↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

【王域の軍師】シリーズ

王女様の極秘捜索作戦 〜犯人は黒くて小さいですの〜

掲載日:2026/10/15

 王城の陽当たりのよい小部屋で、日御子はテーブルに両肘をつき、目の前の小箱を眺めていた。


 手のひらに載るほどの、白木の箱だった。蓋には淡い桃色の飾り紐が十字に掛けられ、蝶結びの端が垂れている。その結び目を作るのに三度失敗したことは、誰にも内緒だった。


 中には、料理長に手伝ってもらって焼いた焼き菓子が入っている。生地を混ぜたのも、型で抜いたのも日御子だ。窯にだけは近付かせてもらえなかったが、焼き上がった菓子を一枚ずつ箱へ並べたのは、自分の手だった。


 今日は久しぶりに、父と母と三人でお茶をする日だった。


 父は王としての務めに追われ、朝から晩まで誰かと話している。同じ城に住んでいても、ゆっくり顔を合わせられる日は多くない。だから約束を聞いたその日から、日御子はずっと指を折って今日を待っていた。


 菓子のことは、まだ両親に話していない。お茶の席で蓋を開けるまで、絶対に秘密だ。


「お父様、お母様、喜んでくださるかしら……」


 二人が目を丸くする顔を思い浮かべるだけで、椅子から下ろした足が勝手に揺れてしまう。


 ふと足元を見ると、黒猫のノワが行儀よく座り、テーブルの上をじっと見上げていた。


 母がくれた、はじめての友達。日御子の一番の仲良しだが、呼んでも来ない時は来ないし、来てほしくない時に限って膝へ乗ってくる。


「ノワもお腹が空きましたの? でも、これはお父様とお母様の分ですのよ」


 ノワは返事をせず、尻尾の先だけをぱたりと動かした。


 日御子は満足して頷き、棚の方へ向き直った。父の茶器、母の茶器、自分の茶器。取っ手の向きを揃えようと、真剣に一つずつ並べていく。


 背後で、とん、と軽い音がした。


 続けて、ごとん。


 振り返った時には、小箱はもうテーブルの上になかった。床に落ちた箱の蓋は紐で縛られたままで、その紐の結び目を、ノワがしっかりと咥えている。


「……ノワ?」


 目が合った。


 次の瞬間、ノワは身を翻した。紐に吊られた小箱を口元にぶら下げたまま、半開きの扉の隙間から廊下へ飛び出していく。


「待ちなさいですの!」


 日御子は裾を摘まんで後を追った。


 廊下の先で、黒い尻尾が揺れている。走る脚に箱が当たるたび、かたん、かたんと胸に悪い音が響いた。ノワはその音にも構わず廊下の角を曲がり、日御子が角へ辿り着いた時には、もうどこにも黒い姿はなかった。


「……《王域》」


 日御子の双眸が淡く光り、緑色の光の線が周囲を走り抜けていく。壁、柱、扉、階段。目に見えぬ範囲まで、光が触れた端から王城が組み上がり、立体地図となって頭の中へ広がった。


 《王域(キングフィールド)》――それが日御子の異能だった。


 廊下を行き交う人影がいくつも浮かび上がる。その中に一つだけ、低い位置を素早く進む小さな反応があった。


「見つけましたの!」


 二つ先の角を左へ。階段を下りて、さらに右へ。居場所は手に取るように分かる。


 分かるのに、追い付けない。


 日御子が階段を一段ずつ下りている間に、ノワは手すりの脇をするりと抜けていく。日御子が角を一つ曲がる間に、ノワは二つ先の角を曲がっている。息が上がり、頬がどんどん熱くなっていった。


