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World's End Online Another -僕がネカマになった訳-  作者: yuki
第二章-境界の彼方、幻想の世界-
21/43

亡者の森と因循の愚者-1-

 一瞬、視界が真っ暗に染まった気がして思わず顔を上げる。

 鬱蒼と茂った森はしんと静まり返り、動物はおろか虫の声一つしない。

 先程までと何ら変わらない光景の筈なのに、気付けば僕もハルトもその場で足を止めて不安げに周囲を窺っていた。


 何かがおかしい。

 ……何が? ……分からない。

 分からない事が分からない。それがひたすらに恐ろしく感じられた。


 言葉にしようにも違和感の正体が掴めず、言い知れぬ不安だけがじんわりと心の中に湧き立つ。

 感情がしきりに発する警告を理性が上手く処理できない。

 理由のない、原因の分からない不安が風船のように膨れて爆発する前に、僕は前を歩くハルトへ縋るような声を掛けた。


「ねぇ、ハルト。いま一瞬だけ視界が暗くならなかった?」

 ハルによって調整された本来の自分と似ても似つかない可愛らしい少女の声は微かに震えている。

 普段なら絶対に茶化されるであろう声色だというのにハルトは真剣な顔で頷き返すだけだった。

「カナタもか。なんだろ、システムの不具合かね?」

 一見何でもないように見えても目まぐるしく周囲を窺っている。

 普段からあまり動じないハルトが今この瞬間には必死で平静を装っているみたいだった。


「街に戻ろう」

 とりあえず周辺に危険がないことを確認したハルトは、しかし警戒を解こうともせずに告げる。

「そうだね」

 入口までなんて悠長なことを言うつもりはなくなっていた。良く分からないけど、もしサーバーにエラーがあったのなら、突然切断されてしまうかもしれない。

 ダンジョンの中で回線が落ちて、ログインし直したらモンスターに囲まれてました、デスペナルティゲットというのは往々にしよくある話だ。

 逸る心を抑えながら記録した地点へ転移できる【ポータルゲート】を詠唱する。

 あとは出現した光の扉に身を躍らせるだけで安全な街へと移動できる……筈だった。


「なに、これ……」

 目の前に現れた信じがたい光景に呆然と立ち尽くす。

「カナタ……?」

 待てども待てども【ポータルゲート】を展開しない僕にハルトが訝しげな声を上げるけれど、とてもそれどころではなかった。


 【ポータルゲート】は最大4カ所の地域を自由に登録・解除できるようになっている。

 例えば行きつけの狩場。

 例えばギルドのホームタウン。

 例えば首都の露店街。

 登録したい場所は数あれど、保持できる位置情報は僅か4枠なので誰もが何処を登録するべきか頭を悩ませるのだ。

 当然僕も数多くの候補地から断腸の思いで4カ所に絞り込んだ。

 だから、位置登録が一ヶ所も存在しないなんて、そんな事がある筈ないのに。


「おいカナタ、どうしたんだ!」

 激しく揺さぶられる感覚にようやく我を取り戻す。

「ないの」

 片言のように呟く僕にハルトは再び怪訝な表情を浮かべる。

「まずは深呼吸でもしてしっかりしろ。ないって、何がないんだ?」

 言われるがままに大きく息を吸ってから吐き出す。濃密な緑の匂いが今は何故か得体のしれない毒のように感じられる。

 心臓の鼓動がやけに煩い。鼻を通り抜ける香りに吐き気すら覚えた。

 それでも幾分か落ち着きを取り戻せたようだ。なんだかよく分からない不安に駆られたところに想定外の事態が起きていつになく動揺しているのだと自己分析する。

「ポータルゲートの位置記録が全部なくなってる。やっぱりバグかな」

