り払うだけで視線は白銀の賢狼を捉えて離さない。

 敵をこの場に縫い留める壁役なら得意中の得意なのだ。



 炎を取り巻く紫電がバチバチとより一層激しく明滅し轟音が大気を震わせる。

 歪に捩じくれた炎は遂に外殻を弾き飛ばし、極限まで圧縮された炎が凄まじい勢いで四散した。

 視界がホワイトアウトする程の閃光が森を飲み込んでいく。

 次いで衝撃破が木を次々と薙ぎ倒し、これまでと比較にならない熱量が熱さを通り越した、純粋な痛みとなって降り注いだ。

 瞬く間に乾燥した大地には数えきれないほどのひび割れが走り、森そのものが加速度的に崩壊していく。


 その只中で、僕は灰色の毛皮に埋もれていた。

 ついさっきまで四つん這いのまま四肢を抑えていた狼が爆発の直前に足を折り畳み、伏せの態勢に変わったのだ。

「な、んで……」

 さっきから何が起こっているのか全然わからない。

 最初は攻撃に備えるべく伏せたのだと思った。でも違う。狼は両足と口を器用に使い僕の身体を丸めてから自分の腹の下へ意図的に放り込んだ。

 今だって地面に伏すというよりは、僕を荒れ狂う炎から守っているとしか思えない。


 普通、これだけ大きな狼が伏せれば相当な重量が間にいる僕の身体にのしかかる。下手をするとそれだけで押し潰されかねないくらいに。

 それが手足を動かす余裕さえあるのだ。両足でわざと隙間を作っている以外に考えられなかった。

 あの時もそうだ。豚さんは狼に噛みつかれていたのに、どうして僕には何もせずただ押さえつけるだけだったのか。

 無意識の内に意外と柔らかな体毛を強く握りしめる。僕らと変わらない心臓の音が力強く響いていた。


 豚さんの使った【ウルティメイト・フレア】は炎属性の上級魔法だ。

 短い詠唱の割に広範囲・高威力だけど、消費MPとディレイが長く、使いどころが難しい。

 基本的には囲まれてしまった場合の緊急措置に使われる。まさにさっきみたいな状況の為にあるスキルで、だからこそ反射的に発動できたのだと思う。

 ゲーム時代から『頭で考えるより先に身体が動いて一人前』を目標に努力した結果だ。

 偶然にも動物種族かつ地属性の狼系モンスターとは抜群に相性がいい。フィールドボスでもある白銀の賢狼を除けばまず間違いなく殲滅できるだろう。

 それは今もこうして僕を守り続けている灰色狼とて例外ではあるまい。


 ……それでいいはずだ。どうしてこんな行動に出たのかは分からないけど、守ってくれなんて頼んでないし、僕らは敵同士なのだから。

 なのにどうして胸が痛い。これが全部ひっくるめて作戦なら相当な策士だ。

 今ならまだ、回復魔法と耐性魔法を展開するだけでこの狼を助けられるなんて考えてしまう。

 意味がないのに。魔法を防ぎ終わっても敵同士。僕が何もせずともみんなが動く。苦痛を二度に渡って与えるだけだ。

 このまま何もすべきではないのだと思い直した瞬間。小さな、しかし確かな苦痛に塗れた鳴き声が聞こえた。

 ずっと我慢し続けた痛みがここに来て限界に達したのだろう。残りの命はきっともうゼロに近い。

