僕がネカマになった訳-1-
この小説は前作のWorld's End Onlineと同じ世界観で構築されています。
登場人物もストーリーも全く異なりますので前作を読んでいる必要はありませんが、既読ですとくすりとできるかもしれません。
ディスプレイの薄青い照明によって照らされた部屋の中で、僕は何度目かも分からない溜息を吐きだした。
壁に掛けられた木彫りの時計は午前4時を指し示しながら静かにコツコツと時を刻んでいる。
既に深夜というよりは早朝と言った方がより適切な時間帯。
窓の外に広がる閑静な住宅街はとっくの昔に夜の闇へと呑まれ、明かりのついている家は殆ど見当たらない。
早起きしたわけではない。送られてくるかもしれない1通のメールを待ち続けるあまり、寝るに寝れずこんな時間になってしまったのだ。
"抽選結果は当選者へのメール通知をもって代えさせて頂きます。"
未練がましげに眺めるディスプレイには小さな文字の一文が踊っていた。
要するに、僕は応募した抽選に外れてしまった現実をこんな時間になっても未だ受け入れられないのである。
2033年、人類の英知は新世界を創造するに至った。
人間の感覚が脳内の電気信号によって作り出されているのは随分と昔から知られてたが、微弱な電波を誤差なく観測する方法は電極を脳に直接ぶっ刺す以外になく、仮に実行してもほぼ確実に死んでしまうので解析は不可能だと言われていた。
ところが、ある一人の天才脳科学者の出現により問題は見事に解消され、ほんの僅かな期間で完全解析を成し遂げる。
こうして現実でありながら、現実ではない世界。データ上で再現される仮想空間への全感覚同期機能。通称、フルダイブシステムが誕生したのだ。
あらゆる分野で応用の効く技術が利便性を求める人々によって発展するまでそう時間はかからなかった。
今では社会の仕組みの一つとして受け入れられ、誰もが当然のようにその恩恵にあやかっている。
いや、既にこれらの技術なしでは立ちいかない程に浸透していると言っていい。
技術的なブレイクスルーを乗り越えた分野は数知れず、特に各ゲーム企業は早くからフルダイブ機能の持つ無限大の可能性に着目していた。
コントローラを握り、某配管工をゴールまで走らせるゲームと聞けば多くの人に覚えがあるはずだ。
目の前に広がる穴を飛び越えようとした瞬間、タイミングがずれてそのまま穴にダイブを決めたり、逆に早すぎて向こう岸に到達できなかったり、目の前から歩いてくる敵を踏みつけようとして飛び越したり、或いは距離が足りず目の前に落ちてやられたり。
世のゲーマーは数えきれない程の凡ミスと呼ばれる操作ミスを経験してきた。
もし、画面の中のキャラクターを自分の想い通りに動かせたなら、否、自分が画面の中で動けたなら失敗しなかったのに。
そんな夢物語を空想した人だってきっと沢山いる。
あらゆるゲームはコントローラなくしてキャラクターを動かせない。
ジャンルによってアクション性がやパズル的な思考、或いは1フレームの正確な入力を求められたりするのだが、コントローラによる操作はどうしても個人差が出やすいという欠点があった。
得意な人と苦手な人がいて、苦手な人は触れてくれず、結果的に顧客の損失へ繋がってしまう。
だからゲーム会社はいつの時代も直感的に操作できる入力デバイスの開発に力を入れていた。
十字キーとボタンだけでなく、太鼓やドラムといった実在する楽器を模してみたり、身体の動きを取り入れてみたり、画面に触れさせてみたり。
特にタッチパネル方式による操作は一つの時代を作り上げたといっても過言ではない。
しかしながら、こうした入力デバイスに不満も抱くゲーム会社も多かった。
簡素で直感的な操作にすればするほど、操作の幅自体は狭まり、自由度や複雑なシステムが作れなくなってしまうからだ。
このままではただボタンをクリックするだけの、もはやゲームとは言えない何かに成り下がってしまうのではないか?