 考えても見ればネットゲームである以上、不具合の一つ二つくらい起こって然るべきだ。

 今までの運営が完璧すぎて不具合らしい不具合を起こさなかったから、不具合なんて起きるはずがないと思い込んでいたのかもしれない。

 胸の中にわだかまっていた疑問が解消された気がして、先程まで苦しいくらいだった動揺も収まったようだ。


「とりあえずリログしてみるね。それで治るかもしれないし」

 PCに何かあった時、再起動すれば治るのと同じように、一度ログアウトしてから再ログインする事で事象が改善するのはよくある事だ。

 その前にギルドのみんなへ連絡しておこうと思い立ち、チャットウィンドウを起動しようとして手が止まった。

「あれ……?」

 メニューウィンドウそのものが、いや、良く見ればHPやMPを表示するステータスウィンドウや現在地を表示するマップウィンドウすらどこにも見当たらない。

 画面が暗転した直後に感じた違和感の正体はこれだった。集中するとウィンドウが背景のように思えて目が行かなくなるせいで、今の今まで気付かなかったのだろう。

 うっかり設定で消したのかと思い再表示手順を踏んでみるが、ウィンドウが表示される気配はない。

 メニューが表示されていたと思しき空間を弄ってみたり、音声感知によるコマンドを唱えてみても結果は同じだった。


「あはは、ここまでくると清々しいかも。なんか全システムが反応ないみたい。これは緊急メンテかなぁ」

 原因は分からなくとも、何が起こっているのかを知れただけで重くのしかかっていた不安が綺麗さっぱり解消される。

 きっと今頃、運営は未曽有の不具合にてんやわんやの大騒ぎをしている事だろう。ご愁傷さまでした。

「ハルトもそう思うでしょ?」

 呆れ半分の苦笑を漏らしながらなんとなしに隣へ声を掛ける。

 てっきり同じように苦笑しながら『そうだな』とか言われると思っていたのに何の反応もなかった。

「……ハルト?」

 訝しげに振り返る。ハルトは声を掛けるのも躊躇われるくらい真剣な顔で辺りを見回していた。

「何してるの?」

 僕の問いに答えることなく、近くに生えていた草花に目を留めると片手で握り締めた剣を無造作に振り抜く。当然の様に生えていた草花が断ち切られ空を舞った。

 ハルトはその内の一つを空中でさっと掴み取るなり、まじまじと見つめ始める。

 突然花を愛でる趣味にでも目覚めたのだろうかと思いきや、次の瞬間には興味なさ気に放り捨ててしまった。

 一体何をしているのか、訳の分からない行動に思わず溜息が漏れる。


「おかしい」

 平常心を取り戻した僕とは対照的に、戻ってきたハルトの表情はますます険しい物になっていた。

 眉間の皺は深く今にも誰かを噛み殺さんばかりだ。

「どうしたの? ハルトも少し落ち着きなよ。確かに訳の分からない不具合だけどさ」

 先程の僕がこんな感じだったのだろう。不安に不安が重なっているのを少しでも解消できればと殊更明るい調子で告げる。

 だけどハルトの耳には僕の声なんて届いていないようだった。

 難しい顔で何かを考えながらつかつかと近づいてくる。

 そしてそのまま、本来の僕にはない筈の胸の膨らみに両手を伸ばすと程々の力で揉んだ。


 よもや親友がこのような行為に走ろうとは。幾ら現実でモテないからといって、作り物の、それも親友がネカマとして使っているアバターの胸を揉んでも虚しいだけではないか。

 ぐにゅりと形を歪めた胸から伝わってくるこそばゆさを押し殺し、氷のように冷たい視線を投げかける。

「なに、きゃーとでも叫ばばいいの?」

「え?」

 心の底からの侮蔑を籠めた言葉にようやくハルトが反応した。同時に自分が何をしでかしたか理解したのだろう。慌てた様子で両手を胸から離すと酷く焦った様子で弁明を始める。