 気付いたときには連続で回復魔法を発動させていた。ついでに属性耐性と魔法防御を増加させる。文字通りの完全支援だ。

 もういい、悩むくらいなら行動して、そのあとで後悔した方がずっとすっきりする。

 第一、この体勢で死なれたら僕が押し潰されてしまうではないか。


 不意に、伏せていた狼が立ち上がった。ここぞとばかりに身体を転がして脱出を図る。

 ついでにサービスの回復魔法。これで互いにこれで貸し借りなしだ犬っころめ。

 鉄板の上に居るんじゃないかってくらい膨大な熱量が地面から湧き上がってくる。

 辺りは一面焼け野原で焦げ付いた肉の匂いが充満していた。その元凶であろう炭化した塊が原形を残したまま足元に幾つも転がっていて吐き気がこみあげてくる。

 あれだけ生い茂っていた草木は全てが灰と消し炭に変わり果て、干からびた地面の上に山と積まれている。

 ハルトの【インペリアル・ストライク】も相当だが、【ウルティメイト・フレア】も環境破壊具合ではトントンだ。


 立って歩いているのは僕と盾になった灰色狼1匹しかいなかった。彼もまた、仲間が1匹残らず消えて呆然としているように思える。

 そこへ掠れたうめき声が4つ重なった。ハルトと、アキツさんと、サスケさんと、豚さんの物だ。どうやら咄嗟に死体の下へ潜り込んだらしい。

 涙が出るほど嬉しくて、すぐに大規模支援魔法の行使に移る。ちょっと詠唱は長いけど、これなら全員を同時に回復できるはずだ。

 だが詠唱の7割が完成したところで何かが炭化した木々を盛大に跳ね飛ばした。

 今や身体全体が真っ黒に煤け、綺麗だった白銀の毛並みはどこにも残っていないが、白銀の賢狼であることに違いはない。

 流石はフィールドボス。相性抜群の上級魔法を受けてもなお揺るがぬ敵意を瞳に宿らせ、飛び掛からんと後ろ足に力を溜める。

 状況的には非常にまずい。ここで来られたら折角準備した魔法が不発に終わる。だけど不思議と不安はなかった。こういう時にこそ頼りになるやつがいるのだ。


「させるかよっ!」

 思った通り、足が解放される寸でのところで積み重なっていた障害物を弾き飛ばしながらハルトが躍り出る。

 こんなぎりぎりまでためる必要はないだろうに、毎回毎回いいところを持っていくやつなのだ。

「別にためてたわけじゃねーよ! 吹き飛んできた木で埋もれるは燃え始めるわで大変だったんだ! 今だって足が動かねぇよ!」

 何も言っていないのに察するとは。流石は腐れ縁。おかげで白銀の賢狼を恐れる必要もなくなった、と思いきや。

 白銀の賢狼が短く吼える。はっ、その程度でこの僕が動揺し詠唱を手放すとでも……と思ったところで視界の隅に焦げた毛並みを見つけ言葉を失う。

 ……そういえば1匹だけ回復させてたんだっけ。


「おま、なんで残ってるんだよ!?」

 ごめんなしあ、全面的に僕の責任です。選択を誤った……とは思いたくない。

「お願い、あの狼には何もしないから。みんなを助けたいだけなの、今は見逃して!」

 君は僕に恩があるはずだ。あるだろう。あるに決まっている。さっき貸し借りなしとか言ったけどやっぱダメ。最後におまけで【ヒール】してあげた分を今ここで利子つけて返せ。