もっと幅のある、それでいて誰もが受け付けるような操作デバイスはないものだろうか。
そんなゲーム業界にとって、フルダイブシステムによる感覚の完全同期は革新的な技術だった。
なにせこの技術があればゲームの世界に足を踏み入れるという、ゲーマーが一度は抱くであろう夢を実現できるのだから。
初めてフルダイブシステム搭載のコンシューマーゲームが出た時は、稚拙な部分が散見されながらも大きな注目を浴びたし、老若男女、幅広い層に普及した。
今では多数のメーカーが参入し、昔に比べれば信じられない程、ゲームのクオリティは上がっている。
けれど、その中でも特に待ち望まれていた同時接続型のオンラインゲームだけは沈黙を保ち続けていた。
フルダイブシステムでは脳から読み取った膨大な情報を精査し、必要な情報に落とし込む処理が必要になる。
コンシューマーなら処理する対象は一人でいいけれど、ネットゲームは接続している人数分の処理をしなければならない。
最低でも10万人。最新鋭のスパコンを並列処理させても煙を上げるに違いないデータ量だ。
出せばヒット間違いなしと言われながらも、膨大なシステム要件を満たせる方法が見つからず、メーカーは手をこまねくばかりだった。
そんな時、ある企業がこう提唱した。
一つの企業で作れないのならば、多数の企業が手を取り合って作ればいい。
フルダイブシステムのオンライン同期は途方もない利益と利権をもたらす。
上手くいくはずがないと思われた計画だったが、フルダイブシステムを組み込んだMMORPGは業界にとっても魅力だったのだろう。
果ては多数のフリーランサーまでもを巻き込んだ一大プロジェクトと化し、構想期間を含め僅か3年という開発期間でリリースされる。
『World's End Online』と名付けられた世界初のVRMMORPGは普段ゲームをしない層にも大きな反響を生んだ。
クローズドβテストには5000名の枠に対し、20万を超える応募が殺到したとしてニュースでも大きく取り上げられている。
幸運な当選者達は想像以上の出来映えをブログや掲示板に綴り、指を咥えてみているしかなかった落選者は嫉妬の炎に焦がれるしかなかった。
2ヵ月間に及ぶテストは滞りなく行われ、大した不具合も出さずにいよいよ正式サービス開始が宣言された時の熱狂は筆舌に尽くしがたい。
しかしその翌日、正式ロットの販売が告知された時に浴びせかけられた冷や水は熱狂を覚ましてなお余りある物だった。
5000人によるクローズドβテストではサーバーへの負荷試験が十分に行えなかった為、ユーザーの極端な増加がサーバーに与える影響が未知数である事を理由に、販売ロット数が恐ろしいまでに絞られたのだ。
クローズドβテストと同じ5000。これが初期ロットで販売されたアカウント数である。
テスト参加者はそのままアカウントを引き継げる為、ゲーム人口は最大で1万人。
事前のテスター応募でさえ20万人が集まっていたのだが、その後のテストプレイの公開で更に期待度は跳ね上がり、推定50万人の待機ユーザーがいるとまで言われている。
当選する確率は100人に1人だけ。
応募には免許証か住基カードが必要で、当選者のアカウント情報は該当する住所に届けられる徹底ぶりだった。
偽名で同じ住所から応募した場合にも確認が入り、不正と判断されれば二度と当選しなくなると明記されているおかげで不正も難しい。
当然、初期ロットにハズレた人の方が圧倒的に多く、以後は追加ロットの販売を常に切望される事となる。
波乱の幕開けだったが、初期ロット以降は追加販売されるアカウント数も増加傾向にある。
運営会社は必死に設備投資を繰り返し、一日も早く全てのユーザーに遊んでもらえる環境を整えたいと前向きな意向を示していた。
とはいえ、今なお当選者の倍率は高い水準にとどまっているのも事実。
初めての抽選参加でいきなり当選する確率は決して高くないと頭では理解していたものの、実際にハズレてみると傷は深い。