「ち、違うぞ! 断じて違うんだ! そんな目的で触ったんじゃない!」

 面白いくらいの狼狽ぶりだった。無理もない。ネカマの親友の胸を揉んだなど誰に知られても黒歴史直行間違いなし。

 今度ハルの前で揉み心地はどうだったか聞いてやろうとほくそ笑みながら追い打ちをかける。

「別に隠さなくても良いよ。まさかハルトがそこまで餓えてるなんて思いもしなかっただけで。強制ハラスメントが怖くなければ好きなだけ触ってくれても良いけど」

 つらつらと口から出る軽口に、ハルトは大声を上げた。

「そう、それだよ! その強制ハラスメントコード! おかしいだろ、何で発動しないんだよ!」


 言われてみると不思議だった。

 同じギルドでフレンド登録済だとしても、公共性の高い非プライベートエリアで異性アカウントがこのような行為に走れば強制ハラスメントコードは免れない。

 なのにハラスメントコードが発動する気配は少しもなかった。

 いや、そもそも……。

「そもそも、本来なら身体に触れる前にハラスメントコードに阻まれる筈だろ」

 腰や腕ならともかく、男性が女性の胸に触れるなんて行為そのものがゲーム内では絶対に不可能なのだ。

 触れようとしても直前で不可視の透明な壁に阻まれてしまう。


「おかしいのはそれだけじゃない。こいつを見てみろ」

 ずいと差し出されたのはさっきハルトが伐採した花弁だった。

 特に不自然な点は見つからず怪訝な表情を浮かべると、ハルトはその花弁の中央に指を突っ込んでから自分の袖で拭って見せる。

 後には花粉らしき微細な粒が一筋の線を残していた。

「システムに不具合が生じてメニューが表示されなくなる事はあるかもしれない。同じ理由でハラスメントコードが止まる事だってあるのかもしれない。でも、じゃあこれはどういう理屈なんだ?」


