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殺人を犯すと、人によっては悪夢や幻覚に苛まれるという話を聞いたことがある。殺した相手が自分を殺そうとするとか、そういった類のものだ。
人によっては、の部分に当てはまるのがどのような人物なのかは分からないが、どうやら僕はそれに当てはまらないらしい。
夢は見る。でもそれは悪夢ではなく、現実で起こったことをそのまま繰り返すだけの記憶夢というやつだ。
最初は、僕を中心に、多数の魔術師達が地面に倒れている場面から始まる。一目では無傷そうな人もいるが、大抵の人は身体のどこかが変に曲がっていたり、千切れていたり、無くなっていたりしている。血を吸って赤黒くなっている地面が三百六十度どの方向を見ても嫌でも目に入ってくる。
夢は、そこから少しずつ巻き戻っていく。人を殺さない程度の攻撃を覚えた僕から、ただがむしゃらに目の前の敵を払うだけの僕へ戻っていく。
なんとなく感覚がスローになっていくのを感じると、あぁ、あの場面が近付いて来たんだ、と僕は目を覆い、右手を左手で押さえたくなる。夢の中でくらい展開が変わってくれてもいいじゃないかと思うけど、多分それはないだろうと諦めている僕もいる。
ただがむしゃらに、近くの敵に向かって手を払っていた動きが、止まった。いや、止まらないんだ。敵の首筋に向かっていく右手は。
敵はガッシリした体格の、二十代中盤か後半くらいの男性だった。
あの時、僅かにでも力を抜かなければ、手を振る速度を緩めなければ、僕の手はその名通り手刀となって、敵の首を跳ねていただろう。跳ねたことさえ気付かないくらいの速さで。普段から鍛えているのが一目で分かるような太い首だろうと、関係無く。
その方が、よかったのかもしれない。
中途半端に速度を緩めた僕の手は、ブチブチと嫌な音を立てながら敵の首を千切っていった。
完全に動きが止まった時には、首が皮一枚で繋がっている状態。時間が戻ってくると、敵の頭が傾き、体が傾き、地面に倒れた。その拍子に頭が完全に胴体から離れたのを見て、僕はその場から離れる。
周りの敵の視線に気付いたから、ではなく、ただ単純に、恐ろしかったのだ。
僕は人を殺すという覚悟をしたつもりでいながら、『もしかしたら生きているかもしれない』という希望に縋っていたのだ。だから、否定しようのない死を目の当たりにして、恐ろしくて堪らなかった。
でも多分、あの場ではもっとたくさんの人が死んだ。殺した。僕が。
あの後、応援の人達が来ると、残り僅かな人数になっていた敵は逃げていった。
佐竹家の人達に連れられ、すぐにその場を離れた僕は、その後のことは何も知らない。聞かされてもいないし、自ら訊く気にもなれなかった。
あれから一週間が経った。
僕や伶さん、依千さんは学校には行かず、佐竹家に缶詰め状態。あの襲撃が何者によるものか分かるまで、外出は危険とのことだった。
襲撃してきた敵の人数や、その場の状況など、佐竹家の人達に様々な質問をされた初日以外は特に何もなく、僕は自室に籠もって魔力感知、昨日から魔力操作の自主トレをしていた。
そう、ようやく魔力感知に成功したのだ。いざ自分で感じてみて、伶さんが言っていた『奇跡』という意味がよく分かった気がする。
今は魔力操作で、塵のような魔力を一カ所に集めるのが目標なわけだけど、これが難しい。魔力がピクリとも動いてくれないのだ。多分、僕の魔力操作は依千さんが言っていた『箒で掃いている』レベルなのだろう。もっと精密に操作出来るようにしないと。
しかし、集中しようとすると、前述した夢の内容が不意に蘇ることがある。今だって、そうだった。いつの間にか集中が切れている。
「はぁ」
小さく溜め息を着いて、胡座を掻いた足を組み替えた時、部屋の襖が小さく叩かれた。
顔をそちらに向けながら返事をすると、襖が少しだけ開いて、そこから依千さんが顔を覗かせた。
「高峰君、お昼ご飯だよ」
「うん、分かった……って、もうそんな時間なんだ」
ほわっとした笑みを浮かべる依千さんにそう返して、膝に手をついてから立ち上がる。
