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第1話 最推しのバッドエンド前夜

 夢だと思った。

 だって、こんなの、どう考えても現実のわけがない。


 薄暗い使用人部屋。寝返りを打つたびにひどくきしむ硬いベッド。壁のフックにかけられた、糊のきいていない質素なエプロンドレス。

 指先に触れる粗いシーツのざらつきも、窓の隙間から忍び込んでくる夜風の冷たさも、嫌になるほど生々しい。

 それでも私は、しばらくの間、ただただ呆然と宙を見つめることしかできなかった。


 そして、のろのろと起き上がり、部屋の隅にある小さな鏡を覗き込んだ瞬間――私の思考は完全にショートした。


 誰、この美少女。


 いや、違う。落ち着け私。ツッ込むべきはそこじゃない。そこじゃないんだけど、でもかなり大事なポイントだ。

 鏡の向こうで目を丸くしているのは、黒に近い焦げ茶の髪を肩口で切り揃えた、素朴ながらも愛嬌のある顔立ちの少女だった。

 断じて、前世の私ではない。

 休日はスウェット姿でベッドに寝転がり、乙女ゲームを狂ったように周回し、推しの尊いスクショを連写しては神棚(という名のクラウドフォルダ)に奉納し、限定ボイスのためなら生活費すら課金に突っ込んでいた日本在住の限界オタクでは、絶対にない。


 けれど、頭の中にはその“前世の私”の記憶が、どうしようもないほど鮮明に詰まっていた。


 学校帰りにコンビニで新作のグミを買った記憶も。

 深夜二時に推しのルートを再完走して、あまりの尊さとシナリオのエグさに天を仰いで咽び泣いた記憶も。

 そして何より――あの、神ゲーの記憶も。


「……『聖ラフィリア学園と祝福の花冠』」


 ぽつり、と。

 ひび割れた自分の唇からそのタイトルがこぼれ落ちた瞬間、ぞわりと全身の肌が粟立った。


 乙女ゲーム界に燦然と輝く、伝説の名作にして最大の問題作。

 息を呑むほど美麗なスチル、鼓膜が溶けるほど豪華な声優陣、胃が痛くなるほど巧みな伏線、そしてバスタオルが必須なほど泣けるシナリオ。

 そのどれもが一級品で、私も文字通り人生の貴重な時間を溶かしてやり込んだ。


 攻略対象はどのキャラクターも魅力的だった。

 けれど、その中でも私が、命を懸けて、世界の中心で鼓膜が破れるほど愛を叫びたい『最推し』がいる。


 公爵令息、レオン・ヴァン・エルグラン。


 月光を紡いだような白銀の髪に、凍てつく湖面を思わせる冷たくて蒼い瞳。

 氷のように気高く、それでいて、本当は誰よりも傷つきやすく繊細な魂を持った少年。

 家族から虐げられ、すべてを奪われ、信じた者に裏切られ、それでもなお、泥水をすする思いで必死に立ち上がろうとする姿が――あまりにも美しく、あまりにも痛々しくて。

 私は何度彼のルートで嗚咽を漏らし、何度その残酷すぎる結末を呪ったかわからない。


 そう、レオンには『ハッピーエンド』が存在しないのだ。


 どのルートに入ろうとも、彼は最後の最後で必ず壊れる。

 ヒロインに救い出されたように見えても、その後で必ず大切なものを喪う。

 表面上は救済されても、心の底の致命的な傷は決して癒えない。

 果ては、心を徹底的に踏み躙られ尽くした末に異形の魔物と化し、無惨な討伐対象として命を落としてしまう。


 あまりにひどい。あまりに理不尽。あまりに救いがない。

 制作陣は前世でレオンに親でも殺されたのかと問いただしたいくらい、業の深い設定のオンパレードだった。いや、悲劇としての芸術点はカンストしている。高いよ。高いけども。私の情緒はプレイするたびに爆発四散して粉微塵になったのだ。


 そんな最推しが存在する世界に、私は今、落ちてきた。


 それだけでもう、心臓がバクバクどころの騒ぎではない。肋骨を突き破りそうなほど鼓動がうるさい。オタクの情熱で胸骨が砕け散りそうだ。

 いや待って、ちょっと待って。推しと同じ世界線? 同じ空気を吸ってるの? 今この瞬間も、この世界のどこかで推しが呼吸してる?

