第17話 目覚めると、推しの天蓋ベッドでした
人生には、目覚めた瞬間に『あ、これ私の人生(主に貞操とモブとしての尊厳的な意味で)終わったな』と天を仰ぐしかない朝がある。
たとえば。
深夜に限界オタクとしての使命感から決死の夜逃げを実行し、盛大に失敗して。
空から降臨してきた最推しに、お姫様抱っこで強制回収されて。
「一生、俺の腕の中から逃がしません」と、絶対零度の本気トーンで宣告されて。
そのまま鍵つきの豪華な主寝室へ収容された、その翌朝とか。
そして、重い目を開けたら。
「……は?」
私は、たぶん前世から数えても一番間の抜けた声を出した。
やわらかい。
あまりにもやわらかい。
身体の下にある感触が、まずおかしい。どう考えても安物のメイド用ベッドではない。ふわりと沈み込み、でも変に埋もれず、体温だけをきれいに受け止める極上の寝具の感触。
見上げた先には、白を基調にした最高級の薄布と繊細な魔法刺繍が施された豪奢な天蓋。
ああ、うん。
知ってる。
知ってますとも。
ここ、レオン様の私室の、レオン様ご本人の、特注天蓋つきベッドですよね?
私は全身を石像のように硬直させたまま、ぎぎぎ……とゆっくり視線を下へ落とした。
近い。
ものすごく、オタクが致死量で即死するレベルで近い位置に、光を弾く白銀の髪があった。
さらにその向こう。
長い銀糸の睫毛。芸術品のように整いすぎた鼻梁。少しだけ寝起きの熱を帯びた、端正で色気のある唇。
つまり何かと言うと。
私、今、最推しの腕の中にすっぽりと収納されている。
「……………………っ、顔が良すぎる……」
思わず本音が漏れた。
無理である。
朝一番にこれは無理だ。
推しの寝顔が至近距離(鼻先5センチ)で、しかもホールドつきとか、限界オタクに対する供給量としては完全に法定外である。心臓が耐えられる規格じゃない。
しかもこの圧倒的な安定感は何?
私の腰へ回された腕、がっちりホールドしすぎでは?
寝返りの偶然とかではなく、明らかに“逃がさない(物理)”の強固なヤンデレ的意志がこもっている。
すると、その完璧美形の睫毛が、ゆっくり持ち上がった。
蒼い瞳が、まっすぐこちらを捉える。
寝起きの熱をわずかに含みながら、でも根のところはぞくりとするほど冴えていて。
その視線が私へ落ちた瞬間、腰の腕の力がほんの少しだけ増した。
「……目が覚めましたか、俺のクロエ」
「ひゃうっ!?」
変な声が出た。
自分でも嫌になるくらい情けない。
私はバネのように飛び起きようとしたが、当然無理だった。Sランク魔物を素手で瞬殺する腕力から逃げられるわけがない。
「れ、れれ、レオン様!? あ、あの、これは、その、どういう状況で……!?」
「どうもこうもありません」
彼は実に落ち着いた声で、ふっ、と甘く笑った。
「逃亡犯を確保しただけです」
逃亡犯。
ひどい。
ひどいけれど、事実だから反論しづらい。
私はじたばたと身じろぎした。
「は、離してください……!」
「嫌です」
レオンは一向に手を放してくれない。
「嫌ですって」
「ええ。嫌です。昨夜、あなたが何をしたのか忘れたわけではないでしょう」
痛いところを突かれ、私はぴたりと止まった。
置き手紙を残して、ファンとして綺麗に退場しようとした結果、空から降ってきたこの人に回収されたのだ。
「……ご、ごめんなさい」
かろうじてそう言うと、レオン様の瞳が、朝の光の中でひどく静かに光った。
「俺の知らないところで全部決めて」
「……」
「感謝の手紙みたいなものを置いて、遠くから見守る、なんて」
そこで彼は、ほんのわずかに唇を引き結んだ。
「そんな残酷なことを、よく思いつきましたね」
怒っている。
でも、それだけじゃない。傷ついている。はっきりと。
ああ、と胸の奥が痛んだ。
身を引くのが正しいのだと自分に言い聞かせることばかり優先して、この人がどう受け止めるかをちゃんと見なかった。
「……平気じゃ、なかったです」
私はぎゅっと毛布を握りしめた。
「ずっと苦しかったし、怖かったし……でも、このままいたら、私……」
「……」
「離れられなくなると思って」
数秒、空気が止まった気がした。
それから。
「それの、何がいけないんです」
あまりにも自然に返されて、私は思考を失った。
えっ。
そこ、疑問形で返すところですか?
「いや、だって離れられなくなるって」
「ええ」
「普通、よくない方向では」
「俺にとっては、最善ですが」
だめだ。
言い切り方に迷いがなさすぎる。
◇ ◇ ◇
その後、私はどうにかこうにか上半身だけ起こすことを許された。
ただし、レオン様が後ろから私を抱え込んだ体勢のまま、ベッドへ座り直すという「確保状態」の継続である。
「クロエ」
低い声が落ちる。
「……はい」
「怒ってはいます。腹も立っています」
「はい」
「けれど、それ以上に」
彼は、一度、静かに息を吐いた。
「あなたが、今ここにいることに安心している」
胸が、どくりと鳴る。
「……そんなに、心配だったんですか」
小さく問うと、背後で、かすかな吐息がこぼれた。
「部屋へ行って、いないと気づいた時」
「……」
「置き手紙を見つけた時。……今すぐ、この屋敷ごと燃やしてしまおうかと思いました」
私は盛大にむせた。
「ま、待ってください!? 発想が物騒です!」
「本気でした。俺の神様を失うくらいなら、と」
「本気で言わないでください!」
うわあ。
だめだ。ほんとうにだめだ。
でも、その物騒さの根っこが全部、“私がいなくなった恐怖”に繋がっているのがわかってしまう。
そしてその瞬間、私の中で、何かがかちりと繋がった。
あっ。
そうか。
なるほど。
完全にそういうことでは?