何故お金を払ってゲームをするのに抽選の枠を潜り抜けなければならないのか。
希望する人達を無条件に受け入れればサーバーがパンクし、ゲームが成り立たなくなるのも分かる。
少しずつサーバーを増強してユーザーを増やし、それに合わせた体制作りをして行く方が、結果的にユーザビリティを良くするのも分かる。
けれど納得しきれるものではない。
特に、身近な友人が2人ともとっくに当選しているとなれば尚更だ。
何より悲しいのが、ネット上の掲示板の書き込みである。
"初めて応募したけど受かったったwww外れた奴とか居るわけないだろwww"
匿名のどうしようもない書き込みにさえイラッとする余裕のない自分に呆れて、PCの電源を落としてからベッドの上に転がると目を閉じる。
次の追加ロットは何か月後だろうか。今までのペースを考えれば早くても2ヵ月先だ。
そして明日は夏休みを前にした終業式である。
捕らぬ狸の皮算用とは言ったものだが、当たったつもりで遊ぶ計画を立てていた昨日までの自分が恨めしい。
期待が大きければ大きい程、外れた時の絶望もまた大きくなるのに。
「遥翔の疫病神め……」
僕は唸るような声色で親友の名前を呟く。
最初からこの手のゲームに興味があったわけではなかった。
親友から耳を塞ぎたくなるくらい何度も何度もこのゲームの素晴らしさを語られ、一緒にプレイしようと迫られ、『とりあえずやってみる』と答えたのがそもそもの始まりである。
古くからの付き合いという事もあり、なんとなしに首を縦に振ったものの、参加する為の敷居は非常に高いと言わざるを得ない。
当初は運良く取れたらでいいやなんて思っていたのだが、何度か親友のアカウントを借りてゲームを体験するうちに心の底からのめり込んでしまったのだ。
だって、知らなかったから。
明確な目的があるわけでもなく、決められたストーリがあるわけでもない。
さながら、箱いっぱいの積み木を渡されて好きなように遊べと言われたかのような、何もかもをユーザーに委ねたゲームがあるなんて。
まるで本当に身体を動かしているような臨場感。
自分より大きなモンスターを武器と身一つでいなし、倒していく爽快感。
仲間との連携がうまくはまった時の達成感。
もう一つの現実が広がっているかのような完成度には思わず感嘆の息が漏れたほどだ。
『一回でもやれば絶っ対にはまるからさ! 賭けても良い、これにはまらない奴なんて居ないって』
遥翔が自信満々にそう言い切ったのも頷ける。
確かにこれは、今までのゲームという枠組みを、子供の遊びという概念を大きく超えるものだったから。
自由に遊べる自分のキャラクターが欲しい。遥翔と一緒に遊んでみたいと、強く思ったのだ。
抽選結果を待つ間は見事アカウントをゲットして、この夏は遥翔と一緒にゲームの世界を堪能するのだと言い聞かせた。
その結果が今の自分である。
「現実はなんてクソゲーなんだ……」
そもそも遥翔に誘われなければこんな気持ちになる事なんてなかったと理不尽に恨んでもみる。
悶々とした気持ちが渦巻くせいで神経が過敏になっているのか碌に眠れず、明日会ったらぶつけてやりたい文句を頭の中で34通りも考えついた頃になってようやく眠気が訪れた。
「遥翔はホント、トラブルメーカーだねぇ」
いつからかそれは僕の口癖になっていた。
小さな頃から親友だった遥翔は、縁側でお爺ちゃんとお茶を飲み比べたり、一緒に盆栽を眺めているのが好きだった僕と違って、活発で猪突猛進気味な性格をしている。
よく言えば元気な子供。悪く言えばご近所様に名を馳せるトラブルメーカー。
僕はそんな彼に引っ張られて、掘り当ててくるトラブルに右往左往する忙しくも楽しい日々を送っていた。
「それで、今日は何があったの?」
お爺ちゃんとお茶を飲んでいるところに、毎日「大変だ!」と叫びながら転がるようにしてやってくるのを、呆れ顔で迎えるのが僕の日課だった。
