教科書に載らない戦争で、僕らが失った音
僕がまだ兵士ではなかった頃、世界は音で満ちていた。
朝、窓の外を通る風の音。市場から聞こえてくる呼び声。
夜になれば、家々の隙間から漏れる生活の気配。
そして何より、僕と親友――エリオと一緒に弾くピアノの音。
古い家の一室に置かれたアップライトピアノは、何度も修理され、ところどころ鍵盤の色も違っていた。それでも、あの鍵盤に触れると、僕たちは確かに同じ未来を見ていた。
「世界一のピアニストになるんだ」
「二人で、な」
そう言って笑い合い、拙い演奏を何度も繰り返した。
互いの指が迷えば、自然と間を埋める。
音を合わせるというより、呼吸を合わせるような連弾だった。
失敗すれば笑い、うまくいけば顔を見合わせてうなずく。
それだけで、世界は十分だった。
戦争の気配は、遠くにあった。
大人たちが小声で話す不穏な言葉も、新聞の端に載る小さな記事も、僕らには現実感がなかった。
音楽のない未来なんて、想像する必要がなかったからだ。
徴兵の少し前まで、僕の生活は驚くほど単純だった。
朝は家の手伝いをして、昼には市場を抜け、夕方になるとエリオの家へ向かう。
ピアノのある部屋の窓はいつも半分だけ開いていて、外の風と一緒に音が流れ出していた。
僕らは難しい曲よりも、同じ旋律を何度も繰り返すのが好きだった。
速さを変え、強さを変え、片方が少しだけ遅れる。そのずれを、もう一方が待つ。
音楽は競争じゃない、とエリオは言った。
「先に行ったら、連弾にならないだろ」
その言葉を、僕はずっと覚えている。
街には少しずつ変化が現れていた。巡回する兵士が増え、夜の灯りが減った。
大人たちの声は低くなり、会話は途中で途切れるようになった。
それでも僕らは、ピアノの前では子どものままだった。
十五歳になった春、赤い紙切れが家に届いた。
それが何を意味するのか、母は何も言わなかった。ただ、紙を握る手が震えていた。
徴兵。
その二文字が、僕の人生を一瞬で塗り替えた。
同じ日に、エリオも呼ばれた。
けれど、彼は国境の向こう側に住む親戚のもとへ移っていた。
戦争が始まれば、僕たちは別々の国の兵士になる。
「また会えるよな」
「当たり前だろ。停戦したら、また連弾しよう」
そう言って別れたあの日、僕はその約束がどれほど脆いものか、知らなかった。
戦争が始まると、最初に消えたのは音だった。
「音が出るものは、敵に居場所を知らせる」
そう命じられ、楽器は没収された。
ラジオも、鐘も、子守歌さえも禁止された。
ピアノは例外ではなかった。
兵士たちが家に踏み込み、ピアノを運び出す。
抵抗する者はいなかった。抵抗できなかった。
鍵盤が乱暴に外され、木材が割れる音がした。
その音だけが、皮肉にも許されていた。
あれは武器じゃなかった。
誰も傷つけなかった。
それでも、戦争は夢を危険物として処理した。
その日から、僕の中で何かが壊れた。
訓練で渡された銃は、重かった。
引き金に指をかけるたび、鍵盤に触れていた感覚が蘇る。
この指は、誰かを撃つためにあったのか。
それとも、音を奏でるためにあったのか。
教官は言った。
「正義のために戦え」
でも、その正義が何なのか、誰も教えてくれなかった。
エリオは、銃を握りながらいつも鍵盤の配置を思い出していた。
黒鍵と白鍵の並び。半音の距離。指の動き。
それは祈りに近かった。
彼にとって戦争は、選んだものではなかった。
国境の向こうへ移ったその日から、彼は「守る側」になった。そう教えられた。
「お前の家族を守るためだ」
「お前の国を守るためだ」
その言葉を、何度も繰り返し聞かされた。
否定する理由を、彼は持たなかった。
ただ夜になると、思い出す。
古い家の一室。ずれたテンポ。笑い声。
そして、隣で同じ未来を信じていた少年の横顔。
もし敵と向き合うことになったら。
もし引き金を引けと命じられたら。
その相手が、彼でなければいいと願い続けていた。
それでも、エリオは銃を捨てなかった。
捨てれば、守れないものがあると信じていたからだ。
彼の正義は、とても小さかった。
国のためではない。
勝利のためでもない。
ただ、これ以上、何も失わないための正義だった。
前線で、僕はエリオと再会した。
互いに銃を構え、初めて相手が誰かを知った瞬間、時間が止まった。
「……生きてたんだな」
「お前も」
それだけだった。
彼もまた、別の正義を背負ってここにいた。守りたいものがあり、信じる言葉があった。
僕らは引き金を引かなかった。
ただ、銃口を下げることもできなかった。
その沈黙こそが、戦争の正体だった。
戦争は、停戦で終わった。
勝者も敗者も、はっきりしないまま。
教科書に載ることもない、小さな戦争だった。
僕は生き残った。
エリオも、生きていたと聞いた。
瓦礫の中で、僕は壊れたピアノの鍵盤を一つ拾った。
白だったはずの表面は灰に汚れ、角は欠けている。音は、もう出ない。
それでも、親指をそっと置く。
かつてそこにあった重さを、体が覚えていた。
隣に、もう一つ鍵盤がある気がした。
同じ高さで、同じ間隔で。
あの頃、自然に並んでいた距離。
連弾は、一人では成立しない。
速さを合わせ、息を合わせ、相手の指先を感じながら進む。
正しさよりも、ずれないことを選ぶ音楽だった。
戦争は、それを許さなかった。
音を危険だと名付け、夢を廃棄し、二人の間に銃を置いた。
俺の国の正義は、本当に正しかったのか。
同じ未来を信じていた親友に、照準を合わせることが、正義だったのか。
答えは、鍵盤の沈黙の中にある。
出ない音が、確かにそこに在る。
もし、また鍵盤が並ぶ日が来るなら。
勝敗でも、国境でもなく、
ただ隣に座れる距離で。
そのとき、僕らはもう一度、連弾を始めるだろう。
音が出なくてもかまわない。
合わせようとした、その一瞬こそが、
本当に大切だったものだと、今なら分かる。
そして今日も、世界は静かすぎる。




