THE JUDGE 3
派手なライトしか照明らしきものがないホール内。真っ暗闇は危なっかしいので、キャンドルを点して灯りをとる。
どんだけ図太い神経をしているんだろう。やっとの思いでホールにしつらえた簡易ベッドまで運ぶ間、辰巳は一度も起きなかった。やっぱり自分の服ではきつかったらしく、無意識にシャツを脱ごうとしたのかボタンが吹っ飛んでいたので、別のを羽織らせても起きやしないし。その代わり、ものすごく睡眠時間が少ないと思われる。一度だけ、ホームレスかプチ家出をした子供か誰かが軒を借りようとでもしたのだろう、入口付近で物音を立てた。その瞬間、いきなり飛び起き周囲を見渡した。危険がないと判断したのか、そのまままたぽとりと頭を落とし、覗いてみればもう寝息を立てていた。深く短く摂るタイプ。カリヤとよく似た、どこか警戒を保ち続けるヤツだと思われた。
「その割に、こっちが床に落っことしても一回も目ぇ覚まさねえってとこが鈍感だけどな」
普通、それはないだろう。たまたまこういう鈍臭いヤツなだけかも知れないのに。今日初めて会ったヤツなのに。それが信頼の証に見えて、カリヤの口許をほころばせた。
辰巳の眉間が何度か動き、目覚めを知らせる皺をかたどる。瞼が眩しげに瞑る強弱を示すと、頃合いと見てカウンターへトニックウォーターを取る為席を立った。
「い……てぇ……。あれ? 俺、寝てた?」
背後からの声に振り向かないまま答える。
「思いっ切り。カヲル子が舎弟をひと晩借りる、組長には言ってあるからゆっくりしとけ、だとさ」
グラスを手にソファへ戻り、それを辰巳に無言で差し出す。
「お。さんきゅ~。刈谷悠貴クン」
「!」
身内と信頼出来るヤツにしか教えていない本名の方を、初見のこいつが何故知っているんだ。カヲル子から漏れたとは考えにくい。あっちも客商売だ、ルール違反はあり得ない。
「ごめんね、調べさせてもらったよ。キヌ子女史が自分から海藤に媚びる姿勢を見せたんで、ちょっと気になってね」
辰巳は身体を起こしてグラスを受け取るとそれには口をつけず、その水で瞳を濡らしてコンタクトを外しながらそう言った。
「ぐぁ、つけたまま寝るとやっぱ剥がす時、痛いや」
グラスに浮いた二つのそれが、淡いグリーンの光を作っていた。ミラーボールの所為で気づかなかった。そこに人工的な色が添えられていたことに。カラーコンタクトを外した瞳は、涼しげで、穏やかで、そして……優しかった。
「巧くキヌ子女史を言い含めて、海藤にあまり積極的なアプローチを掛けないようにさせてよ。彼女のやり方を見てる限りはほっときゃいいか、とも思ったんだけどね」
――キミがいるから、忠告しとく。
そう言って向けられて来る視線の先にいるのは自分なのに。自分ではない、遠い誰かを見ている眼差しだった。
「意味不明なんだけど」
告げる言葉が喉に張りつく。酔いの覚めた海藤辰巳は、『ただのおっさん』ではなくなっていた。
遠いどこかを見つめる瞳。どこまでも暗く澱んだ虚無に満ちた色。脱色して作った贋物の金髪が、その暗さを余計に強調している。肩まである長い髪を掻き上げそれが晒されると、余計に彼の心の瀕死な様が見て取れる。
「海藤が籐仁会のシマだったこの一帯を握ろうとしてるのは正しい情報だよ。でも、そんなに慌てなくても大丈夫。あと半年だけ様子をうかがうに留めておけ、ってオーナーに伝えてね、甥っ子クン。理由を訊かれたら俺がそう言ってた、って言うだけでいいからさ」
意味不明っていうのはそっちじゃなくて。
「じゃなくて。っつか、そっちもだけど、何でそれが、俺がここにいることと関係があるんだっつー話」
「よく似てたから……よく知っている子に」
気だけは強くて、寂しい瞳をしてて、どこかぼんやり遠くを見てる。誰のことも信じられなくて、人を信じることが出来ない瞳。
「キヌ子女史が来店の勧誘に来た時、店のメニューと一緒にキミの映像も持って来たんだ。笑っているのに笑っていないキミを見たら、出来るだけ早く会わなくちゃ、とは思ってたんだ」
助け出してやりたかったから。知れば放っておけないから。どうしても、本当の意味で救い出したかったから。
「彼女を本当の意味で救えなかったのを、今は後悔してるから。せめてキミを救うことで自己満足に浸りたいだけ、なのかもね」
そう語りながら、静かに腕を伸ばして来る。決して怯えさせる視線ではないのに、蛇に睨まれた蛙みたいに動けなかった。
(こいつ、何を調べ上げた……?)
