辺境の街と夢幻の救者-4-
こっちだと先導する少年に手を引かれながら訪れた赤い煉瓦造りの建物は、辺りの家々と比べものにならないくらい大きく、自然と感嘆の声が漏れた。
敷地をぐるりと囲む外壁は僕の身長よりもずっと高い。荷馬車が3台は並んで入れるくらい大きな門はしっかりと閉じられ、簡易とは言え武装した人達が歩哨に立っている。
「こんな大きな建物、簡単には作れないんだぜ!」
目を丸くする僕等に気を良くしたのか、少年はまるで自分が作ったかのように胸を張った。確かにこれは凄い。
村々との取引を総括するだけで、こんな建物が作れてしまうくらい儲かるのだろうか。
「お、ちゃんとお使いはできたみたいだな、キー坊」
「お使いじゃない、これは仕事だ!」
からからと笑う大人達にむくれっ面を向けながら、脇に備えられた通用口を進む。
どうやら少年は随分と可愛がられているらしい。
「ようこそクーイル商会へ」
扉の裏には歩哨達が休憩できる簡素な小屋が建てられていて、通用口を抜けると側面に受付用の窓が拵えてあった。
「申し訳ありませんが、商会内への武器の持ち込みは禁じられているんです。こちらでお預かりしても?」
白銀の賢狼の姿を見たばかりとあって、僕もハルトも武器を持ったままだ。しばし逡巡してから仕方ないとばかりに差し出す。
そういえばインベントリの扱いはどうなるんだろうか。見る限り僕等以外のみんなは武器を持っていない。どう見ても手ぶらだ。すべてインベントリに格納しているのだろう。
アキツさん達が調べたところインベントリの機能は誰彼かまわず扱えるわけではないらしい。少なくとも、この村の人々はその存在を知らなかったと言っていた。
「はい。持っているのは私と彼だけです」
インベントリから武器を取り出そうとしていたみんなを差し止める形で宣言する。
歩哨は僕等を軽く見まわしただけで『そのようですね』と頷いた。
ハルトの剣が重すぎて受け取った歩哨の表情が強張っていた以外には問題もなく、引換券らしき木型を貰う。
「では次にこちらで軽いボディチェックを行わせてください」
武器が一つきりでは取り落とした時や破壊されたら一巻の終わりだ。もしもを想定して身体のどこかに短剣を忍ばせるプレイヤーも珍しくなかった。
暗殺者なら武器の一つ二つは隠し持つだろうし、別に珍しい事でもないだろうと思っていたのだけれど、ディールさんは胡乱な声を上げる。
「今日はまた一段と厳重のようですが何かあったのですか? 普段なら客人まで調べはしないでしょう」
どうやら身体検査までするのはレアケースらしい。落ち着いた声色だが納得のいく説明を寄越せと有無を言わせぬ迫力を滲ませる。
「いえ、その、上から厳重に行うよう命令が届いておりまして、私共ではなんとも……」
恩人である僕等を疑うなどと忸怩たる思いを抱いてくれているのだろう。
が、歩哨達も別に好きでやっている訳じゃない。上から命令されれば従わざるを得ないし、武器を持ち込まれる可能性を考えれば何処の誰とも知らない僕等を調べるのも当然だ。
日本だって最近は大きなイベントだとバッグの中身を調べたり、金属探知機を潜り抜けるのが一般的になってたくらいだし。
「別に構いませんよ」
何か言いたげなディールさんを制して調べやすいよう前に出る。
危険物を持ち込む気なんてないんだから、痛くない腹を探られて一悶着起こすより素直に従った方がずっといい。
「し、しかしですな、歩哨には女性もおりませんし……」
そうまで言われてようやくこうも難色を示していた理由が理解できた。
僕には女としての自覚がないってことなんだろう。ただ敢えて言わせて貰いたい、あってたまるかそんなもの。
「彼らも仕事ですし、別に気にしませんから。こんなところでひと悶着起こして後に響くほうが面倒です」
元より仕事の斡旋を頼んでいる立場。融通の利かない連中と思われお断りされるのは避けたかった。
当の本人があっさり受け入れたのもあって歩哨達もほっとした顔で告げる。
「ご安心ください。検問を盾に女性へ不埒な行為を働く輩がいるのは否定できませんが、私共はそこまで落ちぶれていません。服の上から軽く触れさせて頂くだけで結構です」
ディールさんは『分かりました』と小さく頷いてから、担当になりそうな歩哨にくれぐれも失礼な真似はしないようにしてほしいと念を押した。
「私はどうすればいいですか?」
夜でも全身がしっかり見渡せるよう篝火が四方に配置されたスペースまで移動する。
目の前の歩哨は僕の姿を見ると緊張した面持ちを隠さずに一礼した。
「は、はい。武器を隠し得る場所は限られておりますので、腕と腰と太腿、それからその、内股を検めさせて頂きます。失礼ながら両腕を少し上げて頂ければ」
落ち着きがないのは背後のディールさんが変な真似はするなと睨みを利かせているからに違いない。
僕の見た目だけは迫られてもNoと言えそうもない大人しそうな成りだから余計に心配してくれているのだと思う。
だが中身はれっきとした男だ。胸や尻を軽く触られたところで気にするはずもない。
それにぶっちゃけ触っちゃうのは仕方ないじゃん、男の子なんだしさ?
