THE JUDGE 1
新宿歌舞伎町二町目界隈。その夜はほんの少しばかり不穏な空気が立ち込めていた。
――海藤組の“色好きのぼんぼん”が生きて帰って来たらしい――。
まことしやかに囁かれるその噂が、かつてその組と敵対していた籐仁会のシマだったここの空気を濁していた。
「あ? 誰だよ、その海藤何とかいうぼんぼん」
っていうか、ぼんぼんってのは何だ。
まだ特殊な日本語――いわゆるスラングや方言など――を把握し切れていないカリヤは、誠四郎に問い掛けた。このところどうにもぎこちない空気が二人の間に流れている。口を開けば粘着発言ばかりの誠四郎に、それ以外の言葉を吐かせるという意味でも都合のいい話題ではあった。
「ああ、そっか。カリヤが知らないのも無理ないよね。彼、十六年も前に失踪してて、一部では家の元・元締めの組織の誰かに殺された、って噂もあったんだけど」
「ガセ?」
「っていうかさ。どうやらその海藤辰巳ってのが家の市原さんを殺ってすり替わったらしいんだよ」
――とは言え、その籐仁会ももう解体されて、家はもっぱらフリーで営業出来てるけどね。
「は……ぁ~ん」
どこも汚い世界だな、と呟く声が彼には不機嫌に聞こえたらしい。
「僕、何か気に障ること言った?」
怯えるような表情で覗き込む誠四郎に、またうんざりという意味合いをこめた溜息が出た。
「いちいち顔色見るんじゃねえっつの。別にお前は俺のモノじゃないし、俺だってお前の」
「もんじゃない、だろ。前は言わなかったのにね、そういうこと」
拗ねた態度で更衣室を立ち去る誠四郎の背中を、醒めた瞳で見送った。
「こりゃそろそろ潮時だな」
束縛する気はないし、束縛される気も毛頭ない。
愛だの恋だの、よくそんなものを信じられるもんだと思う。形のないそんなものは、人間のご都合主義から生まれたまやかしだ。ただヤりたいかヤりたくないか、飽きたか飽きてないか、ってだけの違いだろう、と。
「独占欲と愛情を履き違えてんじゃねえってーの」
無人の更衣室に、またひとつ溜息が零れ落ちた。
着替えが済んで控えへ向かおうとした時、支配人の榊に呼び止められた。
「オーナーが呼んでいる」
その名を聞いた途端、眉間に深い皺が寄る。
「あ? もう店開くだろが。わがまま言ってんじゃねーって伝えとけよ」
「直接自分で言え。甥っ子なら言えるだろう」
――ちっ。
オーナー・刈谷キヌ子の犬は、容赦なくカリヤをオーナーの私室へ引きずっていった。
扉を開ければ相変わらずの身にまとうものだけが美麗の叔母が、恥ずかしげもなく姿を晒す。
「あんたにちょっと相談があるのよ」
メタボばばあの綽名に相応しいその巨体が、視線でカリヤをソファへと促した。あわせるように彼女も向かいのソファへ腰を下ろすと、異様なまでにソファの軋む音が部屋いっぱいに響き渡った。
「相談じゃなくて命令でしょ」
「今すぐ、あんたをアメリカの父親のところへ送り返してあげましょうか?」
「……さっさと用件を言えよ」
腹立たしいことこの上ない。まだ、自分に力が足りない。にやりと皮肉な笑みを浮かべる醜悪な叔母から目を背けた。
「海藤組が、みかじめの確認にこの一帯を回るらしいの。家には女を置いてないから、相当当たりに不安があるのよね」
要するに、出来るだけ機嫌を取って少しでも出費を抑えて欲しい、と、そういうことらしい。
「あんた俺のキャラ解ってそんなこと言ってんのか?」
機嫌を取らせることはあっても、人の機嫌など取ったこともない。
「親父の方が来るなら問題なかったのよ。あたしが出ればいいんだから」
ぼんぼんの方が来るのよ。
「ぼんぼんって、何だ?」
また出たその言葉に、さすがにイラっと来て訊いた。
「ああ……そうね。蔑視めいた表現だしね。要は二代目って意味よ。いいとこのお坊ちゃま」
いいとこ、暴力団のどこが。カリヤは心の中でだけ、そう毒づいて鼻で笑った。
「で。何でぼんぼんだと俺でもいいっつー話になるんだよ」
一応相手の情報を得ておかないと、相手が相手だ、下手をこいて後々面倒ごとに巻き込まれたら命が幾つあっても足りやしない。そんな冷静な判断のもとでの問い掛けだったつもりだが。
「それがさ。まだ籐仁会の元幹部だった男とつき合ってる人から聞いたんだけど」
って、何でそんなにキラキラ嬉しそうに喋ってんだよこのばばあ。
不快に満ちた顔をあからさまに出してやろうかと思った瞬間、次の言葉がカリヤの不快感を好奇心とすり替えた。
「海藤辰巳が家の当時元締めだった籐仁会の市原雄三と入れ替わってた、って話。何でも海藤辰巳がノンケだった市原を落としたから、殺って彼と入れ替われたって話らしいのよ。つまり、ソッチ系。あんたの得意分野でしょ」
「ふーん……。でも、その殺られたって男、ノンケだったんだろ」
「それがね、市原さんも潜伏していた当時、ホストクラブに身を潜めていたんだけど、そこのオーナーが、ソッチの人だった上に、市原さんはその店のナンバーワン。地元では結構噂になってたらしいわ」
「ちなみにそのオーナーは?」
「バイ」
「海藤辰巳は?」
「そこは不明。でもある瞬間から突然女遊びを止めたって話らしいけど」
「乗った」
手渡された海藤辰巳の写真を見ながら、取り敢えずキヌ子の話に乗ってやった。
なかなか面白い話じゃないか。ノンケを落として受にするヤツなんて。そんなヤツに受の役をさせてみれば、さぞかし胸のすく思いを味わえるだろう。
殺しなんか怖くない。その時はそれが自分の持って生まれたさだめだと割り切ればいい。
「ある意味楽になれる訳だしな、死んじまえば」
久し振りにネガティブな思考がカリヤの中で燻った。
客層が何だかいつもと違う。そう感じたのはカリヤだけではなかったようだ。
「初回が多くて大変ですよ」
内勤の久住がくたびれた顔ですれ違いざまにぼやいていった。
カリヤの指名第一号の太客、姫木カヲル子に耳打ちをする。
(なあ、今日って何かおかしくね?)