 えっ、無理。尊い。致死量の尊さ。


 いや待って。尊いとか言って拝んでいる場合では――。


 その時、脳内でばらばらに散らかっていた記憶の断片が、最悪な形でパズルのようにはまり込み、一つの残酷な事実へと直結した。


 私はベッドから弾かれたように飛び起き、部屋の隅の木箱に置かれていた古びた手帳をひったくるように開いた。


 震える指で、ページをめくる。今日の日付を、確認する。


 その瞬間――全身の血の気が、一気に足元へと引いていった。


「……うそ、でしょ」


 喉の奥で、ひゅっと引きつった音が鳴った。


 今日は、レオンが八歳の誕生日を迎えた夜。

 彼を疎む継母の手によって、冷たい地下室へ閉じ込められ、その心を完全に壊すきっかけとなる――“悲劇の始まりの日”だ。


 一気に視界の端がぐにゃりと歪み、狭くなる。


 このイベントは、ゲームの中でもレオンの運命を決定づける明確なターニングポイントだった。

 公には何も起こらない、ただの「お仕置き」。たった一晩の出来事だ。

 けれど、この夜。幼いレオンは光の届かない冷たい地下室でひとりきりにされ、どれだけ泣いても、どれだけ助けを求めても誰も来ないという残酷な現実を突きつけられる。

『自分は誰からも必要とされない存在なのだ』と、その幼い魂に深く、深く刻み込まれてしまうのだ。


 その絶望こそが、彼の人生を呪い縛る最初の傷になる。

 あの血反吐を吐くようなバッドエンドへ続く、取り返しのつかない最初の一歩。


「そんなの、だめ……っ」


 気づけば、悲鳴のような声が漏れていた。


 だめに決まってる。

 絶対にだめだ。

 却下。全面的に却下する。最推しの心に一生モノの致命傷を刻む特大トラウマ・イベントとか、そんなの開催中止一択に決まっているでしょうが!


 私は手帳を握りしめたまま、過呼吸気味になる呼吸をどうにか整えようとした。

 けれど無理だ。落ち着けるわけがない。

 だって今、この瞬間にも、レオンはあの地下室にいるかもしれないのだ。


 寒くて、暗くて、怖くて。お腹もすいていて、誰も助けてくれなくて。

 たった八歳の、まだあどけない子どもが、ひとりで。


 ひとりで。


「……行かなきゃ」


 それは、頭で考えるより先に口から飛び出していた。


 私は鏡の前に立ち、エプロンの紐を乱暴なほどきつく結び直す。扉へ向かう途中、鏡に映る自分の姿をもう一度真っ直ぐに見つめ、脳裏に“クロエ”という名前を強く刻み込んだ。