 なんて思ったところで妄想が現実になるわけないと思っていた。なにせアレは群れのボスで、灰色狼はその側近。命令を無視するなんてできるとは思えない。

 思えなかったのに。灰色狼は困ったように一声吠えるただけでその場から動こうとしなかった。

「……ありがとう」

 もはや何の憂いもなく最後の1割を完成させる。

「【聖杯を満たす清浄なる雫。我らが身に受けし穢れを祓い癒す雨となれ】」

 詠唱に30秒という膨大な時間が必要な代わりに、味方全体のHPと状態異常をを超回復する支援魔法だ。


 凝縮された魔力が身体から抜け落ち空へ満たされ、次の瞬間には淡い銀色の雨となって周囲へ降り注いだ。

 一粒の雫がみんなの傷口に触れた途端、ほぅと一際明るい色を放ち、あったはずの傷と一緒に空気へ溶け消えていく。

 みんなの呻き声が瞬く間に薄れ意識を取り戻し始めた。

 これで完璧。どうだとばかりにハルトを見返したのだが、どうにも様子がおかしい。

「ハルト……?」

「おま、ヘイト管理!」

 一瞬、何を言われているのか分からず首を傾げる。

 この世界にそんな概念があるのだろうか。まぁ百歩譲ってあると仮定しよう。

 問一。折角苦労して追い詰めた敵が、たった一人の魔法によって完全回復されました。貴方ならどう思いますか。

 ……控えめに言ってお前殺す、絶対殺す、真っ先に殺す。


「早く逃げろ! 足が挟まれて動けねぇんだよ!」

 とん、と何かが目の前に落ちてきた。それは見上げるほどの背丈で、元は銀色だった身体を真っ黒に染めている。

 かつてない勢いで理性が逃げろと警告してくるのに、圧倒的な威圧感に気圧されて指一本たりとも動かせなかった。

 ハルトはこんな奴を相手によくもまぁあれだけ立ちまわれたものだ。

「カナタ!」

 名前を呼ぶ声に返事をする間もなく、白銀の賢狼の口がぱかりと開き僕の身体を咥えこむ。

 リディアさんお手製のクラルスリアは薄い布地にもかかわらず、そこらの鋼鉄製フルアーマーより遥かに硬い。

 おかげで牙が肌に突き刺さるスプラッタな展開にはならなかったけど、万力のような力で余すことなく身体を締め付けられ、身じろぎ一つできそうもなかった。


 2、3度、何かを確かめるかのように力が加わる。牙は刺さらなくとも圧力は抜けてくる。全身の骨が砕かれるんじゃないかと戦々恐々だったのだけれど、そんな気配もない。牙が通らないことに驚いたのだろうか。

 不意に爆発的な衝撃が身体を貫き地面が遠のいた。白銀の賢狼は跳躍一つでハルトの頭上を軽々と飛び越えてから崖の方向へ駆け出す。

 乱暴な動作が容赦なく頭を揺さぶり、手放しそうになる意識を繋ぎとめるのに必死だった。ジェットコースターなんて目じゃない。下手をすると首の骨が折れそうだ。

 しかしこの期に及んで逃走とは。僕を人質にしつつ、邪魔が入らない場所でじっくりと噛み殺すつもりだろうか。なにそれ怖い。


 みんなは狼に続いて【ウルティメイト・フレア】の直撃まで受けたのだ。

 生きたまま食われる恐怖、溶けた鉄を浴びせられるに等しい熱量。痛みは身体だけに留まらず、心にも深い傷を残したはず。

 僕の魔法で癒せるのは身体だけ。心はすぐに立ち直れない。動けるようになるまであと暫くはかかるはず。

 つまり、この状況を自分でどうにかできないと、たぶん死ぬ。


 杖なしの【スターライト】じゃ効果が期待できないのは証明済み。

 擦り切れそうな意識の中で必死に【ホーリーランス】を発動しようとする。

 でも、足りない。どういう理屈か知らないが、この世界にも再使用不可能時間(クールタイム)が存在している。

 アドレナリンの影響か、酷くゆっくりと流れる時間の中で、ハルトの絶望的な形相がまた1歩分遠のいた。あぁ、いつも楽観的だったあいつにも、そんな顔をする時があるのかと他人事のように思った。