そんな僕の内心なんて露知らず、男の鍛え抜かれた太い腕がじわりじわりと肩へ伸びてくる。ぽんぽんぽん、はい問題ありません、そのはずだったんだけど。
……いやあの、まだ触れてもいないのにどうしてそんなゆっくりなんでしょうか。別に体感時間が伸びているとかじゃなくて本当に遅い。もう5回くらい呼吸しているのに全然近付いている気がしない。
いい加減、耐えられなくなって声を掛けようとした瞬間。
「いつまでしてんだよ、待ってるって言ってるだろ?」
不意に少年の声が割って入り、僕の腕と腰と足を手早いながらもしっかり確認していく。突然だったので驚きはしたものの、手つきは完全に事務的なそれだった。どうやら手馴れているらしい。
「はい何もなし、姉ちゃんこっち来て。ほら早く早く。おっちゃん達もちゃっちゃと調べてくれないと俺の評価が下がっちゃうよ」
待てども待てどもチェックを始めない歩哨に痺れを切らした少年が僅か10秒程度で終わらせてみせると動かない大人達に不満の声を漏らす。
「ああ、そうだな……」
仕事を取られた歩哨は一度小さく溜息を吐く。それで気を取り直したのか、あとの対応は精彩さを取り戻し、続くみんなの確認を1分もかからずに終わらせるのだった。
商会の1Fは荷物の発着場兼倉庫になっているらしく、一部の壁を取っ払って搬入経路にされている。
暗くてよく見えないが運び込まれている商品はかなりの量に及ぶようだ。薄明かりの中で黒々とした山がそこかしこに詰まれていた。
少年はそんな倉庫を尻目に端へ設けられた階段を3Fまでのぼると突き当りの部屋まで足早に進む。
「ここ、ちょっと待って」
控え目にドアを2度叩き、くぐもった返事を確認してから静かに開けると微かな蝋燭の光が廊下に漏れた。
「お連れしました」
部屋の中は薄暗く、蝋燭の灯る燭台が置かれた机の周辺くらいしかうかがい知れない。
山と積まれた書類、開きっぱなしの本、雑多な印象が拭えない空間で一人の男が顔を上げることもなく紙へ文字を書き連ねていた。
少年にとってかなり目上な立場なのか、無礼極まる態度を気に留める様子もなくさっきまでの軽い口調を排し丁寧に頭を下げる。
「ご苦労。下がっていいぞ」
作業を続けたまま淡々と受け答える様はまるで機械だ。
「はい、失礼致します」
脇で扉を抑えつつ僕等を部屋の中へ促す。全員が足を踏み入れると扉が音もなく閉まり、少年の足音が遠ざかって行った。
「夜分遅くに痛み入ります。アズール商団長、グレアム様。しかし意外ですな、話はミュレイ商会長が聞かれる物とばかり思っておりましたが?」
「まあそう邪険にするな。森林内の輸送は我が商団の管轄。化け物が如き狼を見たと言われては直接話を聞かぬ訳にもいくまいて」
ディールさんの声に初めてグレアムの手が止まり顔を上げる。ぶつかりあう視線の間でばちばちと火花が散っている気がした。
アズール商団長グレアム。この男がアズール商団を率いて村々に膨大な借金を積み上げ続けている張本人だとすれば無理もあるまい。
無言の睨み合いは、しかし長く続かない。グレアムは小さな溜息と共に疲労の滲む声色で告げる。
「何度も言うが、例の証文は最初から回収するつもりなどない。商団とて組織だ。形だけでも利益を上げねば異を唱える者も出てくる。ここで商団の不和を招けば我々はこの地を離れざるを得なくなるのだぞ。そうなれば一体誰が彼の村々を救うのだ」
「存じております。ですが、返す当てのない借金を積ませたところで利益が生まれぬことなど見習いの小僧でも心得ているはず。商団から異を唱える者が出たという話も聞かないのですから、何の価値もない証文を燃やしたところで影響もないでしょう。そうできない理由がおありなのでは?」
「商人が自らの手で帳消しの為に証文を燃やす前例などあってはならぬ。我々は証文を溜めつづけるが回収はしない。そろそろ信じて欲しい物だがね」
「商人が信じる物は言葉などという不確かな物ではあってならないと存じております」
両者一歩も譲らぬまま言葉の応酬を繰り返す。視線は鋭さを増し、今にも掴みかかっての殴り合いを始めかねない危険な空気が取り巻いている。
もしもこの場に僕等がいなかったら際限なく高まる感情がなにかコトを起こしても不思議ではなかった。
「失礼、今夜は別の要件でしたね」
昂ぶっている感情を小さな呼吸一つで抑えたのは流石としか言いようがない。商人が取引で熱くなるのは厳禁。どんな時でも呼吸一つで落ち着きを取り戻さなければならないと語っていた通りだ。
「こちらこそ話を脱線させてしまったようだ。見苦しい様を見せて申し訳ない、勇敢なる旅人達。クーイル商会へようこそ、我々は君達を歓迎する。……会談をするには少し灯りが足らんな」
グレアムはそう言って立ち上がると、机の上にしか置かれていない燭台を手に部屋を回り、壁や隅に設置されていた燭台の蝋燭へ火を移していく。
お互いの視認が出来るくらいには明るさを取り戻した部屋の中で、一体グレアムとはどんな人なのだろうかと視線を向ける。
短く刈り込まれた髪、服の上からでも分かる筋骨隆々の身体は日に焼けて浅黒く、薄いランニングシャツ1枚というラフな格好なのにまるで違和感がない。
ただ、上半身の鍛え方と比べて下半身は意外なほど細かった。薄暗い時には分からなかったが、片足に怪我を負っているらしく杖を突かなければ歩けないようだ。
とはいえ、それを差し置いても紙とペンがお似合いの商人とは思えない。
「仕事中は手元だけ明るい方が集中できるのだよ。倹約家と思ってくれて構わん」
もしかしたら軽い冗談のつもりだったのか。反応が何もない事に少しだけ寂しそうな顔をした。いや、でもどうやって突っ込めと。下手に何かを口にし、彼の琴線に触れようものなら捻り潰されかねない。物理的に。
ディールさんはよくもまぁ、こんな逆らったら即殺されそうな輩とああも剣呑とした舌戦を繰り広げられたものだ。その胆力には感服せざるを得なかった。ぶっちゃけ目の前に立っているだけで威圧感をびんびん感じて怖いくらいだ。
「本題に入る前に確認したい事がある。森で見た大きな白い狼についてだ。出会ったのは君達の中の誰だ?」
バリトンの渋い声を聴いていると訳もなく『私であります、団長!』と言いたくなるのをぐっと堪える。ここは冗談を言うべきではない。まずは一拍、落ち着いてから。そう思っていたのに。
「俺と彼女であります、団長!」
ハルトがノリノリで、しかも丁寧な敬礼まで交えつつ答えやがった。
シンと静まり返る空気の中でちくたくと時間だけが進んでいく。ぶわりと噴出した冷や汗が背中を伝って流れ落ちた。
あ、これやばい。地雷踏み抜いたと思った直後。
「くはははははは! 面白い旅人ではないか!」
熊のような巨体を揺らしながらグレアムが爆笑する。何故かウケていた。
「では君が見た状況を説明したまえ!」
「はっ! 我々は森の奥深くで狼に襲われた彼の護衛を兼ね町まで載せて貰える事となりましたが、あと少しで森を抜けるという場所で件の狼に襲われました。最初に発見したのは同乗していたカナタで、奇襲を見抜かれた敵は暫く併走、しかし出口間近に多数の狼を伏せてあり、奇襲からの総攻撃を目論んでいたと思われます。幸いカナタがその危機を察し、防御姿勢を固めようとしたところ、敵は諦めたようで撤退を開始しました。我々は無事に森を抜けここに至ると言うわけであります!」
端的な説明にグレアムはうんうんと何度も頷く。続いて険しい視線がついに僕を射抜いた。
「カナタと言ったか。件の狼を発見したのは偶然か?」
突然の、予想だにしなかった問いに混乱する。
え、これどうやって答えればいいわけ? ハルトみたいにブートキャンプ的な口調にしなきゃいけないの?