 日御子は足を止め、肩で息をしながら考えた。


 足では敵わない。向こうの方がずっと速い。ならば、こちらは数で勝てばいい。


「こうなったら、捜索隊を編成しますの!」


 ちょうど廊下の向こうから、見回りの近衛兵が歩いてくるところだった。


「そこのあなた!」


「は、はい! 王女殿下?」


「大変ですの! とても大切なものがなくなってしまいました!」


 若い近衛兵の顔から、さっと血の気が引いた。


「何がなくなったのですか!?」


 日御子は口を開きかけ、慌てて閉じた。


 ここで菓子だと言えば、いつか父や母の耳に入ってしまうかもしれない。蓋を開けるまで秘密にすると、決めたのだ。


「それは秘密ですの!」


「……秘密?」


「ですが、必ず取り戻さなければならない、とても大切なものなんですの!」


 日御子は真っ直ぐに相手を見上げた。近衛兵はしばらく言葉を失っていたが、やがて表情を引き締め、背筋を伸ばした。


「承知いたしました。殿下がそこまで仰るのであれば」


 近くの詰所へ駆け込むと、日御子は壁の見取り図を外してもらい、机いっぱいに広げた。休憩中の近衛兵が二人、何事かと腰を浮かせる。


 《王域》の中の小さな反応と、紙の上の廊下や階段を照らし合わせる。


「目標は現在、東回廊を移動中ですの!」


「も、目標……?」


 近衛兵たちが顔を見合わせたが、日御子の指はもう見取り図の上を走っていた。


「東回廊の先は三つに分かれていますの。書庫への廊下と中庭への階段を、お一人ずつ塞いでください。目標は黒くて小さくて、とても素早いですの。追わずに、道に立っているだけで構いません。そうすれば、目標は残った渡り廊下へ来ますの」


 近衛兵たちは戸惑いを残したまま敬礼し、それぞれの持ち場へ走っていった。日御子は見取り図を抱え、最初の近衛兵と共に渡り廊下の柱の陰へ身を潜める。


 《王域》の中で、小さな反応が分かれ道に差し掛かった。書庫側に立つ人影の手前で向きを変え、階段の前の人影も避けて、真っ直ぐこちらへ近付いてくる。


 読みどおりだった。


 柱の向こうから、黒い頭がひょこりと覗く。紐を咥え、小箱をぶら下げたノワだ。


「そこですの!」


 日御子は両腕を広げて飛び出した。


 ノワは速度を緩めなかった。日御子の腕が閉じるより早く、低く身を沈め、その足の間をするりと抜けていく。


「あっ」


 振り向きざまに追おうとした足が、自分の裾を踏んだ。身体が大きくつんのめり、壁に手をついてどうにか踏みとどまる。


「な、なぜですの……!」


 作戦は間違っていなかった。ノワは、日御子が読んだとおりの場所に、読んだとおりの時に現れたのだ。足りなかったのは、伸ばした腕の速さの方だった。


 壁についた手のひらが、じんじんする。痛いのと悔しいのとで、鼻の奥がつんとした。目の前の廊下が、ぐにゃりと揺れる。


 日御子は、ぎゅっと唇を噛んだ。


(泣いたら、だめですの)


 泣いたら、ノワに負けたことになってしまう。日御子は袖でごしごしと目をこすり、小さな手を握りしめた。


 通路を塞いでいた近衛兵の一人が駆け寄ってきた。日御子に怪我がないことを確かめると、廊下の奥へ向かって声を張り上げた。


「応援を頼む! 王女殿下の大切なものがなくなった!」


 通りかかった別の近衛兵が、血相を変えて振り返る。


「何が盗まれた!?」


「分からん! 極秘らしい!」


「極秘だと!?」


「犯人は黒くて小さいと聞いた!」


「黒ずくめの侵入者か!?」


 新たな近衛兵は顔色を変えて駆け出し、その叫び声が廊下の角の向こうへ遠ざかっていった。


 日御子はその声を聞きながら、再び見取り図へ視線を落とした。


 黒くて小さいのは、確かにそのとおりだ。侵入者という言い方は少し違う気もしたが、箱を持っていかれたのだから、盗まれたと言えなくもない。それよりも今は、目標の逃げ道を考える方が先だった。


 《王域》の中で、人影が次々と動き出していく。いくつもの人影が城の出入口へ集まり、そこから動かなくなった。詰所の前の廊下では、侍女たちが空いた部屋を一つずつ覗き込み、寝台の下や窓掛けの裏を確かめている。しばらくすると、前掛け姿の料理長までが、近衛兵に呼ばれて息を切らせながら駆けてきた。


(皆さん、とても協力的ですの)


