辺境の街と夢幻の救者-1-
結論から言って年かさの男性の方はまだ息があったらしい。喉笛を噛み千切られた時の大量出血が原因で仮死状態になっていたけど、僕の【ヒール】により傷と失われた血液が再生されたことで奇跡的に目を覚ました。
……今度から倒れた人を見かけた場合、生死を確かめる前にとりあえず【ヒール】をかけようと心に決める。
あと少し遅れていれば、はたまた倫理観を捨て回復魔法の検証をしようと思い至っていなければ、そのまま死体として埋葬していたかもしれない。冷や汗が滲む思いだった。
勿論そんなことを男性に教える必要はないのでだんまりを決め込むんだけど、おかげでもはやこれまでと死を受け入れていた男性からは命を助けられたことに関して感謝感激の雨あられの洗礼を受けてしまった。
知らぬが仏とはよくいったものである。
若干の心苦しさを感じなくもないけれど、助けたのは事実なんだから胸を張っても許される……はず。勿論虚勢だ。
「本当に、本当にありがとうございました。……彼のことは残念ですが、あなた方がお気になさる必要はありません」
平凡な高校生でしかない僕等にとって、自分より遥かに年上の男性からこうも平身低頭徹頭徹尾頭を下げられては恐縮の方が先立つ。
顔を上げてくださいと何度もお願いするのだけど、その度になんと言う寛大なお方だと褒めそやされ敬られるのではキリがない。
兎にも角にも僕らにとって男性が生きていたのは僥倖だった。
お礼をさせてくださいと申し出た男性に、それなら迷ってしまったので街までつれていって欲しいと頼んだところ、無論ですともと二つ返事で快諾してもらえた。
荷物を山と積んだ荷車は放棄するしかないと思っていたのだけど、物は試しとばかりに動力源である動物へ【ヒール】をかけたところ無事に息を吹き返したおかげでまたも感謝される始末。
移動手段にも輸送手段にも使える屈強な動物らしく市場価値も高いとのこと。お礼の言葉で胃に穴が開きそうだった。褒め殺しとはこのことか。
幸い荷車の方は長時間の移動に耐えられるよう作られているだけあって頑丈この上なく大した損傷はみあたらない。
死の淵から生還して興奮状態にあった動物、(やけにガッシリとしてるけど馬車は馬がひくものなので馬と呼称する)を落ち着かせると街まで乗せて貰える事になった。
荷車の重さと獣道同然の悪路もあって馬車の速度は速くない。街までは3時間近くかかりますと申し訳なさそうに言われても、それ以上の時間を深い森の中で右も左も分からずに過ごしてきた僕等にとって、歩かずとも乗っているだけで確実に辿りつけるだけで夢のようだった。
むしろ暇つぶしと情報収集を兼ねて男性や周辺地域の事情を根掘り葉掘り尋ねられる時間を得られたと考えればまさに一石三鳥である。
唯一の懸念点があるとすれば、ハルトから人前では女の子として振る舞うよう、要するにネカマモードを維持するよう耳打ちされたくらいか。
「私達はこの辺りの小さな村々を巡って商品を売り歩く行商人なんです」
ディールと名乗った商人は、この辺りの話が聞きたいとせがむ僕等に御者台の上から自分の生い立ちをどこか懐かしそうに語ってくれた。
誰も手を出したがらない辺境の地であったとしても、人々が住まうのなら商品の需要だって生まれる。
とはいえ道は整備されていないし、狼を初めとした野生動物には襲われるだろうし、寧ろ襲われてたわけだし、そもそも数十人しか住んでいない小さな集落を相手に商売をしたところで大した利益は上がらない。
「どうしてこんな辺境で商売を?」
馬車さえあればどこでだって荷物は運べるのだ。ゲームでは車どころか汽車すら発明されていなかったし、物資輸送の仕事なんてそれこそ山のように溢れてるはず。
こんな辺境で商売せずとも割りの良い場所なんか幾らでもあるはずなのにと思わずにはいられない。
「ここは私と彼の故郷でしてね。小さな時には薬一つ手に入れるのにも苦労しましたから、少しでも報いることが出来ればと思っているのです」
苦労を承知で続けるのはそれだけの理由があるからに決まっている。
「……ごめんなさい」
この土地に縛られるNPCなのかという疑いはゲスの勘繰りだった。会話をしてすぐに分かったけど、この世界の人間はゲーム時代のAIと全然違う。僕等となにも変わらない反応からして、本物の人間なのだろう。
「そんな、お気になさらないでください。それに良い所もあるんですよ。なにせここまで辺境ですと野党の心配は要りませんからね。ほんの少し前までは気楽な家業だったんですよ」
過去を懐かしむような物言いにふと首を傾げる。
この世界の行商人は狼に襲われる可能性が気楽に感じられるくらい危険な仕事なのだろうか。いや、まぁ、僕等の世界の宅配便よりは遥かに危険だってことくらい分かるけども。
それに『ほんの少し前まで』という一言も気にかかる。
「何かあったんですか?」
変に遠慮して重要な情報を逃すわけにもいかない。多少の無礼は助けた命に代えさせて貰おうと質問を続けた。
「狼ですよ」
予想外の返答に首を傾げる。
「少し前まではこの森には狼どころか危険な動物なんて一匹も居なかったんです。一体どこから現れたのやら……」
ディールさんが言うにはほんの数ヶ月前までこの森どころかここら一帯に人間を襲うような動物なんていなかったのだそうだ。
ゲームでは街の周辺のフィールドには弱いノンアクティブモンスターしか配置されない仕様になっている。
初心者が転送された街でいきなり強いアクティブモンスターに倒されるのはあんまりだっていうバランス的な理由もあるけど、人々の生活拠点でもある街を強力なモンスターが我が物顔で闊歩する危険地帯に作ろうとは思うまい。
仮にそんな場所に町を作るのであれば、現代の僕等が邪魔な森を切り開き平らにならしたうえでビルを建てるように、危険な魔物は全て駆逐して安全を確保してからになるのは当然といえる。
もっとも、この辺りは昔から危険な魔物が出ない例外的な安全地域だったらしいけど。
それがある日を境に突然狼が出没し始め、ろくな武装もない行商人を襲うようになって、この辺りの物流網はほぼ壊滅の憂き目に合っているのだそうだ。
聞くところによると、この辺りにある村は全部で十数個で、狼の住処となっている森の中に点在している。
深い森を馬車が通れるまで開拓するのは相当な困難を伴う。各村々への道は一本で繋がっており迂回路といったものも徒歩以外では存在しない。
馬車の移動音は思った以上に響く。森の中に潜む狼にとってみれば獲物がここに居ますというシグナルにも等しかった。
「山火事か何かで棲みかを追われたのがこんな辺境まで流れてきたんじゃないかって話です」
あり得ない話じゃない。気温の変動や人の手による開発、例外的な自然現象による環境の変化などで天敵が減り、爆発的に個体数が増えたりすると食糧が足りなくなって群の一部は新天地を探しに旅へ出ざるを得なくなる。
「駆除はできないんですか?」
この森は食料も豊富そうだし、ノンアクティブモンスターだらけのゲーム設定が生きてるなら僕等が逃げてきた亡者の密林に迷い込まない限り天敵も居まい。
被害が縮小する可能性は限りなく低く、増える前に駆除しなければ爆発的に数を増やし、繁殖を迎えた数年後には手に負えなくなるだろう。
移り住んだのが数か月前だとすればそろそろ子を孕んでいてもおかしくない。時間的猶予はもうほとんどないはずだ。