いやでもまずは敬礼か。えっと、左手と右手どっちだっけ。
「あの、えと、その!」
わたわたと口ごもりながら右手と左手を持ち上げようとした僕にグレアムさんは苦笑しながら普通で構わんと諭すのだった。
あれ? 思ったより悪い人じゃないんじゃなかろうか?
「襲撃の警戒はしていましたから、白い影が見えた瞬間に何かいると思って迎撃準備に移りました」
腹を抱えて笑いやがってくれたハルトには後で一発叩き込んでやると心に誓いながら先の状況の説明を続ける。
「ふむ。その狼は君達でもどうにかできそうだったかね?」
「攻めずに守るだけならどうにか。もし判断が遅れてたら今日ここに来れたか分かりません」
重苦しい言葉にグレアムが唸り声を上げる。
危なくなったらポータルゲートで離脱するつもりだったし。死にはせずとも町までは辿りつけなかっただろう。嘘は言っていない。
「それからもう一つ。白い狼が森の狼を統率していました。あれがリーダーで間違いないかと思います」
「うむ、私も同感だ。であれば、此度の問題に対策が打てるかもしれぬ」
森中の狼を駆除する術はない。だが、圧倒的な強さで群を統率する白銀の賢狼を狩れば狼は恐れをなして森から逃げ出す可能性がある。
経路からして狼が逃げ延びるのは更なる森の奥、僕等が転移させられた亡者の密林しかない。
凶悪なモンスターが闊歩するダンジョンで狼達がどう扱われるのかは分からないけれど。
仮に住み着いたとしても人が入らない領域なので被害はない。
逆に、森から異物だと認識されようものなら、僕等が手を下すより圧倒的かつ完璧な精度で駆逐される。
どちらに転んだとしてもここに住む人達にとって毒にならない筈だ。
「問題はその狼の討伐に必要な戦力の規模と情報だ」
狼の殲滅から特定の個体の討伐に目標を変更できるなら、領主に私兵の投入を頼む道も見えてくる。
だが、何処にいるかも分からない強そうな狼を狩る為に兵を出してくださいと依頼した所で以前の二の舞だ。
敵は森のこの辺りに巣を作り、これ程の経済的被害をもたらしています。これだけの兵力があれば殲滅可能で、糧食は村から提供すれば軍事演習にもなり、前例のない、かような狼を殲滅したとなれば領主様の御威光は天の如き云々。
また、件の狼を無事に討伐した暁には前代未聞、類を見ない壮麗な純白の毛皮が手に入り、競売に掛ければこれ程の利益も見込めましょう。
出兵で得られるメリットとデメリットを合理的にプレゼンする事で初めて検討の段階に進むのである。
「細かな数値の調整はこちらでも可能だが、白狼に関する情報が3人の目撃証言だけではどうにもならん」
証拠となる毛の一部でもあればまだしも、グレアムさんからすれば僕等の目撃談は突拍子もなく、狼に襲われて恐怖に駆られた幻覚だと切り捨てられても仕方なかった。
現に森の中を通って物資を運んでいる彼らは一度も遭遇していないのだ。狼に対する施策とやらは白銀の賢狼にも効果があると言う事か。気になるけれど商売のタネを教えてくれる筈もない。
「この際だ。失礼を承知で言わせて貰う。私にはどうしても君達2人が狼の群を切り伏せられる程の猛者とは思えんのだ」
「な、なにを馬鹿な!」
本音を吐露するグレアムに対し、ディールさんは憤然と声を上げた。
無理もない。実際問題、見るからにひ弱そうな僕等が大人が徒党を組んでも苦戦を強いられる狼の群れを撃退したなんて笑い飛ばされても無理のない話なのだから。
「実際、ディール殿も彼等が狼を斬り伏せる様を直接見たわけではないのだろう? 私に言わせてもらえば、狼に襲われるも運良く軽傷で済んだディール殿を介抱して運んだとしか思えんのだ」
ぐうの音も出ない程の正論とはこの事か。つまり僕等は棚ボタラッキーを拾っただけだと。見た目からして弱そうな僕等を前に考えればそう思われても何ら不思議はなかった。
「まだ他にも可能性はあるぞ」
折角だから他の可能性とやらも聞いてみようと先を促す。
「或いは、狼の襲撃というのも自作自演で、弟子との間にトラブルを抱えていたディール殿が人目の付かぬ森の中で偽装し殺害、自分も傷を負ったふりをした上で目撃者を金で買ったと言われた方が余程……」
前言撤回、こいつは碌な奴じゃない。情報収集がてら聞き役に徹する方針をさっさと切り上げる。
「【少し黙ってて】」
胸糞悪い苛立ちを全部押し込めた声が自分の物だとはすぐに思えなかった。【サイレント】による沈黙状態はグレアムの声を奪い去り、出てくるはずだった言葉が強制的に途切れる。
ハルトを止める身にもなって欲しい。アキツさんと豚さんはよくぞ雰囲気を察して肩に手を置いてくれた。まぁうっかりすると僕が直接手を出しかねなかったんだけど。
【スターライト】も全力でぶち込めば大人が悶絶するくらいの打撃にはなるのだ。数発ぶちこんだ後でヒールさえかければ証拠も残らないし、沈黙状態では悲鳴すらあげられまい。
ややの間を開けてから、声を発せなくなったことに気付いたグレアムさんが困惑した表情でぱくぱくと口を開け閉めしている。
「今から声を戻します。でも、死者の魂を冒涜するような真似は二度としないでください」
いいですねと念を押し、こくこく頷く彼に向って【浄化】の魔法をかけた。
「今のは一体……」
訳が分からない様子で暗に説明を求める彼には気付かない振りをして話を続ける。
「その誤解には遺憾の意を表明せざるを得ません。だからちょっとばかり実力の一端をひけらかすことにしました」
ゲーム時代のステータスやらスキルを引き継いだおかげで、僕の治療魔法の水準はこの世界でもかなり高いと思っている。ディールさんが驚いていたのがその理由。
