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教科書に載らない戦争で、僕らが失った音

作者: 夕凪詩音
掲載日:2026/01/11

僕がまだ兵士ではなかった頃、世界は音で満ちていた。

朝、窓の外を通る風の音。市場から聞こえてくる呼び声。

夜になれば、家々の隙間から漏れる生活の気配。

そして何より、僕と親友――エリオと一緒に弾くピアノの音。

古い家の一室に置かれたアップライトピアノは、何度も修理され、ところどころ鍵盤の色も違っていた。それでも、あの鍵盤に触れると、僕たちは確かに同じ未来を見ていた。

「世界一のピアニストになるんだ」

「二人で、な」

そう言って笑い合い、拙い演奏を何度も繰り返した。

互いの指が迷えば、自然と間を埋める。 

音を合わせるというより、呼吸を合わせるような連弾だった。

失敗すれば笑い、うまくいけば顔を見合わせてうなずく。

それだけで、世界は十分だった。


戦争の気配は、遠くにあった。

大人たちが小声で話す不穏な言葉も、新聞の端に載る小さな記事も、僕らには現実感がなかった。

音楽のない未来なんて、想像する必要がなかったからだ。


徴兵の少し前まで、僕の生活は驚くほど単純だった。

朝は家の手伝いをして、昼には市場を抜け、夕方になるとエリオの家へ向かう。

ピアノのある部屋の窓はいつも半分だけ開いていて、外の風と一緒に音が流れ出していた。

僕らは難しい曲よりも、同じ旋律を何度も繰り返すのが好きだった。

速さを変え、強さを変え、片方が少しだけ遅れる。そのずれを、もう一方が待つ。


音楽は競争じゃない、とエリオは言った。

「先に行ったら、連弾にならないだろ」

その言葉を、僕はずっと覚えている。


街には少しずつ変化が現れていた。巡回する兵士が増え、夜の灯りが減った。

大人たちの声は低くなり、会話は途中で途切れるようになった。

それでも僕らは、ピアノの前では子どものままだった。


十五歳になった春、赤い紙切れが家に届いた。

それが何を意味するのか、母は何も言わなかった。ただ、紙を握る手が震えていた。

徴兵。

その二文字が、僕の人生を一瞬で塗り替えた。

同じ日に、エリオも呼ばれた。

けれど、彼は国境の向こう側に住む親戚のもとへ移っていた。

戦争が始まれば、僕たちは別々の国の兵士になる。

「また会えるよな」

「当たり前だろ。停戦したら、また連弾しよう」

そう言って別れたあの日、僕はその約束がどれほど脆いものか、知らなかった。


戦争が始まると、最初に消えたのは音だった。

「音が出るものは、敵に居場所を知らせる」

そう命じられ、楽器は没収された。

ラジオも、鐘も、子守歌さえも禁止された。

ピアノは例外ではなかった。

兵士たちが家に踏み込み、ピアノを運び出す。

抵抗する者はいなかった。抵抗できなかった。

鍵盤が乱暴に外され、木材が割れる音がした。

その音だけが、皮肉にも許されていた。


あれは武器じゃなかった。

誰も傷つけなかった。

それでも、戦争は夢を危険物として処理した。

その日から、僕の中で何かが壊れた。


訓練で渡された銃は、重かった。

引き金に指をかけるたび、鍵盤に触れていた感覚が蘇る。

この指は、誰かを撃つためにあったのか。

それとも、音を奏でるためにあったのか。


教官は言った。

「正義のために戦え」

でも、その正義が何なのか、誰も教えてくれなかった。


エリオは、銃を握りながらいつも鍵盤の配置を思い出していた。

黒鍵と白鍵の並び。半音の距離。指の動き。

それは祈りに近かった。

彼にとって戦争は、選んだものではなかった。

国境の向こうへ移ったその日から、彼は「守る側」になった。そう教えられた。

「お前の家族を守るためだ」

「お前の国を守るためだ」

その言葉を、何度も繰り返し聞かされた。

否定する理由を、彼は持たなかった。


ただ夜になると、思い出す。

古い家の一室。ずれたテンポ。笑い声。

そして、隣で同じ未来を信じていた少年の横顔。

もし敵と向き合うことになったら。

もし引き金を引けと命じられたら。

その相手が、彼でなければいいと願い続けていた。

それでも、エリオは銃を捨てなかった。

捨てれば、守れないものがあると信じていたからだ。

彼の正義は、とても小さかった。

国のためではない。

勝利のためでもない。

ただ、これ以上、何も失わないための正義だった。


前線で、僕はエリオと再会した。

互いに銃を構え、初めて相手が誰かを知った瞬間、時間が止まった。

「……生きてたんだな」

「お前も」

 それだけだった。


彼もまた、別の正義を背負ってここにいた。守りたいものがあり、信じる言葉があった。

僕らは引き金を引かなかった。

ただ、銃口を下げることもできなかった。

その沈黙こそが、戦争の正体だった。


戦争は、停戦で終わった。

勝者も敗者も、はっきりしないまま。

教科書に載ることもない、小さな戦争だった。

僕は生き残った。

エリオも、生きていたと聞いた。


瓦礫の中で、僕は壊れたピアノの鍵盤を一つ拾った。

白だったはずの表面は灰に汚れ、角は欠けている。音は、もう出ない。

それでも、親指をそっと置く。

かつてそこにあった重さを、体が覚えていた。

隣に、もう一つ鍵盤がある気がした。

同じ高さで、同じ間隔で。

あの頃、自然に並んでいた距離。


連弾は、一人では成立しない。

速さを合わせ、息を合わせ、相手の指先を感じながら進む。

正しさよりも、ずれないことを選ぶ音楽だった。

戦争は、それを許さなかった。

音を危険だと名付け、夢を廃棄し、二人の間に銃を置いた。

俺の国の正義は、本当に正しかったのか。

同じ未来を信じていた親友に、照準を合わせることが、正義だったのか。

答えは、鍵盤の沈黙の中にある。

出ない音が、確かにそこに在る。

もし、また鍵盤が並ぶ日が来るなら。

勝敗でも、国境でもなく、

ただ隣に座れる距離で。


そのとき、僕らはもう一度、連弾を始めるだろう。

音が出なくてもかまわない。

合わせようとした、その一瞬こそが、

本当に大切だったものだと、今なら分かる。


そして今日も、世界は静かすぎる。

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