 表示されるべきメニューが表示できなくなるのはごく一般的な不具合だろう。

 表示する為に作った機能が何らかの理由で表示されなくなってしまっただけなのだから。

 ハラスメント部位への接触も起こりえる不具合だと言える。

 アバターの上に接触不可能な不可視の壁を作っているのはシステムだからだ。

 でも、服が汚れる。これだけはシステムの不具合で起こりえない。

 何故なら、この世界の服は最初から"何があっても汚れないように"作られているからだ。


 この世界には汚れと言う概念が最初から存在していない。


 汚れというデータを無限に増え続ける衣服毎に管理しようとすれば膨大なデータベースが必要になる。

 そうまでして汚れる機能なんて微妙な物を実装する必要があるのか。開発に掛けられる費用は有限である。

 だからこそ運営は最初から汚れや欠損といった経年劣化に関するあらゆる機能を切り捨てていた。最初から作られていないのだ。

 インクの入っていないボールペンで幾ら紙を擦っても文字が書けないのと同じように。

 例え敵の攻撃を受けたとしても、破れたり、焦げたり、何かが付着したりする事はシステム上絶対に起こりえない。


「どういう、こと……?」

 起こるはずのない事態が起こっている。6面のさいころが突然0を出したようなものだ。拭い去った筈の不安が再びじわりと湧き上がりつつあった。

「分からんけど、これ見てみろよ。なぁ、これがゲームに見えるか?」

 そういってハルトが指差したのは地面だった。

 今の技術力では描画できる対象に限度があると言われている。その最たる例が土だ。細かな砂粒一つ一つを精緻に再現しようとしてもすぐに容量がパンクしてしまう。

 だから運営はある程度の塊の単位で土を再現するしかなかった。プレイヤーからは羊羹とかチョコレートと揶揄される辺りでクオリティは察して欲しい。

 とても今ハルトが指差しているような、現実と何一つ変わらない精度で構成される土なんて描画できる筈がないのだ。

 なのに、どうして現実世界と遜色ない砂の粒子がここに再現できているのか。幾ら考えても答えは見つからなかった。

 いや、どうしてかなんて今は考えたくもなかった。


「とにかく、だ。さっきからやばい気がしてならない。早く(ここ)から出よう」

 ハルトの案には全面的に賛成だ。反対する理由なんて一ミリもない。だけど、いざ行動に移すのは難しかった。

「どうやって……?」

 何故かポータルゲートに記録した位置情報は全て消失しているし、頼りのマップも現在位置も表示できない。

 どちらが入り口に繋がっているのかを僕は完全に見失っていた。

「直前に歩いてた方向とマップデータなら覚えてる。あれが正しいなら出口はこっちだ。これがゲームなら5分もすりゃ出られるけど……どうだかな。森が深すぎる」

 森は奥に立ち入れば立ち入る程、日光の関係で生えている木や草花、いわゆる植生が変わる。

 もしもここが悪い想像の通りだとすれば。

「早く行こ、陽が暮れるまでには出ないと……!」

 一瞬頭をもたげた考えを僕は必死に振り払ってからハルトの手を引く。後はもう、親友の記憶力に望みを託すほかなかった。




 1時間は歩き通しただろうか。出口は未だ見つからない。もしかしたら方向を間違ったかもしれないけど、今さら引き返したところで正しい道なんてわかる筈もなかった。

 誰かに助けを求める事も出来ず、地図も方向も見失った今、一度でも立ち止まってしまったら歩き出す気力を失いかねない。

 そんな恐怖に取りつかれて、僕等は小休止を挟む事もなくずっと歩き続けている。

 遭難した時はその場から動かないのが鉄則だと理解していた。でも、それは現実での話だ。ゲームの中で遭難した時にどう行動すればいいかなんてわからない。

 間違いないのは、このまま座り続けたとしても誰かが助けにきてくれる可能性が殆どないと言う事だけだ。


 これが不具合ならすぐにでも運営のアナウンスがあっただろう。

 仮にアナウンスが出来ない状態だったとしても、サーバーメンテナンスに伴う緊急ログアウトが行われていなければおかしい。

 それがないのは、運営が未だ不具合に気付けていないから。そう思っていた。いや、そう思って【いる】。

 思わなくては。騙し続けなくては。自分自身を。そうでもしないと頭がおかしくなる。

 頭の中をひたすら空っぽにして、何も考えずに足だけを前へ進める。

 息をする度に流れ込んでくる濃密な緑の匂いに清々しさなんてものは欠片もなくて、息苦しさばかりが募った。


 それにしても素晴らしい大自然ではないか。管理された公園などとは比べ物にならない広大さと質感。

 鳥の声どころか虫の声一つすらしないのは、人が足を踏み入れて良い場所ではない事への警告なのだろうか。

 もしかしたらモンスターが居るせいで動物は寄りつかないのかもしれない。

 ……そう、モンスターだ。ここはゲームの中だから魔物が出る。

 まだエンカウントしてないけど、どこかに潜んでいるのかもしれない。これだけ歩いたのだ。いつ御対面してもおかしくなかった。

 出会ったら戦わなくてはいけない。倒さなくてはいけない。じゃないと僕等が倒されてしまうから。

 もし倒されたらどうなるんだろうか。辺りが真っ暗になって、ウィンドウが現れて、街へ戻りますか? のメッセージを押せば帰れるのだろうか。

 いや、そもそも今はシステムウィンドウが全部死んでるんだっけ。

 じゃあじゃあ、真っ暗なままなのかな。暗闇に包まれた空間で、指一本動かせず、音も聞こえず、あ、システムが死んでるんじゃチャット機能も使えないや。

 だとすればどうやって連絡を取ればいいんだろう。ハルトと話すにはどうすればいいんだろう。

 真っ暗闇の中で声も出せないのに。動けないのに。何も聞こえないし、何も見えないのに。

 あれ、それって……。

 

 死ぬのと、何が違うんだろうか。

 

 考えてはいけなかった。必死に押し殺していた筈の想像が一気に噴き出して脳味噌を支配する。

 これがゲーム? 馬鹿を言うな。現実を見ろ。こんなゲームがあってたまるか。ならこれは何だ?