部屋から出ると、良い匂いがした。それは隣にいる依千さんの匂い……ではなく、
「ミートスパゲティ?」
「ナポリタンです……だよ」
「今日も依千さんが?」
アニメチックな猫の絵がプリントされたエプロンを着けている依千さんは頷く。
あれから佐竹家は(僕達以外)大忙しで、もともと多忙だった源治さんはもちろん、和美さんや春日部さんの姿もほとんど見ていない。まともに話をしたのは、一昨日、一緒に夕飯を食べたのが最後だっけ。
そういう訳もあって、食事は誰かが買ってきてくれるか、それが無ければ自分達で何とかすることになっている。何とかすると言っても、僕は大した料理も作れないため、依千さんの手伝い程度だ。今回は、それすらも出来なかったが。
「集中してたみたいだね。魔力操作の練習?」
「うん。成果はいまひとつだけど」
「お母さんも『難しいわよー』って言ってたもんね」
「でも和美さんは出来るんだよね」
「うん。魔力操作だけは得意なんだって」
依千さんは階段の途中で振り返って笑みを見せてから、また前を向いた。
僕は、ふわふわと動く髪を見ながら、依千さんが目を覚ました四日前のことを思う。
依千さんは、あれから三日間も眠り続けた。
和美さんが言うには、訓練不足。解呪と魔力譲渡を百パーセント出来るようになっていなかったため、身体への反動が大きかったのではないだろうか、とのことだった。
ようやく目を覚ました依千さんは、やはり記憶を失っていたけど、予想に反して冷静だった。
記憶を失うことに慣れる、なんてことは有り得ないのだが、ついそんなことを考えてしまうくらい、現実を受け入れているように見えた。
依千さんに続いて居間に入る。スパゲティが盛り付けられた皿が三皿、テーブルの上に置かれていた。
「……伶さんは?」
「あ、えっと、お腹減ってないみたいで、後で食べるって……」
「そっか」
椅子を引きながら、内心『またか』と思う。
一週間前の襲撃以来、僕や依千さんと同様に外出禁止となっている伶さんだが、ほぼ一日中自室に籠もっていて、タイミングが合わないと顔を見ない日もあるくらいだ。
伶さんがそんなことをしている理由は、何となく分かる。「いただきます」と合掌している依千さんをチラリと見ながら思う。
今回、依千さんが解呪を使ったのは、伶さんのためだった。あの後、伶さんは僕に何も訊いてこなかったけど、それは訊かずとも予想がついていたからなのかもしれない。
そりゃあ、顔も合わせづらいだろうとは思うけど、それで今の依千さんに心配を掛けてたらどうしようもないんじゃないだろうか。
『あの、私とお姉さんって、仲が悪かったんでしょうか?』
依千さんがそんなことを訊いてきたのは、一昨日、今のように二人で夕食を食べていた時だった。
『そんなことはなかったと思うよ』という僕の言葉を信じてくれたらしく、依千さんはホッとした表情をしていたけど、確かにここまで露骨に避けられるとそう思っても当然だろう。
伶さんの気持ちは分かるから口出しはなるべくしたくないけど、やっぱり一言くらい何か言っておいた方がいいのかもしれない。
「ねーねー、二人とも」
「ん?」
向かいの席からの呼び掛けに、上の空のまま答える。
「伶ちゃん来ないの? これ、食べて良い?」
「いや、伶さん、後で食べるって…………」
そこでようやく気付いた。僕よりも先に気付いていたらしい依千さんは隣を見て目を点にしている。
「えー。でもスパゲティって冷めたら駄目でしょ。カピカピになっちゃうじゃん。食感最悪じゃん。勿体ないよー」
口を尖らせた神山さんは『待て』をされた忠犬のように僕と依千さんを交互に見る。佐竹家の精鋭八人に囲まれても余裕綽々だった神山さんが、眉をハの字にして涙目になっている。可笑しいような、呆れてしまうような。
「それで、どうしたの、神山さん。まさか昼ご飯食べに来たわけじゃないよね?」
「あ、高峰君のお友達?」
少しホッとした表情の依千さんだったが、
「あれ? でも『神山』さんって…………」
神山さんの顔は知らずとも流石に名前は聞いていたらしい。