 もはや手はない。本当はあったのに、冷静さを欠いて打つ手を見誤った自分の迂闊さを呪いたくなる。


 注目を集める全体回復ではなく、目立たない単体回復で遠距離攻撃手段のあるアキツさんを優先すべきだった。

 みんなの呻き声が聞こえた時点で生存は確定している。

 無理に急がず、必要な分の回復を必要な人だけに使うのはヒーラーの鉄則だったのに。

 だけど、目の前で仲間が倒れ苦しみ喘いでいるのに、どうしてゲームと同じ判断が出来ようか。

 あぁそうか、それが覚悟ってやつか。ならこの結末は必然で、どうしようもない。

 そんな諦めを、誰かの叫び声が引き裂く。


「させるかぁぁぁぁっ!」

 身体中を血と炭で染め上げたサスケさんが普段の口調も忘れ猛然と迫る。

 俊敏さを重視する関係上、誰よりも薄い防御で、誰よりも激しい痛みに苦しんだはずなのに、どれほどの覚悟があれば心を折らずにいられるのか。

 白銀の賢狼もあれだけの攻撃を受けて足を鈍らせている。

 ちらりと背後に視線をやり、爆発的な加速で追い縋るサスケさんの速度が想定を上回っていることに驚き、目を見開いた瞬間、右手が大きく振り抜かれた。

 鋭い刀身が賢狼の胴体に食らいつき分断せしめんと走る。ぎりぎりのところで身体を捻りどうにか致命傷だけは避けたようだが傷は決して浅くない。

 大輪のような血飛沫が空に咲き誇り、激痛に喉を震わせると僕の拘束も緩んだ。

「手を!」

 叫び声に誘われるまま必死になって手を伸ばす。次の瞬間には手首をがっしりと掴まれ、口内からずるりと引きずり出された。


「ハルトおぉぉぉぉぉっ!」

 空中でしかと抱きしめられたかと思えばそのまま元来た方角に放られ、ぐるぐると回る視界に情けない声をあげながら激突の衝撃に身構える。

「任せろ!」

 だが、幸いにも地面に叩きつけられる直前で、ようやく瓦礫から抜け出したハルトの腕にしっかりと抱きとめられた。

 荷物のような扱いに忸怩たる思いを抱かなくもないが、足を引っ張った手前、間違っても文句は言えない。

 兎にも角にもお礼を言おうと視線を上げて、しかし次の言葉を失った。

 サスケさんの背後で怒りに塗り潰された瞳がらんらんと輝いている。

 あれはまずい。何よりサスケさんは空中で無理やり僕を放ったせいで姿勢を崩し、背後の白銀の賢狼に対応できる状況じゃない。


「逃……」

 げて、と続けるよりも早く、白銀の光を纏った右足が無防備なサスケさんの背中に向けて振り下ろされた。

 身に着けていた防具のおかげで切断は免れたものの、凄まじい速度で地面へ叩きつけられる。

 僕らにとって一番怖いのは鋭い爪でも牙でもない。単純な力技による打撃だ。

 高位の防具は殆どの敵の攻撃を阻んでくれるけれど、衝撃だけは完全に受け止めきれず、防具を伝わって生身の身体まで届いてしまう。

 サスケさんやハルトは類稀なる俊敏性を活用し、攻撃される方向に身体を反らすことで力を逃がしているけど、地面相手ではそうもいかない。

 離れた場所にいる僕らにまで届くほどの衝撃は決して楽観視できる威力ではなかった。

 挙句、白銀の賢狼は未だ止まっていないのだ。


 自らの身体が大量の血を噴き出すのも厭わず、サスケさんを吹き飛ばした右足に加え、左足もまた燐光に包まれる。

 遠距離攻撃手段の乏しい僕らでは迎撃が間に合わない。

 自然落下による威力を加算した一撃が着地と同時にサスケさん目掛け容赦なく放たれた。

 先ほどとは比較にならない衝撃に大地が悲鳴を上げる。中心にいたであろうサスケさんの姿は捲れ上がる岩盤に隠れて見当たらない。


「サスケさんっ」

 咄嗟に駆け出そうとして、しかしその腕をハルトに掴まれる。

「待て、足場が!」

 ただでさえ崖にほど近い地盤は、豚さんの【ウルティメイト・フレア】によって水分を失い、干からびて脆さに拍車をかけていた。

 そこへ白銀の賢狼の強大な一撃が加えられたことで、本格的に限界を迎えたらしい。

 数え切れないほどの亀裂がそこかしこへ走り、地面がゆっくりと、しかし確実に傾いていく。

 落ちれば地下水の激流に飲まれ命はないといわれていた。そんな場所にサスケさんは一人取り残されようとしている。


「離して! 助けなきゃっ」

 サスケさんが無理に飛び出したのは僕が迂闊だったせいだ。何もせずに見ているなんで出来ない。

「カナタじゃサスケを運べないだろ! 俺が絶対連れて戻ってくる、だから待ってろ」

 言うなり、僕を安全圏に突き飛ばすと亀裂の向こうへ身を躍らせる。

 回復魔法をかけていられるほど悠長な時間はない。

 ハルトが冷静に断じたように、僕が行ったところで何の役にもたたないのは明白だった。

 また、見ていることしか出来ないのか。