「友達の友達の友達の部屋に蜂の巣が出来たから退治するぞ!」
「昨日から友達の友達の友達の飼ってる猫が行方不明らしい、捜索隊の結成だ!」
「友達の友達の友達が中学生にカツアゲされたんだと! 小学生舐めんじゃねーぞ! 下剋上じゃゴラァッ!」
その度に僕は「大人に任せないと危ないから」とか、「猫なら1日くらい帰ってこない事もあるんじゃない?」とか、「警察に行こうよ」とか言いながらも、いつの間にか巻き込まれて解決に奔走させられる羽目になるのだ。
面倒臭いとか、馬鹿じゃないのとか思った回数は覚えてないけれど、最後に困った人達が笑顔でお礼をするのを聞いて、まぁ別に良いかと思えてしまうのだから不思議でしょうがない。
遥翔には昔から困った人を的確に探し出す能力と、それを放っておけない優しさがあった。
高校生になった今では流石になくなったけど、それでも時々トラブルを持ってきては昔と変わらない笑顔で言うのだ。
「手伝ってくれ! 夏向の力が必要なんだ!」
その度に僕は口癖を繰り返す。
「遥翔はホント、トラブルメーカーだねぇ。ま、とりあえずやってみよっか」
そうして昔と変わらない、楽しい時間が始まるのだ。
寝覚めは最悪と言って良かった。
頭はきりきりと痛むし、眠いの2文字が頭の中を縦横無尽に駆け抜けるばかりで一向に思考が定まらない。
あくびが終わる前にあくびが漏れそうになり、足元も覚束なかった。
原因はわかりきっている。昨日というより、今朝の寝不足だ。午前4時から7時までの僅かな睡眠時間に加え、あの精神状態では身体が休まるはずもない。
7時間半睡眠をモットーにしていた僕にとって、半分にも満たない睡眠時間は拷問に等しい。
ゾンビの様な足取りで洗面所に向かい、頭から水をかぶる。
地下水を汲んでいる水場は夏真っ盛りのこの時期でも驚くほど冷たい。
髪が濡れるのも厭わずにしばらく続けているとようやく目が冴え始めた。
びしょびしょに濡れた寝巻を脱いで洗濯機に放り込んでからバスタオルを取り出し、濡れた髪をわしわしと拭う。
そのまま壁に掛けられたドライヤーを取り外し、あくびを噛み殺しながら髪を乾かし始めた。
一息ついてから部屋に戻り、制服を着て台所へと向かう。
「おはよう」
「あら、おはよう。今日は随分と眠そうね。夜更かしでもしたの?」
「うん、ちょっとね……」
一人分の朝食が並べられた席に座っていただきますと小さく唱えてから、炊き立てのご飯を少しずつ食べた。
通学路でもひとりでにあくびが漏れてしまう。
今日が終了式でなければ朝の1、2時間分くらいサボっていたかもしれない。
傍を歩く生徒達がどこか浮き足立っているのはそのせいだ。
前期の終了式は夏の始まり、要するに夏休みの始まりを意味する。
期末試験を終えた後のご褒美とも取れる、1カ月半にわたる長い休みだ。
クラスでも数日前からどこに行こうかとか予定を立てているグループで賑わっていた。
夏休み。それは学生が取れる最大の自由時間といえる。
だからこそ、どうしても当選したかったというのに……。
『World's End Online』の追加アカウント抽選に漏れたせいで、思い描いていた計画は全て水の泡だ。
後に残るのは勉強と勉強と勉強だけの灰色の夏休み生活。きっと遥翔はVRMMORPGに没頭するのだろう。
妬ましい、実に妬ましい。今なら憎悪でうっかり丑の刻参りにも行けそうなくらいだ。
「トラブルメーカーめ……」
思わず口から怨嗟の一つが漏れた瞬間、誰かの手が肩に乗せられ、陽の光が遮られる。
「よっ! どうだ? 当選したか!?」
底ぬけて明るいハイテンションの声に、隣に立たれると日光が遮られるほどの身長差。振り返らずとも誰なのかすぐに分かった。
「朝からそのテンションはうざいし、夜更かしした頭に響くんだけど」
むっとして見上げると、快活な笑顔を浮かべた問題児がすぐ隣に立っていた。
