辺境の街と夢幻の救者-7-
見上げた空は透き通るような蒼から朱へと染まりつつあった。
辺りが森に囲まれているから見えないけれど、今頃は太陽が地平線へ傾き始めているに違いない。
「風が冷たくなってきましたね……」
日中では爽やかに感じられた風も、太陽が薄れるにしたがって肌寒さに変わり始めている。
クラルスリアの耐寒性は文句なしに高いのだけれど、付属のコートは前面のスカートを際立たせるとかいう理由で前だけ覆われていない。
風上を向くとスカートの中に吹き込んできた風が行き場を失い好き勝手に暴れるのだ。
アリアドネの糸で編まれたというストッキングの保温性は折り紙つきだけど、絶対領域うんぬんとかいう理由で太ももの半ばまでしか届かず、時折吹き抜ける強い風が無防備な生肌を無遠慮に撫でまわしてくる。
ゲーム時代は粒子で表現される水や風の再現にどうしても限界があったので気づかなかったけれど、これはもう構造的な欠陥ではなかろうか。
もしリディアさんにまた会えたならその辺りの事情を聞いてみたいけれど、お洒落には我慢も必要の一言で切り捨てられそうな気もする。
が、生憎と僕はお洒落に命を懸けるほどの女子力はない。機会があれば前も閉じられるコートを買おうと胸に留めつつ冷えてきた腿を手で摩った。
「夕暮れ時までには帰るようにって言われてたし、そろそろ終わるか」
そんな僕の様子を横目で確認したハルトが空を見て提案する。
「散々動きまわって拙者も疲れたでござるよ」
みんなもだいぶ疲労が溜まっているようだ。幾人かは腿を摩る僕の様子をちらりと見ていた気もするけれど、男の子だし仕方あるまい。
町の近くで大規模な魔法を何度も行使するのは躊躇われたのと、身体能力を把握できればと思って、結構な長距離ハイキングを敢行してここまできた。
プレイヤーのステータスと支援魔法による強化が合わさり、相当な距離を移動できたに違いない。
最初は別の町についてしまうのではないかとわくわくしたりもしたのだけど、結局最後まで一度も他の町や人影らしきものは見つけられなかった。
魔物と遭遇しなかったことを喜ぶべきか、力試しが出来なかったことを嘆くべきか。どちらにせよ、世界の広大さがゲーム時代と比較にならないのは明らかである。
挙句、何の目印もなしに歩き続けたので、もしこのまま来た道を引き返したなら辺りが暗くなっても元の町までたどり着けなかったことだろう。
だが、この世界では煩わしい帰り道が必要ない。
僕はぱたぱたとはためくスカートの端を抑えながら町のすぐそばに繋がるポータルゲートを起動させた。
光の扉を潜り抜けると景色は一変し、町を守る壁が朱色に彩られている様が遠くに見て取れる。
町の中でも位置記録はしているのだが、朝早く外門を通り抜けた僕らが外門を通らずに町の中へ現れるのはまずい。
ポータルゲートの存在は関所の類を無意味なものに変えてしまう。
町の権力者からすればとてもじゃないけど看過できまい。密入国は勿論、密輸による関税逃れも思いのままなのだから。
そんなわけで僕らはこの魔法の事をひた隠しにすることに決めた。雉も鳴かずば撃たれまい。下手に藪をつついて蛇を出したくないし。
万が一にもポータルゲートから出てくる姿を見られるわけにもいかないので町を出て暫く歩いた場所にも記録を取っていた。
何食わぬ顔で外門を潜り抜けると思いのほか明るく、夕飯まで少しばかり時間がありそうだ。
この機会に町の中を見て回るのもいいかもしれない。みんなは最初にある程度調べて回ったみたいだけど、僕はどこに何があるのか全然知らないし。
「夕飯まで自由時間にしませんか?」
僕の提案はあっさりと受け入れられた。今はディールさんからお礼として受け取らされたお金も配っている。少しくらいなら買い食いだって出来るはずだ。
「それなら前に美味しそうなパン屋を見つけたんだけど一緒に行ってみない?」
「ごめんなさい、実は他に買いたい物があって」
折角のお誘いはありがたいのだけれども、実を言えば自由時間を言い出したのは一人で買物をしたかったからだったりする。
「ん、何か欲しい物でもあるの?」
アキツさんはなんとなしに訪ねたのだろうけれども、気まずい思いをさせてしまうと思って口ごもる。
「あー、えっと……下着の替えが欲しくて」
寝巻きは女将さんに借りればいいとして、下着類だけはどうしようもない。替えを持ち歩く習慣があるわけもなく、今来ている1セットしか持っていなかった。
「え、あ……ご、ごめんっ」
予想は的中してしまった。それにしても何故謝るのか。そっかーくらいで軽く流してくれれば済むのに。
いや、そもそも非モテ同盟を憚ることなく口にしていたみんなだ。扱いに慣れていなくて当然。
結局気まずい雰囲気は消えないままお互いに顔をそらす。
「でも流石にカナタちゃんを一人で歩かせるのは心配じゃない?」
町の中は安全だと思うけれど、悪党が絶対にいない確証はない。僕の力は大人の男性を撥ね退けられるものでもないし、万が一という可能性はある。
「えっと、じゃあ誰か、私の下着選びについてきてくれます?」
刹那、一瞬にして視線を外されてしまった。
デパートの紳士服の隣に併設されている婦人用下着売り場すら直視できないピュアボーイズにとって、例えここが異世界であったとしても、女の子と一緒にそうした店に入るなんて敷居が高すぎる。
仮に僕がみんなの立場だったら面倒だし同じ反応を返しただろう。
「あー、ハルトが適任なんじゃないかな、前衛だし」
「そうね、らんらんは後衛だから無理かなって」
「ぼぼ僕も錬金術師で力はないですから! お守りするには力不足かと!」
「せ、拙者はちょっと用事を思いついたでござる!」
「じゃあそういうわけで、ハルト、しっかりと守ってあげるんだよ!」
まるで事前に打ち合わせをしたかのような素早さで男子5人はすたこらさっさと逃亡を図る。
後に残されたハルトはややの間を置いてようやく状況を理解し。
「お、お前らふざけんなよ!?」
遠ざかりつつある裏切り者の背中に向けて怨嗟に塗れた叫び声を口にするのだった。
しかし時すでにおすし。今ここで僕をおいてみんなの後に続けるほど薄情な性格はしていないのだ。
「ほら、もう覚悟しなって」
ぐだぐだと終わらない愚痴を零すハルトを引きずるようにして目的の店を探す。
道行く人に尋ねたところ、町外れの方に女性向けの服屋があるらしいのだ。
「何で俺ばっかりこんな役周りなんだよ……。男なら1度は夢に見るランジェリーショップだぞ。彼女とデートで入ってこれ可愛くないとか、こっちも似合うねとか、ちょっと大胆なのも良いと思うよとか、あるべきだろ、そういうドキドキイベントが! なんでそれを親友と消化しないといけないんだ……俺が何したってんだよチクショウ。つかあいつら散々俺にデキてるだのなんだの疑っておいてどうして俺に行かせるんだよ。おかしいだろ色々と!」
結構長いこと親友していたつもりだったけど、昨日から引き続きまさかここまで夢見がちな男の子だったとは。というかデートで下着売り場ってありなのか。
「ハルとそういう店に入ったことはないの?」
元の世界でも身の回りのことは買物を含めほとんど兄妹で力を合わせてこなしていた。てっきりそういう機会もあったんじゃないかと思ったけど。
「今までは頼まれても店先までで入店は断固拒否してきたんだよ!」
どうやら水際で堪えていたらしい。先ほど熱く語った、人生で初の下着売り場デートでドキドキするために。健気といえばいいのか、馬鹿といえばいいのか……。
「というか別に今回も入らなきゃいいじゃん。選び方は店員さんに聞けばいいし」