 ああ、そうか。

 私はこの世界で、名もなきモブメイドの『クロエ』なんだ。


 光り輝く攻略対象でもない。

 奇跡を起こすヒロインでもない。

 物語をかき回す悪役令嬢ですらない。

 物語の背景に溶け込み、いてもいなくてもストーリーに一切影響を与えないはずの、ただの使用人。


 だけど。


 だけど、だからこそ。


 誰の目にも留まらない、誰からも期待されていないこの「モブ」という立場なら。

 物語の強制力の外側から、最推しを強引に救い出せるかもしれない。


「待っててください、レオン様」


 胸の前で、爪が食い込むほど強く拳を握る。


 前世の私は、液晶画面の向こう側でただ泣くことしかできなかった。

 どれだけ展開が辛くても、どれだけ彼を救いたくても、コントローラーを握りしめる私の手には、シナリオのテキストをたった一行書き換える力すら、なかったのだ。


 でも、今は違う。


 会いに行ける。

 手を伸ばせる。

 同じ世界で、同じ地続きの時間を、今まさに生きている。


 だったらもう、私がやるべきことは一つしか決まっていなかった。


「私があなたを、絶対に幸せにします」


 我ながら想いが重い。初手から決意表明の質量がヘビー級だ。

 でも仕方ない。オタクというのは、推しのためなら世界だって敵に回せるし、神様だって殴り飛ばせる狂った生き物なのだ。

 ましてやこれは、ゲームじゃない、現実だ。課金じゃ足りない。足で稼げ、体を張れ、情熱という名の物理で殴れの時間である。


 私は勢いよく扉を開け放ち、夜の廊下へと飛び出した。


 ◇ ◇ ◇


 夜の公爵邸は、不気味なほどに静まり返っていた。


 昼間はあれほど大勢の使用人がせわしなく行き交うというのに、夜更けともなれば、広すぎる廊下には足音ひとつ響かない。

 いや、実際には私の足音がめちゃくちゃ盛大に響き渡っている。まずい。落ち着け。忍べ、私。推しを救済する前に不審者として警備につまみ出されたら、笑い話にもならない。


 慌てて壁際に身を寄せ、息を潜める。

 幸い、私の中には“クロエ”としての記憶がしっかりと根付いていた。この広大な屋敷の構造、使用人たちのシフト表、夜の見回りルートとその時間帯。断片的ではあるけれど、それでも完全な初見プレイよりはずっとマシだ。


 地下室は、本館のずっと奥。普段は使われない古い倉庫の、さらにその先にある。

 継母がレオンを閉じ込める時にわざわざ使う、光の届かないじめじめした石造りの一角だ。


 思い出すだけで、胃袋がきりきりと雑巾のように絞り上げられる。

 ゲーム内のイベントスチルでは、重い扉の隙間から細く差し込む光の中で、膝を抱えてうずくまる幼いレオンの姿が描かれていた。

 あの時の表情を、忘れられるわけがない。

 諦めと恐怖がないまぜになり、もはや泣くことすら諦めてしまったような、空虚な顔。


 あんな顔、絶対に、二度とさせるものか。


 途中、角を曲がった先でカツ、カツ、と見回りの靴音が聞こえ、私は咄嗟に分厚いカーテンの陰へと滑り込んだ。

 心臓が口から飛び出そうになる。危なっ。危なっっっ!

 これが推し救済ミッション序盤のステルス難易度? 高くない? ノーマルモードでこれ?

 でも負けない。私は何度も高難度イベントを血反吐を吐きながら完走した熟練のオタクだ。徹夜の周回プレイに比べたら、夜の屋敷を忍び歩くくらい――いや、普通にめっちゃ怖いな。現実のステルス、心臓に悪すぎる。


 見回りの気配が完全に遠ざかるのを待ってから、再び早足で歩き出す。


 やがて、肌に触れる空気が明らかに変わった。

 本館の豪奢な暖かさが遠のき、むき出しの石壁が放つ冷たさが、じわじわと靴底から這い上がってくる。壁の灯りも極端に少ない。鼻をつくカビと埃の匂いに、思わず眉間を寄せた。


 この先だ。


 薄暗い通路の突き当たり。そこに、重々しい鉄張りの木の扉が見えた。

 その前に立った瞬間、私は思わず息を呑んだ。


 本当に、ここにいる。


 ずっと画面の向こう側の存在だった私の推しが。

 たった一枚、この扉を隔てた向こう側に。


 急に喉がからからに乾いた。手のひらがじわっと汗ばむ。極度の緊張で足がガクガクと震えそうになる。いや、初めて推しの有観客ライブの最前列を引き当てた時だって、ここまで震えはしなかった。

 待って、私、今から生身の最推しにエンカウントするの? こんな心の準備ゼロ、身だしなみチェックすらしていない状態で? 無理では? 死ぬのでは?

 でも行く。行くしかないのだ。ここで怖気づいて背を向けたら、オタクの名が廃る。


 私は意を決して、そっと扉に手をかけた。


 鍵は、かかっていなかった。

 正確には、外側から簡易なかんぬきが下ろされているだけだった。誰にも音を聞かれないよう、細心の注意を払ってゆっくりと閂を外す。

 あの性悪な継母にとって、たった八歳の幼いレオンは、自力で逃げ出す気力すらない無力な存在だと思われているのだろう。その圧倒的な傲慢さに、腸が煮えくり返る。


 ぎい、と。嫌な音を立てて、扉が細く開いた。


 中は、どこまでも暗かった。


 灯りなど一つもない。窓がないため、月明かりすら一筋も届かない。

 石造りの床は氷のように冷えきっていて、部屋の隅にはいつから置かれているのかわからないガラクタの箱や樽が山積みにされている。


 そして、そのさらに奥の、一番暗い場所。


 小さな、本当に小さな影が、うずくまっていた。


「……っ」


 一瞬、呼吸の仕方を忘れた。


 いた。


 レオンだ。


 美麗なスチルで見た白銀の髪は埃にまみれ、上等なはずの子ども服も薄汚れてしまっている。彼はその小さな身体をぎゅっと抱きしめるように丸め、冷たい壁際で必死に息を潜めていた。