塩素入りの水溜りに浸かるのが大好きだからか、ただでさえ色素の薄い髪は陽の光が当たると明るい茶色に見える。
頭一つ分……とまではいかないけれど目線は確実に上げなければならないくらいにはある身長差は、彼が高身長というのもあるけれど、僕が平均より小さいのが大きい。
小学生の頃はそう変わらなかったのに、背の高さにも、顔の精悍さにも、いつの頃からか差が出てしまった。
遥翔の父親は俳優もかくやと言うほどの、それはそれはナイスガイで、きっとその血を色濃く継いだのだろう。
反面、僕は母方の血が強いらしく、高校1年になったというのにまだ童顔の域を出ず、身長も伴っていない。
「その様子からするとハズレたか。まぁしょうがないって。昨日の抽選も15倍だったらしいからな」
「そんなに?」
15倍。つまり、15人に一人。確率にして6.66%。追加ロットは確か1万だったから、実に15万もの応募があったことになる。
ただ、これら全てが純粋なプレイヤーからの応募とは限らない。
「World's End Onlineのアカウントは高値で取引されるからな。不正が判明すれば繰り越し当選になる可能性もあるって」
いわゆる転売ヤーと呼ばれる、ゲームをするつもりもない人達が身内の名前を使って当選したアカウントを高値で売り捌く事態も横行している。
運営はアカウントの転売を禁止しているから、判明すればアカウント剥奪処分となり、浮いた分を応募者に繰越して提供してくれるのだ。
「くそ、転売死すべき慈悲はない……」
とはいえ、そのアカウントが転売されたものなのかどうかの判断はとても難しい。
繰越の当選は抽選より遥かに狭い門で、期待するようなものではないから、遥翔の言葉は慰めみたいなものだろう。
「地道に応募し続けるしかないからな……。頑張れ」
こればかりは努力や機転でどうにかできる問題ではないから遥翔の言う通りなのだけど、当選者に言われるとイラッ☆とくる。
『く、勝ち組が余裕ぶりやがって』と、しょうもない嫉妬心が顔を覗かせた。
こんなしょうもない事でこんな気持ちになるなんて自分でもびっくりだ。
「そうだね。地道な努力って大事だよね。なら、夏休みの宿題も地道に努力しなきゃね?」
だからつい、意地悪のつもりで出てきた軽口に遥翔はギョッと目を丸くして硬直する。
「待て、確か夏休みの宿題は分担して即効終わらせる手筈じゃ……」
遥翔は見てくれに違わず勉強が苦手だ。多分運動神経に才能を全部持っていかれたんだと思う。
まともに取り組めば夏休みの半分近い時間を宿題に費やすだろう。
しどろもどろに戦慄く彼に向かって僕はニヤリと笑みを浮かべ、思い描いていた予定が崩れ去る虚無感を知らしめてやった。
「予定は未定って言うじゃん? 僕ちょっと用事思いついたし」
「夏休みはゲーム三昧だって宣言してた夏向に用事があるわけないだろ!」
そりゃそうだ。昨日までの僕は当選する物とばかり考えていたのだから、遥翔と一緒に遊び尽くすべく、可能な限りの予定を排除していた。
「うん、ないよ? だから言ってるでしょ。用事を『思いついた』んだって。たとえ親友だとしても、一人で楽しもうったってそうはさせるか」
開き直りの境地に達した僕の言葉に遥翔が渋い顔をする。
「待て待て。俺だって夏向の当選を心の底から祈ってたんだぞ? つか、逆恨みにもほどがあんだろ……。まぁいい、先にこっちを見せるべきだったか。なら取引といこうぜ?」
遥翔はそう言ってスマホを取り出したが、嫉妬の炎に包まれた僕に取引だと? 笑わせる。
交渉の余地などという物が欠片ほどでもあると思うなと意気込みを……
「これ、今回の当選アカウントな。条件次第では譲ってもいいそうだ」
「なんでも呑みます。宿題なんて3日で終わらせよっか」
なかった事にして腰を90度に折り曲げ、全面降伏を敢行した。
「やっぱり持つべきものは友達だよねー」
「いや、さっきと言ってることが丸っきり逆だからな?」