「……あ」
どうやら本気で気付いていなかったらしい。今まで散々つき合わせたことから、付き合わねばならないという強迫観念じみた何かになってしまっているのかもしれない。
夢を諦めずに済んだことでハルトの足取りも普段の調子を取り戻した。
「ううん、確かこっちだと思ったんだけど……」
クーイルは直径200メートルほどの楕円形をしている。最初はもう少し小さかったらしいけれど、村々の人口が増え、取引量の増大に伴って商会が繁栄するうちに幾度か拡張工事をしたらしいのだ。
当初は広々としていた区画も相次ぐ入居と建築ブームで混沌とし始め、持ち主不明で放棄された廃屋や使われなくなった倉庫も権利関係が曖昧で撤去しづらく、端の方は複雑に入り組んで迷路と化していたりする。
標識や地図なんてものも期待できないので頼れるのは自分の感覚だけ。
頭の中で歩数と方角を元に正確なマッピングを行う技術がなければ出られなくなるところだった。
「こんなところに店があるとは思えないんだが」
先導したのが僕だったので素直に頷きたくないけど、進めば進むほど活気は薄れ、穴の開いた土壁や朽ちかけた屋根といった寂しさを感じる風景ばかりが目に付くに従い、認めざるを得なくなる。
どこかで道を間違えたのだ。
「あと少しだけ進んで抜けられなさそうなら戻ろうか」
諦めを滲ませながら、それでも折角ここまで来たのだし、あと少しだけならと望みを託し先を急ぐ。
一際古く、今にも腐り落ちそうな家屋の隣を通り過ぎると、遂にクーイルと外を隔てる外壁にぶち当たってしまった。
「はずれだな」
「うぅ……」
外壁の辺りはメンテナンス性を重視して広い空間が確保されている。元来た道を戻るべきか、外壁伝いにぐるりと回ってお店を探すべきか。
いや、外壁伝いに人がいるとは思えない。やはり元来た道を戻って誰かに道を聞こうと思いなおし踵を返そうとして、ふいに思いとどまった。
外壁の内側ってどうなっているんだろうか。ちょっとした興味がわきあがってどうせなら1度くらい覗き込んでみるかと足を進める。
ハルトはあきれた様子で肩を竦めたが、さして時間を取るわけでもなし。ほんのちょっと覗くだけ。ただの気まぐれに過ぎない行動だったのだけれど。
「……人が、倒れてる」
「は?」
思いも寄らない場面に遭遇してしまった。
外壁に背を預ける形で手足を放り投げている姿はとても休憩中には見えない。
陰になっていて顔は良く見えないけれど、身体は僕よりもずっと小さかった。子どもだ。たぶん、10歳くらいじゃなかろうか。
中世じゃ死体が路地裏に転がっているなんて日常茶飯事だったっていうし、もしかして彼も。
見てしまった以上、放置なんて出来なかった。突然跳ね起きて襲ってくるなんて展開はないと思うけど、恐る恐る距離を詰める。腐敗臭はない。そっと手を伸ばして触れると身体は意外にも燃えるような熱を持っていた。
「生きてる、けど、凄い熱」
なにかの病気だろうか。しゃがみこんで顔を覗きこむと息を呑んだ。商会から使いとして僕らを案内してくれたあの少年だったのだ。
「大丈夫なのか?」
「わかんないけど、意識がないみたい」
心配そうに尋ねるハルトへ曖昧な言葉を返す。呼吸の間隔と脈拍は異様なくらい速くて、呼びかけても頬を叩いても反応はなかった。とても寝ているとは思えない。
意識を集中して体力と状態異常の回復魔法を展開。だけどそれだけじゃ、既に篭ってしまった身体の熱を取り除くには至らない。
「ハルト、残ってる水を全部出して」
演習の時に持ち込んだ井戸水はインベントリの中にしまっておく限り冷たさを維持できる。
まずは少年の身体を日陰に引き込んでからそっと地面に横たえ、頭を自分の膝の上に乗せる。
続いて清潔な布を取り出すと、ハルトから渡された水をたっぷりと含ませて首筋と足の付け根、わきの下に押し込んだ。
「なんでもいいから扇いで風を起こしてあげて」
体温を効率よく奪うなら気化熱を利用した方が早い。太い血管を冷やすのと平行して、濡れた布で額や胸元を湿らせてから風に当てる手順を繰り返す。
ものの数分で少年の体温は僕と変わらない程度に落ち着いてくれた。
暫くそうしていると、少年は苦しそうな呻き声を漏らしながらも、ゆっくりと目蓋を開く。
「目が覚めましたか?」
「あれ、オレどうして……」
まだ意識がぼんやりとしているみたいだけど、回復魔法はちゃんと効果があったみたいだ。
「もう少し休んだ方がいいです」
頭を撫でながら静かに告げる。寝てしまった方が回復も早いし、商会を尋ねれば少年の家も分かるだろう。
少年はまた少しうとうとして、そのまま眠りにつくのかと思いきや、唐突に目を見開き跳ね起きた。
「うぁっ」
「ちょ、ダメですよ! 安静にしてないと!」
無茶な動作に血圧が跳ね上がったのか、頭を抑えてよろめく身体を咄嗟に抱きとめる。
「仕事、終わらせないと……」
だけど少年は僕の腕を振りほどき、社蓄の鑑のような言葉を残して立ち上がろうとしていた。
一体何が彼をそうまでさせるのかは分からないけど、こんな状態で放ってはおけない。
「仕事って何をしてるんですか?」
「外壁の確認。オレに出来る仕事はまだ少ないから、ちゃんとこなさないと」
多分、壁に綻びがないかをぐるりと歩き回って確かめる仕事なのだろう。
まだ幼い少年は複雑な計算を求められる帳簿には関われないだろうし、最も人手を必要と擦る荷運びも力もないので手伝えない。
足を使った連絡や雑用を始めとした、誰にでも出来る仕事を任されているのだろう。
逆に言えば、それすら満足にこなせないようでは、今後も大きな仕事を任せて貰えないと分かっているのだ。
だから自分の体調が悪くても無理をするしかないと思い込んでいる。
「それって、外壁をぐるっと見て不具合がないか確かめるだけでいいんですか?」
「う、うん」
そう難しい作業じゃなさそうで安心した。
「仕事はそれで終わりですか?」
「えっと、今日はそれから、墓地と雑貨屋の掃除が残ってて、あと水汲みの依頼も……」
念のために聞いただけのつもりだったのに出るわ出るわ。まさかここまで過密スケジュールだとは思わず閉口する。
「どうしてそんなにたくさん……」
そもそも森へ入りづらくなったことで町の労働力は余り気味なのではなかったか。
とても10代の少年ひとりに押し付けるべき仕事量じゃない。
「もしかして誰かに押し付けられたんですか?」
「違う、オレがお願いして増やしてもらったんだ。商会のみんなはまだ早いって、焦る必要はないって、簡単な仕事を少ししかくれないから」
最悪の予想は少年によってすぐさま否定された。嘘を言っているようには見えなかったのでひとまずはほっとする。
僕らを案内してくれた時も、商会の人達からは可愛がられてるみたいだったし、話しぶりからしても大切にされているのは伺える。
でも、それならどうして。
「父さんは行商人だったんだ」
クーイルの行商人は他の地方の行商人と違い、需要が少なく儲けも期待できない代わりに定住しやすい。
村々を巡るルートも程近く、家を長期にわたって留守にする必要がないのだ。
必然的に家庭を持つ人も多く、彼もまたそんな家庭に生まれた。
行商人だった、と少年は力ない声色で言った。過去形なのは職を廃したから……ではないだろう。
狼に襲われて命を落としたのだ。
そうか、だから商会の人達はこの子を気にして、明るく声をかけていたんだ。
「爺ちゃんが絵描きで結構人気あったし、母さんも働き出したから生活はなんとかなってるけど、ちょっと前から爺ちゃんが体調崩しちまって、この辺の薬じゃ治らないみたいなんだ。だからオレが稼いで次に来るキャラバンからもっといい薬を買うんだよ」