大きな街には必ずある教会が有料で信者に振る舞っているのは骨折程度の怪我や致死率の低い病気を治すか軽くする程度。戦場でも止血と殺菌、傷の縫合が基本的な役割と聞けば尚更。
とはいえ、どんな世界にも秀才や天才がいる。ディールさんの話はあくまで一般的な水準に過ぎない。
時に彼らは平均の壁を大きく飛びぬけた功績を残すのだけど、この世界にはインターネットどころか電話もなかった。
あらゆる功績は領地を一つ飛び越えるだけで風の噂に成り果て、二つ飛び越える頃には尾ひれがついて酒場の法螺話に成り下がり、三つ飛び越える頃には御伽噺や伝説へと昇華される。
人から人に流れ伝わる情報は審議の確認が難しい。優れたモノは時として悪意を呼び寄せもする。
だからせめて、この世界の水準を理解するまでは他人にひけらかしたりしないと決めたのだけど、こんな誤解をまかり通すくらいならなかったことにした方がマシだ。
あんまり舐めないで欲しい。これでも僕は今までずっとハルトのトラブルに付き合い続けてきたのだ。
理不尽を目の前にして我慢ならなくなるのは僕もハルトも大して変わらない。優先順位が少しばかり違っているだけだ。
いっちょぶちかましますかと思ったところで右上の手持ちぶたさを思い出す。そういえば入口で愛用の杖を預けたんだっけ。このままでは魔法の効力が著しく下がってしまうではないか。
インベントリに予備なんて用意してないし……いや、あるか。ちょっと借りればいい。
「豚さん、可及的速やかに杖を貸してください」
「わ、わかったわ」
ただならぬ気配を感じ取ってくれたのか、虚空から愛用の杖を取り出すと僕に渡す。
聖職者も魔術師も魔法は魔法。扱う杖も補助効果の分野が異なるだけで基本的には変わらないし、豚さんの愛杖ならモノとしても申し分ない。
「な、ど、どういうつもりだ!?」
この世界における杖は僕らの世界における銃に近い物だ。なにせ遠距離攻撃できるし。魔法によっては銃とか比較にならないくらい威力もある。
グレアムは先の失言が僕等をここまで激昂させるとは思ってなかったのだろう。降って湧いた命の危機に後ずさる。
少しもいい気味だと思わなかった訳じゃないけど、誤解させたまま魔法を使う訳にもいかないので作り笑いを浮かべた。
「ご安心ください。これから使うのは治癒魔法です。丁度いいことに足を怪我されているようなので、私の実力はその目で見届けていただく方が早いかと」
「治癒魔法……? なにを馬鹿な、この傷はもう随分と前に負ったものだ。高位の神官でも投げ出した傷が今更治るはず……」
ええいごちゃごちゃと。さっさと吠え面かくがいいのです。
「【ハイネスヒール】」
有無を言わせず、ただの【ヒール】では回復し切れなかったときに情けないので覚えている中でも最上位の回復魔法を使う。
途端に淡い桃色の光が杖の先端から患部と思しき足全体を包み込んだ。
「なんだこれは……!?」
時間にすれば僅か3秒ほどの奇跡。光の粒子が弾けるように飛び散ってしまえば以前と何一つ変わらないようにも見える。
「歩いてみてください」
グレアムは言われるがままに一歩を踏み出す。最初は恐る恐る、段々と感触を確かめるように、最後には床を鳴らす勢いで。
つい先ほどまで杖がなければまともに歩行するのも困難だった足は、もはや杖など必要ないまでに完治していた。
「ありえん……。これは一体どんな手品だ」
茫然自失といった様子で不調の影すら感じられなくなった足を叩く。失ったはずの神経は確かに左足と同じ、夢だと思うには余りにも生々しい感触を返していた。
「ディールさんは確かに瀕死でした。だけど私は『死んでさえいなければ』どんな傷だって治してみせます」
こういう時は押せるだけ押すに限る。なんの躊躇いもない宣言にグレアムの顔が引きつる。
「随分と大きく出るではないか。その言葉に嘘偽りはないな?」
「勿論。現にその足が証明しています」
「であらば、この傷も治してみせるがいい!」
グレアムは不敵に笑うと机の扉を乱暴に開き、護身用と思しき無骨な短剣を掴み取ると躊躇うこともなく鞘から引き抜く。
愕然としたのは僕の方だった。まさかそれで誰かを斬りつけるつもりかと身構えたのも束の間、切っ先はグレアムの手のひらでくるりと反転、完治させたばかりの右足に突きたてたのだ。
「がぁァァァァァッ!」
ぐちゃりと粘着質な音から数瞬遅れてグレアムの悲痛な呻き声が喉から搾り出される。切っ先はふくらはぎを貫通して反対側に飛び出していた。
まさか自傷行為に出るとは思わず目を見開き固まる。生々しい傷跡と溢れ出る血を凝視したせいで折角食べた夕飯が喉元までせりあがり口元を押さえた。
『この声は何だ!?』
『グレアム様の部屋の方から聞こえました!』
『今は客人と面会中のはず……。兵を呼んで商会を固めろ! 虫一匹通すな! お前達は様子を見に行け!』
部屋の外からは尋常ならざる声に動揺しながらも的確な指示を出す護衛の声が漏れ聞こえてくる。
まずい。足に怪我を負って蹲っているグレアムを僕らのせいだと誤認されたら何をされるか。
「誰か、清潔な布があればすぐに出して!」
度重なるゲーム内の狩のおかげで非常事態における僕の指示には無意識レベルで従うよう慣らされていたのが功を奏した。
回復庫さんがインベントリから予備の布を取り出すやいなや、足を抱えて呻いているグレアムに近づき、布で傷口を抑えながら一気に短剣を引き抜く。
「ぐぅァァァッ!」