「初めまして、依千ちゃん、久し振り。山田花子、またの名を神山鈴です。スパゲティ食べて良いですか?」
「こ、こちらこそ初めまして。た、高峰君、神山鈴さんってもしかして……。あ、スパゲティはどうぞ。まだおかわりがあるので」
「わーい」とフォークを手に取る神山さんの隣で、依千さんが不安そうな目を向けてくる。
「それで神山さん……」
「んー? あぁ、ここに来た理由だっけ? お見舞いだよ。高峰君達三人の」
そのうち一人の昼食を食べながら神山さんは言う。
「三人とも無事ってことは知ってたけど、一週間も学校に来ないんじゃあ心配になるよ。高峰君は慣れない戦闘の後だし、依千ちゃんは短い間隔で解呪してるし、伶ちゃんは一時的にだけど敵に捕まったっていうし」
「お姉さんが?」
「うん?」
依千さんの驚いた声に、神山さんは首を傾げる。
一週間前の詳細を、依千さんは知らない。知っているのは『敵の襲撃により』ということだけだ。
「依千ちゃん、今は伶ちゃんのこと『お姉さん』なんだね。昔は私と同じで『伶ちゃん』だったのに」
しかし、神山さんが気になったのは、依千さんが口にした伶さんの呼び方だったらしい。それにしても、これを知らないということは、あの時の言葉は当てずっぽうだったのだろうか。
「それで、神山さんはお見舞いのためにわざわざ敵の本陣に?」
「敵ってヤダなー。まぁ、佐竹家と仲良くしたいとは思わないけど、依千ちゃんや高峰君の味方でありたいとは思ってるよ?」
「……神山さんの言葉をどこまで信じていいか分からないんだけど」
「全部信じていいよ! 私、嘘嫌いだし!」
偽名を使っていた人がよく言う。
「まぁ、それはどうでもいいとして、このスパゲティ美味しいね! 流石依千ちゃん!」
「えっ? ……えへへ。ありがとうございます」
嬉しそうに微笑む依千さんに、神山さんも笑みを返す。この光景を伶さんが見たら怒るだろうか呆れるだろうか。後者にせよ、最終的には怒るだろうけど。
「あ、あの、神山さん」
「鈴でいいよ。あ、高峰君は駄目だよ。恥ずかしいし」
「はいはい」
「あの、鈴さん」
「ちゃんがいいな」
「……えと、鈴ちゃん」
「んー?」
依千さんは、マイペースな神山さんに思い切り押されている様子だ。
「お姉さんが敵の人に捕まったって言うのは……」
「あれ? 知らない? って言っても、私もそんな話を聞いただけで現場にいたわけじゃないんだけど……」
神山さんがこちらを見たので、首を縦に振る。
「本当みたい」
「…………」
その言葉に数秒間、何か考え込んでいた依千さんはスッと顔を上げると僕を見た。何を考えていたのかも、今から言う事も、なんとなく予想出来た。
「高峰君、もしかして、お姉さん、その事を気にしてるのかな?」
そうかもしれない、とは僕も思っていた。それ以外の理由が思い浮かばなかったわけではないが、それが最も可能性があると結論した。
しかし、それが分かったところで、人がどうこう言って解決できる問題ではない、とも思っていた。伶さんが捕らえられたことを責める人など、元から一人もいない。伶さんが、自分を許せずにいるのだ。僕や、例え依千さんが許したとしても無意味だろう。
依千さんに詳細を黙っていたのは、ただ単に『訊かれなかったから』だけではなく、依千さんがこれを知って何もせずにいるとは思えなかったからという理由もあった。
「……うん、その可能性もあるかもね」
多分、僕の答えに意味はほとんどないと思う。僕が『それはない』と言っても、依千さんの中には可能性が残る。一パーセントでも可能性があるなら、依千さんは動くだろう。
昼食後、食卓に残ったのは、僕と、満足そうに頬を緩めながら椅子に深く座っている神山さんだけだった。依千さんは、僕が食器洗いを申し出ると、遠慮しながらも最終的に『それじゃあお願いします』と言って廊下へ出て行った。依千さんの事だ。早速、伶さんのところへ行ったのかもしれない。
さて、どうなるだろうか。悪い方向に行かなきゃいいけど……。
空いた皿を取って立ち上がりながらチラリと廊下の方を見る。
「言わない方がよかった?」