 日御子は小さく頷き、近衛兵たちへ次々と指示を飛ばした。


「目標は階段を上がって、西回廊へ向かいますの。三番目の扉の前でお待ちください」


 三番目の扉の前では、噂を聞いて駆け付けた近衛兵が槍を構えて待ち受けていた。日御子も廊下の端から、その背中越しに様子を窺う。


 言葉どおり、ノワは三番目の扉の前に現れた。


 小さな黒猫が、紐の先に小箱をぶら下げて、とことこと近衛兵の足元へ歩いてくる。侵入者を迎え撃つつもりで低く構えられていた槍の穂先が、ゆっくりと下がっていった。


「……猫?」


 近衛兵は、足元の黒猫と日御子を何度も見比べた。


「確かに、黒くて小さいですが……あの、殿下。あれは、その……猫では……」


「目標ですの!」


「は、はっ! 目標であります!」


 近衛兵は慌てて槍を壁に立て掛け、腰を落として両手を伸ばした。ノワはその腕の下をするりとくぐり抜け、来た道とは反対の方へ駆けていった。


「次は中庭ですの。四方の出口を塞いで、輪を狭めてください」


 四人の近衛兵が、じりじりと輪を縮める。だがノワは、その間にできた僅かな隙間を見逃さなかった。


 その次は、壁の飾り棚の上だった。さらにその次は、窓の上の梁だった。ノワは近衛兵たちが手を伸ばしても届かない高さで悠々と身体を丸め、下で慌てる人間たちを見下ろしている。


 近衛兵たちは梁を見上げたまま、口々に感嘆の声を漏らした。


「殿下の仰った場所に、毎回きちんと現れる……」


「まるで、上から城をご覧になっているようだ」


 褒められても、日御子は少しも嬉しくなかった。予測は何度も当たる。それなのに、捕まらない。


 ノワは大きく伸びを一つすると、梁から飛び降りて別の廊下へ消えていった。


◇


 捜索を始めてから、かなりの時が過ぎていた。


 詰所へ戻った日御子は、抱えていた見取り図を机に広げ直した。その上には、炭筆で書き込んだ線が何本も絡み合っている。東回廊、西回廊、中庭、飾り棚、梁。全て、ノワが逃げた道筋だった。


 《王域》を使えば、居場所は分かる。逃げる先も、ある程度は読める。それなのに、毎回あと一歩のところで逃げられてしまう。


 線を見つめるうちに、ふと気付いた。


 ノワが駆け出すのは、いつも誰かが手を伸ばした時だった。誰も追わずにいる間は、日の当たる窓辺や静かな廊下で、のんびりと座り込んでいる。


 追いかけるから、逃げるのではないか。


 それならば、ノワの方から近付いてくるようにすればいい。


 日御子は顔を上げた。


「料理長! お魚を用意してほしいですの!」


 詰所の入口で汗を拭っていた料理長が、目を瞬かせた。


「魚、でございますか? 殿下の宝をお捜しなのでは……」


「お魚が必要なんですの!」


 料理長は首を傾げながらも厨房へ戻り、やがて小ぶりの魚を一匹、皿に載せて運んできた。


 日御子が選んだのは、南側の静かな廊下だった。午後の陽射しが床いっぱいに差し込み、人通りもほとんどない。ノワが好んで昼寝をしそうな場所だ。


 陽だまりの真ん中に魚の皿を置き、近衛兵たちを柱の陰や窓掛けの裏へ隠れさせる。日御子自身も、曲がり角の壁に身を寄せた。


 《王域》の中で、小さな反応がこちらへ向かってくる。


 ゆっくりと、廊下の向こうから黒い姿が現れた。紐を咥え、小箱をぶら下げたまま、ノワは陽だまりへ歩み出る。


 皿の前で立ち止まり、魚へ鼻先を寄せた。ひくひくと匂いを嗅ぐ。


 日御子は息を止め、壁の端からその様子を見守った。


 ノワは口元の紐を放さないまま、首を傾けると、器用に魚まで口の中へ収めた。


「今ですの!」


 号令と同時に、近衛兵たちが一斉に飛び出した。


 ノワの耳がぴんと立つ。黒い身体がくるりと翻り、誰もいない方へ――日御子が予想もしていなかった方角へ、一直線に駆け出していった。


 《王域》の中で、小さな反応がまっすぐ廊下を進んでいく。その先にある部屋に気付いた瞬間、日御子は青ざめた。


「ああっ! そちらは駄目ですの!」


 父の執務室だった。


 ノワが箱ごと執務室へ飛び込めば、父と母の目の前だ。中を覗かれたら、何もかも台無しになってしまう。その前に、何としても取り返さなければ。日御子は裾を掴み、近衛兵たちと一緒に廊下を駆けた。