堰き止められていた血液が出口を求めて溢れ出す。動脈に達していたのか瞬く間に白い布が赤黒く染まるだけに留まらず滴りだした。
「布もっとあれば出して! 治療するからハルトは床に血が広がらないよう拭き取って!」
ひそめた声で矢継ぎ早に指示を投げるとインベントリから新たに取り出された3枚の布を受け取り、2枚を足に巻きつけ、1枚を床にひく。足音はもうすぐそこ、3階まで到達していた。
【ハイネスヒール】は未だクールタイム待ち。不安が残るけど普通の【ヒール】で間に合わせるしかない。
「なんて馬鹿な真似をっ! 治療するのにだってリスクはあるんですからね!」
愚痴をこぼしながら集中すると緑色の淡い光が患部を覆った。どくどくと止めどなく血を迸らせていた傷跡が目に見える速度で塞がっていく。
見た限り違和感がなくなるのを確認し終えると急ぎ杖をインベントリへ収納。回復庫さんも察したのか血に塗れた布を咄嗟に回収しインベントリへしまってくれた、直後。
「全員動くなッ! グレアム様、ご無事ですか!?」
室内戦を想定してか、短刀を握った6人の男がドアを蹴り飛ばす勢いで室内へと雪崩れ込む。
蹲っているグレアムを見るや否や2名が流れるような動作で前方に展開。残りの4名は僕等に短刀を突きつけて静止を呼びかける。
「お前達、一体何をした!」
「何もしていません!」
両手を挙げ抵抗の意思はないと示しているが、のっぴきならない状況に冷や汗が流れる。
互いに一触即発の状況で早まった行動をする者が出てもおかしくなかった。
万が一にも誰かが斬りつけられるような事態になれば僕等も身を守る為に強硬手段を取らざるを得ない。
「騒ぐな、大事無い」
この場を納められるとすればグレアムの証言だけだ。想像を絶する痛みがあったはずだけど気を失わなかったのは流石と言うべきか。
しかしながら諸手を挙げて喜べる状況でもない。あれだけ混乱をきたしていたグレアムが僕らに有利な証言をしてくれるかは未知数だ。
手は挙げたまま、事と次第によっては行動に移さねばなるまいと祈るように耳を傾ける。
「少しばかり胸が痛んだだけだ。すぐに剣を下ろし客人への無礼を詫びよ。話の最中に剣を振り上げるなど商人にあるまじき行為だ」
幸いにして、グレアムも事を大きくするつもりはないらしい。ほっと胸を撫で下ろす。
「そ、そうでしたか。申し訳ございません、我々の勘違いにより刃を向けたこと、深くお詫び申し上げます」
「……すまなかったな。しかし彼らも職務だったのだ、どうか責めないでやって欲しい。この非礼については後ほどお詫びを用意させて頂く」
元を正せばあんたのせいだろうと思いはしたが、勘違いから剣を抜いてしまった護衛達が青い顔で膝をつき、揃って首を垂れている姿を見て口を噤む。
原因がどうであれ、ここで糾弾すれば追い詰められるのは彼らだ。穏便に済むのならそれに越したことはない。不満がないと言えば嘘になるけれど、話を掘り返す気にはなれず、僕等は揃って無言のまま小さく頷き返した。
「どうかしてます……」
武装した男達が平身低頭のまま部屋を後にするなりぐちりと告げる。
「許せ。世界を旅して回ったと自負しているこの身でも君ほどの使い手にお目にかかったことはなかったのでな。幻術の類に違いないと思ったのだ。この足はとうの昔に死んでいる。刺したところで痛みなどあるまいと高を括っていたのだが、よもや痛みを感じるとは。おかげで君の話が本物だと身を以って体感できた」
刺し貫いたふくらはぎには乾いた血が張り付いていたが、指でこそげ落としても傷一つ残っていない。
「それで、白き狼と相対したそこの年若い青年も、君と釣り合う程度の力を持つわけだな? 彼女が傷を癒す神官だとすれば、君は魔物を狩る騎士といったところか」
ちらりと一瞥されたハルトは気負う様子もなく悠然と頷く。
口を開くと罵倒の一つでもでかねないと自覚しているから頷くに留めたのだろうけど、それがまた歴戦の戦士を思わせる貫禄に見えなくもないから不思議だ。
「……分かった、この目で見たわけではないが信じよう。しかし、そんな君達でも守るのが精一杯ときたか。敵は強大と言わざるを得ないわけだな」
商団の頭として培ってきた経験をもってしても理解が及ばない治癒魔法を見せられては信じるほかない。
ところがグレアムの表情は先ほどよりもずっと深刻さを増し、両目を瞑って腕を組むと悩ましげな声を漏らし始める。
「我々とて狼の棲む森を潜り抜けるのに危険がないわけではない。ただの狼ならいざ知らず、君達の出会った白狼とやらを相手にこれまでの手が通じるとも思えんか」
暫しの黙考を終えたグレアムから出てきたのは重苦しい溜息と諦観だった。
もしかしたら僕等はとんでもないことを報告しまったのではなかろうか。
彼らがクーイル商会の抱えた問題に我こそはと名乗りあげたのは安全を保障できる術を知っていたからに他ならない。
「この辺りで我々は手を引くべきかもしれんな」
この地に縁のあるディールさんですら命より優先すべきものはないと一時は諦めたのだ。
手持ちの秘策に不安要素が生まれれば撤退を思い浮かべるのも当然といえる。
「ま、待って下さい!」
気付けば縋るような声を出していた。
白銀の賢狼の情報を報告したことに後悔はない。もし何も言わなければきっと被害が広まっていたはずだから。
だけどこのままアズール商団が撤退すれば、残されたクーイル商会と集落に待っているのは破滅以外にありえない。
グレアムの考えがいかに合理的でも『はいそうですね』と納得できるはずなかった。