それに気付いたらしい神山さんが、そう言った。
「……どうなんだろ。伶さん、あれから僕と……特に依千さんを避けてるみたいだったから、しばらく一人にした方が良いのかな、とは思ってたけど」
依千さんは姿勢を少しだけ直すと、両手で頬杖をついて「ふーん」と口をすぼめた。興味があるような、ないような反応だ。
「じゃあ依千ちゃん、伶ちゃんのとこに行っちゃった?」
「多分だけど」
「うんにゃ、絶対行ってるよ。依千ちゃん、分かり易いもん」
それには同意する。基本的に、僕が絶対にしないような行動をするのが依千さんなのだ。だから、とても分かり易い。もちろん、良い意味で。
「でも、それなら今の状況も少しは変わるかもね」
「それは良い方に? 悪い方に?」
「さ? そこまでは分かんないけど。でもまぁ、悪い方にはいかないんじゃないの? 伶ちゃん、シスコンだし」
神山さんは、伶さんが聞いたら激怒しそうなことをサラッと言いながら、両手を挙げて大きく伸びをして椅子から腰を浮かせる。
「そんじゃー、私は帰ろっかな。みんな元気って事は分かったし。っていうか、元気なら学校おいでよ」
「そりゃ、僕も授業に置いていかれるのは嫌だけど、今回は襲撃の規模が規模だったからね。相手が誰かも分からないし、外はまだ危険って言われてる」
危険の中には神山さんの存在も含まれているであろうことは言うまでもないだろう。
「学校なら私がいるから安全なのに。なんだったら、登下校も一緒にしてあげようか?」
「それはこの家の人達が心配するよ」
僕が呆れながら言うと、神山さんは可笑しそうに笑った。
この水道代はどこに請求されるのだろうか。
すっかり綺麗になった皿を水で流しながら、前々から気になっていた事を思う。ここへの入り口を考えると、水が出てくることに疑問はあまり感じないでもないけど、でもここは異空間だ。電気や水道が普通に使えるのはおかしい。
「……まぁ、魔法だもんね」
納得せざるを得ない一言を呟きながら、最後の皿を手に取った時、背後のドアが開く音がして、僕は振り返った。
そこにいたのは、いつもムスッとしている顔を更にムスッとさせた伶さんだった。
「おはよう、伶さん。フライパンの中にナポリタンがあるよ」
最後の皿を食器乾燥機の中に入れながら言う。しかし、返事も、動く気配もしないため振り返ると、伶さんは入口に立ったまま変わらぬ表情で僕をじっと見ていた。
「……えーと、伶さん?」
「春日部は?」
唐突に放たれた短い言葉に、一瞬だけ思考が止まる。
「春日部さん? 今日は見てないけど……」
「じゃあ、依千にあの時のこと言ったのは高峰君?」
首を横に振る。
やっぱり、依千さんは伶さんと話をしに行ったらしい。そしてこの不満が溢れ出ている表情と、依千さんが戻ってこない事を考えると、話し合いは上手くいかなかったようだ。予想通りではあるけど、依千さんがまた落ち込んでいるであろうことを考えると、それでお終いと言うわけにはならなかった。
「じゃあ、誰?」
「伶さんはそれを聞いてどうするの?」
「文句言ってやろうかと思って。何のために私が依千を避けてると思ってんの、って」
「……依千さんのため、だよね」
「前回みたいなことを繰り返さないためよ。依千が、解呪を使ってまで助ける相手は高峰君だけでいいの。それ以外は、いくらでも代わりがいるんだから」
食器棚から皿を取り出しながら当然のように言う。
「それで伶さんはいいの?」
「良し悪しじゃなくて、大事なのは繰り返さないことでしょ。依千は全部忘れちゃってるし、言っても聞かないだろうから周りがそうさせるように動くしかないのよ」
「じゃあ例えば、今すぐ伶さんが敵にさらわれたとして、依千さんが何もしないと思う? いや、伶さんじゃなくても、そこらへんにいる知らない人でもいいよ」
僕の問いに、伶さんは答えず、黙々とナポリタンを皿によそっていく。
「今、伶さんのやってることが全く無意味だとは思わないけど、それよりも僕は依千さんと仲良く……とまではいかなくても、前みたいに普通に接して欲しいと思ってる」
「無理よ。それに、今なら高峰君もいるんだし、一人ってわけじゃないんだからいいでしょ」