しかし、ゆるゆると首を振るディールさんの姿は暗い陰に覆われていた。
「こんな辺境ですから常駐の騎士団がないんです。都のギルドに頼むにせよ、近場の騎士団に頼むにせよ、ここまで足を運んで貰うには相当な費用がかかります。自給自足の小さな村ではとてもそんな金額は出せません。仮に頼んだとしても狼は狡猾です。勝てない相手と分かれば全力で逃げ出す。広大な森から狼を一匹残らず駆逐するのは難しいでしょう」
何の因果か、僕らにはゲームで培った過度な力が与えられている。それを基準に考えるべきではないのだと思い知らされた。
この世界がゲームと同じなら、引き金を引くだけで致命傷を与えられる銃なんてものは存在しない。精々が機械仕掛けのボウガンだ。
剣や槍を初めとした武具は習得に少なくない時間を要する。群れた野生の動物相手に付け焼刃の経験で挑んでも返り討ちに遭うのがオチだろう。
だからそれを専門とした集団に頼まざるをえないのだけれど、一般的ではない技能を極めた人間、いわゆる専門職に仕事を頼むには高額な報酬が必要になる。
これは現代でも同じだ。命の危険があるとなれば尚更。値切り交渉になんて応じてくれないだろうし、するべきじゃない。命の安売りをせがむのと同じだ。
基本の依頼料、必要な道具に宛がわれる経費、移動に使う足の費用、仕事が終わるまでの食費と滞在費、怪我人が出たときの治療費や、最悪人死にが出れば見舞金も必要だろう。
狼を狩り尽くせるほどの集団を動かすのに必要な金額は決して少なくないのだ。
「あの、領主様にお願いするとかは……」
この世界がゲームと同じ設定なら封建制で成り立っているはず。
民から税を受け取る代わりに民を庇護するのが領主の役目ではないか。
「村々の連名で嘆願書を送りましたが、たかだか狼如きの為に私兵を派遣するわけにはいかないと。そんなに怖いなら森へ火を放てば良いではないかと突き返されまして。こんな辺境の集落など気にも留めておられないのでしょう」
だけど当然というべきか、誰にでも思いつくような手が打たれていないわけがなかった。
それにしてもたかが狼如きとか森に火を放てとか、あまりにも対応が杜撰すぎやしないだろうか。
こんな広大な森を燃やそうものなら洒落にならない規模で環境が激変する。
森林は大切な天然資源だ。木の実や果物といった直接的な恩恵は勿論のこと、動物を狩れば肉や毛皮が手に入るし、雨を土に含むことで浄化しながらゆっくりと地下水に還元する役割も持っている。
冗談抜きで、森林一つ消えた結果、近くの川が干上がったり氾濫したりなんて事態にもなりかねないのだ。
どちらに転んでも川から引いた水で作物を作っている農家は少なくない被害を与えるだろうし、場合によっては全滅の憂き目にあうことだって考えられる。
最終的には税を受け取る領主にだって波及するはずなのにどうして。
……いや、考えてみれば別におかしいことでもないのか。
僕らの世界でも無計画な開発によって自然環境が激変し、すわ滅亡の危機に立たされた国なんて歴史を遡れば幾らでもある。
僕らが当たり前のようにダメだと言えるのは、こうした歴史を蓄積した人と、分析した人と、過去の教訓という形のデータにまとめて残した人達が居てくれたからだ。
歴史の短いこの世界では経験の蓄積すらまだ始まっていないかもしれない。
「えっと、差し出がましいようですが、森に火を放つのだけは最終手段にも使わないほうがいいです」
本当に差し出がましい申し出だけど、ここまで関わった以上、黙って見過ごすのも憚られた。
問題はどうやってこの世界の人達に森林資源の急激な減少に伴う危険性を理解して貰うかだ。
豊富な森林資源によって雨が降っても洪水になりにくく、また雨が降らなくとも河川の水量が変動しにくい原理を説明せよ。
ただし元の世界の学術的データ及び用語は一切使えないものとする。
端的に言えば森の有無で土の質が変わるからだ。木々の葉っぱが地に落ちれば微生物が分解して柔らかな腐葉土になる。いわばスポンジみたいな感じで。
スカスカってことは隙間が多いって事で、水は素早く地中の奥深くまで浸透する。底の深い水槽だと思えばいい。大雨が降っても地面に溜め置ける量が増えるのだ。
逆に草一つ生えていない裸の地面は栄養もなく微生物も少ないので土が固い。隙間なくぎちぎちに詰まった土は雨が降っても中々染み込んでくれず、すぐに表層を流れてしまう。
当然、水は高いところから低いところに流れるから、川にどばどば流れ込んで水かさを跳ね上げる。同時に砂も運んでしまうので川はどんどん浅くなる。
底の浅い水槽と底の深い水槽に同じ速度で水を入れた場合、どっちが先に溢れますか?
また、溢れるまで水を入れてから陽のあたる場所で放置した場合、どっちが先に空になりますか?
こうして言葉にすれば簡単に思えるかもしれないけど、それは僕らの世界基準の話。
この世界の人達に微生物とか腐葉土とかスポンジとか雨水の浸透率とかの言葉が通用すると思えない。
コップ一杯程度の水なら森でも荒野でも染み込む速度は変わらないし、どちらも同じ土なんだから変わる筈がないと反論されたとして、覆す術がないのだ。
だって、僕らの知識は2千年以上の歳月をかけて繰り返されたトライ&エラーの集大成だもの。
未だ馬車がまかり通っている時代の知識とは比べ物にならなくて当然。
第一僕もこれらを知識として持っているだけで、常識として知っているだけで、どうしてそうなるのかをもっと具体的に、根本的に説明しろと言われてもできない。
どうして三角形の内角が必ず180度になるのって聞かれても、そうなるように世界が出来ているって偉い数学者が発見したからとしか言えないのと同じだ。
知識さえあれば、定理さえ覚えれば、原理を知らなくとも応用が利くのである。
結果だけは分かっているのに、結果に至る過程を説明できないもどかしさに歯噛みする。
「具体的に説明するのは難しいんですけど、なんといいますか、森がないとですね……」
どう噛み砕こうにも専門用語や理屈の説明できない概念が抜けず、曖昧な唸り声は尻すぼみに消えてしまう。
しかしディールさんはわたわたと要領を得ない僕を見て心配ないと笑った。
「はは、勿論そんな愚かな真似はしませんよ。例え領主様がお許しになろうとも森の神はお許しにならない。庇護を失った我々は遅かれ早かれ滅びの道を辿るでしょう」
この世界に僕らの世界の理屈がなくとも、日々恩恵を受けている森は彼らにとってかけがえのないものだ。
だから神として祀り、荒らせば祟りという形で災厄をもたらすのだと信じている。
「なるほど……」
かつての僕らの世界でも神聖な領域として崇められ、開発の手から守られてきた場所は多い。
もしかしたら本能的な部分ではそれを失えば大変なことになると理解しているのかもしれない。
だけど上手く言葉に出来ないから、摩訶不思議な現象を一手に引き受けてくれる神様という存在を創り出したのかもしれない。
なにはともあれ、領主の馬鹿げた計画を実行する気がないことにほっと胸をなでおろしかけ、すぐに首を振る。
結局のところ領主の力も借りれず、討伐隊を編成するお金もないのでは、打つ手がないのと同じだ。
隣に座るハルトは悲壮な表情で押し黙っている。元より困っている人が居れば自分から飛びつくタイプだ。忸怩たる思いを抱いているのだろう。