 決まっている。ただの、どこにでもある、現実そのものじゃないか。


「カナタっ! 大丈夫か!?」

 気付いたら派手に転んでいた。不運なことに転がっていた石が尖っていて膝に刺さったらしい。

 立ち上がると赤い滴がぽたりぽたりと垂れて、何より、涙が出るくらいに痛かった。

「あはは、痛いや。ねぇ、これって一体どういうこと? ゲームの中で痛みなんて再現できたっけ?」

 そんな訳はない。ゲーム内で痛みなんて実装されてたら大変なことになる。それ以前に、赤い血液でさえ残虐だからと省略されていたのだ。

 馬鹿を言うな。現実を見ろ。頭の片隅で、やけに冷静な自分が目の前の光景を嘲笑う。

 もう限界だった。自分自身を騙しきるのにだって限度はある。

 気付いてしまった。知ってしまった。理解してしまった。だとしたらもう、知らなかった頃には、知らない振りをしていた頃には戻れない。

 知ることは不可逆だから。人はそう簡単に記憶を手放せないから。


 小さな石ころで切っただけの、ただの掠り傷なのに、その場から歩く気力がゴッソリと失われていた。

 理性では歩かなければ、先へ進まなければいけないのだと分かっているのに、感情がそれを許さない。

「少し休もう。歩き通しで疲れたろ」

 僕の精神状態を察してか、ハルトは殊更明るく告げると近くに生えていた大きな葉を2枚ちぎってから地面に敷く。

 その上にすとんと腰を下ろすと、立ち上がる気力すら失われてしまった。

 何もする気が起きなくて血の滲む膝を抱える。何も考えなければ湧き上がる恐怖からも逃れられる。現実を見なければ空想に引きこもれる。

 ハルトはどうだろうか。僕と同じ気持ちなのだろうか。気になって目線を上げると、丁度腰に差した剣を引き抜いた所だった。

 一体何をしているのだろうと疑問に思った瞬間、信じられない事に刃を手の甲に当ててから軽く引いてみせる。

「っ!」

 武器が強力だったせいか、思いのほか深い傷になったようだ。痛みを押し殺した悲鳴の代わりに、滴ではなく一筋の流れとなった血が滴る。


「何してるの!?」

 あまりの突拍子のなさに思わず大声を上げてしまう。

「いや、どのくらい痛いのかと思ってさ。こりゃ相当だな、現実と大差ないわ」

 何を馬鹿なことをしているのだろうかと思った。自傷行為なんて馬鹿げている。そもそもここは。

「どう考えたってこれは現実でしょ!?」

 言ってしまった。ハルトの不用意な行為のせいで。口にすれば現実になってしまう気がして、これだけは言うまいと思っていたのに。


「だな。そう考えるべきだ」

 なのにハルトはさも当然だとばかりに頷いて見せる。

「俺達がゲームの存在になったのか、ゲームの世界に飛ばされたのか……。理屈なんて知らないし、そんなのどうだっていい。ただ、この世界は紛れもない現実になった」

 言いたくなかった。聞きたくなかった。分かっていた事実をハルトは立て続けに述べる。

 いっそ耳を塞げばよかったのだろうか。いや、そんな事をしたところで意味なんてない。

「だからカナタも逃避するな」

 もうとっくに、全部気付いてしまった後なのだから。


 時計がないからどのくらいの時間が経ったのかも分からないけど、少なく見積もったとしても1時間弱は現実を認識する為だけに使ってしまったわけだ。

 ハルトの言ったように原理や理由なんてこの際どうだっていい。現実は現実として認めなければならない。

 それがどんなに理解の及ばない物でも。空想の産物でも。僕とハルトの頭が同時におかしくなった可能性は限りなく低いのだから。

「……分かってる」

 我ながら不貞腐れた声だった。隠していた悪戯を暴かれて叱られた時のような気分だった。

「ま、重く考えたって仕方ないだろ。もう少し気楽にいこうぜ」

 淀んだ空気を少しでも軽くしようとしたのかもしれない。場違いなくらい明るい声だった。

 でもそれは、今の僕にとって酷く気に障った。


「気楽になんて考えられるわけない!」


 自分でも驚くくらい大きな、拒絶に満ちた声だった。

 ハルトも予想だにしていなかったらしく目を丸くしている。

「どうしたんだ、いつもなら……」

 ハルトの言葉が尻すぼみに消える。僕の瞳に浮かんでいたのが憤怒だったのか憎悪だったのかはわからない。

 いつもの僕なら、今までの僕なら、こんな緊急事態でも落ち着いていられたのだろうか。

 だけど今度ばかりはそんな気分でいられるはずがなかった。