「あの狼を倒せれば解決する筈です! なら、情報を集めて領主様に掛け合うとか……」
「無駄だ」
急転する事態に追いつけない頭を捻ったところで革新的な案など生まれるはずもなく、グレアムは馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに即答する。
「どうして!?」
「君達の力を疑わないと決めたからだ。見た目通りの実力なら迷いもしたがな。断言しよう、領主殿の全兵力を投入したところで君達2人には敵うまい。田舎の領主が持つ私兵にまともな訓練が行われていると思うか? 彼らの任務の大部分は土木工事と警邏だ。採用にしたって王都の騎士学校を通してるわけじゃない。食いっぱぐれた農家から使えそうな人材を引き抜いて訓練とも呼べない最低限の規律を学ばせただけだ。土を掘り返すことができても、砂利道の警備ができても、大型の魔物を狩るなんてのは土台からして不可能なのだよ。領主もそれを理解してる。私兵といえど殉職すれば残された家族への見舞金や葬儀の手当てで少なくない金が飛ぶだろう。故に、私は商人として、いや、商会に与する者として断言しよう。この村落にそれだけの投資をする価値などない」
言いたいことはたくさんあった。人の命が懸かっているのに結局はお金の問題なのかと。
だけど言葉にはならない。グレアムの言葉は辛辣な物だったけれど何一つ間違っていないことを理解できてしまったから。
私兵が壊滅すれば公共事業が、街道の整備が滞る。野盗や危険な肉食動物が増えれば被害を受けるのは農家だ。見舞金を初めとした諸々の支出が増えれば税だって上がる。結局は助けた人達よりずっと多くの人達を不幸にしかねない。
「大方、我々の撤退を自分のせいだと思ったのだろう?」
鋭利な視線に内心を見透かされて息を呑む。
撤退する理由が僕らのもたらした情報なのだとしたら、クーイルを窮地に立たせているのもまた僕らという事になるのではないか。
「随分と心根の優しいことだな。しかし、だとすればそれは違う。君達の報告がなかろうと白狼が森の浅瀬に出没した時点で我々の商隊は遠からず襲われていたことだろう。被害が出れば撤退せざるを得ない。君達はそれを未然に防いでくれたのだ。恥じるのではなく胸を張ってしかるべきだと思うがね」
理屈では分かっているのだ。僕らが白狼に出会わず無事にここまでこれらところで、輸送を続ける限りいつかきっと白銀の賢狼と出くわす。
それがクーイルの終わる時で、僕らは不運にもそのタイミングに居合わせてしまっただけなのだと。
だから、ここらか先は出来ることなら犠牲の出ない選択をしたいという夢見がちな僕の我侭に過ぎない。
「ねぇ、みんな。……お願いがあるの。どちらにしても仕事をしなきゃいけないなら、より沢山の人を幸せに出来る仕事がしたい」
僕とハルトの2人では守りに徹しなければ危うい相手だった。
でも、みんなが協力してくれるなら戦力だって大幅に増加する。
盾として守りに徹するハルトはそのままに、アキツさんと豚さんの火力が、ギルバードさんの支援が、回復庫さんのバックアップが揃えば死角なんてない。
僕等にだけしかできない、犠牲を出さないでいられる選択肢が残っているのならやれるだけやってみたいのだ。
一歩前に出てからくるりと身を翻し、みんなに向かって頭を下げる。
「一緒に白銀の賢狼を討伐してくれませんか」
僕はディールさんを助けたことで、話を聞いたことで、クーイルの村々に対し少なからぬ情が湧いている。
何も知らないみんなからすれば突然の申し出に目を丸くするのは当然だった。
その中でただ一人、同じ思いを共有するハルトだけは苦しげな表情を浮かべている。
僕に先を越された上、イの一番に賛成と声を上げたのでは反対の声も上げづらくなり、強引な出来レースと思われるかもしれない。
みんなの返答を待つ以外に何もすることを許されない歯がゆさは一目見ただけで伝わってきた。
「勿論ちゃんと偵察もします。入念に調査をして、計画を立てて、イレギュラーがあれば即時撤退。安全を第一に深追いはせず、無理だと思えば諦めるつもりです」
白銀の賢狼はボスとはいえゲーム時代なら格下の相手だ。多少のイレギュラーがあろうともカバーできる自信はある。
だけど、この世界の奴は明らかにゲーム時代とは一線を賀す知性を備えていた。
ダメージが実際に傷となり、痛みとなり、場合によっては死に至る可能性もあるこの世界で戦うには危険な相手だと言わざるを得ない。
安全を優先するなら見なかった振りをして適当に路銀を稼ぎ、なるべく早めに村を出て行くべきだと分かっていても、頼まずにはいられなかった。
「返事はすぐじゃなくていいから、ちょっとだけ考えてみてくれませんか?」
僕のお願いにみんなは顔を見合わせる。動揺するのも当然か。どう考えたってリスクばかりで得るものが少ない。
ただ、全くメリットがないわけじゃないとも思ってる。
「ここがゲームと同じ世界なら、将来的に戦闘を避けられないと思うんです」
ゲーム内で亡者の森に居た僕らはこの世界でも亡者の森に、クーイルで狩りの準備をしていたみんなはこの世界でもクーイルに居た。
元の世界へ帰る方法を探すにしても、この世界について調べるにしても、人手が多いに越したことはない。
というか僕らだけでどうにかできるとも思えないし、この辺りで集められる情報にも限度がある。
早急にプレイヤーの集まる大都市へ向かいたいところなんだけど、都市間転送を含めた冒険者ギルドが消失し、ポータルゲートの位置記録もリセットされている以上、自力で移動しなければならない。