ハルトは『自分では絶対に解決できない』と分かりきっている問題に関して安易に首を突っ込んだりしない。
出来もしないことを請け負う無責任さをよく知っている。だから悔しげに拳を握るに留めていた。
「逃げようとは、思わなかったんですか」
失礼なことを聞いている自覚はある。儲からないと分かってもなお故郷の為に働こうと考えた人達だ。相応の覚悟はあるだろう。
だけど命に代えなんてきかない。怖くはなかったのだろうか。
「思いましたとも。正直に申しまして一度は逃げ出した身なのです」
答えは驚くほどあっさりとした肯定だった。
この地域に狼が出没し、行商人を襲うようになってから、村々を巡って商売しようと考える商人は大きく減った。
当然だ。誰だって命は惜しい。元より自前の足を持つフリーの行商人なら別の稼ぎ口を探すのも難しくない。
ディールさん達も命あっての物種だと思い直し、故郷に泥を塗る行為だと理解していながらもここから一番近い地方都市に商売先を変えた。
いっそ噂も届かぬくらい遠い場所へ行こうかとも考えたらしいが、どうしても様子だけは知っておきたかったのだそうだ。
ディールさんの選択は決して間違っていないと思う。
だけど、逃げようにも逃げられない商人も居た。それがこの地に根付くクーイル商会の面々だ。
彼らは街から街への荷運びで利益を得る行商人と違い、街に腰を据えて様々な取引の仲介をすることで利益を得ていた。
クーイル商会の役目は大きく分けて3つ。
一つ目は数ヶ月に1度の頻度で近くを通りがかる大商隊に取引を持ちかけ、ここでは手に入らない薬や道具の数々を運び込んでもらうこと。いわゆる仕入だ。
二つ目は仕入れた品々を契約している行商人に村々まで運んでもらうこと。
三つ目は村々へ引き渡した薬や道具の代金として収穫の一部や鉱石、狩で手に入れた毛皮などの加工品を回収して商会まで運んでもらうこと。
そうして集められた品々を大商隊に販売することで次回の仕入れの代金と商会の運営費用が賄われている。
ここまで辺境になると貨幣は一般に流通しておらず、取引は物々交換にならざるを得ない。
行商人が個人で行う小口の現物取引では大商隊が立ち寄ってくれる程の価値を見出してくれないので商会が総括して請け負うのだ。
故に、彼らは行商人と違って他の地で生きていく術を持たないのである。
また、行商人であるにも拘らず自らの意思で残った者達もいた。
村々への輸送が滞っている今、もしも安全なルートや手法を開拓できれば大儲けに繋がる。
今までは多くの商人で分担していた輸送費を総取りできるかもしれないとあって、金儲けに目がくらんだ者達は色めき立った。
沢の近くを進めば水音に紛れるのではないか。
単純に荷物を減らせば音が減って誤魔化せるのではないか。
果ては徒歩で運べば馬車ほどの音は出ないので気取られないのではないか。
様々な方法が日夜議論され、我こそはと思う、特に夢を抱く若い商人達は勇ましくもクーイルから村々へ向かった。
「結果を聞いたのは村を出てようやく新天地での取引にも慣れ始めたくらいでしたか。……徒歩以外は全滅だったそうです」
狼の聴覚はきわめて高い。重い荷を乗せた馬車の音は1キロメートルくらいなら十分に聞き取られてしまう。
おまけに馬車が通れる道は限られており、若者達の考えた策は悉く見破られ、死体も残らず食い尽くされてしまった。
徒歩で商材を運び込んだ商人は辛うじて生還を果たしたが、夜な夜な狼の遠吠えを聞く度に襲われるのではないだろうかという恐怖から眠ることも出来ず、どうにか戻って来るなり疲労で倒れてしまったとか。
回復した後も死んだような顔でもう商売は止めると世捨て人になったそうだ。
屈強な男性であっても身一つで運べる商品の数なんてたかが知れている。途方もない恐怖を越えて得られる対価にしては少なすぎた……どころか赤である。
「私はそれを聞いて恐ろしくて恐ろしくて……。やはり逃げ出して正解だったと思ったのですよ」
狼の発生は誰のせいでもない。ほんの少し星の巡りが悪かっただけ。言わば天命のようなものだと思うことにしたらしい。
自分たちではどうしようもないのだと諦めざるを得なかった。
だけど物語はそこで終わらない。
絶望の淵に立たされたクーイル商会と村々だったが、とある商団の出現により大きな転換を見せる。
「アズール商団と言いましてな。どうも彼らは狼の扱いについて大変詳しいようなのです」
なんでもクーイルの窮状を聞きつけたアズール商団は『我々ならば必ずやこの窮地を救えるであろう』と勇ましくも名乗りを上げたらしい。
狼被害の深刻化に伴い、村々への輸送を受ける者は居なくなって久しく、クーイル商会には大量の在庫が残ったままだった。
あとひと月ほどで訪れる大商隊との交易に使う品々も用意できておらず、このままでは見切りをつけられてしまう。
仕入れが満足に出来なくなれば村々へ商品を売ることも出来なくなり、待っているのは破産という名の破滅だ。
瀬戸際に立たされた彼らにとって、アズール商団の申し出は地獄における蜘蛛の糸に等しかった。
まして成功報酬で構わないと告げられようものなら、多少不利な条件であっても食いつかない方がどうかしている。
誰もが神に祈りをささげること数日。
アズール商団はどんな魔法を使ったのか、見事に狼を掻い潜り複数の馬車を伴う商隊での商品輸送に成功してみせたのだった。
彼らの狼に対する知恵は本物だったのである。
「めでたしめでたし……とはいかなかったんですよね」
僕の質問にディールさんはどこか寂しそうに笑う。
もしここで物語が幸せに終わるのなら、一度は逃げ出た彼らが再び故郷へ戻ってくる理由がない。
故郷の無事を喜びながら、特殊な技能を持つアズール商団に後の事を任せつつ新天地で思いを新たに奔走すべきだ。
「何があったんですか」
「いえね、アズール商団は根っからの商人だったというだけです」
商人に商売をするのは何故かと誰何すれば10人が10人中、利益の為だと答えるだろう。
アズール商団がクーイル商会を救ったのは決して善意からだけではない。
彼らは持ち得る知識を使ってクーイル地域の流通網を完全に掌握するのみならず、クーイル商会の運営権の一部まで手に入れていた。
商会が破綻するか否かの瀬戸際で、成功の暁には商会の運営権限の一部を譲渡して欲しいと頼まれたとして、断れる筈がない。
クーイル商会の運営にはアズール商団が一枚噛むようになり、自らが請け負う輸送費用を大幅に値上げしたのだ。
狼を避けて商品を輸送できるのが彼らの他に居ない以上、それがどんなに暴利であろうとも受け入れざるを得ない。
クーイル商会は村々の出身者が多く、いわば身内の集まりで、必然的に商品価格もぎりぎり利益が出るくらいの安価に抑えられていた。
だが、アズール商団にとって地元の商会の思惑など興味はない。
輸送に掛かるコストを考えれば費用の増額に踏み切るのは当然で、クーイル商会も運営権限の一部を譲渡した以上強硬に反対出来なかった。
倍近くに値上がった商品価格に村人達は困惑を隠せなかったが、事情を鑑みれば無理もない。ここで跳ね除ければ自分達の生活も立ち行かなくなる。
村々は瞬く間に僅かばかりの蓄えを使い果たし、やがては商品を買えなくなるほど追いつめられてしまった。
しかし、そんな状況に頭を悩ませたのは何も村人だけではない。