少年の口から語られた経緯に、どうしてそうまでして仕事を掛け持ちしていたのかやっと理解する。
確かな決意を感じさせる少年の意志はとても尊いもので、褒めて然るべき物かもしれないけれど。
無意識のうちに容赦のないデコピンをぶちかます。
「いったぁ!」
バチンと景気のいい音がしたかと思えば少年は額を押さえてうずくまる。
「気持ちは分からなくもないけど、だからって自分が倒れたら何の意味もないってこと、分かるよね」
涙目でこちらを見る少年に視線を合わせるとむくれてそっぽを向かれてしまった。
「正直にいいなさい。体調、悪かったんでしょ?」
「……朝から頭が痛くて、ちょっと吐き気がして、なんか異様に寒かっただけだし」
「……それは重症って言うの」
しぶしぶと口にした諸症状に言葉を失う。
よくもまぁそんな状態で仕事にかかろうとしたものだ。きっと何も出来ないまま父親を亡くしたから、お爺さんだけはなんとしても助けたかったのだろう。
「ハルト、お願いがあるの」
話を聞く限り僕に出来ることもありそうだ。要はお爺さんの病気さえ治れば仕事を詰め込む理由もなくなる。
でもその前に少年が抱えている仕事を片付けなければ。
経緯はどうであれ、純粋な思いで頑張り続けてきた少年の評価を下げたくない。
「分かってる。夕飯前の一仕事には丁度いいだろ。あいつらも巻き込んでさくっと終わらせてやるさ」
巻き込まれる皆にはあとでお詫びを考えなければなるまい。
「ま、待ってくれ。俺が任された仕事なんだ!」
少年は自分を置いて進んでいく話に慌てて口を挟む。
「だな。でも失敗したんだ。諦めろ」
ハルトにしては珍しい突き放すような言葉だったけれど、それが正しいと分かっているだけに悔しげに唇を噛んで肩を震わせる。
「あのな、仕事を頼む奴はみんなお前を信頼してるんだよ。きっちりこなせる確信がないのに請け負うのはそれを裏切るのと同じだ。体調が悪いなら日を遅らせるとか、誰かに変わってもらうとか、他に方法はあるだろ? お前が真面目に頑張ってる限り、そのくらいの融通はちゃんと利かせてくれるさ」
ぐうの音も出ないほどの論破。腕の中に納まる少年がみるみるうちに萎れていく。
少し可愛そうな気もするけれど、僕らが通らなければどうなっていたことか。それに、この子の姿がどうしても思い出と重なってしまうのだ。
「でも、じゃあどうすればいいんだよ……」
無理をしたくてしているわけじゃない。それ以外に方法がなかった。
ハルトの言い分が正しいと頭では分かっていても、認めるわけにはいかない事情がこの子の胸の中にはあるのだろう。
そんな時にどうすればいいのかをちゃんと知ってもらわなければ。
「一人で考え込まないで、周りの人に助けを求めるんです」
アクセル全開で突っ走るだけではいつか脱線する。
本来、自分ひとりでどうにかしなきゃいけない状況なんて早々あるものではない。
ある日突然、見知らぬ森の中に一人ぼっちとかならともかく、少年には家族がいて、知り合いもいる。
一人でどうにかしなければならないと思ってしまった時点で視野狭窄なのだ。
そのまま突き進んでもいずれは前しか見えなくなって、大抵ろくでもない結果に行き着くのが世の常である。
「ま、今回は運が良かったと思ってあとは任せろ。カナタも、戻りは一人で大丈夫そうか?」
「うん。フル支援を維持していくから」
ハルトは未だ釈然としない様子の少年の頭を乱雑にかき混ぜて微笑みかけると壁伝いに歩き出す。
先に外周のチェックを済ませるつもりでいるらしい。
「それじゃ、私達も行きましょうか。【強化】っと」
自分に能力強化をかけると、借りてきた猫のように大人しくなってしまった少年を胸に抱き上げてから立ち上がる。
あと2-3歳も育ってたら身長差がなくて上手く行かなかったかもしれない。
「う、うわ!? い、行くってどこにだよっ」
よもや抱っこされるとは思っていなかった少年が驚いてしがみついてくる。
「決まってるじゃないですか。病人はお家で寝てるものです」
ずり落ちないようしっかりと手を回してからひとまず歩いてきた道を引き返し始めた。
「お家って……オ、オレはもう大丈夫だから! なんか気分悪いのも治ってるし」
「私が治したんだから当然でしょ。とはいえ1日くらいは様子を見ないと。凄い熱だったんだから、無理はダメだよ」
「ならせめて自分で歩けるから! 降ろしてくれ!」
「それもだーめ。いいから暴れないで。それとも、もっとぎゅってされたいの?」
試しに宣言通り、今まで以上に身体を密着させてみると諦めたのか少年の身体から力が抜けていった。
「ここはどっちですか?」
「……右。3個先を左。その2つ先が家」
女の子に抱き上げられているのが恥ずかしいらしく、顔を真っ赤にした少年が上擦った声で道を告げる。
少年の家はクーイルの中心に程近い場所にあった。
大通りを進む方が近道だったのだけれど、それだけは絶対に止めて欲しいと涙目で懇願されてしまったので入り組んだ小道を迂回して進んでいく。
とはいえ、やはり中心に近いだけあって人通りがないわけじゃない。
加えて入り組んだ小道を使うのはこの辺りに住むご近所さんと相場が決まっている。
すれ違う人は誰しもが僕に抱きかかえる少年へ微笑ましい視線を投げかけていた。
「絶対、噂になる……」
「自業自得です。次はこうならないように気をつけないとね?」
うぅと呻き声を漏らしてから、せめて顔を見られまいとしがみつかれてくすぐったさを覚える。
本人は完璧に隠れているつもりらしいけど、知る人からすれば後姿だけでも誰かわかるだろうに。
そんなささやかな抵抗がいかにも子どもっぽくて可愛らしく、思わず頬が緩む。
少年はそんな僕の顔を見て自分が笑われたのだと思い、少しでも隠れようと余計にしがみつくのだった。
たどり着いた家はがっしりとした二階建てで、小さな庭も備えた立派な木造家屋。
軽く扉を叩くとまだ若々しい母親が顔を覗かせ、抱きかかえられた少年の姿に目を丸くした。
「き、キエルじゃない! 一体どうしたの!?」
「……えっと、外壁の確認をしに行ったらなんか倒れたみたいで、この姉ちゃんに助けてもらった」
「あんた朝気分悪そうにしてたの、全然大丈夫じゃなかったんじゃない!」
歯切れが悪くはあったが、少年は素直に身の上を白状した。この分では朝から兆候らしきものがあったらしい。意地だけであれほどの症状を隠し通すとは見上げた根性だ。
母親が呆れながらも叱り付けると逃げ場を探すように腕の中へもぐりこもうとする。
「ごめんなさい、重かったでしょう?」
もっとも、逃れる隙間なんてあるはずもなく……少年はあっという間に母親の腕に捕まえられてしまった。
「何もないところだけど入って頂戴。お礼もしたいから」
「はい、ではお言葉に甘えて」
家の中はがっしりとした木材を主柱として、幾本もの梁を通し、土壁で区切る手の込んだつくりをしていた。
森と生活を共にしているから木材の加工技術が進んでいるのかもしれない。
使い込まれたリビングのテーブルも一枚板で年輪が浮き出ており、骨董品のような味を感じる。
よく磨かれた椅子に座ると井戸水で作った冷たいお茶を差し出してくれた。
少年はその間に母親の命令によって自室のベッドへ追いやられ、完全休養を言い渡される。
不満そうな表情は隠しきれていなかったけれど、高熱でうなされていた時の疲れは残っていたのかもしれない。すぐに寝息をたて始めてしまった。
