THE JUDGE 2
金髪親父が登場した途端、この店は、カリヤが事実上牛耳っていた『Paranoia』ではなくなった。
カヲル子の座るブースまで、ほんの五、六メートルしかない。なのに辿り着くまで数時間は掛かっていた。
「辰巳ーっ、やっぱ生きてたんじゃないの! どこ行ってたのよ、もう!」
「ユエにだけは、言えないなあ。またその爪で思い切り引っ掛かれそう」
「覚えててくれたんだ?」
「勿論」
(マメなヤツ)
そんな調子で群がって来る『元』女達一人一人に答えてなんかいるからだ。
十六年と言えば、残念な姿に変わり果てた女もいるだろうに。曖昧な誤魔化しではなく、本当に当人同士しか知らないエピソードを交えつつ、再会を喜ぶ言葉への謝辞を全員へ返している。カリヤはそんな辰巳に、妙な敗北感を覚えていた。
彼の傍に控える男に気づき、そっとその肩を叩いて尋ねる。
「あの、カヲル子さんをお待たせしているんで、ちょっと声を掛けて来ます」
彼は何故、という顔をして
「あ、先に行っちゃってていいっすよ。この人どうせ当分席になんて着く気ないから」
とあっさり無礼を許された。
「……ども」
首を傾げながら、もう一度カウンターへ戻り、グラスを手に彼女の席へ戻ることにした。
(変わったヤツ)
海藤辰巳は、今までカリヤの周りでは見たこともないタイプの男だった。
この状況は何なんだ――。
「どこが“当分”席に着かないんだっつーの」
「拓巳、まだ拗ねてる」
カヲル子がそう言ってくつくつと上品な笑いを漏らした。いつしかカリヤの視線は辰巳ばかりを追っていて。彼女が笑いながら火のついた煙草をカリヤの口へ放り込むまで、それにさえ気づけないでいた。
「あ。ごめ」
「いいのよ。今日はこの子がいてくれるから」
そう言って彼女の隣に座る青年を指す。海藤辰巳の舎弟と紹介された赤木総司。これもまた仁侠の住人らしからぬ地味な顔立ちの青年で、やたら派手な若作りをした辰巳とのギャップが大き過ぎて不気味だった。
「これじゃどっちがプレイヤーでどっちが客か解らないじゃん」
カヲル子が自由に飲めと言って入れたボトルを手に取り、そんな愚痴を零しながらもロックを二杯こしらえる。その内ひとつを赤木の前へついと無言で差し出した。
「すんません。ちょっと俺が今日下手こいちゃって。大目に見てやって下さい」
赤木はカヲル子とカリヤへ頭をぺこりと下げて、遠慮がちにそれへ口をつけた。
「あの人、隠れ暮らしてる時にバイトでホストしてたらしいんっす。ちょっとは気分転換になるかな、と思ってその話を振ったら」
「あーいうテンションであたしのところへ電話をして来た、って訳」
道理で日頃こんな早い時間から来るはずのない彼女が自分から時間を指定して来る訳だ。デートみたいなものなのだろう。
カヲル子のグラスの水滴を拭う手は休めないままで、再び辰巳の方へ視線を向ける。
「あれで、怒ってるとか落ち込んでるとか、なんですか」
呆れ混じりの声と同時に溜息もつい漏れた。
ホールの中央に当たるメインステージを陣取って、若手のホストに馬をさせて、そのやたらでかい長身を更に高くして歌っている。片手にはマイク、もう一方にはシャンパンのボトルを携え、子供のように辺りへ撒き散らしてはしゃいでいる。
気づけば入れ替わった客の一部も、その輪に加わり騒いでいた。
――いくら綺麗な約束もウソになるなら 口づけで いまわしいカルマをとめて――
(あれ?)