商売は買ってくれるお客様が居なければ成立しないのだ。この辺りでお客様になりえるのが村々の住民しかありえない以上、商品を買えませんで進退窮まるのはやっとの思いで販路を開拓したアズール商団も同じ。
彼らはこの状況を解決すべく、運んだ商品はそのまま村に置かせて貰い、使った分を次回以降に少しずつでも支払ってくれればそれで構わないと切り出した。
つまりは借金だ。勿論無利子ではない。支払えなかった金額の1割が次回の返済に利子として積み上げられる。
当初は利用を躊躇っていた村人達だったが、急な病ともなればそうも言っていられない。備蓄の薬はどれも高額だったが使わざるを得なかった。
薬の代金を支払えるだけの余裕はなく、罵倒されるのも覚悟の上でどうか一月待ってほしいと頼み込むしかない。
ところがアズール商会はおよそ商人とは思えないほど無関心な笑顔で、返済はいつでも構わないと断じたと言う。
商品は消費されなければ意味がない。使われずに劣化すれば折角の商品も破棄されてしまう。それなら使ってくれた方がありがたい。借金はいずれ返せばいいのだと。
それからというもの、まるで商人の言葉にほだされるかのように取引は以前のような活発さを取り戻した。
既にクーイルの村々はアズール商団にかなりの借金をこさえているらしい。
にも拘らずアズール商団が借金のことなど触れずに次々と商品を持ち込んできてくれるおかげで危機感は少しもない。
商品価格が倍になった今も、仕入れている商品の量と支払っている対価は以前と変わらないからだ。
それがどんなに恐ろしい状況なのか、村人達は気付いてすらいないのだという。いや、気付かれないよう立ち回っているといった方が正しいのかもしれない。
膨大な借金は時に貸し手と借り手の立場を逆転させる。借り手が借金を返せない状態に陥れば、貸し手もまた莫大な借金を回収できなくなるからだ。
本来はそうなる前に貸し手が見限るのだが、アズール商団の立場ではそれができなかったのではないか。
商品を買う我々が居なければアズール商団も立ち行かない以上、立場は我々の方が強いので、借金を返済する必要はないという意見すら出始めていた。
「とんでもない状況ですね……」
クレジットカードと同じだ。
帳簿の上だけでしか変動しない数字では借金を負っている実感が伴わない。
だけど借金は借金として確かに存在しているわけで。もしもアズール商団が方針を転換して回収に走ればどうなることか。
「ちなみに、借金を返せない場合はどうなるんですか」
「金額にもよりますが、まずは資産の押収。足りなければ強制労働が課されます。それでも支払えないような金額の場合は……奴隷商に売られても文句は言えませんな」
言い淀んだ最後の一言にどくんと心臓が跳ねる。この世界には奴隷制度まであるらしい。封建制の時点で半ば予想していた事だけれど、実際にあると断言されると不吉な印象がぬぐえない。
「奴隷として売る為に……なんて安易な方法じゃないんですよね、きっと」
考えられるのはアズール商団が村人達を奴隷にして売り捌き利益を得る方法なんだけど……ぶっちゃけ可能性は低いと思っている。
「優れた容姿や特別な技能を持つ者は相当な価格になると聞きますが、この辺りの村から総動員しても輸送費だけで足が出るでしょうな」
ここが都市部なら奴隷商が買い付けてくれるかもしれないけれど、遥か遠方の辺境地に極端な労働力が必要とは思えない。
奴隷として炭鉱で働かせるにしても、現場まで結構な距離を移動しなければならなかった。
馬車と馬、病気に掛かった時の為の治療費、現地までに必要な食料、運ぶ奴隷の人数が増えるほど隊列も大きくなり、ならず者や魔物に狙われるリスクも高まる。
見張りや警護に必要な人材だってタダじゃない。人間を遠くまで運ぶのは思っている以上にコストが掛かるのだ。
海か川があれば安価な船を使えるのだけれど、この辺りは内陸地で船が入れるような川や海なんてなかったはず。
労働奴隷としての価値はゼロどころかマイナスで、だからこそアズール商団には最初から彼らを奴隷として売りつけるなんて選択肢はありえない。
なにせ下手に消費が止まってしまえば自分達も割を食うのだ。
「借金は形だけってことですか?」
今までクーイル商会が問題なく運営できていた事から、従来通りの取引量さえあればそれなりの黒字にはなっていたハズ。
値上げ分の借金があってないような物と扱われているのであればアズール商団が加わっても運営上の問題はないのでは。
「しかし借金は借金ですからね。我々商人にとってお金の貸し借りは時に命よりも優先されるものです。それに正直、アズール商団の狙いがどうしても腑に落ちないのですよ」
だけどディールさんはそう思っていないらしい。
「商人にとって情報は生命線です。大暴落した商品を掴まされでもしたら路頭に迷いかねませんからね。彼らだってクーイルの経済がどのように回っているかくらい調べている筈です」
もしも彼らが利益を追求する集団だとしたら、最初から利益の見込めない商売に首を突っ込むとは思えなかった。
狼に対応する術を知っていたとしても、狼だらけの森の中を突き抜ける行為が危険である事に変わりないのだ。
かといって、義憤に駆られ参上した善意の第三者と判断するには村人達を借金漬けにした事実が矛盾する。
「アズール商団が根っからの商人であることは間違いありません。そんな彼らが一見すると何の利益もないような行為に耽っている理由なんて一つしかありませんよ」
利益を求める筈の集団が、利益の薄い行動を取る矛盾の意味。
「餌を撒いているんです。豚が肥え太って高く売れるようになるまで」
そうすることによって、かけた手間以上の利益を得られると確信しているから。
ディールさんは借金漬けにしたのも、それを問わずに商品を輸送し続けているのも、何らかの策を巡らしている途中なのだと断じる。
「とはいえ、具体的に何を企んでいるのかまでは分かりません。商人が儲け話のタネを明かすのはしっかりと儲けた後だけですから。そうなる前に何としても尻尾を掴みたい。その一心でここまで戻って来たんです」
にこやかに語っていたディールさんの表情はいつのまにか硬く引き絞られていた。
「アズール商団が狼を避けて荷を運べるなら我々にだって出来る。そう信じて今まで稼いだ貯金を全てつぎ込みこれを買いました」
握り締められた手のひらには破れてくしゃくしゃになった紙が汗で張り付いていた。
「気配を消す魔法がかけられた札です。これを貼れば半永久的に音と臭いを消せるので、狼にも気付かれずに済むのではないかと」
どうやら術者が魔法を閉じ込めて作るスペルスクロールの一種らしい。
半永久の結界タイプなんて相当高位のレアなはずだけれど、いったい幾ら費やしたことやら。
だけど、そんなものがあってどうして襲われたのだろうか。
「効果がなかったんですか?」
「いえ、行きは見事に成功しました。村に適正価格で物資を届け、少しでも多くの借金を返済できるよう積荷を載せて。問題は意気揚々と帰る時に起こったんです。まさか狼の群れが偶然目の前を通りかかるなんて」
本当に最悪のタイミングだったとディールさんは重い溜息を吐いた。
この魔法は結界の中と外の音と匂いを完全に遮断することで気配を察知できなくするが、内側の音が外に漏れない代わりに外側の音もまた中に入ってこないのだ。