「ごめんなさい、私ったら名前も聞かずに。あの子の母親でメリーっていうの。今日はわざわざありがとうね」
「私はカナタって言います。今ちょっと商会の方にお世話になってて、キエル君とはそこで会いました」
無難な自己紹介を終えると、メリーは前のめりに尋ねてくる。
「それであの子、どんな感じだった? 見たところもう大丈夫そうだけど……」
少年の前では取り乱すこともなく気丈に振舞っていたけれど、本心ではかなり心配していたのだろう。
朝の時点で不調を抱えていたのではないかと疑っていたみたいだし。
「私見ですけど、かなり危なかったと思います。特に熱が凄くて、外壁にもたれかかったまま意識もありませんでした」
僕の言葉に目を見張る。
「そこまで……? でもあの子は」
まぁ確かに、今の様子からしてさほど深刻な事態ではないのではと思っても仕方あるまい。
だけどここで適当に誤魔化してしまえば、またいつ少年が無茶をしでかすか。
監視の目は増やしておくに越したことはない。これほど心配しているならなおさらだ。
問題はどうやってそれを説明するか。
「実は私、こう見えて回復魔法に自信があるんです。今回の件をお話しする前によければお爺さんの容態を見せていただけませんか?」
なんにせよ、話をスムーズに進めるためには僕の能力を分かりやすい形で証明する必要がある。
怪訝な表情を浮かべてはいたけれど、息子の恩人の頼みとあっては無碍に出来ず、角の一室に案内された。
「お爺様、お客様がいらしたの」
傾きかけた太陽で赤く照らし出された部屋の中は綺麗に片付けられたリビングと違い、多くのイーゼルやキャンパス、色とりどりの絵の具と形の違う筆が散乱していた。
ベッドの上には頭髪が斑に白く染まりつつある壮年の男性が気難しい顔のまま胡坐をかいて座りこんでいる。
「客……?」
衰えを少しも感じさせない研ぎ澄まされた視線がメリーさんの隣に並ぶ僕の姿を射抜き、次の瞬間、大きく見開かれた。
「えっと……」
穴が開くという表現がこれ以上ないくらいぴったりくる、つま先から頭の天辺までを何度も舐めつけるような視線が這う。
ただ、いやらしい感じはしない。まるであるがままを目に焼きつけ、記録しようとするかのようだった。
とはいえ気迫は相当なもので、中身が男の僕でも若干腰が引けてしまったのだけれど
「お爺様、失礼ですよ」
メリーさんの注意にお爺さんがはっとして視線を逸らしす。
「まさかこんな時に逸材が現れるとは、遂に神とやらにも見放されたか」
続けて紡がれた言葉の意味は分からないけれど、声からは暗い落胆の色が滲み出ていた。
「ごめんなさいね。お爺様はこの通り絵描きなの。でも原因不明の病気で指が上手く動かなくなってから塞ぎこんでいるのよ」
壁には世界から繰り抜いたかのような景色が並べ飾られていた。霧に霞む草原、涼しげな泉、木陰で休む動物達、今みたいに燃えるような夕暮れ。
絵に詳しいわけじゃないけど、大自然が持つ迫力や息吹を肌に感じさせようとする力強い絵だった。
視線を巡らせると人物画もちらほら見て取れる。
一番多いのは笑う少年の姿で、大自然の絵とはまた違った優しい筆遣いに思わず心が軽くなる。お爺さんが孫の少年をどれほど大切にしているかが痛いくらい伝わってきた。
「それで、この老いぼれに何か用かね」
「あの子が道端で倒れたのを助けてもらったのよ」
メリーさんが戸惑った様子で告げると、お爺さんはくわっと目を見開き、あからさまにうろたえる。
「なんだと!? あの子は大丈夫なのか!?」
さっきまでの不思議な威厳はどこへやら、ついくすりと笑ってしまった。
なんだ、あの子の周りにはこんなに頼りになる人達がいるんじゃないか。
お爺さんの病気を治す薬が欲しくて、無茶なスケジュールで仕事をしていたことを、二人は全く知らなかった。
夜帰ってくるのが遅かったり、朝起きたらもういなかったり。
心配はしても、商会で仕事を教えてもらっている分には信頼できる大人達が見ているから大丈夫だろうと思っていたらしい。
それ自体は間違いなく、商会の大人達も少年をどちらかといえば甘やかして、ゆっくり仕事を覚えればいいと簡単な仕事から任せていた。
が、その裏では商会経由で得られた伝手をフル活用して独自の営業をかけていたらしい。
仕事を頼んだ人も商会を経由していると勘違いし、少年一人が全てこなしていたとは思っていなかったんじゃなかろうか。
今日の予定を告げると無茶の程を知った2人は顔色を青く変えていた。
「あの子は死んだ父親から家族を守れるような男になれって、そればっかり言われて育ったから……」
「いいや、ワシが大きくなったら一緒に絵を描こうと約束したせいかもしれん……」
どっちも理由の一つではあるのだと思う。大好きな家族を守りたい一心だったに違いないのだから。
「ですから、今日でそんな無茶は御終いにしましょう」
インベントリから杖を取り出し、床に転がる備品を踏まないよう注意を払いつつ、老人の下に歩み寄る。
「申し出はありがたいのだが、ワシらには神官様に払える余裕が……」
「要りませんよ、そんなもの。こう見えて悪徳極まる教会を追放された身ですから。でも、そうですね。どうしてもっていうなら、あの子の笑顔が見れれば十分です」
恐縮そうに申し出た老人の言葉を適当な理由で遮る。今回の件はこちらから押しかけたものだし、別にお金の為にやっているわけじゃない。いわば自己満足なのだ。
目を閉じて意識を集中。もてる限りの回復・状態異常回復魔法を立て続けに展開する。
淡い光の数々が暗くなりつつある部屋の中で蛍のように瞬きはじけていく。
生まれた粒子は老人の手足へ次々と吸い込まれ、束の間の幻想的な景色は静かに溶け消えた。
「手は、動きますか?」
実を言えば心臓はばくばくだった。ここまで啖呵を切って治らなかったら情けないどころの話じゃない。
多分、老人よりも緊張した面持ちで握り締められた指へ視線を注ぐ。
目の前で幾度か、確かめるように握っては開かれ、徐に転がっていた炭の欠片を手に取る。
そのままさらさらと紙の上をすべらせ、綺麗な、コンパスを使ったとしか思えない真円が瞬く間に浮かび上がった。
「おぉ……指が動く、動くぞ!」
興奮冷めやらぬままに次々と線を引いていく。幾何学的な紋様。柔らかな曲線。そのどれもが歪みのない精緻さをもっていた。
「信じられん……。前々から感じていた腕の重さまでもが消えておる」
……あっれぇ。ちょっと元気にしすぎたかもしれない。でもまぁ、喜んでるならそれでいいか。
「あの子の容態がかなり危なかったって、これで信じてもらえますか?」
ひとしきりの感謝の言葉に区切りがついたところで本題に入る。
この辺りの薬では全く効果がなかった症状を瞬く間に完治させて見せたのだ。証明には十分なはず。
治療費をせがむわけでもないのに高熱で意識を失って倒れたなどと嘘をつく必要はない。
「あ、あの子は大丈夫なんですか?! あの子までいなくなったら私はっ」
事態の深刻さを察し、今さらのように取り乱したメリーさんに肩を掴まれてがたがたと揺すられた。
「だ、大丈夫ですから! 暫く安静にして、異常があればすぐに教えてください! 宿にいますからっ」
お爺さんが間に入って止めてくれなければ目を回して倒れていたかもしれない。
恨み言を言うつもりはないけど、母親の気苦労とはかくも激しい物なのか。
立ち話を続けるのも、ということで再びリビングに場を移す。
お爺さんは最近になって歩く時に感じていた腰の痛みが嘘のように消えていることにひとしきり感動していた。
調子に乗って跳ね回ったのをメリーさんに窘められ、でも痛みらしい痛みは少しも感じないらしい。