「よくないよ。二人は姉妹なんだし」
空っぽになったフライパンを伶さんから受け取りながら答える。
「高峰君、兄弟姉妹のことはよく分からないって言ってなかったっけ?」
「一般的な姉妹は分からないけど、伶さんと依千さんのことなら少しは分かってるつもりだよ」
少なくとも、伶さんに対する依千さんの気持ちは知っている。あれを聞いたのは依千さんが記憶を失う前だけど、きっと今も変わっていないだろう。
フライパンを流し台に置いてから、黙ったまま席についた伶さんの向かい側に腰を下ろす。
伶さんは僕に目を向けることもなく、黙々とナポリタンを口に運んでいく。
ようやく顔を上げたのは、ナポリタンを半分ほどたいらげた時だった。
「……ねぇ高峰君」
「なに?」
そんなに見られていると食べにくい、とでも文句を言われることを予想したが、それは外れだった。
「なんで依千が呪いを継いだのか、知ってる?」
「……なんで、って」
そういう呪いだから、としか答えようがない気がする。
「言い方を変えると、なんで私じゃなくて依千が呪いを継いだか知ってる?」
「……同じ双子なのに、ってこと?」
「そう」
「えっと、魔力量が多かったから、とか?」
「外れ。私と依千の魔力量はピッタリ同じだから」
流石双子だ。
「じゃあ、ヒント下さい」
「ないわよ、そんなの。私だって答え知らないし」
「………………」
クイズになっていなかった。
「ていうか、答えなんかないのよ。依千が呪いに選ばれたのはただの偶然。依千は二分の一の確率で呪いを継いだ不幸な妹で、私は二分の一の確率で呪いから免れた幸運な姉ってだけ」
自分のことを幸運と言った伶さんの表情は、それを喜んでいるようにはとても見えなかった。
「私の幸い中の不幸は、依千よりほんの少し早く――姉として生まれちゃったことだけ」
「……伶さんは妹がよかったの?」
「そりゃそうでしょ。依千のことだから、呪いを継いだのが自分でよかった、なんて思ってるんだろうけど、私から――姉の立場から見たら、どうだと思う? 私達のことを分かってくれてる高峰君は」
「それは……」
伶さんが言いたいことは分かった。しかし、僕はそれを口にしたくなかった。
「私が妹だったら、健気な姉を支えるしっかり者の妹で済んだのよ。でも、現実じゃあ私は姉なの」
フォークでスパゲティを絡めながら、しかし口には運ばないまま、伶さんは話を続ける。
「良い子の妹を守れないどころか守られちゃう駄目姉」
フォークを持った手の甲を額につけて、伶さんは大きく溜め息をついた。手に隠れて僅かにしか見えない表情は、普段の伶さんからは想像も出来ないほど弱々しいものだった。
駄目なんて、そんなことはない。
そんな言葉は、すぐに浮かんだ。でもそれを僕が言ったところで意味なんか――――いや、意味を考えるのは、今はやめよう。意味を求めすぎて何もしなかった僕が、伶さんをここまで追い込んだんだ。神山さんがお見舞いに来なかったら、それはまだまだ続いただろう。
「ごめん」
唐突に、伶さんは謝罪を口にした。何を謝られているのか分からず、僕は黙って言葉の続きを待つ。
「依千と関わらないのは同じことを繰り返さないため、っての、嘘だった。全部、自分のため。依千と一緒にいることに、もう耐えられないから、自分の失敗を理由にしてただけ」
これまで、想いを口にしなかったツケが回ってきたのだろうか。今度こそ、僕は何も言えず、頭にも浮かばなかった。
「昔、依千が私のこと何て呼んでたか知ってる?」
「……名前で呼んでたって……」
「うん。最初は『伶』。その次が『伶ちゃん』。その次が『お姉ちゃん』で、今が『お姉さん』。そんな大した変化でもないし、変わったのは呼び方だけで依千自身は呆れるくらい変わってないのに、それでも、自分でも馬鹿じゃないかってくらいに気にしちゃうし、でも昔の呼び方をしろなんて言えないし」
ナポリタンが残っている皿に水滴が落ちた。
「なんで私がお姉ちゃんなのよ……。お姉ちゃんなら呪いもキッチリ継ぎなさいよ……」