だからこそ狼の群れがすぐ近くの茂みの向こうまで迫っていたことにディールさん達は最後の最後まで気付けなかった。
狼は目が見えないわけじゃない。音や臭いを防いでも視界に捉われれば襲撃されるに決まっている。
まして、気配を殺しながら近づくのは奇襲をしかけるのと大差なく、守るべき子や雌がいたなら生半可な抵抗では撤退するはずもなかった。
折角の魔法の札も交戦の最中に破られてしまい、首筋を噛み千切られ失われていく血液に『もはやこれまで』と気を失ったところへタイミングよく僕らがやってきたのだそうだ。
「これで本当に私に出来ることはなくなってしまいましたな」
破れてしまった魔法の札は元通りにくっつけたところで効果を取り戻したりはしない。ダメ元で試してみた回復魔法も当然の様に効果はなかった。
買い直すにしても、籠められた術式を治すにしても、相応の費用がかかるはず。全財産を費やしたディールさんにそんな余裕があるとも思えない。
「なぁカナタ、なんとかならないか?」
耐え切れずにハルトが情けない声をかけてくることくらい最初から予想できていた。
「どうにかって言われても……」
目の前に困っている人がいて、僕らにはそれをどうにか出来てしまう力が与えられている。ハルトが見捨てようなんて思う筈もない。
ただ、今回ばかりは上手い解決方法なんて見つかりそうもなかった。
狼を狩れるだけの力はある。極端な話、森中の狼に襲われてもハルト一人で対処できるに違いない。
なにせ非力な僕でさえ殴り殺せたくらいなのだ。思い出すと未だにぞわりと背筋が震えるけど、それくらい彼我の力の差は明確だった。
「狼自体をどうにかするのは無理」
プレイヤーと見れば猪突猛進に襲い掛かってくるゲームならいざしらず、広い森の何処に潜んでいるとも知れない狼を僕等2人だけで狩り尽くすなんて真似は不可能だ。
隠れる場所も多い森の中では一度逃げられると捉えきれない。複雑な地形は小型で素早い彼らにとっては庭も同じ。二足歩行の僕等とは安定感が違う。
彼らはシステムが作ったお粗末なAIではないのだ。紛れもなくこの世界で生きていて、野生動物としては知能も高い。最初の数匹なら立ち向かってくれるかもしれないけど、勝目がないと分かれば逃げだすに決まってる。
僕等の匂いが危険な存在として彼らに認識されてしまえば遭遇すら難しくなるだろう。
それこそ、森ごと消し飛ばす以外に全滅させる方法があるとは思えなかった。
「現実味があるのは僕等で馬車を守る案くらい。インベントリにどれだけ荷物が入るのか分からないけど、少しくらいなら足しにもなるだろうし」
ある程度の馬車を纏めて商隊を作り、それを護衛するくらいが僕等2人でも実現可能な限界点。
集落の位置が書かれた地図とかあれば中継地点になりそうな場所をポータルゲートに登録して更なる効率化を図れる。
アズール商団は狼の襲撃に遭わない方法を知っているみたいだけど、地の利がない分だけ輸送にかかる時間と手間も大きいみたいだし。
僕等なら多少危険な道でも問題ないから、地の利に詳しい人を集めて抜け道や早道を活用する事で奪われた物流網を一手に巻き返せる可能性はあるんじゃなかろうか。
馬車が通れないような獣道でもハルトのスキルなら切り開いて道を作るくらいできてしまうかもしれない。
とはいえ、僕等はこのあたりの事情に詳しくないから、本当に実現できるのかは僕等の手の内を伝えた上でディールさんの判断を仰ぐ方がいい。
だけど彼は詳細な話を詰める前に『とんでもない』と首を振ってしまった。
「あなた方を雇える程のお金なんてとても。いえ、実を言えば治療費に関してもその、些かまけていただけない物かと思案していたところでして」
「治療費って……」
たかだかヒール1回に治療費とか何を大げさな。
狩りの途中にソロプレイヤーからヒールを貰えないか頼まれたことは数え切れないほどあっても、対価を要求したことも渡されたことも一度だってない。
重たすぎる感謝の集中豪雨だけで十分だっただけに、何を言っているのかさっぱり理解できず言葉を詰まらせる。
ところがディールさんは僕の沈黙を何か別の意味に受け取ったらしい。
「命を救って頂いたにも関わらず大変心苦しいのですが、魔法の札に大枚を叩いたせいで支払えるのはこの荷物を引き渡して得られる依頼料くらいなのです」
いや、何故そこで頭を下げ始めるのか。
この世界とゲームは違うんだと理解していたはずなのに、僕は未だゲームの価値観を捨て切れていないのだと思い知らされ、頭を抱えたくなる。
いっそ何一つ同じ要素がない世界の方がまだ適合できたのかもしれない。中途半端な知識を持っているがゆえに、この世界の常識を自分達の常識で上書きしてしまい、どうにも話が食い違うのだ。
かといって、一般常識をあけすけに聞くのも躊躇われる。ディールさんにとって僕等は命の恩人だし、変な質問にも答えてくれるだろうけど、変な人達と怪しまれるわけにはいかなかった。
仕方ない、ここは一芝居打つしかないか。
「この辺りの治療費の相場って大きな街とかなり違ったりするんですか?」
僕の回復魔法がこの世界においてどの程度の水準なのかは分からないけれど、回復魔法を使える以上、治療費の相場を全く知らないというのは不自然だ。
だからわざと大きな街との対比を持ち出すことで『この辺りの相場を知らないだけ』だと思い込ませる作戦に出る。
「そうですね。クーイルはこの通り辺境ですから教会なんてありませんし一概には比べられないのですが、森に住まう薬師の方に頼む方が治療に時間は掛かっても安く済むかと」
教会といわれてピンとこなかったけど、よくよく考えれば僕のクラスは司祭のはずだし一応関係者ってことになるんだろうか。
話を聞く限り、教会は回復魔法を提供する代わりに寄付という名目でお金を取っているらしい。
傷や病気を治す魔法を神の奇跡として提供することで信者や利益を生み出す。なるほど、確かにこれ以上ないくらい有効な手立てだ。
「私が聞くのも難ですけど、やっぱり教会の治療費って高いと思います?」
ただ、肝心の値段には触れてくれていないので今度はもう少し直接的に攻めてみることにした。
教会関係者っぽい僕が利用者の意見を参考程度に聞いてるだけですと振舞えば怪しまれることもないだろう。まぁ、先の言い方からしてなんとなく答えは予想がついてるんだけどさ。
案の定、ディールさんは答え難そうに言葉を濁している。それだけで何を考えているかは丸分かりだった。助けてもらった手前、本音なんて言えないけど嘘を言うのも躊躇われるってところか。
「ごめんなさい、意地悪な質問でしたね」
「いえ、その……少なくとも行商人の私には少し敷居が高いですなぁ」
要するに高いのだ。基本的に富裕層向けなのかもしれない。
「よければ薬の値段を聞いても?」
司祭の僕が森に住む薬師とやらが作る薬の値段を知らなくても不思議じゃないはず。ここぞとばかりに直接値段を聞いて判断材料にしようと思ったのだけれど。
「物によりますが、簡単な切り傷や打撲程度であればミリー銅貨3枚もあれば十分です。厄介な熱病だと触媒も高価になるようでして、アルター銀貨1枚くらいにはなりますな」
教えてくれた値段が結局どのくらいの価値なのかについては、何もかもが理解できなかった。
ミリー銅貨ってなに。アルター銀貨って聞こえたけど、なんで銅貨と銀貨で呼称が違うの?