結構全力で使ったから、もしかして身体の若返りみたいなことまで起こりえるんだろうか。
単純に回復魔法といってもその仕組みが分かっているわけではないので少しばかり怖くもある。
自己紹介がてらあれこれと話をしているうちに外は完全に暗くなってしまった。
そろそろ宿屋に引き上げないと、折角用意してくれているであろう夕飯を無駄にしてしまうかもしれない。
メリーさんは是非とも一緒に夕飯をと引き止めてくれたのだけれど、みんなには仕事を押し付けてしまったし、ご相伴に預かるわけには行かない。夜も遅いときっと心配させてしまう。
「……あの、やはり少しくらいはお礼をしないと」
帰り際になって何度目かも分からない申し出が再び繰り返された。
「何度言われても不要です。それを受け取ったらキエル君は自分のせいだって思うでしょうし、それが原因でまた無理をしないとも限りませんから」
隠し事をするには距離が近すぎる。お礼をしたいからと無茶をされたのでは本末転倒もいいところだ。
「神官様も人それぞれなんですね……」
メリーさんは思わず、といった調子で零した後、すぐにしまったという顔をして頭を下げられる。
もしかしたらお爺さんの指の治療が出来ないか、教会に手紙で打診したことがあるのかもしれない。
「私からはなんともいえませんけど、きっと良い人も沢山いるはずですよ」
教会の腐敗構造はゲーム内でもやや偏執的に描かれていた。支援職が少ないのって散りばめられた胸糞設定によるところも少なからずあるんじゃなかろうか。
夜道を宿屋に向かって歩いていると、広場の辺りで見慣れた人影が群がっていた。遠くからでも分かるように思い切り手を振る。
「ごめんなさい、思ったよりも遅くなってしまって」
「ま、俺達も丁度終わったところだし気にすんな。……いや、夜の一人歩きは流石にやめとけ。今後は暗くなる前に宿屋へ戻ること、いいな?」
お前は口うるさいおかんかと反骨神が芽生えなくもないけれど、一番の功労者なので素直に頷いておく。
しかし門限としては早過ぎないだろうか。夜道を歩くなら他の誰かを誘えって事なんだろうけど。
明かり代もタダではないので夕飯の出る時間は現代よりもずっと早いし、同様に寝入る時間もずっと早い。
そう考えると、昨日の夜更けの来訪は女将さんにとっても負担になったのではなかろうか。
そんな思いを抱えつつ揃って宿屋に戻ると女将さんが暖かく迎えてくれた。
「あら、皆おかえり」
全員の顔を順繰りに見渡した後、ハルトとサスケさんに目を留める。
「やだ、あちこち泥が跳ねてるじゃない。洗濯物があれば洗っておくからまとめて頂戴ね」
あちこち掃除を頼んでせいでみんなの服には少なからず泥や草の汁が跳ねて染み込み、斑模様になっていた。
「それは助かるでござるよ」
「鎧は拭けばいいけど、下の服はそうもいかないもんな」
幸いにして、前衛職である彼らは他にも着替えに出来そうな装備があるらしい。
着たきり雀の僕よりずっと女子力とやらが高いんじゃなかろうか。正直に言ってそんな力を欲しいと思ったことなんてないけど。
「とにかく夕飯をお食べよ」
薦められるがままに席へ着く。晩御飯には朝と同じパンに加え、ミルクらしき物で作られた野菜中心のシチューが加わる。
内陸部に位置するうえ辺境なだけあって塩は貴重らしく薄味ではあるけれど、素朴な味わいは運動の空腹も手伝って鍋を空にするほどの人気だった。
固いパンには慣れないけれど、シチューにひたして食べればそこまで気にはならないし、贅沢も言っていられまい。
食事の傍ら今日の反省と今後の課題について話し込んでいると窓の外は完全な真っ暗闇に包まれる。
僕らもそろそろ部屋に戻ろうかと思い始めた頃、宿屋の扉がぎぃと軋み、ディールさんがそっと顔を覗かせた。
「よかった、皆さんお揃いですな」
ほっとした様子で入ってくると空いている椅子に腰掛ける。神妙な表情は世間話をしにきたようには見えなかった。
「どうかしたんですか?」
「ええ、私は明日の早朝にこの村を発ちます」
この地域では死んだ人の供養を7日以内に行わないと亡霊になり永遠に現世を彷徨い続けるのだと信じられている。
ディールさんは身を挺して守ってくれたお弟子さんの遺髪をなんとしても7日以内に故郷へ送り届け埋葬したかった。
本来なら今日の朝早くにも発ちたかっただろうに、僕らのため貴重な1日を使ってくれたのだ。
「最大の懸念だったグレアム殿とも一応の和解を得られました。これも皆様方のおかげです。本当に、心から感謝致します」
深々と頭を下げる彼に慌てたのは僕らの方である。
互いに不信感を捨てきれず、会話の機会にも恵まれなかっただけで、僕らが居なくても時間さえあれば解決したに違いない。
「それからカナタ様にはこれを。少ないですが、私の命を救っていただいたことと証文を譲っていただいたことへのお礼です」
懐から手のひらサイズの皮袋を取り出すとテーブルの上に乗せる。かすかな金属音がしたことから、中身は相当数の貨幣だろう。
「でも、お礼なら既に……」
気配遮断のマジックアイテムに財産をつぎ込み、資産の殆どが消え失せた状態で更なる出費は痛手なはず。
しかし彼は快活な笑みを浮かべながら言った。
「ご心配なさらず。これは商会の意思でもあるのです。品物を受け取ったのに代金を払っていなければ私の信用に関わります」
グレアムから前金代わりに受け取った証文は累積した金額だけなら目も眩むほどだけど、完全に焦げ付いたいわゆる不良債権の塊で実際の価値はないに等しい。
僕が持っていても意味はないのでそっくりディールさんに渡したのだけど、彼はそれを商会と共同管理する形にした上で大部分を処分することにした。
多少の負債を残したのはやはり商人として借金を全て無にしてしまうと今後の取引に影響を及ぼすからだそうだ。
全てが解決した暁には少しずつでも返済を求め、今の異常な取引形態を正していく算段らしい。
借金を強いたのがアズール商団であったとしても、それに甘え増長した責任はある。
取り立てられない借金という甘い汁を知ってしまった彼らがいつか同じ轍を踏んでしまわないように、少なからずお灸をすえる必要があった。
「埋葬を終えたら暫く行商に励むつもりです。ここへは当分帰れそうもありませんし、皆様に会えるのはこれで最後かもしれませんなぁ」
移動手段が足か馬くらいしかないこの世界では殆どの人が街の中だけで人生を完結させる。
僕らもこの件が片付いたらここを出るつもりだ。そうなれば再会する確率はほんの僅かだろう。
「色々とありがとうございました」
ぺこりと頭を下げるとディールさんは恐縮した様子でとんでもないと慌てた。
明日の用意もあるのだろう。或いは、空が白み始めたらすぐにでも発つつもりで門の傍で夜を明かすつもりかもしれない。
未練を振り切りながら扉に向かう。そのまま宵闇の中に半歩踏み出してから、なにか、意を決した様子で振り返った。
「くれぐれもグレアム殿にはお気をつけください。私が最初からあの方を色眼鏡で見ていたのは確かですが、商人としての勘が何かあると今も訴えてくるのです」
僕らの返事を待たず『では』と短く告げるなり姿を消す。なにか、後ろめたさのような物から逃げるようにして。
去り際の一言をどうしたものかと考え込んでいると入れ替わるようにして盆を持った女将さんがやってきた。
「あら、神妙な顔してどうしたの?」
つい無言になってしまった僕らを不思議そうに眺めてから湯気の立つティーカップを並べていく。
「まぁいいわ。うちで採れたハーブティーよ。食後にはぴったりなんだら」