一瞬、スポットライトに照らされて、彼の目許が光った気がした。
(気の所為、か)
「随分古い歌だな。よく家にあったな」
独り言のように呟いた。何だかこの店のテンポには合わない。
「あたしが家から持って来たの。あの人、このアーティストのCDばっかり聴いてるから」
子供なのよ、と彼女が言った時、とても悲しげな笑みを見せた。数少ない気楽な客でもあって本命と言ってもいいカヲル子の、そんな表情を初めて見た。
「カヲル子に掛かれば、男はみんな子供だろ」
実際、待ち合わせたはずの彼女をほったらかしで騒ぐ辰巳を彼女はそのまま好きなように、やりたい放題させている。
聞けば海藤組のみかじめ確認の巡回というのはまったくのデマで、辰巳の帰還とともに銀座から徐々に尾ひれがついてこちらまで伝わって来たものらしい。
「放っておいた方が、どの店にも客が入ってこっちも随分潤うでしょ」
そんな経営者としての彼女の言に、またひとつ勉強させられる。上に立つのを目指す者として、カヲル子のことは尊敬していた。叔母のキヌ子とは正反対の女傑だった。
「ふーん。……しっかし見事な豪遊だな。今どき仁義の稼業ってそんなに儲からないでしょ」
単純に思ったことを口にしただけなのだが。
「滅多なことを口にしない方が身の為よ。海藤を敵に回すと、あんたなんか瞬殺なんだから」
と諌められた。
「たっだいま~ぁ、カヲル子ぉ~、ひっさしぶりぃ~」
それ、さっきも言ってた――という突っ込みは取り合えず飲み込めた。テーブルへ着く前に泥酔するヤツなんて初めて見た。プロ野球の優勝祝賀会のようなシャンパンシャワーもようやく終わり、ずぶ濡れ状態の辰巳へタオルを渡す。
「着替え、お持ちしましょうか。俺のだったら少しきつい程度でどうにか着れるんじゃないかと思いますけど」
「そ~のまえにぃ、ジ・コ・シ・ョ・ウ・かいっ」
何だかこいつ、説教くさい。その癖自分がやってることは、かなりハチャメチャではた迷惑で、カヲル子に抱きつこうとして思い切り張り手を食らっている。
「……拓巳です。よろしくっす」
(どう見ても、ただの若作りのおっさんにしか見えん……)
カヲル子が『瞬殺』の意味を取り違えているとしか思えなった。
闘争心が、一気に萎えた。海藤辰巳、という『元ホスト』は、過去の栄光に縋りついて豪語するだけの、惨めな親父にしか見えなくて。
「へぇ~、拓ちゃんって可哀想な子なんだねえ。まだ、初恋も知らないんだ」
「だーれがんなこと言ったんっすか。愛だの恋だのなんてもんはね、人間のご都合主義だって言ってるだけっすよ。ケーケンから出た結論っす」
「バカだねお前さんは。浅い経験でもう結論出しちゃうのかよ。俺なんかな、俺なんか……」
「……なんっすか」
突然向こうのいきり立つ持論展開が止まり、従業員としての自分を思い出す。逆に言うとそのことをすっかり忘れていた。カヲル子を巡る話から変な方へ話が進むに従い、自分の立場をすっかり忘れ「刈谷悠貴」として喋っていた。
「総ちゃんっ! 拓ちゃんがいじめる!」
「誰がだ!」
芝居じみた大袈裟な仕草で赤木に抱きつく辰巳にがなる。
「まったく。呼び出しておいて、あたしじゃ力不足みたいね」
――は?