 ここまで1時間近くも上の空で歩き続けてきたのに、転んだのはたった1度だけ。

 現実とはかけ離れた小さな身体なのに。現実とはかけ離れた低い目線なのに。現実とはかけ離れた狭い歩幅なのに。

 僕は小さな女の子を模したアバターを今の今まで何の違和感も感じずに操っていた。当然だ。ゲームで最適化を行ったのだから。システムが補助してくれていたのだから。

 でもそれならどうして、システムの機能していないこの世界でこんな自由に動けるのか。

 堪らずに左腕を掴んでみる。華奢なのに柔らかさを感じる腕は現実の自分の腕と似ても似つかない。

 それは身体中のどこを確かめても同じだった。

 ある筈のない柔らかな弾力を返す胸があって、なければならない男の象徴とも言うべき部位はなくなっている。

 この世界が現実だとすれば、この身体も創作物(アバター)じゃなくなってしまう。今の僕の、身体(げんじつ)そのものになってしまう。


「ハルトは良いよね、現実と殆ど変わらないし」

 底冷えするような声色が心の奥底から勝手に漏れる。止めようとさえ思えなかった。

「見てよこの格好、笑えるでしょ。ネカマのつもりが気付いたら本当に女の子になってた」

 自嘲的な物言いなのにちっとも笑えず、苛立ちと不満ばかりが際限なく膨れ上がる。

 どうしてこんな事になってしまったのか。そればかりが頭の中をぐるぐると渦巻いていた。

 今日はゲームを休めばよかったのだろうか。そもそもどうして僕はこんなアバターを使っていたんだっけ。

 こんな状況に僕を追い込んだ元凶を探して記憶の中を過去へ過去へとさかのぼる。

「ねぇ、ハルト」

 そうして出てきた結論は、

「どうして僕を誘ったりなんかしたの。誘われなければ、こんなことにならなかったのに」

 絶対に、口に出してはいけない類のものだった。


 今までずっと、努めて明るい表情を浮かべていたハルトの顔が僕の一言によって大きく歪む。

 浮かんだのは怒りではなかった。深い、とてつもなく深い絶望と自責の色。

 酷い話をしよう。

 僕はそれを見た瞬間、確かにざまぁみろとさえ思った。自分と同じ苦悩を与えられたことに愉悦さえ感じたかもしれない。

 酷い話をしよう。

 僕はそんな自分の心に気付いた瞬間、例えようもないくらい絶望した。


 目の前のハルトに浮かんだ表情が限りなく酷いものであるように、今の僕の表情もこの上ないくらい酷いものだろう。青を通り越して白くらいにはなっているかもしれない。

 あれだけ身勝手な事を言っておいて、今さら正気を取り戻し、その全てを後悔したのだ。

 ハルトが僕を誘ってくれたのは善意でしかない。それに乗っかり、ネカマとして過ごすという条件を飲んだのは他ならぬ僕だ。

 責任があるとすれば、それは全て僕自身にあるものでハルトは関係ない。

 いや、それどころか。


 森林でレベル上げをしようと誘ったのはどこの誰だ。


 食事に呼ばれログアウトしようとしたハルトを引き止めて、こんな事態に巻き込んでしまったのはどこの誰だ。


 責任があるとすれば僕以外の誰にあると言うのか。

 こんな密林を歩いているのも、ハルトがこの世界に残っているのも、全部全部、僕がお願いしたからで。

 無意識の内にそれに気付き、先んじてこんな馬鹿げた責任転嫁を口にしたのだとしたら、本当に救いようのないクズだ。


 とにかく謝らなければと思った。だけど事の重大さにようやく気付いた精神が追いついてきてくれない。

 声を出そうにも喉が勝手に震えてしまい、とても声にはならなかった。

 このまま舌を噛み切って死にたいとすら思う。馬鹿なことを言った程度では済まされない。

 ハルトだってこの状況に混乱しているだろうに、落ち込んでいる僕を気遣って明るく振舞ってくれていたのに。

 それを、余りにも傲慢な態度で、理屈も何もない暴論で、自分自身が何をしでかしたのかも省みず、全てぶち壊してしまった。

 謝って許されるような問題じゃない。愛想を尽かされても文句は言えないだろう。

 すると今度は一人この場に残される未来を想像して恐怖した。

 勝手なものだ。現金なものだ。ハルトと一緒にいられなくなるかもしれない。独りぼっちにされてしまうかもしれない。

 ……嫌だ。それだけは絶対に嫌だった。自分で引き金を引いておきながら、今更なにを都合のいい事を言っているのか。


「ごめんなさい……」

 ようやく出てきた謝罪の言葉は途切れ途切れの掠れ掠れだった。ちゃんと聞き取ってもらえたかどうかも怪しい。