カマをかけて情報を探ろうにも、この世界の知識が圧倒的に足りていない以上、疑問が疑問を呼ぶだけで際限がない。
それでも得られる物はあった。当たり前と言えば当たり前だけどこの世界には貨幣が流通している。
お金さえあれば街に行ってもとりあえずは暮らしていけるかもしれない。
密林の中に放りこまれたせいで確かめようとも思わなかったけど、確かストレージの中には数十万コルトが詰まっていた筈。
つい先日に装備を新調したばかりでだいぶ減ってしまったとはいえ、ゲーム内のポーション1本が数十コルトだったし結構な価値になるんじゃなかろうか。
そう思ってインベントリからお金を引き出そうと集中したのだけれど、待てども待てども、何度イメージを重ねようとも、お金が出てくることはなかった。
背筋を冷たい物が流れて行く。この状況下で一銭たりとも持ち合わせていないのは非常にマズイ。
「ハルト」
ぼそり、と呟くような声で隣に座るハルトだけに聞こえるくらいの声色で名前を呼ぶ。
「……なんだ?」
ひそひそ話には年季があるだけに僕の意図をちゃんと酌んでくれて返す言葉もディールさんには聞き取れないであろう小声だった。
「お金って取り出せる?」
「ん? あぁ、そうか。そういえば必要だよな」
最初は気楽な様子で頷いたのが段々と必死になって、最後には縋るような表情で両手を掲げていた。完全に怪しい宗教である。
「……出ないわ。まさかカナタもか?」
散々試行錯誤を重ねたのだろう。ぜぃぜぃと荒い息を吐いた後にがっくしと肩を落とす。
「うん。お金は電子データで貨幣として格納されてたわけじゃないから、かな」
宿を取るにも、食事をするにも、というより生活するうえでお金は欠かせない。
無一文では町に入ったところで何もできない。それどころか通行料が必要なら敷居をくぐる事すら叶わないかもしれないのだ。
最寄の町へ着くまで確か残り3時間かそこらだったはず。既にどのくらい経過した? のんびりしている暇はなかった。
「ディールさん、信用できると思う?」
突然の質問にハルトが怪訝な表情を向けてくる。
僕は何事もまず疑ぐってかかる癖があった。ハルトが素直すぎて人を疑う事を知らなかったから、必然的にそう言う役回りを迫られたのだ。
根拠のない物を信じられないし信じたくもない。でも、疑ってばかりでは前に進めない時だってある。そんな時は決まってハルトの直観に頼っていた。
責任を一人で負いたくないからっていうのもあったけど、ハルトの人を見る目というか、善良な相手を見極める勘みたいな力は信頼できるものがある。
「……」
ハルトは黙したまま何かを考え込むかのようにじっとディールさんを見つめ始めた。余程真剣に考え込んでいるのかいつもの楽観的な表情はない。
ガタガタと揺れる馬車の音に耳を傾けていると、ふいにハルトが緊張を緩めた。
「ま、大丈夫だろうさ」
楽観的な物言いに気を張っていた僕の肩からも力が抜ける。ハルトが言うなら大丈夫だろうと思えてしまう辺り、我ながら毒されているなぁと呆れてしまう。
「命と故郷を天秤にかけて故郷を取るような人だ。根が善良じゃなきゃそうはいかないって」
それは一理あるけど、故郷で商売をしようと言い出したのがディールさんなのか食べられてしまった青年なのかで変わるんじゃ。
いや、ハルトを信じると決めたのだ。今さらごちゃごちゃと騒いでも仕方ない。
「でもどうしてそんな事を? このまま変なところに連れてかれるかもって疑ってるのか?」
「ううん。僕等の力は知ってるだろうし、街まで連れて行ってくれることに関しては疑ってないよ」
狼の群をいとも簡単に撃退した僕等を狼の巣に案内する事でなし崩し的に討伐させるなんて妙案がなくはないとはいえ、襲われて死にかけた人間が再び狼に近づくなんて怖くて早々できることじゃない。
仮にそうなったとしても、狼の討伐くらいなら請け負っても良いと思っていた。
この世界の摂理に慣れる為には嫌でも怖くても気持ち悪くても動揺しなくなるまで場数を踏み続け心を飼い慣らすしかない。
何度も何度も生き物を殺し続けて浮かんでくる罪悪感を擦りきらせるほかないのなら村を襲う狼は格好の標的と言えなくもないわけだし。
もっとも、その可能性は限りなくゼロに近いと思っているけど。
「僕達はこの世界の知識についてほとんど何も知らないでしょ。最初は会話から引き出そうと思ってたけど、知らない事が多すぎて現実的じゃなさそうだし、この際直接聞いちゃおうかと思って」
街に行けばきっと沢山の人がいる。善人も、悪人もだ。
人を騙してはいけません。人を傷つけてはいけません。僕等の世界では半ば常識として植え付けられていた道徳観が果たしてこの世界で通用するのだろうか。
僕等の世界では詐欺や暴力にあっても公的機関が捜査をしてくれて、捕まれば相応の罪を償う必要があった。被害者を救済する制度もあった。
無論、この世界にも法律はあるだろうし、犯罪者が捕まれば罪にも問われるだろうけど、公的機関が無償で大々的に捜査を行ってくれるとは思えない。
はめられた人が、殴られた人が、運良く相手を捕まえて証拠も揃っていれば裁いて貰えるといったところか。
要するに害獣と同じだ。犯人の逮捕は自分の力でどうにかしないといけない。
検挙率が目も当てられないくらい低ければ罰則があったとしても犯罪の抑止力にはなりえず、悪いことを考える人の割合が現代よりずっと多くても何ら不思議はないのだ。
というより、僕等の世界の歴史からしても国家による治安維持機構が出来る前の犯罪率は高止まりだったってデータが残っている。
問題は僕等がそうした悪意から身を守る術を何一つとして持っていない点だ。
この世界の人間でない僕等には身元を保証してくれたり守ってくれる人との繋がりもない。
それどころか物の善悪を判断する為の常識も知識も持ち合わせていない。
なのにこの身にはあまりにも過大な力が宿っていて、悪いことを考える人からすれば格好のカモだ。
お金がない以上、街で何かしらの仕事を探す必要があるけど、ディールさんが教えてくれた貨幣の価値すら全く分からなかった。
相場や貨幣の価値を知らなければ極端に安い給金で扱き使われても気付けないし、詐欺みたいな契約を結ばされる可能性だってある。
例えばの話をしよう。
え? この世界の事を何も知らない? そうか、それは大変だったね。でも僕に任せてくれればもう安心だよ。住む場所も食べ物も保障しよう。
ただ、この街で働くには雇用契約書を結ぶ必要があってね。ここにサインしてくれないかな?
雇用期間は1ネールで更新。給金は日が昇って落ちるまでで2シリン貨だ、悪くないだろう?
貨幣の価値かい? おっとこれは済まない、そうだね、何一つ不自由なく暮らせるくらいかな。
君達の力にはそれだけの価値があるんだ。それじゃ早くサインを。さぁさぁさぁ。
……うん、ありがとう。それじゃ契約成立だ。あ、ちなみに1ネールは一生って意味で、質の悪いシリン銅貨じゃ10枚あってもパンすら買えないから。
君達がサインしたのは奴隷の契約書だしね、早速馬車馬のように働いて貰おうかな!