「え、ちょ、おいカヲル子?」
おもむろに腰を上げた彼女の手を思わず引いて引きとめた。
「あとの子守り、よろしくね」
時には無関係の人間が救いになるってこともあるのよ――。
「……意味わかんねえんだけど」
「次に来る時は、ちゃんと拓巳を可愛がってあげる。じゃね」
送りの為に立ったカリヤを片手で制して赤木を人差し指でくいと促す。二人は二、三言葉を交わすと、彼が不審の目でこちらを睨んだ。
「辰巳に伝えておいて。総司をひと晩借りるわよ、って。周一郎には了承を得ているから心置きなく遊んでらっしゃい、って」
「って、ちょっと待てコラ」
カリヤの叫びも虚しく、二人は久住に促されるままフリーパスで出て行った。
「……寝てるヤツからどうやってキャッシュを払わせればいいんだよ……」
引き止める足が、なくなっていた。赤木に押しやられてソファに埋もれていた辰巳が、いつの間にかカリヤの膝をその巨体で拘束していた。
客が一人、二人と引けるにつれて、周囲に緊迫が走っていく。
取り合えず控えのソファまで数人で運び、放置している辰巳の所為だ。
海藤周一郎ひいきの息子。海藤組二代目候補。
噂に寄れば、ここ一ヶ月の暴力団同士の抗争は、こいつの帰還が原因らしい。酔っ払いのこいつしか知らないカリヤには、まったく想像がつかないが。
「カリヤ、くれぐれも言葉には気をつけろよ。二代目は現組長より温和だとは言われているが、相対的な温和でしかない。下手に気に入られたのが不運だったな」
古参のバーテン、重吾によると、辰巳は女好きという意味以外でも有名らしい。かつては警視庁の敏腕刑事をてこずらせた唯一の男と同業からかなり恐れられているとのことだった。
「高木って刑事、覚えてるか。籐仁会が解体された時、真っ先にここへ来た刑事」
「あぁ、何か“踊る”の室井みたいなおっさんだろ? 海藤組がシマの件で回って来たら、すぐに連絡しろとか言ってたデカ」
「お前、あっちからのマークにも気をつけろよ。サツに目をつけられると、何かとこの店もやばいから」
じゃ、そういうことで、とカウンターを立ち去る重吾を恨めしげな目で見送ってしまう。
「みんな、薄情過ぎる」
カリヤだけが、オーナーに店泊を命じられていた。
控えのソファでは、あの身長なら窮屈だろう。特注ベッドでないとタッパの合わないカリヤだからこそ気づいた長身故の小さな悩み。
ホールのソファを掻き集め、何とか簡易ベッドをこしらえた。
「おい、おっさん、一旦起きろよ。俺一人であんたを運べない」
そう言って頭をど突く。どうせすぐに起きやしないだろうと思ったから。
「……ねむい」
「わぁってるよ。おっさん、そんな丸まった恰好じゃ腰砕けるんじゃねえのか?」
「……」
「おい」
「……」
「おっさん、返事しろよ」
「……」
「お、き、ろっ!」
「……」
(この野郎……!)
「おら! バカ辰! 人の厚意を無にすんじゃねーよ! 起き――ろぉ?!」
背を向けていた辰巳が不意にこちらへ向き直る。咄嗟に揺すっていた手を腕ごと掴まれ。
「ん……はひふんにゃほにゃっ!」
唇を封じられて、自分でも何を言っているのか解らない。実物を見たら、例の「ソッチ系」の噂がガセだというのは直感で解ったつもりでいたのに。勘が外れたのか?
ついと熱が口許から離れると、今度は耳に吐息が掛かる。
「もうちょっとだけ……寝させて、克美」
(克美?)
辰巳に頭を抱えられたまま、中腰の姿勢が酷くあちこちに痛みを走らせた。でも、一箇所だけ違う部分まで妙にツキリと痛んでいる。
克美。聞いているこっちが切なくなるほど、甘ったるく響くバリトンの声。
何故か無理に辰巳の腕から逃れるのがためらわれた。
夢の中で、大事な誰かと逢っているのかも知れない。考えてみれば十六年も行方知れずだった男がいきなり姿を現したのも、それなりの事情があってのこと、なのだろう。
――時には無関係の人間が救いになるってこともあるのよ――。
カリヤはカヲル子の言った言葉の意味を、辰巳が目覚めるまで考えていた。