 暗くて顔はよく見えない。けれど、その華奢な肩がかすかに、小刻みに震えているのがわかった。


 ああ。


 ああ、だめだ。こんなの、見ちゃいられない。


 胸の奥が、巨大な見えない手でぎゅうっと握り潰されるように痛んだ。

 画面越しに見つめていた時だって、息が止まるほど苦しかったのだ。でも、本物が放つ絶望は、悲壮感は、こんなものじゃなかった。


 こんなに小さくて。こんなに細くて。こんなに必死に、暗闇の中で震えて怯えている。


 レオンは、データで構成されたただの“推しキャラ”なんかじゃない。

 今、この空間で息をして、血を巡らせて、懸命に生きている、たった八歳の男の子なんだ。


 私はなるべく彼を驚かせないよう、背後の扉を音も立てずにそっと閉めた。

 それから、嗚咽が漏れそうになるのを必死に奥歯を噛んでこらえながら、ゆっくりと、一歩だけ彼に近づく。


「……レオン様」


 びくり、と。

 弾かれたように、小さな肩が跳ねた。


 その痛ましい反応だけで、もう涙腺が崩壊しそうになる。

 どれだけ怖かったの。この子は、どれだけ長い時間、誰が来るかもわからないこの暗闇の中で、たったひとりで。


「大丈夫です。怖がらないでください」


 返事はない。

 ただ、這うような闇の中で、凍てつく蒼い瞳だけがこちらを見上げた。

 光を一切宿していない、深い深い、絶望の色。幼いはずなのに、すでに『世界に期待すること』を諦めきっている、酷く冷えた目だった。


 やめて。

 そんな目をしないで。

 お願いだから、そんな顔でこちらを見ないで。


 私は着ているエプロンが汚れることなど構わずその場にしゃがみ込み、彼の視線と高さを合わせた。


「夜分に申し訳ありません。私はクロエと申します。この屋敷で働いている、しがないメイドです」


 本当なら、今すぐ全力で抱きしめたい。最高級の羽毛布団でぐるぐる巻きにしてあげたい。胃に優しい温かいスープを飲ませて、甘いお菓子を山のように積んであげたい。世界中に存在する優しくて温かいものを、全部ここに掻き集めて捧げたい。

 でも、初対面の不審な女が急に距離を詰めたら、絶対に怯えさせてしまう。今の彼は、深刻な人間不信への入り口に立たされている、超・ウルトラ・繊細な最推しなのだ。

 慎重に。丁寧に。爆発しそうな愛を理性で押し殺せ。オタクよ、ここが人生最大の踏ん張りどころだ。


「とても、寒いですよね。今、灯りをつけますね」


 クロエの記憶を必死に手繰り寄せ、壁際に備え付けられていた古いランプへ手を伸ばす。幸い、すぐ横に火打ち石も置かれていた。

 震える手で何度か手間取った末に、チリッ、と音を立てて、ぽっと小さな灯りがともった。


 やわらかく温かい橙色の光が、じわじわと暗闇を押し退けて広がる。

 その光に照らされ、レオンの姿がはっきりと浮かび上がった。


 栄養が足りていないのか、頬はひどく青白い。強く噛み締めているのか、唇はかすかに紫がかっている。

 怯えで目元が痛々しいほどに強張っていて、長く美しい銀の睫毛の先には――まだ乾ききっていない、涙の跡が光っていた。


 その姿を見た瞬間、私の中で、何かがぶつんと音を立てて切れた。


 だめだ。無理。

 理性とか、メイドとしての配慮とか、段階を踏んだコミュニケーションとか、一旦全部ゴミ箱に捨てよう。

 こんなボロボロの推しを前にして、平静を保っていられるような強靭な精神力を、私は持ち合わせていない。


「……レオン様」


 私は、ためらうことなく、そっと両腕を広げた。


「もう、大丈夫です」


 彼は、すぐには動かなかった。

 蒼い瞳が、極度の警戒と、理解しきれない戸惑いをにじませて激しく揺れている。


 当然だ。

 今まで家族の誰一人として助けてくれなかったのに。暗闇に放り込まれて放置されていたのに。

 急に現れた名も知らぬメイドが、いくら優しい言葉をかけたところで、簡単に信じられるわけがない。


 それでも私は、今出せる限りの、一番やわらかくて温かい笑顔を作った。


「ずっと暗くて、怖かったですよね」

「……」

「ひとりで、本当によく頑張りました」

「……どう、して」


 ひどくかすれて、ひび割れた声だった。

 あまりにも小さくて、息遣いに混じって消えてしまいそうな響き。


「どうして、来たの……?」


 その問いに、私は危うく言葉を詰まらせそうになった。


 どうして、だと?