出てきた単位は僕が勝手に想像した物だけど、何も分からないって言うのはつまりこういう事に他ならない。
流石にここまで単純なドジを踏むつもりなんてないけど、相手だって馬鹿じゃないし言葉巧みに惑わすに決まってる。
場慣れした詐欺師と常識すら疎い僕等ではいくら気をつけたところで勝ち目なんてあるはずない。平均的な条件であっても難癖を付けられる可能性だってあるわけで。
おまけに僕の容姿はハルの持てる技術を最大限に活かし、言わば人工的に作られた物だ。
同じ土俵のゲーム時代でさえ悪目立ちするくらい可愛らしかった姿が、親からの遺伝という要素がありつつも大部分はランダム要素で決まってしまうこの世界の人達の姿と比べてどう映るか。
目を覚ましたディールさんにすわ神の国からの御使いかと信じ込ませるほど整っているとなれば、当然そっちの危険も考える必要がある。
僕だって健全な男子生徒だった時には可愛い女の子とお近づきになりたいと常日頃……まではいかなくとも、曲がり角でぶつかったり本屋で同じ本を手に取ったりと運命的な出会いでも転がってないかなくらいは思ってたし、中には力ずくで物にしようと考える人がいるって事も知ってる。
ドロセラの蔓に散々弄ばれた経験はこの身の弱さと危険性をこれ以上ないくらい完璧な形で心の奥底へと刻み込んでくれた。というかトラウマになりつつある。ドロセラ怖い、森怖い。蔓植物なんて滅びてしまえ。
兎にも角にも、そうした事態に陥らない為にはこの世界の知識が必要不可欠なのだ。
最悪町の外で野宿生活っていう手もなくはないけど、温かい食事と布団が手に入るならそれに越したことはない。
「ディールさん」
問題はどこまで話すかに集約される。全てをありのままに話すのが危険すぎるのであれば、多少のカモフラージュを交えるべきか。
これから話す内容は正直言って賭けで、僕等の無知を曝け出すに等しい。
ただでさえ彼は僕等の持つ力を知っているのに、知識のなさまで露呈すれば利用手段なんて幾らでも思いつくだろう。
彼の言葉を借りるなら、根っからの商人がそうしな理由なんてない。
それでも、彼以上の適任がこれから先に現れるとは思えなかった。
「どうなさいました?」
僕の声色に緊張の色が帯びていた事を見抜いたのかもしれない。御者台の上から怪訝そうな表情を浮かべながら振り返ってくれる。
「色々と聞きたい事があるんです。そっちに移ってもいいですか?」
大人2人くらいなら座れそうなくらいスペースのある御者台はディールさん1人だけだと少し物寂しい感じがした。
わざわざ右端に詰めて左側にスペースを確保しているのもそう感じた理由の一つだろう。
どう見てもバランスが悪いのに、まるでそこが定位置であるかのように振舞っている。本来ならそこに誰が座っていたかなんて問うまでもない。
もしかしたら特に意識もせず、いつもの癖で右側に詰めていたのかもしれない。それくらい亡くなった青年の存在は当たり前で、彼の心の中から消えずに残り続けている。
僕に指差された左側の空スペースをじっと見つめて暫くは言葉を失っていた。
「……ええ、構いません」
心の整理が付いたのか、手綱を引っ張ると馬らしき生物が『ぶひん』と嘶いた。随分と野太い鳴き声もあったものだ。
止まった馬車の荷台から御淑やかに降りると御者台に回り込む。こうして見ると結構高さを感じるのは僕の身長が縮んだせいだろうか。
乗り込む為のステップに中々足が届かなくて苦戦しているとディールさんが微笑ましそうに手を引いてくれた。
「どうぞ、狭苦しい所ですが」
馬車へ荷物を積み込むのも仕事に含まれるのか、てのひらはカチカチで二の腕も太く盛り上がっていて実に逞しい。
「ありがとうございます。……やっぱり私には広いですね」
スカートの裾に気を払いながら座ってみると、小柄な僕ではもう一人座れるくらいの余裕が残っていた。
「行商人と言うのはとかく暇でしてな」
ぴしりと馬らしき生物に鞭を入れると再び馬車がゆっくり動き出す。
「なにせひがな一日を移動に費やすのが仕事ですから、誰とも会わない日が続くなんて当たり前です。しまいには喋り方すら忘れそうになる。馬が話せばいいとはよく言ったものです」
ディールさんはどこか懐かしそうに目を細めると記憶を一つ一つ丁寧に取り出すように語りだした。
「あいつはキールと言いましてね。大分前にとある村で俺を行商人にしてくれとせがまれたのが出会いです。どうにも教会に引き取られた孤児らしく、最初は相手にするつもりもなかったんですが中々頭の回る子供で、荷物にこっそり忍び込んだんですよ。腹も減るだろうに、皮袋の水だけで3日も根を上げなかったんですから大したもんです。見つけた時は驚きすぎて声も出ませんでしたが、商品の納期も押していて元いた村まで送り届ける時間はなく、なし崩し的に次に立ち寄るまで小間使いとして使ってやることにしたんですがね。まぁ、そんな無茶をやってのけるくらいだから行動力だけはあったし物覚えも良かった。なにより、会話をしながらの行商なんてのは初めてで歳の差も忘れてよく話しました。結局最後は私の方が手放せなくなって彼を弟子に下さいと教会に頼み込む羽目になっちまいましてね」
そんな小さな頃から弟子として関わっていたのなら、きっと仲の良い親子みたいな関係だったに違いない。
ディールさんがキールと言う青年をただの弟子以上に大切にしていたのは話す素振りからもよく伝わってきた。
「私はそろそろ引退してこの馬車もあいつに預けるつもりだったんですが。いやはや、世の中とはうまくいかない物ですな……」
こういう時は何と言えばいいのだろうか。元気づけるのも、頷くのも、少し違う気がする。
気の利いた相槌なんて何一つ思い浮かばなくて、押し黙ることしかできない自分が不甲斐ない。
「思うんですよ、荷物の中に紛れていたあいつを帰しておけばこんな事にはならなかったんじゃないかと。それともこれは、逃げ出したことに対する罰なんですかね……」
深い悲しみと絶望に彩られた言葉にはどことなく覚えがあった。この世界に親友を巻き込んでしまった時の心境と似ている。
唯一の違いはハルトがまだ生きていて、どうにかなるかもしれないという希望が残されていること。
それがなくなった世界なんて考えたくもなかった。
「……つまらない話をしてしまいましたな」
ディールさんは深い溜息を吐いてから寂しげな笑みを浮かべる。大の男として気丈に振る舞ってはいるけれど、内心ではまだ気持ちの整理がついていないに違いない。
「歳を取ると余計な話ばかりしたくなっていけません。そうそう、何かお尋ねになりたいことがあるんでしたな。私に答えられる事なら何でも」
流石のハルトでも今回ばかりはかける言葉が見つからないみたいだった。ディールさんも先程の空気を続けたくはないのだろう。
まるでなんでもなかったかのように努めて明るい口調で告げる。
隣に座る僕はどう考えてもまだ幼い少女だし、泣き言を漏らしてしまったのを恥じているのかもしれない。
僕が本題に入ればディールさんはさっきの事を綺麗さっぱりなかった事にして疑問に答えてくれると思う。
思わず溜め息が出た。間違いなく柄じゃない。人生経験も少ない僕なんかに息子を失った父親の気持ちなんて分かる筈ないのに。
「つまらない話なんかじゃないです」
つい、口を滑らせてしまった。どうしても言わなければならない気がして。