すぅっと鼻を通る香りはミントに似ている。息を吹きかけながら一口すすると僅かな甘さと清涼感が抜けていった。
「確かに美味しいです」
「でしょう? 今年は出来がいいわ。甘くなることなんて殆どないもの」
カップの代わりに使い終えた食器を盆に重ねながらどこか誇らしげに胸を張る。
「そうそう、今日はお湯が使えるから身体を清めるといいわ。洗濯物も一緒に出しておいてくれれば明日にでも洗っておくから」
お湯が使えると聞いて喜んだのは僕だけじゃあるまい。いかに風が吹こうとも陽射しの下で動き回れば汗もかく。
早速場所を聞いて意気揚々と向かったのだけれど……宿から飛び出るような形で併設された煉瓦造りの一室には何もなかった。
否、直径1メートルはあろうかという木製の盥が2つ。片方は湯気の立つ、もう片方は透き通るような水が満たされてはいた。
が、想像していたような湯船は陰も形もない。浸かるのは小さくなったこの身体でも難しいだろう。というか湯気の量からして間違いなく火傷する。
少し考えればわかることだ。町で売られている燃料の薪は決して安くない。
森に入れなくなったのもあるけど、そもそも1年で切り倒して良い木の数が厳しく決められているのだ。
欲望のままに際限なく森を切り開けばいずれ自分達の生活にも影響が出るのを経験で理解しているのだから。
お風呂に入れなかったのは残念だったけど、盥に満たされたお湯が貴重な物であることにかわりはない。
贅沢ばかり言ってられないと落胆しかけた心を奮い立たせる。
せめて冷める前に使わせてもらうべく隅に置かれていた椅子を引っ張ってくると2つの盥の中央に置いた。
浮かべてあった杓子で小さな盥にお湯と水を混ぜ合わせ適温に調整してから持ち込んだタオルを沈める。
たっぷりお湯を吸ったところで引き上げ、水滴をしたたらせるまま身体へ貼り付けた。
じんわりとした熱が肌から直接染み込み思わず溜息が漏れる。暖かな湯は浴びるだけでも格別だった。
強めに顔を拭うだけで溜まっていた疲れがごっそりと抜け落ちていく気さえした。
あっという間に冷めてしまったタオルを再び盥に沈め、今度は背中側に貼り付けて全身を濡らす。
三度タオルを盥に沈めると今度は緩めに絞ってから予め渡されていた石鹸を包み込んだ。
これも女将さんが灰汁と薬草を使って仕上げた物らしい。泡立つか心配だったけど現代のそれと変わらない使い勝手に安心する。
一生懸命タオルで泡立てていると微かにフローラルな香りが漂ってきた。よくよく見ると石鹸には乾いた花びらのようなものが含まれている。
女将さんの技術力って結構凄いんじゃなかろうか。
それにしても、随分と変わってしまったものだ。
泡立てたタオルを片手に立ち上がる。現実の自分より頭一つか二つ分も低くなった背丈にもう違和感は覚えない。
すらりとした細い手足は折れそうなくらい華奢で、雪のように白い肌にはシミもホクロも、そこそこ陽射しに当たっていたのに日焼けの兆しもない。
元から逆三角形な体格ではなかったけど、肩は記憶よりもずっと女性らしい丸みを帯びている。
いや、女性らしさなら肩よりも遥かに自己主張しているものがあったか。
たわわ……とまでは言えないけれど、確かな丸みと膨らみを帯びた胸に視線を向ける。
初めて見る生身の女の子の裸だというのに、これが自分の身体だと理解しているせいか気恥ずかしさもなにもあったものではなかった。
まぁ、自分の裸に欲情しても困るけどさ。果たして元の世界に戻れたとき、僕は健全な男子に戻れるのだろうか。少なからぬ不安でむしろ見ていると気が重くなる。
今さら自分の身体を触れることに抵抗感があるはずもなく、空いていた片手を椀のような形にしてからそっと胸を覆う。
今の小さな手のひらには収まりきらないが、元の手のひらならぴったりと収まるんじゃなかろうか。
大きすぎると清楚で儚げな少女のイメージを崩す。かといって小さすぎるのも対象を絞りすぎてしまう……らしい。
調整に難儀したとハルが言っていただけあって、この身体にはあつらえたように丁度良く思えた。いやまぁ文字通りあつらえたんだけども。
極めつけは更にその下。雄雄し……かったかどうかはともかく、くっついていた筈の相棒は姿形もなくなっている。
産毛一つ生えていないつるりとした様には溜息しか零れてこなかった。
当然ながら作成したアバターデータに局部なんてものが含まれているはずもない。
ならこれは一体どのような手順で補完されたんだろうか。
肌の色も感覚も他の部位と変わらない。いや、感覚は少しばかり敏感ではあるけど、肉体としての矛盾がないのは不思議だった。
「くちっ」
全裸になったのは初めてのことだ。丁度良い機会だったので全身をざっと眺めていると、不意に肌寒さから小さなくしゃみを漏らす。
濡れたまま暖めるでもなくふらふらしていれば当然のこと。一体何をしているのか。
すっかり冷めてしまった身体に盥のお湯をざっとかけてから座りなおし泡に塗れたタオルを這わせていく。
まずは腕から。汗をかいた脇を重点的に。むず痒さに似たこそばゆさを覚えるのは新しい身体の感覚に慣れていないからか。
両方の腕を洗い終えると今度は首、次に鎖骨といった具合で段々と下げていったところ、胸の手前ではたと止まった。
昔はただなぞるだけでよかった直線がいまはふくよかな曲線、いわば立体構造に変わっている。
姿勢を変えるだけで柔らかさを強調するかのように揺れる部位をタオルでごしごしと洗っていいものだろうか。
若干の躊躇はあったものの、漫画ではただの脂肪の塊だと揶揄されているのだし問題あるまい。
ままよと決心を固めそのままタオルを滑らせた、直後。
「っ!!」
ヤスリで削られるような痛みが走り握っていたタオルを取り落とす。反射的に手のひらで抑えながら涙目になって身悶えた。
この世界のタオルは現代のそれよりも遥かに目が粗い。使われている繊維も処理が甘いのか節のように硬い物が混じっている。
どちらかといえばスポンジ、それも着色された薄く硬いマット側に近い。
暫しの悶絶を耐え抜き痛みが薄れ始めるにつれ、今さらのように回復魔法を使えたばよかったと気付く。
「うぅ……【ヒール】」
胸、特に熱を持ったかのような先端を意識して使い慣れた魔法を解き放つ。疼くような痛みはたったそれだけで溶けるように消えてくれた。
タオルダメ、絶対と心のノートに書き殴ってから抑えていた手のひらを外す。
回復魔法により血行が促進されたのか、桜色の突起は僅かに赤みが増し上を向いたけど、泡に塗れても沁みる様子はなかった。
しかしどうやって洗ったものか。いっそ無視してしまおうかと思ったけれど汗臭さを残したくはない。
使えそうな物がないかと辺りを見渡し、不意に自分の手が映る。なんてことはない、タオルがダメなら自分の手で洗えば良いではないか。
石鹸を取り出し手のひらで泡立てる。試しに指を這わせてもくすぐったさを感じるだけで痛みはない。
今度こそ何の気兼ねもなく揉みこむように手のひらを押し付けた瞬間、今度は反射的に背筋が伸び、情けない叫び声が漏れた。
たかが身体を洗うことすらままならないとは思わなかった。
ある意味では痛みと同類であり、しかし遥かに甘く痺れるような感覚に力が抜けへたりこむ。
ついさっきまで自分の身体なんて無味乾燥だと信じて疑わなかったはずなのに、今は顔が燃えているかの如き熱を発していた。
鏡がなくて良かった。多分今の姿を見たら心に癒えない傷を負っただろう。