 ……そんなのはもう嫌だ。だったら嘆いてなんてないで、自分に出来ることを探すしかないと、弱気になった心を奮い立たせる。


 僕に誰かを持ち上げて運べるような力はない。回復魔法も対象が視認できなければ発動できない。範囲回復魔法は詠唱が間に合わない。

 ないない尽くしで自分が嫌になる。どうにかして安全な場所へ彼らを退避させられないか。

 無理やりに移動させるような魔法は……いや、なにをいっているんだ。とびっきり適役があるじゃないか。

 崩落は既に取り返しのつかない範囲へ広がりつつある。巻き込まれれば落下は必至。残された猶予は少ない。

 まずはこの場所を位置記録。幸いポータルゲートの起動は一瞬で済む。あとはタイミングを見誤るなんてことがないよう、目を凝らしてハルトの姿を追った。


 探索は苦戦している。崩落しつつある地面はバランスを取るのが難しいのだ。

 それでもハルトは落ちたら助からないというプレッシャーを跳ね除け、這うようにして着実に先へ進んでいた。

 白銀の賢狼の姿は目立つ。さしもの彼も崩落は予想していなかったようで、必至に安全な地面へ飛び移ろうともがいている。

 だがあまりにも血を失いすぎた。震える足にかつての精悍さは感じられず、僕らよりずっと重い身体も今や足元の崩落を早める足枷でしかない。とても崩落から逃げられはしないだろう。

 あとはサスケさんさえ助けられれば全部丸く収まる。


「見つけた! 目を覚まして手を伸ばせ!!」

 崩落の瀬戸際、これ以上進めば戻れなくなる直前でようやくその姿を見つける。

 しかもサスケさんはゆっくりとではあるが自分の意思で手を伸ばしていた。

 生きてる!

 すぐにでも回復魔法をかけてあげたいけど、今は我慢。最悪の事態に身構えたまま2人を見つめた。

 ようやく安堵の表情を浮かべたハルトの手とサスケさんの手が触れ合った、刹那。白銀の賢狼が怒りの咆哮と共に足を振り下ろす。

 八つ当たりにも誓近い一撃によって、既に限界に達していた地盤がいとも簡単に砕け散る。その下に広がるのは空恐ろしいほどの空白。

 あいつ、自分が助からないと知って2人を巻き込みやがった!


 もはや周囲の地盤とは完全に切り離されている。いかに身軽な2人でも重力には逆らえない。

 視界の隅で白銀の賢狼が勝ち誇ったように僕を見た気がした。

 諦めてたまるもんか! 傍目にはどうしようもない状況を前に、僕は準備していた魔法を発動させる。

「入って!」

 2人のやや下方、落下予測地点に淡い光の扉が口をあけた。

 空間に干渉する【ポータルゲート】は地面に接している必要がない。あそこさえ潜れば崩落を免れた安全なこの場所へ転送される。

 チャンスは1度だけ。これを逃したら今度こそ本当に間に合わない。


 先んじて落下を始めたハルトが先行し、サスケさんの手を引いて位置を合わせる。

 その調子、あと少し、ほんの2メートル。なのにそれがとてつもなく長い。

 お願いだから間に合って。心からの願いは、しかし怒りの咆哮によって引き裂かれた。

 白銀の賢狼が【ポータルゲート】の効果を知っているとは思えないが、何かを感じ取ったのだろう。

 並んで落ちていた大岩を屈強な前足でハルト目掛けて殴り飛ばした。


 やけにゆったりと流れる時間の中で大岩が2人に迫る。その速度は目算で、ポータルゲートに触れるよりも僅かに……速かった。

 逃げ場のない空中で衝突すれば間違いなく軌道がずれる。【ポータルゲート】にそれを補って余りある大きさはない。

 絶体絶命の最中で今度こそ白銀の賢狼が笑った。もう打つ手は残されていない。

 思考が絶望に染まる最中、そのときが訪れるより僅かに早く。

 傷だらけのサスケさんがハルトの手を引き上げ、大岩の軌道からそっと押し出したのだ。

 刹那、飛来した大岩は寸でのところでハルトには触れず、かわりにサスケさんだけを崖の方向へ弾き飛ばす。

 白銀の賢狼は落としきれなかったハルトへ向かい身体を捻り空を泳ぎ、次の瞬間、かろうじて触れた前足を取っ掛かりに纏めてポータルゲートへと飲まれた。


「嘘、でしょ」

 サスケさんの姿が見る見るうちに遠ざかり、続いて限界を迎えた地盤が轟音と共に崩れ落ちて光すら届かぬ闇の中へ消えていく。

 これじゃ仮に崖へ取り付けたとしても堪えきれない。

「らんらんの見間違い、よね。落ちてなんかないよね」

「なんだよ、今の……。サスケはなんで、どうして、どういうことだよ!?」

 いつの間にか隣にはアキツさんと豚さんが並んでいた。呆然と、或いは憤然と、今しがた目にした光景を受け入れられずにいる。

 すとん、と背後から音がした。

 あろうことか、ハルトの隣にはサスケさんではなく、後を追いポータルゲートに触れた白銀の賢狼が牙を剥いている。

 どうして、なんで。これじゃ何の為にサスケさんは!