 そんなの、全宇宙の真理として決まりきっている。


 あなたが、私の魂を捧げた最推しだからです。

 あなたの幸せのためなら、残りの人生全部ベットできるからです。

 あなたが暗闇でひとりで泣く未来なんて、たった一秒たりとも許容できないからです。


 でも、それを真顔で八歳児に力説したら、完全に精神のおかしい不審者だ。即アウトである。通報案件待ったなしだ。いやこのファンタジー世界に通報制度があるかは知らないけども。


 私は、熱を持ってこぼれ落ちそうになる目頭をぐっとこらえ、できるだけ静かに、穏やかな声で答えた。


「あなたに、これ以上泣いてほしくなかったからです」


 レオンの目が、わずかに、本当にわずかに見開かれる。


「誰も助けに来ないって、思っていたかもしれません。でも、そんなことありません」

「……」

「私は、来ました。あなたのために」

「……僕なんかに?」


 自嘲するように紡がれた幼い声は、ひどく震えていた。


 その『僕なんか』という一言を聞いた瞬間、煮えたぎるような怒りにも似た感情が、腹の底からドロリと込み上げてきた。


 僕なんか。

 たった八歳の子どもに。無垢で純粋なはずの男の子に。

 こんな悲しい言葉を言わせるなんて。

 どれだけ日々心を削られ、そう思い込まされてきたのか。想像するだけで胸が焼け焦げそうになる。


 私は、強い意志を込めて、ゆっくりと首を振った。


「“僕なんか”ではありません」

「……」

「あなたは、とても尊くて、とても大切な方です」


 レオンの唇が、かすかに震える。

 信じられない。信じていいはずがない。そんな風に書いてある顔だった。


 ああ、そうだよね。

 親から愛されず、兄弟から蔑まれてきた子に、いきなりそんな言葉をぶつけても、すぐに信じられるはずがない。

 けれど、それでも私は、何度でも言わずにいられなかった。

 だって本当に、あなたは大切なんだ。私にとって、この世の何よりも、誰よりも。


 私は膝をついたまま、慎重に、彼へともう一歩距離を詰めた。


「少しだけ、触れても、よろしいですか?」


 静かに問いかけると、レオンはしばらく黙ったまま、私の目をじっと見つめ返していた。

 やがて、ほんの少しだけ。本当に、わずかに。

 ためらいがちに、小さな首を縦に振った。


 その仕草が。

 あまりにも小さくて、健気で、臆病で、愛おしくて。

 私は堪えきれずに泣きそうになりながら、彼の冷え切った身体を、そっと抱きしめた。


 細い。


 びっくりするほど、細くて軽い身体だった。

 氷のように冷えきっていて、全身がこわばっていて。けれど、私の腕の中にすっぽりとおさまるその存在は、確かにトクン、トクンと温かい脈を打っていた。


 生きてる。

 レオン様、生きてる。あったかい。

 ああもう、本当に、本当に、よかった……っ!