人は誰だって嫉妬の炎に包まれる時がある。でも流されるままではいけないのだ。それを今、僕は学んだのかもしれない。
「それで条件ってなに?」
「……昔から夏向は都合の悪いことをナチュラルにスルーするよな」
「誰かさんの行動の賜物だと思うけどね?」
「まぁいいけど。これ、実は妹の名義で応募したアカウントでさ……」
彼にしては珍しく歯切れの悪い物言いだったが、既に一番の問題であるアカウントは手元にあるのだ。それ以上の障害なんてあり得ない。
ゲームに使うアバターは運営が配布しているベンチマークに作成機能が組み込まれていたから、暇な時間を使ってコツコツと作り上げておいた。
現実の自分とは似ても似つかない高身長と渋い顔をした姿に、遥翔は『面影が微塵もねぇ』と爆笑していたけれど、それが何だと言うのだ。
人は夢を持つべきなのだと僕はここに宣言する。
うん、やっぱり問題らしきものは何一つとして見受けられない。
「大丈夫、今の僕の前には無限の可能性が広がってるから!」
いつにないハイテンションで遠い場所を見ながら恍惚の表情を浮かべる僕に、遥翔は若干頬を引き攣らせながらスマホの画面をスクロールした。
「そ、そうか。妹の名義だからネカマプレイの必要があるけど、大丈夫そうで安心した」
そこには大きな文字で性別:女と書かれている。
「え……」
浮かれていた僕の思考が急激に冷めて現実へと引き戻された。
「別に男キャラにすれば良いだけじゃ……」
すると遥翔は大袈裟な動作で溜息を吐き、やっぱり分かってなかったかとでも言いたげに片手で額を押さえて見せる。
「あのな、このゲームはリアルと同じ性別しか選べないようになってるんだよ」
正確には現実と仮想空間で性別が異なった時の影響が未知数だからとか言う理由で、アカウントの申請時に同封した身分証明書の性別を元にアカウントデータが作られるのだ。
なので、異性アカウントを使いたいなら申請時に家族の名義を借りるといった偽装手段も存在している。
運営もそんな事は承知だが、そもそも企業が欲しいのは『異性アカウントの取得を制限している事実』であって、厳格な管理をしようとは思っていないのだ。
もしも重大な問題が起こった時に、『ちゃんと異性アカウントの取得を制限していた。他人の名義で異性アカウントを取得し、警告されているにも拘らず使った人に問題がある』と釈明できればいいのである。
だからゲーム自体にも脳波から性別を検知してエラーを返すといった機能は実装されていない。
そもそも、男女の定義とは何か。
脳波や染色体では半陰陽や性同一性障害を判別できない。
かといって、戸籍上では女性なのに機械が女性と認識できなければクレームの種になる。
性差の問題は非常にデリケートで、場合によっては自称人権団体から睨まれかねないのだ。
リスクばかりが募るシステムを企業が搭載する筈もなく、結局はアカウント申請時の戸籍情報だけが判断材料として使われていた。
運営に異性アカウント使用者を取り締まるつもりは微塵もないと言ったが、規約を尊守させる立場にあるのも事実。
異性アカウントの使用を禁じている以上、発覚した場合には処罰を下さねばならない。
適用される罰則はアカウントの剥奪。いわゆる一発レッドカードで、運営の用意する処罰の中では最も重い。
異性アカウントという存在そのものがあってはならないのだから、この処罰も致し方ないだろう。
つまり、僕が遥翔の妹さんのアカウントを使うつもりなら、ゲーム内では女性として振る舞う必要が出てくるのだ。
もしも中身が男だと発覚すれば被害に会うのは僕だけではない。
運営は血縁者として登録されている遥翔のアカウントにも調査の手を伸ばすだろう。
場合によっては遥翔のアカウントも一緒に潰されてしまう可能性がある。
この申し出を受け、妹さんのアカウントを使うのであれば、ネカマとしての振る舞いに妥協は許されない。