 力なくへたりこみ土を握り締める。乾いた土にぽたりと涙が染み込んだ。

 無気力に崩れていく崖を眺める僕らをひとしきり眺めてから、白銀の賢狼は身体を引きずるようにしていずこかへと走り去る。今さら後ろ姿を追いかける気力はどこにもなかった。


「俺、探さなきゃ……」

 ふらりとアキツさんが足を進める。どうにか崩落は止まったけど、抉れた地面には幾つもの亀裂が浮かび上がり不安定なままでいつまた崩れ始めてもおかしくない。

 現に体重をかけた部分がぼろりと欠け落ち絶壁を転がっていく。

 アキツさんの身体が自然と傾いだ。なのに体勢を立て直そうともせず、なすがままに崖へ引き込まれていく。

 それはまるでサスケさんの後を追おうとしているようで、しかしすぐに唇を噛み締めたハルトによって引き戻された。

「離してくれ……。あいつは親友なんだ、こんなところに置いていけるかよ!」

 崖は乾燥した土でできていて触れると砂のように崩れてしまう。いくらアキツさんでも降りるのは自殺行為に等しい。

 本来ならそれを止めるべきなのだろう。でもハルトは辛そうに目を伏せたまま頷いた。


「別に止めるつもりはねぇよ。どうしても行くなら、俺も行く」

 思いも寄らぬ言葉にアキツさんの瞳が揺れる。

「なら、私も行きます」

 こうなった責任の一端は僕にあるのだ。進めば十中八九落ちて死ぬとしても、一人だけ待っているなんてできなかった。

「どうするかはアキツが決めてくれ」

 ハルトの言葉にアキツさんの顔が躊躇うかのように歪む。


 光すら届かない崖が地下水脈まで続いているとするなら、少なく見積もっても百メートル。

 無事に降りきったとしても森に染み込む膨大な水が集まってできた激流は全てを飲み込んで押し流してしまう。

 サスケさんが奇跡的に五体満足のまま水面へ落ちていたとしても、ぼろぼろの身体で激流に逆らえるとは思えず、地下に呑まれてしまえば窒息は免れない。

 アキツさんにだって生存の望みが限りなく薄いことくらい分かっていた。だけど何もせずにはいられないのだ。ただ諦めたら見殺しにしたのとかわらないではないか。

 足元が崩れて吸い込まれそうになったとき、抵抗を放棄したのはそう思っているからだ。

 ハルトが止めなければ本当に飛び降りていたかもしれない。


 説得は無理だ。何を言ったところでアキツさんの心を晴らすなんてできっこない。

 ならば納得するまで付き合おう。それがハルトの出した単純にして明快な結論だった。

 このまま1歩進めば何の躊躇いもなく後に続くと分かる。そこにあるのは計算でも打算でもない、ただの純粋な善意の塊。

 だからこそ、アキツさんは決断できない。

 何を言われても行こうと覚悟していた自分と、何を言われても続くと覚悟してみせたハルトは本質的に同じだ。

 自分が行けばハルトも来る。それを知った上で崖を降りると言い出せるほど、アキツさんは向こう見ずでも無責任でも、まして冷たくもなかったから。

 自分のせいで誰かを危険な目に合わせるなんて真似が、聡く優しい彼にできるはずもなかった。


「なんで、ついて来るんだよ」

「そんなの、アキツがサスケを探しに行くのと同じ理由に決まってんだろ」

 感情を押し殺し掠れた声にハルトが当たり前のように返す。

 もうどうしようもないのだと理解して、アキツさんは喉など張り裂けてしまえとばかりの声で叫んだ。

 怒りと、悲しみと、後悔と、やるせなさが入り混じり、隠すこともなく大粒の涙を零す。

 暫くそうしてから、不意に立ち上がって、何かを堪えるように切り出した。

「帰ろう……」

 本当に良いのかと問いかけようとして、しかし口を閉ざす。

 アキツさんがそう決めたのなら何も言うべきではない。押し黙ったまま町の近くのポータルゲートを開いた。

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