 感極まって号泣しそうになるのをどうにか奥歯を噛んで抑え込み、私は彼の華奢な背中を、手のひらでゆっくりと撫でた。

 大丈夫、大丈夫。もう怖くないよ、と。心の中で祈るように何度も唱えながら。


 最初、レオンの身体は石のようにこわばったままだった。

 でも、温もりを分け与えるようにしばらくそうしていると。少しずつ、ほんの少しずつだけ、彼から余計な力が抜けていくのがわかった。


「……すごく、寒いですね」

「……うん」

「あとで、厨房から温かいものを持ってきます。甘くしたホットミルクもいいですね。ふかふかのパンも、具だくさんのスープも」

「……そんなことしたら、お母様に、怒られる」

「怒られませんよ」

「でも……」

「もし奥様が怒ったら、私が全力で怒り返してやりますから」

「……ただのメイド、なのに?」


 かすかに、信じられないものを見るような、呆れたような声音。

 その子どもらしい反応に、私は思わず小さく吹き出してしまった。


「ええ、ただのメイドですけど。でも、私はレオン様の、絶対的な『味方』ですから」


 その瞬間だった。

 彼の深い蒼い瞳が、初めて、はっきりと大きく揺れた。


 ぶ厚く凍りついていた湖面に、パキリとひびが入るみたいに。

 固く閉ざしきっていた心の扉の奥で、小さな、けれど確かな何かが震えたのがわかった。


「味方……?」


 言葉の意味を咀嚼するように、呆然とした声で彼が繰り返す。


 あー、もう。

 そのかすれ声を聞いた途端、もう完全に駄目だった。

 決壊だ。ダム決壊。涙腺崩壊。

 だってこの子、『味方』って言葉を聞いて、こんなにも泣きそうな顔をするんですよ!? 何その破壊力。情緒が消し飛ぶ。制作陣、いやこの世界の神様、罪深すぎるだろ!