ただプレイするよりずっと息苦しいゲームになるのは明白だ。
致命的な失敗をすれば、親友のアカウントも道連れになる恐怖に、僕は言葉をなくしていた。
「次の抽選まで待って自分で当てるか、ネカマとして夏休みを満喫するか、好きな方を選んでくれ」
分かっていた。あの遥翔がトラブル以外を持ち込んでくるはずがない。
そして今度のトラブルとやらは些か以上にヘビーだった。
VRMMORPGは仮想空間で思う存分遊べる、画期的なゲームである。
従来のチャットという狭い範囲ではなく、身体全体を使ってのリアルなコミュニケーションが取れるのだ。
細かな仕草や喋り方を始めとした、画面の向こうの人だけが持つ独特な癖さえゲームの中に持ち越されるのである。
そんな世界で女性として振る舞える自信なんて僕にはない。
そりゃ、未だ声変わりが来てなかったり、童顔で女っぽく見えなくもないと言われたりはするが、『見える』と『演じる』のでは雲泥の差だ。
でも。それでも、僕はこのゲームを友人と一緒に楽しみたかった。
何より、失敗すれば自分に危害が及ぶかもしれないのに誘ってくれた親友の心意気が嬉しかった。
「……とりあえず、やってみよっか」
「そう言うと思ったよ」
「でもそうなると、アバターも作り直さなきゃね。女の子のキャラなんて作ったことないから不安なんだけど……」
男が作ったアバターと女が作ったアバターでは、やはりどこか雰囲気が異なる気がする。
「あぁ、それなら大丈夫だ。アバターは妹が作ってるのがあってな。細かい説明は家でさせてくれ」
その申し出は素直にありがたいと思ったものの、どんな姿になるか予想だに出来ないのは怖くもあった。
できればボーイッシュな外観が望ましい。
男の子でも女の子でも通用しそうな、凛々しさを兼ね持つ中性的な外観の方が違和感も少ないだろう。
人は外観で相手の8割を判断するという。そして僕は自分で言うのも難だが、割と負けず嫌いだ。
ゲームが始まれば人一倍努力しようと思っている。
出来るだけ効率のいい方法を編み出して、さくさくと敵を狩って、ぱぱっとレベルを上げて……。
ハングリー精神も露にゲームへがっつく姿勢は凛々しく颯爽としたアバターならさぞ似合うだろう。
しかし、あまりにも儚げな少女然としたアバターが脇目も振らず効率一直線で進んでいたら、周りからはどう見えるだろうか。
ただでさえ慣れないネカマとして振る舞うのであれば、女性らしい前者の方がずっと難易度は低い。
ネカマとしての努力だってするつもりだ。
けれど、男と女では何もかもが違うのだ。きっと仕草や会話の節々に男らしさを滲ませてしまう。
姉御肌の感じられるアバターならそんなもんかと納得してくれるだろう。
しかし、いかにも少女然としたアバターであったならば違和感を与えてしまうに違いない。
あれ? こいつネカマじゃね? と思われたら終わりなのだ。楽しい夏休みの計画が水泡に帰してしまう。
それに何より、話を持ってきてくれた遥翔には迷惑をかけたくない。
「そんな意気込まなくても大丈夫だよ。運営も込み入った調査はしないからさ。電話確認が着ても妹が対処してくれる。ゲーム内で自分は男だって吹聴でもしない限りなにも問題はないんだ」
「そうだよね。うん、頑張る」
遥翔の妹だけあって、彼女は色々と察しが良い。否、察しが良くなければ生き残れなかったのだ。
度重なる遥翔の奇行に付き合わされたのは僕だけじゃない。
小さな頃は彼女と一緒になってあらゆる難題に挑まされたのだ。
いつしか聡明な彼女は兄の奇行の前兆を察するようになり、突然家に押しかけられる僕と違い、事前に姿を消す術を編み出したようで、遊ぶ機会も少なくなってしまった。
それはさておき、色々と察しの良い、とても良い子なのだ。
僕がネカマをすると知っているのであれば、事情を考慮して演じやすいアバターを作ってくれているに違いない。
一抹の不安を感じながらも、僕はそう思い込むことにしたのだった。