 執務室の扉は、風を通すためか少しだけ開いていた。日御子が扉に手を掛けたのと、その隙間へ黒い影が滑り込んだのは、ほとんど同時だった。


「……ノワ?」


 部屋の中から、父の声がした。


 大きな机の向こうで、書類から顔を上げた父が目を瞬かせている。その隣には、母が椅子に掛けていた。ノワは二人の前を素通りし、部屋の隅の書棚の陰へ潜り込んでいく。


 日御子は扉の陰で足を止めた。


 箱は、もう見られてしまった。けれど、中身さえ知られなければ、まだ間に合う。ノワを迎えに来ただけの顔をして、箱ごとそっと連れて帰ればいい。


 日御子が息を整え、何でもない顔を作ろうとした時だった。追い付いてきた近衛兵たちが、勢いよく扉を押し開けた。


「陛下! そちらに犯人が!」


 父は、扉の前で固まっている娘と、その後ろに並ぶ近衛兵たちを見比べた。


「……犯人?」


 近衛兵たちが慌てて膝をつき、口々にこれまでのことを報告し始める。殿下が捜索隊を編成されたこと。城中の出入口を固めたこと。殿下の采配が実に見事であったこと。


「王女殿下の大切なものが盗まれまして!」


「何が盗まれたのだ?」


「それが、極秘とのことで……!」


 父は困ったように眉を下げ、日御子へ目を向けた。


「日御子。一体何を探しているのだ?」


 日御子はぎゅっと口を結んだ。父と母の前でだけは、絶対に言えない。


「それは秘密ですの!」


 父の隣で、母が部屋の隅へ目を向けた。書棚の陰では、ノワが床に箱を置き、前足で魚を押さえて齧っている。


「あらあら。ノワったら」


 母はいつもどおりの穏やかな声で、部屋の隅へ呼びかけた。


「ノワ。こちらへいらっしゃい」


 ノワの動きが、ぴたりと止まった。


「にゃ」


 魚から口を離すと、ノワは箱の紐を咥え直し、とことこと母の足元へ歩み寄った。城中を逃げ回っていた時とは別の猫のように、背筋を伸ばしてちょこんと座る。


 母は優しく微笑んだ。


「それは日御子の大切なものですよ。返してあげましょうね」


「にゃあ」


 ノワは咥えていた紐をあっさりと放した。小箱がことりと、母の足元に置かれる。


 日御子は、その場に立ち尽くしたまま動けなくなった。


 背後の近衛兵たちからも、物音一つしない。膝をついたまま、誰もが母の足元の小箱を見つめている。父も書類を手にしたまま、目を丸くして黒猫を見下ろしていた。


 《王域》を使った。見取り図に線を引いた。近衛兵を何人も配置し、輪を作り、お魚まで用意した。それでも取り戻せなかったものが、母のたった一言で、目の前に戻ってきた。


「……お母様?」


「はい?」


「どうしてノワは、お母様の言うことだけ聞くんですの!?」


 母は不思議そうに首を傾げた。


「さあ? どうしてでしょうね」


 日御子は言葉を失った。


 書棚の陰に残してきた魚には、ノワはもう見向きもしない。母の足元で、満足そうに尻尾を揺らしている。


「……私の作戦は、何だったんですの?」


 呟いた途端、唇がふるふると震え出した。


 あんなに走ったのに。あんなに考えたのに。お母様は、呼んだだけだった。


 鼻の奥がつんとして、今度はもう止められなかった。


「う……うぅ……ずるいですの……っ」


 大粒の涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちる。拭っても拭っても追い付かない。日御子は顔をくしゃくしゃにして、声を上げて泣き出した。