「……重度だ」
思わず、ぽつりと呟いていた。
「何がです」
「いや、長年のトラウマによる重度な『分離不安症(愛着障害)』の極みでは!?」
「クロエ」
「はい」
「今の話を聞いて、どうしてその結論になるんですか」
「なりますね……!?」
だってそうだろう。
あの冷たい地下室の夜から始まって、ずっと私を唯一の心の支え(命綱)にしてきたのだ。
そこへ私が突然いなくなろうとしたことで、感情の防波堤が限界突破した。
うん。どう客観的に見ても重度の分離不安症である。
これはいけない。
限界オタクは、常に推しの幸福と健康を願う生き物である。
推しのメンタルが私への依存一本で完全固定されてしまうのは、健全ではない。
そうか。
これが、今の私の役目か。
最後にもうひとつ、特大のミッションが残っていた。
――最推しの『重度分離不安症リハビリ計画』である。
「レオン様」
私はくるりと少しだけ振り返った。顔がとても近くて心臓に悪いが、今はそれどころではない。
「私、きちんと向き合いますので」
「……何に」
「リハビリに付き合いますので!」
「何の」
「心の。徐々に安心を積み重ねて、“いなくなるかもしれない”恐怖を減らしていくやつです!」
「……」
レオン様が、めずらしく完全に言葉を失っていた。
「まずは急に離れたりしないことを約束します。だから、過剰な閉じ込め発言はちょっと控えていただいて」
「それは難しいですね。本音なので」
レオン様が、ふっと笑った。
色気がだだ漏れていた。
艶やかで、やわらかくて、でもその奥に濃い熱を秘めた笑み。
「……そうですか」
ひどく静かな声。けれど、その響きには妙な満足感があった。
「もうどこにも行かないと、全身全霊で向き合ってくれると、約束してくれるんですね」
「はい!」
私は力強く頷いた。
「俺のそばで」
「はい!」
「ずっと」
「そこは段階的に――」
「ずっと?」
視線が絡む。圧が強い。
私は一瞬ひるんでから、観念したように頷いた。
「……と、とりあえず今は、です」
「十分です」
その返答が、あまりにも嬉しそうだったので、私は逆に不安になった。
あれ?
今、何かすごく、私とレオン様の認識にズレがありませんか?
私は“推しの心のケアを最後までやるぞ”くらいの気持ちなんですが、向こうはそれを別方向に受け取っていません?
◇ ◇ ◇
ほどなくして、寝室の外から控えめなノックがした。
古株の老執事の声だ。
「どうぞ」
レオン様が、あまりにも平然と返す。
待ってください。私はまだ推しのベッドの上で、しかもかなり微妙な密着距離感のままなんですが!?
扉が開き、老執事が一礼して入ってくる。
そして、室内の光景(若き主人がメイドをベッドで抱き込んでいる図)を見た瞬間、プロの所作で視線を逸らし、何事もなかったように咳払いした。
「……若奥様のお口に合うよう、朝食のメニューは調整してございます。ここへお持ちしましょうか?」
「ここへ」
「かしこまりました」
終わりである。
たぶん、私の“ただの専属メイドです”という薄っぺらい建前が、屋敷内において音を立てて崩れ去った。
「ま、待ってください、あの、これは盛大な誤解です!」
「ええ、もちろん。朝の清らかな誤解でございますね」
その“もちろん”が、いっさい何も信じていない、むしろ大奥様ルート確定を祝うような響きだった。
扉が静かに閉まる。
私はベッドの上で頭を抱えた。
「終わった……」
「問題ありません」
「あります!」
「俺にとってはありません」
レオン様は、珍しくはっきりと声を立てて笑った。
どうしよう。
目覚めた瞬間から推しの天蓋ベッドで。推しの腕の中で。
推しの分離不安症を診断し。
ついでに屋敷の人間へ“未来の大奥様確定ですね”みたいな確信を与えかねない状況になっている。
でも、それでも。
昨夜の夜逃げを決意した時の苦しさとは、少し違っていた。
逃げようとした時よりも、今のほうがずっと胸の奥があたたかい。
「クロエ」
背後から、低く甘い声が落ちてくる。
「俺は別に、あなたと離れて平気になりたいわけではありません」
「いやでもそれは」
「むしろ逆です。あなたが、俺から一歩も離れられなくなる方向なら、大歓迎です」
「だめだ、この人。全然治る気がない」
思わず両手で顔を覆った。
――そして、この朝から。
クロエの“分離不安症リハビリ計画”は、盛大な勘違いを土台にして見事に始動する。
だが当然、当のレオンには、自分が“治療される側”という認識など一切ない。
むしろ彼にとっては。
ようやく手の中へ戻したクロエを、どうやってもっと甘やかし、囲い込み、決して逃げられないほど深く自分の世界へ馴染ませるか。
そのための幸福な共同生活が始まったくらいの感覚だった。
一方の私はというと、
「推しの心の傷を癒しつつ、健やかな距離感を再構築するぞ!」
と、わりと本気で燃えていたわけですが。
……残念ながら。
その目標が、開始時点ですでにかなり前途多難だったことだけは、間違いなかった。