僕に向けられたものかも分からないほど小さな、零れ落ちたようなその言葉は、多分伶さんがずっと抱えていたものなんだと、なんとなく思った。
僕は何を言えば良い? 意味の有無なんてどうでもいいのに、相変わらず、言葉は出て来ない。
「……高峰君、依千のところに行ってあげて」
「依千さん?」
「さっき、泣かしちゃったの。多分まだ泣いてるから」
その言葉に、ほぼ無意識のまま廊下の方へ顔を向けると、ドアのガラス越しに何かが……いや、誰かが動いた。曇りガラスなので影しか見えないけど、多分今のは……。
「……ううん。もう少し、ここにいるよ」
自然と口から出た言葉に、伶さんが顔を上げた。
初めて見た伶さんの泣き顔は、家にいる時みたいにだらしなくも、学校にいる時みたいに凛々しくもなく、でも、いつもよりずっと素直だった。
「なんでよ」
不満そうに僕を睨む伶さんだが、目が潤んでいるため怖さは全くない。
「なんで、って……」
「私が泣いてるのが面白いから、なんて言ったら魔法ぶち込むわよ」
「え、それは本気で勘弁だよ」
「じゃあ、なんでよ」
「だって……」
流し台、テーブルの上の皿に目をやってから、伶さんを見る。
「皿洗い、まだ終わってないから」
伶さんは目を丸くしてから、呆れたように肩を下げた。
「……あっそ」
ナポリタンを綺麗に食べ終えた伶さんは『寝る』とだけ言うと、さっさと二階へ上がっていった。
僕はそんな背中を見送ってから、早速皿洗いを再開する。と言っても、残るは伶さんが使った皿とフライパンくらいだけど。
綺麗に食べてくれたおかげでさほど汚れていなかった皿を手早く洗い終え、さぁ難敵フライパンに挑もうという時、背後で小さな音がたった。
振り返ると、そこにいたのは依千さんだった。さっきは伶さんだったけど、二人とも顔がそっくりなので既視感が半端じゃない。
「あの、高峰君」
俯き気味のまま、前で両手を重ねている依千さんが小さく口を開く。
最近気付いたことだけど、依千さんは緊張している時、語頭に『あの』が多用される。癖みたいなものなのだろう。
慣れているはずの僕相手でも緊張しているだけあって、何か言いにくいことらしい。依千さんは手をもじもじと動かしたまま、小さく『あの』と『えっと』を繰り返す。
「さっきの話、聞いてた……よね?」
失礼を承知で言うが、盗み聞きと言えば依千さんよりも神山さんのイメージがある。でも、さっきのは依千さんだと思った。特に理由らしい理由はないけど、なんとなく。
依千さんは悪事がバレた子供のように俯き、小さく頷いた。
「ごめんなさい」
「い、いや謝るようなことでもないけどさ。ていうか、ドア越しによく聞こえたね」
「うん、えっと、耳に魔力を集めて……」
「そ、そうなんだ……」
反省している割には盗聴する気満々だったようだ。伶さんに気付かれなくてよかった。
依千さんが頷くと、会話が終わってしまった。依千さんに慣れた今では他愛のない日常会話なら続けられる自信はあるけど、こういう場面は言葉に困ってしまう。
「えーと、依千さん、大丈夫? 伶さんに泣かされたって……」
「あ、はい。大丈夫。それに、泣かされたって言うより勝手に泣いちゃっただけだから」
「そっか」
「うん」
言っていることは全く違うが、結果的に二人とも自省しているあたりが双子らしい。端から見ると、少し面倒にも感じてしまうようなすれ違いではあるけど。
「……どうだった? 伶さんの気持ちを聞いてみて」
そう訊くと、依千さんは顔を上げてほのかな笑みを見せた。
「あんなに私の事を考えてくれてるんだなぁって思って嬉しかったし、嫌われてなくて凄く安心しちゃった」
「でも、結果的には何も変わらなかったよ」
つい口から出たしまったネガティブな言葉にも、依千さんは笑みを崩さない。
「うん。そうかもしれないけど、お姉さんの気持ちがほんの少しだけど分かったから、今はそれで満足です」
「……そっか」
「うん」
言葉通り満足そうな笑みを浮かべる依千さんは、明るくて暖かくて、そして儚かった。
一週間前に起こった襲撃事件。その犯人一味が判明したという報告を聞くのは、そんなことがあった翌日のことだった。