雨
一人の男が、ぽつりぽつりと小雨の中を考えもなしに歩いていると、小さな屋根の下に女が一人立っていた。夜も耽ってもう遅いというのに、女は傘も持たずに背筋を伸ばしてしゃんと立っている。
不思議な女だった。上を見るでもなく下を見るでもなく、何の色もない顔をただただ前に向けている。
男は、好奇心からかその女のすぐ脇で傘を畳んで立ち止まった。
少しの間雨音だけだ囁いて、男が先に口を開く。
「こんな時間に女が一人で無用心な。何かあったのかね?」
「なにもありはござんせん。ただ、好いた男に振られただけです」
男は眼を少しだけ見開いて、また、前を向いた。
「そうなのかい。じゃあ、さしずめ今は雲のなかといったところかね?」
「そんなものでもござんせん。どしゃ降りの雨のなかですよ。ただ、土は打たれるだけでございましょ」
「ほう。それはそれは、奥の深い話だことだ」
そうして会話を交わした後、二人はまた前を向いて口を塞いだ。さっきよりも幾分か弱まった雨が、か細い音を響かせる。それから、また男が口を開いた。
「なら、これできれいな服でも買いなさい。いや、今の姿が汚いわけではないよ。今よりも、もっといい服を買いなさい」
男は、懐から財布を掴んで、その中から幾らか札を女に向ける。
「これはどうも。しかし、知らん人からはモノを
貰うなと言われてるもので、遠慮します」
「手厳しいものだね。だが、ここで会ったのも何かの縁と思える。私は、今、君という人間を知っているよ」
男が引かないと分かると、女は嫌そうにお金を受け取った。
「ありがとうございます。でも、今日だけの縁でこんなことをしてくれるとは、貴方も気障なもんです」
「なぁに、水は器に従うものだ。どしゃ降りだというのなら、それを補う器にせにゃならん」
「やっぱり、気障なもんです」
「ははは、太宰治の受け売りだがね。しかし、的を得ていると思うよ。器を作るのは、他者でなければならん」
「そりゃ、どうも」
いつの間にか雨も口を閉じて、音の無い風が吹く。
「それじゃあ私はもう行くよ。風邪を引かないように、気を付けてお帰り」
男はそう言って、傘を指して歩きだす。
「雨は止んでいますよ。傘はもう必要なかろうに」
「何をいっている、どしゃ降りさね。私は、どしゃ降りのなかを歩いているのさ」
そう言って、男は暗い夜のなかを、ぽとりぽとりと歩いていった。
「まったく、本当に気障なお人だった。他人に目をかけるほど、余裕があったのかねぇ」
一人取り残された女は、またしばらく、屋根の下に佇んで、男とは逆の方向に、足を向ける。
もう、屋根の下には誰もいない。雨も止んで、月光だけが、微かに光を漏らしていた。