 堪えようのない大粒の涙が自分勝手にぼろぼろと溢れてきて、まともに喋れないくらい泣きじゃくりながらハルトのシャツを両手で強く握り締めていた。

 このまま身を翻してどこかに行かれないように。

 反省しています。全部僕が悪かったです。だからどこにも行かないでください。そんな思いが壊れたラジオのように謝罪となって繰り返される。

 ハルトはそんな僕を見てやっぱり辛い顔をしていた。それもこれも、全部僕のせいだ。

 やはり捨てられるのだろうか。そうなっても文句は言えない。ついていく資格もない。諦めかけた僕に、ハルトはぎこちない笑みを浮かべて見せた。


「気にすんな」

 昔、まだ小さかった妹さんのハルを慰める時に良くそうしたように、頭の上へ手のひらをぽんと置く。

「つっても気にするんだろうな。だから正直に言うけど、今の言葉で救われたのは俺の方なんだよ」

 意味がわからなかった。でも、慰めのための嘘ではないことだけは長年の付き合いからわかる。

「今さ、信じられないくらい最低な気分だろ?」

 聞かれるまでもない。人生でこれ以上最低最悪の気分があるとも思えなかった。


「もしカナタが俺のせいだって言わなかったら、それを味わってたのは俺だったかもな」

 どういう意味だろうか。ハルトはあんなにも僕を励ましてくれていたというのに。

「俺だってこの状況に絶望しかけたってことだよ。俺が辺りを調べてた時にカナタは明るく元気付けようとしてくれてただろ。あれ、実はちょっとイラっとした。何を能天気なこと言ってるんだってさ。あとは何かきっかけさえあれば『カナタが俺を引き止めなかったらこんな事態に巻き込まれずに済んだ』とか口走ってたかもしれない」

 その瞬間、自分でもわかるくらいびくりと震えた。だってそれは、言い逃れの仕様がない……。

「事実じゃない」

 ハルトはそこで僕と正反対の見解を口にする。


「レベルアップまで付き合おうって決めたのは俺自身だ。その結果巻き込まれたのかもしれないけど後悔はしてない。それに、もしカナタが俺を引き止めたのが悪いんだとしたら、そもそもカナタをこのゲームに誘ったのが俺である以上、やっぱり一番悪いのは俺ってことになる。だから気にする必要なんてないんだよ。正直、あの時ログアウトしないで良かったって今は思ってるくらいだ。現実の俺らがどうなってるかは分かんないけど、カナタ一人をこの世界に残したと知ったら後悔してもしきれない。俺だけ難を逃れるくらいなら一緒に巻き込まれてる今の方がマシだ。だから泣くな。その姿で泣かれると中身が分かってても罪悪感がぱないんだっての」

 あんな酷いことを言われたのにハルトは自分だけを責めて、気にする必要がないと慰めてすらくれる。

 分かってた。ハルトがこういう奴だって事くらい。自分に厳しくて他人に甘い。だから誰かのトラブルや悩みを放っておけない。結果的に自分ひとりでどうにかしようと抱え込んで無茶をする。

 ハルトは僕に気にするなとは言っても、自分も気にしないとは言わなかった。このゲームに僕を誘った事を、きっと今はすごく後悔している。

 僕がハルトをレベル上げに付き合わせてしまった事を、取り返しのつかないくらい後悔しているように。


 しっかりしなくちゃ。僕等は今、過去最大のトラブルに見舞われているんだ。

 落ち込んでいる暇なんてないし、責任が誰にあるかなんてこの状況を解決した後で考えればいい。

 泣き腫らした両目を袖でぐしぐしと乱暴に拭ってからしっかりとハルトを見上げる。

「目は覚めたか?」

「おかげさまで」

 ぐすんと鼻を啜る。不安がなくなった訳じゃないけど、心の中に巣食っていた絶望は晴れていた。

「俺さ、昔からずっとカナタなら何とかしてくれるって頼りにしてるんだぜ?」

 知ってる。小さな頃から何かある度に決まって言われたから。


「手伝ってくれ。夏向(かなた)の力が必要なんだ」

 僕らにとっての定型句。聞きなれた言葉に折角拭った涙腺が緩みそうになる。

 現実とゲームが入れ替わって、いつの間にか女の子の身体になって、自暴自棄になって、八つ当たりまでしてしまったけれど。

 隣に居てくれたのがハルトで本当に良かった。

 泣いても現実は変わらないし、言ってしまった言葉も取り返しが付かないのなら、責任は行動で果たすしかない。

「とりあえず、やってみようか」

「おうさ!」

 決まりきった返答に、ハルトは力強く頷いて見せた。

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