 私は、今にもボロボロとこぼれ落ちそうになる涙を必死に笑顔でごまかしながら、彼を抱く腕に、さらにほんの少しだけ力を込めた。


「はい。私は、あなたの味方です」

「……ずっと?」

「ずっとです」

「本当に……?」

「本当です。天地神明に誓って」


 即答だった。

 迷う余地など、一ミリたりとも存在しない。


 レオンは、私の腕の中で、ひくっ、と小さく息を呑んだ。

 それから、壊れ物に触れるみたいにおずおずと手を伸ばし、私のエプロンの裾を、ぎゅっと掴んだ。


 その頼りない力が伝わった瞬間。

 胸の奥がじんわりと熱くなって、どうしようもなく、彼が愛おしくてたまらなくなった。


 ああ、もう。

 この瞬間、たぶん私は完全に『覚悟』が決まってしまったのだと思う。


 ただ画面の向こうの推しを眺めて、「顔が良い」「尊い」と叫ぶだけの気楽なオタクでは、もういられない。

 この小さな子の人生に、背負うべきすべての運命に、責任を持ちたいと。心からそう思ってしまったのだから。


 重い? 知ってる。自覚はある。

 でも仕方ないじゃないか。

 推しの本物の涙と体温を受け止めてしまった限界オタクは、もう二度と、元の安全な場所になんて後戻りできないのだ。


 私は彼の耳元で、はっきりと、誓いを立てるように告げた。


「私があなたを、絶対に幸せにしてみせます」


 レオンの身体が、ぴくりと大きく震えた。


 普通に考えれば、一介のモブメイドが公爵令息に向かって言うには、あまりにも大それた、不敬スレスレの台詞だ。重いどころか、だいぶ頭がおかしい。

 だが、今の私に、身分を弁えて取り繕うような余裕なんてなかった。私の本心はこれであり、その本心を、偽りの言葉で誤魔化したくなかった。


 彼が今、どんな顔をしているのか見たくて、そっと身体を離す。


 レオンは、大粒の涙をいっぱいに溜めた目で、私を見上げていた。


「……どうして」


 また、同じ問い。

 けれど今度は、さっきよりも少しだけ、すがるような切実な響きがこもっていた。


 どうして、見ず知らずのメイドがそこまでしてくれるのか。

 どうして、僕なんかを見捨てないのか。

 どうして、僕を、大切だと言い切ってくれるのか。


 その全部の感情が、痛いほど込められている気がした。


 私は少しだけ考えて、それから、今日一番の笑顔を作って微笑んだ。


「あなたが、生きてここにいてくれると……私が、嬉しいからです」


 それは、嘘偽りのない本心だった。


 レオンが今日も生きて息をしてくれているだけで、嬉しい。

 いつか心の底から笑ってくれたら、もっと嬉しい。

 彼が幸せな未来を掴んでくれたら、きっと私は嬉しさのあまり泣きながら昇天できる。


 オタクの感情や行動原理は、一般人から見れば時として説明不能で奇異に映るかもしれない。けれど、その核心にある願いだけは、驚くほど単純で純粋なのだ。


 推しには、とにかく笑って、幸せでいてほしい。

 ただ、本当にそれだけ。


 レオンは、しばらく黙って私の顔を見つめていた。

 やがて、今にも消え入ってしまいそうなくらい小さな声で、ぽつりとこぼす。


「……僕、こわかった」


 その、初めて見せてくれた弱音に。告白に。

 胸が、ぎゅっと締めつけられた。


「はい」

「暗くて……誰も、助けに来てくれなくて……」

「はい」

「僕、誰にもいらない子なんだって……そう、思った……っ」


 もう、だめだ。

 本当にだめ。限界。

 こんな痛切な告白を聞いて、平気でいられる人間がこの世にいる? 私は無理です。完全に無理でした。心がぐしゃぐしゃにミンチにされた気分だ。


 私は手を伸ばし、彼の頬に優しく触れた。

 ひんやりと冷たい肌に、そっと親指を添わせる。


「そんなこと、絶対にありません」

「……っ」

「あなたはいらない子なんかじゃない。この世で一番、価値のある方です」

「……ぅ……っ」

「誰が何と言ってあなたを貶めようとも、私が全力で否定してさしあげます」


 その言葉を聞いた瞬間。

 レオンの大きく見開かれた瞳から、ぽろり、と大粒の涙がこぼれ落ちた。


 それは、子どもらしく声を上げて泣きじゃくるようなものではなかった。

 ただ、限界までピンと張りつめていた緊張の糸が、プツンと切れたみたいに。

 静かに、静かに、堰を切ったようにとめどなく零れ落ちていく涙だった。


 私は再び、泣き震える彼を強く抱きしめた。

 今度はレオンの方から、私の服をきつく握りしめ、かすかにしがみついてくれた。


 そのことが、言葉にならないくらい嬉しくて、切なくて、たまらなかった。


「少しだけ、ここにいてもいいですか?」

「……うん……っ」

「あなたが安心して眠るまで、ずっと一緒にいますから」

「ほんとに……?」

「ええ、本当に」

「……あしたも、いなくならない……?」


 私は、一切の迷いなく答えた。


「いなくなりません。絶対に」


 少なくとも、あなたが毎晩当たり前のように安心して眠れるようになるまでは。

 そしてできることなら、あなたの運命が完全に裏返る、その先もずっと。


 レオンはようやく、ほんの少しだけ身体の力を抜いてくれた。

 私の胸元にコテンと額を寄せ、ぎこちない様子で、ゆっくりと目を閉じる。


 私は彼のやわらかな銀糸の髪を優しく撫でながら、ふぅ、と長く静かな息を吐き出した。


 間に合った。

 最悪の致命傷だけは、回避できた。


 もちろん、この一夜だけで彼を取り巻く環境やすべてが劇的に好転するわけじゃない。

 心に刻まれた傷が、魔法のようにすぐに消え去るわけでもない。

 あの底意地の悪い継母も、異母弟も、この先もっともっと理不尽で面倒な嫌がらせを仕掛けてくるはずだ。


 でも、彼が味わうはずだった『完全な孤独』という最初の絶望を、少しでも和らげることはできたはずだ。


 たった一人でも、自分を無条件に肯定してくれる『味方』がいる。

 そう思えるだけで、人は暗闇の淵でも、どうにか踏みとどまれることがあるから。


 だから私は、腕の中にあるこの小さな命のぬくもりを抱きしめながら、冷たい地下室の闇の中で、静かに、けれど強固な決意とともに誓い直した。


 レオン様。

 あなたの未来に用意されている、理不尽なシナリオも、悲劇も、絶望のバッドエンドも。

 そんなふざけたもの、私がこの手でひとつ残らず、木端微塵に叩き潰してみせます。


 私はただのモブメイド。

 物語の歯車にすらなれない、名もなき脇役。

 けれど、あなたを幸せにするためなら、なんだってやってやる。


 前世では画面の前で見ていることしかできず、決して果たせなかった願いを。

 今度こそ、この手で現実に変えてみせるのだ。


 推しは救う。

 絶対に。

 何が起きても。神が立ち塞がろうとも。


 そうして、埃っぽく冷たい地下室の闇の中で。

 泣き疲れた幼いレオンがようやく浅い眠りに落ちたころ。

 私はその小さな冷たい手を両手でしっかりと包み込んだまま、朝日が差し込む夜明けまで、ずっとずっと彼のそばに寄り添い続けた。



第1話を読んでいただきありがとうございます。

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