発生源がどこかなんて考えるまでもなかった。左右同時に触れたのに異様なまでの刺激は片方だけ。血行が促進されたように見えたのは多分事実で、先のヒールの副次効果なのだろう。迷惑極まりない。
火傷や擦り傷から再生したばかりの真新しいピンク色をした肌は昔からある肌と比べて敏感にならざるをえない。
刺激に慣れていない分だけ神経が過敏に反応するからだとかなんとか。同じ理由がヒールでも起こりえるのかもしれない。
敏感な部位に触れないよう恐る恐る指を滑らせていると、どうしても森でドロセラに襲われた時のことが脳裏を過ぎる。
あの時もこんな風に何かを確かめるみたいに身体中を弄繰り回されたっけ。
蔓すら振りほどけない無力感。好き放題に身体を弄られる屈辱感。そしてなにより、自分でも制御できない程の快感。
この身体がいかにままならないのかなんてあの時いやと言うほど思い知らされたはずなのに。
「あぁもう!」
一度意識してしまったが最後、振り払うのは難しかった。
自棄になって力を籠めるとまるで抗議するかのようにぞくりとした電流が背筋を這いあがってくるから始末におえない。
出来る限り丁寧に、慎重に、時間をかけず、無意識を保ちながら泡を広げていく。
初めてのことでまだ精神が身体に慣れていないだけ。何度も繰り返せばこの程度なんでもなくなると強く言い聞かせる。
男なら5秒も掛からない手順に数倍、いや、十数倍もの時間をかけつつやっとの思いで洗い終える頃には一仕事終えた気分だった。修行でもしている気分だ。
折角リラックスできると思っていたのに、よもや神経をすり減らされるとは。
けど、ここまでくれば後はもう何の気兼ねもなかろう。
脇に置いておいた泡だらけのタオルをしっかりと握り、先の鬱憤を晴らすかのごとくやや強めにお腹から股へ滑らせる。
刹那、今度は声すら出せずに蹲まるしかなかった。
それから暫くの記憶はもう二度と開くことのないよう、心の奥底へと厳重に封印されたことを記しておこう。
気付けば身体はすっかり洗い終わっており、長い髪の毛を再びややぬるめの温度に薄めたお湯へと浸けていた。勿論痛みなんてどこにもない。
水面に顔がつくんじゃないかってくらい近づいてから丁寧に洗っていく。シャワーがない上、お湯の量も有限なので長い髪を洗うのは酷く面倒くさい。
しかし仮に短くして、ハルトの言うように現実世界へ戻った時の髪型へ差分反映されたりなんかしたらどうなるか。坊主を遥かに通り越し、照り輝く鏡面のようなハゲスタイルになり兼ねないのである。
なにそれ怖い。正確に計ってないけど1メートルは軽く超えているはず。仮に半分にしたとして50cm。
元の髪型は長い部分でも30cmはあるまい。差し引き-20cm。髪の伸びる速度は3日で1mmといわれている。1ヶ月でも1cmしか伸びないのだ。
20ヶ月という膨大な月日を費やしてもマイナス分が0になるだけ。元の髪型に戻るにはもう20ヶ月はかかるだろう。累計40ヶ月。人生に一度しかない高校生活が照り輝くハゲ頭で終わっている計算だった。
故に、何があっても切るわけには行かない。
最後には仰向けで寝るような格好をしてまでしっかりと洗い上げた髪を引き上げると、今度は身体を洗ったのとは別の小さな石鹸を取り出しよく泡立てる。
女将さんが『折角綺麗な髪なんだから大事にしなよ』と言ってくれたのだ。こっちは髪用らしく身体用とは微妙に成分が違うらしい。ボディーソープとシャンプーのようなものだろう。
たっぷりの泡で優しく洗うと再びぬるま湯に浸して、最後には頭から湯をかぶりながらしっかりとすすぐ。
髪用とはいえ石鹸である以上アルカリ性の働きによってどうしてもきしんでしまう。そこで役立つのがもう一つ渡された小瓶の中の液体らしい。通販番組でも見せられている気分だった。
空っぽになっていた盥に今度は少量の湯を補充すると小瓶の液体を垂らす。油のような粘性を持っているのに水と分離する様子はない。
あとは良く混ぜてから適量を手で掬い髪へ馴染ませていく。たったそれだけできしんでいた髪へ嘘のように指が通るようになった。本当にあの女将さんは何者なんだろうか。僕とは女子力の桁が違う。
これは洗い流さなくてもいいらしいので最後にもう一度、やや熱めに作った湯を作り肩からそっとかける。
慣れない作業に凝り固まった身体を伸ばしてから、随分と長いことお風呂場を占領していることに気付き、慌てて脱衣所へ向かった。
「ごめんね、随分と長く使っちゃって」
戻ってくると既にみんなは湯浴みを終えていた。
この宿屋にお風呂場は2つしかない。性別で分かれたりもしていないので完全交代制だ。
まさか6人分の時間を一人で占有するとは。慣れない形式だったのもあるけれど、次からはもっと効率的に入らなければ。
他のお客さんが誰もいなくて良かった。満室だったら今頃白い視線で針の筵だろう。
「あれじゃ仕方ないって。髪の毛洗うのも大変だったんじゃない?」
未だ湿ったままの髪を見ながらアキツさんが言った。
ドライヤーなんて便利なものがあるはずもなく、乾いたタオルを押し当てながらゆっくりと水気を移すしかない。
「心の底から大変でした。せめてシャワーがあればまた違うと思うんですけど。もしくは湖とか?」
洗ってから飛び込むだけですすげる水量さえあれば首が疲れたりもしないはずである。
「水浴びでござるか。確かに楽しそうでござるなぁ」
「おほー、らんらん素潜りできるわ! 魚介類食べ放題よー!」
「でもこの世界に水着なんてあるんでしょうか?」
「水着ってか薄い肌着になるんじゃないか? ポリエステル生地なんてないだろうし」
「それはそれで見てみたい気もするね」
わいわいと騒いでいたみんなの視線が予め打ち合わせていたみたいに僕を向く。何を期待されているのか丸分かりで、いつもみたいに軽くあしらおうとしたのだけれど。
……続くはずの声がでてこなかった。
「あー、いや、今のはなんというか流れで……ごめん、気遣いが足りなかった」
自分がどういう表情を浮かべているのかが全然分からない。何より、突然謝られた理由もさっぱり分からなかった。
「えと、あの、ただびっくりしただけですから。そんな本気で謝らないでください」
この手の会話はゲーム内で腐るほどしてきたし、時にはネタで、時には真正面から切り刻むのがお約束だったのに。
今だって『ならいっそのこと全裸で泳いだら良いと思いますよ。私はその間にみんなの荷物を纏めて帰りますけど』と返すつもりでいたのに。
どうしてかこの瞬間ですら口にするのを躊躇ってしまう。
微妙な沈黙に包まれみんなの目が虚空を泳ぐ。困っているのは一目瞭然なのに場を和ます冗談の一つも言えないなんて。
何か言わないと、そればかりが空回りして、結局何も出てこない僕の変わりにハルトが大きな欠伸を漏らした。
「もうこんな時間だし、今日も色々とあったから疲れてるんだろ。つか俺が眠い。あんま遅いと明日も辛いし今日はもう寝ようぜ」
まるでなにもなかったかのように立ち上がると燭台を一つ手に取る。
「そ、そうでござるな」
「あんま夜更かししてランプ使いすぎるのも悪いしね」
それを皮切りにみんなも立ち上がり、おやすみの声と共に暗い廊下へ歩き出した。
僕はそれをどこか呆然と見送り、やがてハルトと2人きりで残される。
「凄い顔だったぞ」
唐突な一言が一体何を指しているのか分からなかった。
「冗談を振られたときだよ。まさか恥ずかしそうに俯くとはな。あれが演技なら大したもんだ。演技なら、な」
そんなつもりはなかった。寧ろその逆、なんの意識もしていなかった。ハルトもそれを分かっているからわざとらしく繰り返したんだろう。
よもや無意識の内に恥ずかしがったとでも?