亡者の森やクーイルの町が拡張されていたように、フィールドマップも僕らの世界に劣らないかそれ以上の規模まで広がっているはずだ。
ゲーム時代でも都市間転送を使わずに移動するのは結構な時間を要したくらいだし、ディールさん達の経験を踏まえても月単位は見積もっておいた方がいい。
道中にはそこそこ高レベルのモンスターが湧くポイントも含まれる。フィールドボスに出くわす可能性だってゼロじゃないのだ。
一度も魔物に襲われない幸運に縋るのは馬鹿げてる。自分達がどれくらい戦えるのか、格下と判明している白銀の賢狼を相手に確かめておくべきではないか。
「俺はカナタちゃんの意見に賛成だな。ゲームと勝手の違うところもあるだろうし、魔物が出るなら最低限の連携はできるようになっときたい」
そうした僕の意見に対し、率先して宣言したのはやはりというかアキツさんだった。
リーダーとして今後どうすべきかを考えてもいたはず。大都市に向かうのであれば道中の戦闘は避けられないものと覚悟しているようだった。
「拙者も手伝うでござるよ。何やら込み入った事情があるのでござろう?」
「そうね、らんらんも賛成するわ。いつまでもここに留まっているわけにはいかないだろうし」
続いてサスケさんが任せろとばかりに胸を叩き、暫く考えていた豚さんも後に続く。
大勢が賛成に傾けば反対意見を口に出しにくい。まして最年少となればなおさら。
「あ、あの、僕も……」
回復庫さんは不安そうな声色を抑えきれないままで、置いて行かれるのではないかという恐怖心から手をあげかける。
「すまないが、少し考えさせてもらえないだろうか」
ギルバードさんはそんな回復庫さんの頭を優しく撫でてから震えていた指先をそっと握りしめた。
「何も今すぐ決める必要はないよ。それに、手伝い方だって色々とあるはずだろ?」
女性相手に毎回こうできるなら非モテ同盟になんぞ入る必要はなかったろうに。残念ながら彼がテンパらないで紳士的に対応できるのは男友達を対象としたときだけなのである。
回復庫さんの不安げな表情がみるみる内に和らぐのを見て、僕もまた心の中でほぅと安堵の息を吐く。
このタイミングしかなかったとはいえ、何の相談もないまま協力を仰いだのは性急だったか。
突然知らない場所に転移して、突然魔物と戦うかもしれないといわれて、だから急いで準備しなければと切り替えられる人間は多くない。
来年から高校生になるくらいの歳ではなおさら、年長者の僕らがしっかりと見てあげなければならなかったのに。
「ギルバードさんの言う通りです。ゆっくり考えてみてください。回復庫さんがしたいようにするのが一番大事ですから」
そう言って僕も同じように回復庫さんの頭を撫でたのだけれど微妙そうな顔をされてしまった。
警戒されたとしても仕方ない。やや気落ちしながらもグレゴリーに向き直る。
「どこまで出来るかはわかりませんが、協力する用意があります。せめてそれまで決断を待ってはいただけませんか?」
「いやはや、君達は全く以って素晴らしい」
グレアムは大仰な拍手を繰り返しながら感極まった様子で僕らを見回す。
「偶然立ち寄った小さな町によもやここまで肩入れしてくれるとは。最近商会に加入したばかりの身でありながら感謝の念が尽きない。その話、是非とも支援させてはいただけないか。我々とて町を見捨てる選択が心苦しいことに変わりないのだ。折角開拓した販路、むざむざ捨てるのは口惜しいのでな」
人命ではなく商売の為というのがいかにも商人の彼らしい。
アズール商団が商会の権利の一部を欲したのは、魔物や野盗の襲撃を受けるリスクの高い行商から、安全な場所に腰を据えて店を構えられる経営に方針転換する必要を感じていたからではないか、というのはディールさんの弁。
実際、街に店を構える商店や商会は行商人にとって一つの憧れ、目指すべき到達点なのだそうだ。
折角手に入れた利権を手放したくないという思いは理解できる。
「白狼の討伐に当たってくれる限り、我々も全力で君達を支えたいと思う。確か路銀の為に仕事を探しているといったな。では、宿と食事、日常品を含め生活に必要なものは出来る限り用意させていただこう。君達は白狼のことだけを考えてくれればいい。無論、打ち倒した暁には十分な報奨金も出す。どうだろう、頼まれてくれるかね?」
暫しの瞑目を終えたグレアムの申し出は予想以上に破格の条件だった。右も左も分からずこの世界に飛ばされた僕らには生活基盤がない。それを丸ごと用意してくれるのなら日々の心配をしなくてよくなる。
僕らの間にも少なくないどよめきが広がった。ここで頷けば何もかも上手くいくのではないか。しかしそうする前にディールさんが険しい視線を投げかける。
「随分と豪儀なことですな。しかしグレアム様、このようなことをたった一人でお決めになられてよろしいのですか?」
僕ら全員の生活を保障するとなれば少なくない金額が必要になる。まして期間すら定められていないのだ。
クーイル商会にもいざという時の積立金は用意されていたものの、まさに今がその時であり、残金は目減りする一方だった。
多大な功績を元に商会への加入を許されたグレアムでも予算編成を単独で行える権限はない。
商人の目からして身に余る提案なのではないかと疑っているようだ。
「安心したまえ、商会の資金を使う気はない。承認が得られないのは最初から考慮の内だ」
逼迫した情勢の今、白狼の存在を認知していない議会が簡単に資金を投資してくれるとは思えない。