彼の手が頭の後ろを包む。睨んだ視線が半ば無理矢理剥がされる。視界は次第に彼以外に捉えられない至近距離になってしまい。素肌の温もりと伝わって来る心臓の音で真っ暗闇にさせられた。
「キミの性癖は、本当に持って生まれたもの? それとも、“あの時”植えつけられた不本意なもの?」
もがくカリヤの力が及ばない。直接肌が触れたことで初めて気づく。身体の鍛え方が、並じゃない。三十路を半ば過ぎた親父の体躯じゃあない。筋肉のしまり方が、一般的なそれとは違い過ぎる。露出させた胸や腹のところどころに刻みつけられた切創痕の隆起が、嫌でもカリヤの頬にその感触を伝えて来る。それも彼の力に抗う原因になった。
「離……せ……っ!」
「覚えておいて。キミは独りなんかじゃない、ってこと。カヲル子はキミを息子みたいに思ってる。まだ二十歳そこそこだろう? まだ決めつけてしまうには若過ぎる。これから出逢う、まだそういう相手に出逢えていないだけ、なんだよ。もっと心の目を開いて生きてごらん」
キミならきっと出来るから。
「キミの親父、とうの昔に死んでいる。だからもうキヌ子女史に脅かされる必要もない」
そのひと言に、抗う力が一気に緩む。それにあわせて辰巳の腕からも力が抜けた。
「あいつ、死んだのか?」
身を剥がして顔を上げると、辰巳の両手が両の頬に触れた。拭われて初めて気づく。同時に羞恥が湧き上がる。自分が泣いていることに気がつかなかった。
「もう、キミは自由だ。カヲル子から聞いてる。自分の店を持ちたいんだろう」
店はテクニックだけでは維持出来ない。土台にあるのは信頼だ、と彼は遠い目をして呟いた。
「これでもいろいろやってたんだよ。サ店の店主をしてたりもして」
懐かしそうな目で天井を見上げる。
「お客がよく言ってくれたんだ。“ここは自分にとって楽園みたいな場所だ”って……」
そういう店を作りな、という声がくぐもった。彼の両手が顔の全部を覆ったのがそうさせた。見てはいけないものを見た気がして、カリヤは視線を彼から逸らした。そっぽを向いたまま問い掛ける。
「んで、その店をどうして捨てて来たんだよ。その店はどうなったんだ?」
それだけ思い入れのある店なのに。その疑問がふと浮かんだ。
「預けて来た。元々、あいつが独りでも生きていけるように、って考えて譲るつもりでやって来ていた店だから」
「それって、さっき言ってた“救えなかった”っつってた子?」
無言が返って来たので、煙草に手を伸ばした。気長に返事を待つつもりで燻らせる。
「カヲル子が言ってたぜ。無関係の知らないヤツの方が、却ってあんたの気休めになるだろう、って。さっきの恋愛理論といい、今の話といい、あんたん中でグダグダ煮詰まってるもん、吐き出したいなら出しちゃえば?」
厨房へ回ってワインセラーからシャブリの白を取り出す。バーカウンターからワイングラスをふたつ取り。辰巳の向かいではなく隣へ腰掛けた。
「借りは作らねえ主義なんだ。あんたの情報で、救われた。だから、オフレコ話くらい聞いてやるよ」
ワイングラスへ注ぐシャブリに視線を据えたまま、彼へあと押しの言葉を紡ぎ出す。何だか妙な感覚だ。誰かに対し、そんな心境になったことなどこれまでなかった。――ただ。
親父で子供で、安定してて不安定で、恐ろしくて優しくて、激しくて穏やかで――そんな掴みどころのないこの変わり者の、心からの笑みを見たい、と思っていた。
咥えていた煙草を、不意に取り上げられる。驚いて視線を上げれば、今度はワインボトルを没収された。
「お……?」
キャンドルに照らされた淡い景色が傾いていく。不意に全身が温かく包まれる。
「ちょっとだけ……人肌が恋しい」
耳許をくすぐるか細い低音と一緒に、ソファの軋む音がカリヤの鼓膜を揺さぶった。
首筋と腰をきつく抱かれ、心臓が思い切り跳ね上がる。
「ソッチの気はないんじゃなかったっけか?」
問いながら意外な答えを期待する自分がいる。それはあり得ないとさっきの寝言で解っているのに。
「……うん。ホントに、言葉どおりの意味ってだけ。あんま人を寄せつけないようにしてるから」
そりゃあそうだろう。寝言にあれだけ本心を晒していれば、迂闊に人なんか寄せつけられない。
思い出したその名に、針で刺されたような痛みを認識させられた。同時に辰巳の歌った古い歌詞のフレーズが頭の中でリフレインする。
――やがて痛みもなくなるから 胸がうずくうちに抱いて
深く感じるなら汚れてもかまわない 悲しみを焼き尽くして――
「キャンドル、消させろ」
言いながらも彼の身体の下からすり抜け身を起こす。水を湛えたキャンドルスタンドの中に浮かんでいるキャンドルを指先で軽く沈めるとともに、漆黒の海が視界一杯に広がった。
少しだけ、いや、かなり勇気が必要だった。それを搾り出す気になったのは、彼が酔った勢いで散々説教を垂れた“誰かの為に自分を全て投げ出せるほどの相手が、誰にでも必ず存在する”という言葉を少しだけ理解出来た気がしたからだ。相手が自分をどう思っているのかは度外視だ、という彼の持論を支持し始めている自分がいた。
「見えなければ――克美だ、って自分を騙せるんじゃねえの?」
――殺られるかも知れない。けど、それならそれでも、まあいいや。
予想どおり、腹に、そして喉元に。カリヤの呼吸を阻止せんと渾身の力で締めつける腕が、背後から瞬時に伸びて呻き声を上げさせた。