……馬鹿げてる。身体が変わっても僕の自意識は男のまま、きっと変わることはない。
生まれてから十年以上も男の子をやってきたのだ。半世紀後の未来がどうなっているかまでは確信が持てないけど、たった数日で変わるはずがない。
きっと、お風呂場の一件で一時的に強く自分の性別を意識してしまったせいだ。そうに決まっている。
「少し切り口を変えてみただけだし。面白くなかったからもう『二度と』使わないけど」
「そっか」
平静を保って返すとハルトも納得したようで部屋に向かって歩き出した。
なんとなく話題が見つからず、黙ったまま後に続く。
既に女将さんから借り受けた寝巻きに着替えているし、部屋の中は真っ暗なのですることもない。
湿ったタオルをハンガーにかけ、別の乾いたタオルを取り出し髪に巻きつけてからベッドに入ると背中合わせに目を瞑る。
いつもなら穏やかな気持ちで寝入るのを待つだけなのに今日は居心地が悪かった。
寝返りを打ちながら余っていた枕を胸に抱く。さっきの一幕の罪悪感を引きずっているのだろうか。そう考えた時、隣からぼそりと声がした。
「何かあったんならちゃんと言えよ」
なんだこいつ、気障か、格好つけてるのか。ムカつくくらい決まっているのが余計に悔しい。
しかも本気で言っているから手に負えない。おかげで心の中に溜まっていた得体の知れないわだかまりが張り詰めていた空気もろとも綺麗さっぱり吹き飛んでくれた。
自然と笑みが浮かぶ。言葉にすれば笑ってしまうだろうから返事はしない。
言われなくたっていざという時には頼りにしてるさ。今日もこうしてぐっすり眠れるのだから。
「というわけで、早速頼りたいんだけど」
翌朝、いつもより早めに目覚めた僕は隣でぐーすか寝息をたてるハルトを揺さぶり起こす。
腕を目いっぱい広げながら大欠伸を疲労する、テンプレ的な朝の目覚めをゆるりと堪能したあとで何事かと僕を見やった。
「で、なんだよ?」
「髪がやばい、助けろ」
生乾きのまま寝たせいで寝癖が酷いのだ。ありのままに言えば爆発している。流石にこれでは人前に出られない。
「どうせシスコンのハルトのことだからハルの髪を直した経験くらいあるでしょ?」
「喧嘩売ってんのかお前。まぁあるっちゃあるけど、あっちは寝癖直しのスプレーとかスタイリング剤とかドライヤーとか文明の利器に溢れてたから何とかなっただけだぞ」
「安心して。ここにリアさんから貰った櫛がある。ゲーム内ならこれだけで髪型は自由自在だった」
ゲームでは様々なコスチューム、アクセサリーアイテムが存在していて自由にアバターのカスタマイズが行えた。
その中には髪型もある。僕みたいなロングにすれば自分の力量次第で好きにカスタマイズ出来たりするけれど、システム的に保存されるわけではないのでリログやMAP移動で元に戻ってしまう。
凝った髪型を維持したいならNPCの経営する美容室で馬鹿みたいな金額を払い、アレンジした上で固定化してもらう必要があった。
だけど髪型なんてその日の気分で変えたりするもの……らしい。その度に美容院へ通うのは煩わしい……のだそうだ。多くの女子からすれば。
そんな人の為に幾つかの髪型がプリセットされ、使用するだけで設定済みの髪型へ瞬時に変更できるマジックアイテムが用意されていた。
勿論馬鹿高いんだけど、リアさんに必須装備だからとりあえず使ってみるようにと半ば強引に持たされたのである。
ちなみにデフォルトで利用しているカジュアルロングヘアはばっちり登録済みだ。
「なるほど、そりゃ便利そうだな。で、そんな便利アイテムがあるのに髪がその状態ってことは?」
「……本当にただの櫛でした」
きっと魔法の力により一瞬でセットしてくれるに違いないという期待を籠めたのに、触れても念じても祈っても何の効果も得られなかった。
ゲーム時代はタップするだけで設定可能な髪型一覧が表示されたのに。
で、途方に暮れ知識のありそうなハルトを頼ったというわけだ。
「とにかく座れ。地道に毛先からゆっくり梳かしていくしかないだろ」
言われるがままにベッドへ腰を下ろす。ハルトも背後にどかりと腰を下ろすなり心底残念そうな声を出した。
「うわ、こりゃ酷いな。髪が細い上に量も多いからとんでもないことになってんぞ。次からはちゃんと乾かして梳いてから寝ろ」
「はい……」
返す言葉もない。女の子とはかくも大変なようだ。朝の準備に時間が掛かるのも納得できる。
「せめて櫛じゃなくてブラシがあればいいんだがなぁ」
苦言を漏らしながらも端から髪を一房分手に取り毛先の方へ櫛を入れる。すると驚くべきことが起こった。
「なんだこりゃ、抵抗が全くないぞ?」
どう見ても絡まっているとしか思えないのにするすると櫛が通り、後には完璧なまでの輝きを取り戻した髪が真っ直ぐ垂れていたのだ。
ベッドの上にも櫛にも、抜け毛なんて一本すら見当たらない。
物は試しとばかりに今度は頭の天辺から一息に櫛を通す。寝起きの一発目で何の抵抗もなく通り過ぎるなんて普通はありえない……のだが。
「おおすげぇ! 全く問題ないぞ! やっぱこれマジックアイテムだわ!」
システム的なプリセット効果は消えたけれど、髪型を思いのままに整えられる機能は残ったということか。
最悪1時間は覚悟していた割に、僅か1分でほぼ完璧に普段通りの髪形を取り戻していた。
「おおお、これは楽しいな」
ハルトもハルトでくしゃくしゃだった髪がたった一撫でで整っていく様子に感銘を受けたようだ。
楽しげな声を漏らしては繰り返し長い髪に櫛を通している。
遊ぶなと怒る場面なのかもしれないけど、すぅっと抜けていく櫛や手のひらが頭を撫でる感覚は存外に心地よい。
満足する頃にはいつもより格段に磨きのかかった髪がえもいわれぬ艶を放っていた。
「なぁなぁ、これ俺も使わせてもらって良いか?」
あまりの心地よさにうとうとしながら頷く。……あれ、待てよ。でも確かこの櫛って。
心の中に湧きあがった疑念が形になるよりも早く、ハルトは僕にしたのと同じように頭の天辺へ櫛をいれ、何の疑いもなく梳いた。
持ち前のステータスが力を発揮してしまったのが悪かったのか。
よもや抵抗があると思っていなかったのが悪かったのか。
ぶちんという、あまり耳にしたくない類の音がした途端、ハルトが絶叫に近い悲鳴を迸らせる。
あ、思い出した。ゲーム内の髪型は男性用と女性用に分かれてて、この櫛は女性専用だったんだ。