遠回しにカヲル子自身に対してもそうだという意味で囁いた。
姫木カヲル子。年齢恐らく五十代前半。かなりの厚化粧と若作りで四十代でも通用しそうだが。銀座の高級クラブ『姫』のママであり、この界隈出身の古参ホステスでもある。普段の彼女なら異変を嗅ぎ分ける勘を持っているが、今夜の彼女の表情を見るとその期待も半減させた方がよさそうな気がして来た。
「きっと、辰巳目当ての客なのよ」
言われて周囲を見渡すと、なるほど、“かつて”現役でナンバーワンと言われていたと思わせる貫禄を持つ元ホステスであるオーナークラスやママクラスの熟女が多い。若い女が多いこの店にしては、それは珍しいことだった。
「あ~、何かどさ回りに来るようなこと言ってたな」
とうそぶいてみる。
「あんまり無茶言わない上客だったのよね、彼。この間チエコとランチをしたんだけど、その時偶然辰巳に会ったって話を聞いたの。十六年前とほとんど変わってなかった、ってあんまり自慢するから、私も興味本位程度だけれど見てみたい、と思って」
気を遣われたのか、カヲル子が最後にフォローのひと言を入れた。言い訳、とも受け取れるが。
「何だ、カヲル子の目当ては俺じゃなくてそいつかよ」
何だか面白くなくなって来た。何で家の店でホストでもない一介の客(なんて直接言ったら殺されそうだが)に自分の指名を取られた気分にされなきゃならないんだ。
「また、拓巳はすぐそうやって闘争心燃やす。ほら、ドン・ペリのロゼを頼んであげるから機嫌を直しなさいよ」
「らっき。あざーっす」
単純な振りをして笑顔を作る。うっかり素が出てしまうところだった。
久住を見ると忙しそうだ。初回が多くていちいち説明に回っている。ほかの面子の様子をみれば、自分でカウンターへ行ってボトルを調達しているではないか。
「榊のヤツ、何考えてんだ」
オンリーにしたらまずいだろうが。
「ごめん。ちょっと支配人に文句言って来る。それと、ドン・ペリな」
「どうぞ。ああでも」
少しだけ彼女に呼び止められた。
「今日はこの辺のどのクラブも似たような感じよ。あんまり支配人を苛めないで」
諦めに似た困った微笑を浮かべる彼女に、「ほかの客も了承済みだ」と遠回しに諭された。席を立ちがてらぼそりと尋ねる。
「そんなすごいヤツなの、海藤組の二代目って」
会えば解るわよ、とあのカヲル子に言わせることも、妙にカリヤの癪に障っていた。
バーテンの手を無理に止めさせ、グラスとシャンパンを用意させる。
「わりぃな。人手がどこも足りないんだとさ、今夜はどこも」
シェイカーの振り過ぎで腕が痛いとぼやくバーテン達に、そんな軽い詫びを入れてカウンターからホールへ踵を返した。
一瞬静まり返った空間と、背後やや上方から響いた声と、目指すカヲル子の席で彼女が手を振るのと、そして。
「のぁ!」
手にしたグラスのひとつが後ろから押されたことでパリンと砕け落ちるのまでが同時に起きた。
「やほー! カヲル子! お久!」
「てっめ、どこ見て――」
言い掛けたカリヤの文句は、周囲の黄色い声に掻き消された。
「来たー! 辰巳!」
客から発せられたその声で一応客だと解ったのだから、まずは一歩退き道を開ける。下げた頭を少し傾け、『海藤辰巳』をうかがった。
――なんだ、こいつ。
覚られないようにとかなり慎重にしたはずなのに、思い切り視線が合ってしまった。
「ごめんね。だいじょぶ?」
「いえ、こちらこそ、失礼しました」
そう言って頭を上げても、まだ彼の目線に及ばなかった。こんなことは、初めてだ。余裕で一九〇は越えている。派手でヴィヴィットなパープルのスーツは、極道というよりホストを思わせるいでたちで。そして、センスがあまり、ない。
(パツキンにそれは似合わねえだろ)
だがその男には、誰もにそれを許させてしまう“何か”があった。
「っていうか、ちょっと待て。今、カヲル子って言いました?」
「うん。あのさ、元ホストとして一応ゴチューコク。お客に“待て”はよろしくないよねえ」
「……失礼、いたしました」
軟派な態度で笑って諭す。その癖目が全然笑っていない。ホンモノとやらを見るのは初めてだ。こっちの世界の上の方っていうのは、こういうヤツばかりなのか。
「んで、俺、カヲル子の連れなんだけど。座っててもいい?」
(何ぃ?!)
思わず彼女の方を振り返る。彼女は何の悪びれもなく、ひらひらと美麗な指先をくねらせながら、カリヤと辰巳の両方に手を振っていた。