驚きに満ちたディールさんの目をまっすぐに見つめながら、こうなってしまっては致し方なしと高らかに宣言する。
「彼が死んだのは神に誓ってあなたのせいでも罰でもありません。ディールさんが息子を得たのと同じように、キールさんも父親を得て幸せだった筈です。それを否定して誰が幸せになるんですか」
2人の関係なんて何も知らないけど、狼に襲われた死体は手を繋げるくらい近くに寄り添っていた。
多分あれは、自分だけでも逃げようなんて考えを微塵も抱かなかった2人が互いに互いを守ろうとした結果なんだと思う。
出会わない方が良かったなんて妄想を繰り広げても死んだ人間は生き返ったりしない。
「その思い出はきっと大切な物です。なかったことになんかしないでください」
怒られるかもしれないと身構えた。お前に何が分かると殴られても仕方ない。
だけど妄想に逃げる事の意味のなさなら僕の方が良く理解してる。
死んだ人間は幸せになれないなら、生きている人間が幸せになるしかないじゃないか。
最後まで逃げもせず誰かを守って命を落とした青年の行動を、守られた人間が悔いてなかったことになればいいと願って誰が幸せになるのか。
少なくとも、死んでしまった青年が報われる機会は永遠になくなってしまう。
「親は、子を守るもんでしょう」
ディールさんの声はどうしようもないくらい震えていて、驚きに満ちていた瞳も今は両手で覆い隠されていた。
一度決壊した堤防は中身を全てぶちまけるまで止まってくれない。
どうして自分だけが生き残ってしまったのか。どうして札の話を持ってきた時に危険だからと止めなかったのか。
自分の故郷を守ろうと方法を探してきてくれた息子の行動が嬉しかったから。
そんな気の迷いで危険な橋を渡ってしまった自分の判断を後悔してもしきれない。
心に溜まり続けた悔恨は吐きだしても吐きだしても尽きる事はなくて、溢れ出た心からの慟哭が延々と森に流れ続ける。
「申し訳ありませんでした……」
1時間くらいはそうしていただろうか。ようやく落ち着きを取り戻したディールさんは顔を伏せたままではあるものの、思いのほかはっきりとした口調で謝罪の言葉を呟く。
「いえ、その、私こそ何も知らないのに失礼なことを」
「そんなことはありません。神官様に保証して頂くことがどれほど心強いことか。おかげで少しは楽になりました」
持ち上げられた顔は涙でぐちゃぐちゃになっていて酷い有様だったけれど、どこか晴れがましい。
「取引で失敗して落ち込んでる私にあいつはいつも次があるだろって笑ったんですよ。後悔はなくなりそうにありませんが、いつまでも落ち込んでたらまた笑われてしまう」
水筒の蓋を開けて豪快に被ると、鞄の中にしまわれた布切れを取り出し顔を拭ってから鼻をかむ。
不慣れな慰めの言葉が少なからず良い結果を運んでくれた事に心から安堵した。
「それで、何か尋ねたい事があったんですよね。遅くなりましたが答えられる事なら何でも」
かけられた言葉は前と変わらないのに印象は随分と異なって聞こえる。
前は話題から逃げる為。今は心から力になりたいと思ってくれている。だから僕もこの1時間で精一杯作り上げた身の上話を語ることにした。
「転移魔法はご存知ですか?」
ポータルゲートと呼ばれる、記録した地点へ転送される魔法のことを話題に出す。
この世界に来た時、転送位置が全て消えていることに驚いたけれど、使えなくなったわけじゃないのは既に実証済みである。
「ええ、話くらいには。私は目にしたこともありませんが、我々のような下草にも広がる時が来たなら行商人なんて真っ先に職を失うでしょうな」
それなら話は早い。どこか知らないところに転移した理由として実在する魔法は説得力がある。
「実はその魔法の暴発に巻き込まれたみたいで、気付いたらこの森の奥にいたんです。ここがどこかも良く分からなくて……。日本とか東京っていう知名に聞き覚えはありませんか?」
「ニホン、トウキョウですか。珍しい響きですね。残念ですが、私の行商の範囲は街道が整備されている一部の地域だけでして……お力になれず申し訳ありません」
ここがゲームの中ならもしかしてという思いがなかったわけじゃない。例えば神の国の名前だとか、伝説の都市だとか、何らかの形で名前や行き方が残っていたなら良かったのにと当てが外れて項垂れる。
「一体どんな場所なのかお話を伺っても?」
「いえ、そんな特別な場所ってわけでもないんです。田舎具合で言えばここにも負けないと思いますし」
故郷の話をせがむディールさんに、僕は明確な嘘を一つだけ混ぜた。
こことは全く異なる別の世界から来たといっても理解されないだろうし、地域別ではなく、この世界そのものの常識さえ持ち合わせていないことを話すべきか迷ったのだ。
幸い、ディールさんは僕の切り返しになるほどと頷くのみにとどまり、それ以上を尋ねようとはしなかった。
「しかしなるほど、こんな辺鄙な場所にどうしてと思いましたが、あなた方は迷い人だったのですね」
「迷い人、ですか?」
聞き慣れない単語に首を傾げながらディールさんを見やる。
「ええ、時々いるんですよ。気付いたら見ず知らずの場所に立っていて途方にくれるという人のことです。お二方のように原因がはっきりしているのは稀ですが、精霊の悪戯や天からの啓示とか色々な噂があるんですよ」
現代で言う神隠しみたいなものだろうか。魔法が存在するこの世界に僕等の知る物理法則が適用されるとは思えないし、不思議な現象も枚挙に暇がないのだろう。
なにはともあれ、似た境遇の実例を知っているのは幸運だった。かつては行商人として方々を渡り歩いていただけに知見も豊富なのだろう。
「本当は近くの森に山菜と動物を狩りにく予定だったんですけど、何か大規模な魔法に巻き込まれてしまったみたいで……。武装していたのは不幸中の幸いでしたが、陽が落ちる前には帰る予定だったので何も持ってないんです。気付いたら全然知らない場所に立ってて、この辺りの物価とか通貨とかも全然分からなくて」
でっち上げた事情の説明をしつつ、後半には泣き言を混ぜておく。
どうぞ食い物にしてくださいと書かれた添え書きと一緒に我が身を差し出すようなものだと分かっていても他に方法がない。
ディールさんもこの告白には少なくない衝撃を受けたようで目を丸くしていた。
「だから薬の値段を気にしていたのですね」
商人として数多くの取引に携わってきた彼が取引相手の思惑を探る術を身に付けていない筈がない。
「はい。なのに出てきた硬貨の名前も私の知っている物とはさっぱりで、正直もうお手上げでした。円とかドルって貨幣をご存知ですか?」
「いえ、寡聞にして存じません」
もはや隠す必要も取り繕う必要もなくなった今、降参とばかりに両手を肩口まで上げて見せる。
「なので今の私達は騙し放題です。何を言われても信じるしかないですから」
黙っていた所で気付かれているのは間違いない。なればこそ、敢えて盛大に煽る事であるかも分からない良心の呵責へ訴えてみようではないか。
「とりあえず知りたいのはこの辺りの情勢とか、風習とか、通貨の価値と種類とか、お金を稼ぐ方法とか、とにかく諸々です。どうかお知恵を拝借できませんか?」
わざとらしく胸の前で手を組んで懇願するとディールさんは気難しげな唸り声を上げた。
「これは責任重大ですなぁ……」