「私だって……いっぱい、作戦、立てましたのにぃ……っ」


 机の向こうで、父の口元がぴくりと動いた。けれど父は、こほんと小さく咳払いをしただけで、何も言わずに娘を見守っていた。


 母は小箱を拾い上げると、日御子の前に屈み込み、ハンカチでそっと頬を拭ってくれた。


「あらあら。日御子ったら」


 それから、小箱を日御子の前へ差し出した。


「はい。大切なものが戻ってきましたよ」


 日御子はしゃくり上げながら両手で箱を受け取り、ぎゅっと胸へ抱いた。紐の結び目は少し湿っていたが、蝶結びはまだ形を保っている。


 日御子の涙が少し落ち着いたところで、父が尋ねた。


「それで、結局それは何だったのだ?」


 本当は、お茶の席で驚かせるつもりだった。けれど、ここまで来てしまったら、もう隠しようがない。


 日御子はまだ鼻をすすりながら、少しもじもじと箱を両親の方へ差し出した。


「今日、お父様とお母様に食べていただこうと思って……」


 飾り紐を解き、蓋を開ける。


 中には、少し片寄りながらも一枚も欠けずに、日御子の焼いた菓子が並んでいた。


 背後の近衛兵たちが、揃って顔を見合わせた。


「……菓子?」


 誰かが、呆然と呟いた。


「はい! 私が作りましたの!」


 日御子は胸を張った。


 父は箱の中の菓子を見つめ、それから膝をついたままの近衛兵たちへ目を向けた。そして、とうとう堪えきれなくなったように、執務室の窓が震えるほど盛大に笑い出した。


「はっはっは! なるほど! この菓子のために城中を動かしたのか!」


 日御子は不思議そうに首を傾げた。


「だって、とても大切なものですの!」


 母が、柔らかく目を細める。


「ええ。とても大切なものですね」


 父は笑いを収めると、もう一度箱の中を覗き込んだ。不揃いな菓子を一枚ずつ確かめるように眺め、その目元がふっと和らぐ。大きな手が伸びてきて、日御子の頭をくしゃりと撫でた。


 それから父は、少しだけ声の調子を改めた。


「だが、次からはもう少し周りのことも考えて行動しなさい」


 日御子は振り返り、膝をついたままの近衛兵たちを見た。皆、汗だくで、袖に埃をつけたままの者もいる。


「……はいですの」


 日御子は近衛兵たちの方へ向き直り、深く頭を下げた。


「皆さん、お仕事の途中だったのに、ごめんなさいですの。手伝ってくださって、ありがとうございました」


 近衛兵たちは慌てて姿勢を正し、揃って頭を下げ返した。


「とんでもございません、殿下」


 父が、ふむ、と顎に手を当てる。


「それにしても、お前の指揮は見事だったそうだな」


 日御子はぱっと顔を上げた。


「はい! 作戦は完璧でしたの!」


「だが、母上には敵わなかったようだな」


 日御子は、母の足元でおとなしく座っているノワを見つめた。それから拳を握り、真剣な顔で宣言した。


「私、お母様の指揮能力を研究しますの!」


 父が再び吹き出した。母は困ったように微笑み、ノワは満足そうに喉を鳴らしていた。


 近衛兵たちが退出していくと、執務室にようやく静けさが戻った。


 父は机の上の書類を揃え、ぱたんと閉じた。


「さて。約束のお茶にしようか」


「はいですの!」


 父に続いて、母も窓辺の卓へ席を移す。ほどなくして侍女たちが茶器を運び込み、湯気の立つ茶が三つの器に注がれた。


 日御子の焼いた菓子は、大きさも形も少しずつ違っていた。丸いはずのものは楕円になり、花の形のものは花びらの大きさがまちまちだった。


 父は一枚を口へ運ぶと、しばらく黙って噛みしめた。


「うまい」


「本当ですの!?」


「ああ。本当だ」


 母も一枚をゆっくりと味わい、微笑んだ。


「とても美味しいですよ、日御子」


 日御子は嬉しくて、椅子の上でじっとしていられなかった。両手で頬を押さえても、口元がどうしても緩んでしまう。


 母の膝の上では、いつの間にかノワが丸くなっていた。母の指が背中を撫でるたび、黒い尻尾がゆったりと揺れる。あれほど自由気ままに城中を駆け回っていたのが嘘のように、ノワは母の前ではすっかりおとなしかった。


 日御子はその姿を、不思議そうにじっと眺めた。


(お母様には、まだまだ学ぶことがありそうですの……)


 ふと顔を上げると、父と母が顔を見合わせ、揃って日御子へ微笑みかけていた。


 窓の外には、穏やかな午後の陽射しが満ちている。


 家族のお茶会は、いつもより少しだけ賑やかだった。



最後までお読みいただき、ありがとうございます!


本作は、長編ファンタジー『王域の軍師』の前日譚です。


幼い日御子と黒猫ノワの、ちょっとした騒動を描きました。


本編では、成長した日御子が自らの正義と向き合い、国の命運を懸けた戦いに身を投じていきます。


王女様と黒猫のその後が気になった方は、ぜひ本編もお楽しみください。


▶ 『王域の軍師』第一話はこちら

王域の軍師 ー世界はまだ、私に嘘をついているー

https://ncode.syosetu.com/n1364ml/

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。