まずは毛の一部なりを持ち帰り白狼の存在を認めさせ、演習なりで僕らの戦力を理解させ、しかしそれでも協議が始まるだけだ。
実際に討伐が始まるのはいつになることやら。僕らからしても浪費した分だけ大都市への道が遠のいてしまうし、なるべく早く片付けたいところなのだ。
「では、どこから資金を引っ張ってくるおつもりで?」
「決まっている。我が商団からだ」
ディールさんもこの答えは想定外だったらしい。僅かに狼狽した様子で、しかし追及の手は止めない。
「……頭目とはいえ、団全体の資金を勝手に流用できると?」
「いいや。しかし近日中に必ずや団員を説得してみせる。それまでの費用は私財で賄うつもりだ。ディール殿も、商人なら無駄なことはしないと分かるであろう?」
双方の対立はよほど根が深いのか、僕らを完全に脇へ置いて火花を散らしあっている。
事情に詳しくない僕が口を挟むわけにも行かず、どうしたものかと考えあぐねること数十秒。
先に動いたのはグレアムの方だった。
「ディール殿の疑いの根は随分と深いようだな。自分を助けた英雄に不義を働かれては困るというのも分かる話ではある。仕方なし、ここは我々が折れよう」
そう言って引き出しの机を開けると分厚い紙束を取り出す。この時代感には珍しく植物の繊維で作られたちゃんとした紙のようだ。
「前金だ。もし私が商団の説得に失敗しても返す必要はない。好きにするがいい」
訝しげなディールさんの表情が紙束を受け取った瞬間に硬直する。見開かれた目は驚きに染まっていた。
「あの、それは?」
「村々の、借用書です」
ディールさんに尋ねると動揺に震えながら答えてくれる。
驚くのも無理はなかった。これはつまり、ディールさんがグレアムを疑っていた理由の全てなのだ。
返す当てのない借金を重ね続けた集落に何かを仕掛けて儲けるつもりがあるならこんなにあっさりと絶対に手放すはずがない。
「これは一体、どういうおつもりで?」
「どうもこうもない。借金は商団員を納得させるための形だけだと言ったであろう? 焦げ付いた証文とはいえ自ら帳消しにしたのでは商人としての沽券に関わるが、前金を建前に譲るなら体裁としては十分だ。君達が狼を討伐し、交易が以前と同じ程度に盛り返せば額面には到底及ぶまいが、ささやかな利益は回収できる。……正直に言えば我々も持て余していたのだ。この機会に清算して疑惑の視線を払えるのなら諸手を挙げて譲るのは当然だろう。仮に交渉が上手くいかなければこの地を離れるしかない。どちらにせよ我々にはもう必要ないのだよ」
ディールさんはざっと証文を流し読みしてから間違いなく本物ですとどこか上の空で呟く。
グレアムの言葉が本当なら、今までの疑念を払拭してなおあまりあるものだった。
彼は本当にこの地に腰を据えようと考え、その為にも集落を助けたいとも思っている善良な商人ということになる。
それを否定する材料はもうどこにも残っていなかった。
「証文はそれで全てだ。隠すような真似もしていない。納得できなければ全ての権利を譲渡する誓約書を作るが?」
今更多少の証文を隠したところで意味はない。ここまでされてなおも疑うのは商人としての品格を落とすと判断したディールさんがほぅと重たい息をついた。
「いえ、その必要はありません。……どうやらこの件に関しては私が間違っていたようですからな。これまでの勘ぐり、どうやら下種の極みだったようです。心から謝罪いたしましょう」
「商人として何かあるのではないかと疑うのは当然であろう。まして故郷の話となれば、な。こうして誤解が解けたのであれば気にする必要もあるまい」
グレアムは恨み言一つ残すことなくあっさりと受け入れてガッシリと握手を交わしている。
誤解が解けて仲直りも出来た。そういうことで良いんだろうか。ちらりとディールさんの表情を伺ってみると、酒場で見せていたような朗らかな笑みが浮かんでいた。
そこに嘘偽りの色は見えない。あれだけ反目しあっていたのだ。少しは尾を引きそうなものだけど、商人とはこういう物なのだろうか。
「細かい話を詰める必要もあるが今宵はもう遅い。宿に案内させるから身体を休めるといい。部屋は分けたほうがいいかね?」
突然話を振られて一瞬何のことかと思ったけれど、宿屋の部屋割りかと思い直す。
代金を受け持ってくれるとはいえ、個室だとその分だけ宿泊費も嵩むはず。
「いえ、みんな同じ部屋で構いません」
お世話になりすぎるのも問題だし、みんな男だから一緒でも気にする必要はないかと思ってのことだったのだけれど。
「いや構えよ」
僅かの間を空けることもなくハルトの突込みが入った。
「すみません、俺達は一緒でいいんでこいつにだけは別に部屋を用意してくれませんか? 出来るだけ近い場所に」
どうして僕だけ別なのかと遺憾の声をあげそうになったところで耳元へ『今は女だろ』と囁かれることでようやく自分の境遇を思い出す。
確かに、僕は気にしないけれどみんなは気にするかもしれない。ごたごたの連続で未だにネカマでしたとは言い出せていないのだ。
いや、言ったところで僕の今の身体は完全に女の子だし全く気にしないって訳にもいかないか。
「はは、であろうな。これから成すことを思えば気を使う必要などないのだ。では隣り合う部屋を2つ、片方は大部屋で確保しよう。キエル、この者達の案内をしてやれ!」
複雑な表情をする僕にグレアムは快活な笑い声を上げると扉に向かって叫ぶ。すると、まるでそうなるのが分かっていたかのように僕らを案内してくれた少年が扉を開けた。
誤植を修正
カナタに興味ありげな少年の名前 [キール]→[キエル]




