姉妹
『今はそこまで考えられねえよ。なるようにしかならねえだろ』
そう聞こえた瞬間あたしはイヤホンをむしり取ると、それが繋がった端末ごと道路の側溝に打ち捨てた。
すれ違う人たちの視線なんて知らない。
幸人さんなんて、もう知らない。
好きかの問いへの返答には心が躍った。
嬉しい、通じ合っている、そう思ったのもつかの間。
あの女にさえ前向きだったはずの結婚なのに、あたしへはそうではなかった。
わかってくれなかった。
すべてあたしの独りよがり。
もう知らない。
全部忘れる。
あたしを知らないどこかへ行こう。
幸人さんなんて忘れて、どこかへ。
だからお願い、あなたも忘れて。
あなたにあんな顔をさせた、馬鹿な女のことなんて。
あなたを不幸にする、こんな女のことなんて――。
「――美咲?」
呆然と歩いていたあたしに後ろから呼びかけたのは、落ち着いた不思議そうな声だった。
「え、ゆき……?」
その声があの人だったら、何を置いても距離を取らなければいけないのに。
あたしの浅ましさは、勝手にあたしの足を縫い留め、振り向かせた。
しかしそこにいるのは焦がれた人ではなかった。
落ち着いたカジュアルな服装に身を包み、スーツケースを片手で引いた、ポニーテールのその人。
近づいてくると、銀縁眼鏡の奥の瞳を僅かに見開いた。
その人はあたしの目の端に浮かんでいた涙を指先でそっと拭うと、小首を傾げた。
「女の涙は貴重。無駄に流すともったいない」
「凜花、お姉ちゃん……」
あたしのすぐ上の姉が、そこにいた。
「真昼間に幽霊がゆらゆらしている、と思ったらまさかの美咲」
「誰が幽霊よ」
あたしは凜花お姉ちゃんに連れられて、近くのファミリーレストランにいた。
あまり食欲もないのでドリンクバーの紅茶だけのあたしに対し、四人掛けテーブルに鎮座したステーキは見る見る減って行こうとしている。
健啖家ぶりを発揮しているのは、対面に座っている凜花お姉ちゃん。
あたしより身長も低くて細いのに、どこに入っていくのか。それでいてあたしより大人っぽい見た目の美人ってどういうことなのか。いえ、確かに年はあたしより四歳上なんだけど。
「何ヶ月ぶり?」
その質問に、あたしは回らない頭で振り返る。前に凜花お姉ちゃんに会ったのは、確か。
「半年くらいかしらね。どこかに行ってたの?」
あたしは傍らに佇む赤いスーツケースを見やった。
「熱海。温泉宿というものを満喫して来た」
「え、まさか半年間ずっと?」
「うん。流石に飽きた。スランプになったから帰って来た」
「スランプって。豪遊と言い、売れない漫画家のセリフじゃないわね」
「売れないとは何と比較して言っているのか。相対的な話か発行部数の話か?」
むっ、と唇を尖らせた凜花お姉ちゃんに、あたしは視線を巡らせて窓に暴言をぶつけた。
「アニメ化してない漫画は売れてないのと一緒よ」
「手厳しいけど真理。なるほど、確かにわたしのは売れない漫画」
「納得しちゃうんだ」
やさぐれた結果の一言を尻目に、凜花お姉ちゃんはメニューに目を走らせていた。まだ食べるつもりだろうか。
「美咲は何か注文する?」
「……別にいいわ」
「そう」
凜花お姉ちゃんは表情の変化に乏しい。小さい頃はそれが苦手だったこともあるけど、今では読み取れるようになっている。
今は多彩なメニューに浮かれているみたいだ。旅館での豪勢な料理との対比もあるだろうけれど。
「……やっぱり、あたしも何か頼もうかしら」
「期間限定カレーがおいしそう」
「……カレーはいいわ」
じくり、という痛みに身体が丸まりそうになる。
そんなあたしに、凜花お姉ちゃんはメニューを見せてきた。
「なに頼む?」
「…………」
「奢る」
「……ありがと」
結局、あたしはこじんまりとしたデザートを頼んだ。紅茶さえ半分も飲んでいないのに、食べられるかどうかはわからなかったけど。
対して凜花お姉ちゃんはパスタを頼んでいた。
「――こっちの気も知らないで」
知らず飛び出した自分のその言葉に、あたしの方が驚いてしまった。気まずくなり、あたしは窓の外で視界を埋めた。
雨が降って来ていた。
通行人がそれを避けようと足早に動いている。
恐る恐る凜花お姉ちゃんを見ると、僅かに眉を下げた、困った表情。
あたしはばつが悪くなり、頭を下げた。
「……ごめん。八つ当たりだった」
「いい。わたしも配慮がなかった」
どこか、凜花お姉ちゃんは、しょぼん、としていた。
「お腹いっぱいになったら、何とかなると思って」
――配慮の塊じゃない。
鼻の奥がツンとなった。
凜花お姉ちゃんは言葉も少なく表情の変化もあまりないけど、こうやって昔から自分なりの不器用なやり方で寄り添ってくれた。
今だって何も聞かず、ただ優しくしてくれて。
「聞いて、お姉ちゃん」
「うん、聞かせて、美咲」
だからあたしは、そんな凜花お姉ちゃんが大好きなのだ。
「漫画の題材になりそうなお話」
「やめてくれる? そういう感想」
「反省」
あたしと幸人さんの話を聞き終わった凜花お姉ちゃんは、フォークにパスタをくるくる絡めながら職業病を発症した。
次いで、視線を上にあげて考え込んだ。
「その幸人さんは」
「寺島幸人さん。寺島さんね。いくらお姉ちゃんでも、そこは線引いて」
美人のお姉ちゃんが「幸人さん」なんて呼ぶと、そんな気持ちはないのがわかっていても気分がささくれる。
あたしは落ち着こうと、デザートのプリンのためにスプーンを手にした。
「反省その二。その寺島さんは、とても格好いい人」
「敵なの!?」
デザートのプリンにスプーンを突き立ててしまったあたしは悪くない。
「説明しただけで敵が量産されるとか、さすが幸人さん! って、どれだけ排除すればいいのよ!」
「プリンが可哀想」
「あたしのほうが可哀想よ!」
お姉ちゃんは再びフォークを動かす。あたしも腰を落ち着けて、哀れなプリンを味わった。
怒りの震えがプリンに伝わって食べづらいのなんのって。ちなみに味は良かった。
「格好いいって言ったのは、美咲を一番に考えてくれたから。なかなかできないこと」
「……どういうこと?」
もしそうなら凄く嬉しい。けれど、何のことを言っているのかわからない。
戸惑うあたしに、お姉ちゃんは眼鏡の位置を整えて言った。
「まず美咲、重すぎる。その年で結婚とか引かれる、普通」
「ふぐうっ」
もしかしたらそうかも、と思っていたことを端的に言われ、あたしは逃げ場なく怯んだ。
「美咲の努力を知っているなら、それを捨てさせるとか責任重大なんてものじゃない。親兄弟にだって当然反対されるし、なんて唆したのかってきっと責められる、寺島さんが。なのに真っ先に美咲の将来を思えるとか、なんてイケメン主人公。対してメインヒロインの独りよがりと来たら、読者の拒否感煽りまくりでヒロイン中人気最下位。打ち切りを呼ぶレベルで、編集者が頭を抱えてる」
「頭を抱えてるのはあたしよおっ……!」
今更ながら自分の行動を振り返らされて、恥ずかしさと痛々しさに身悶えした。
押し付けて浮かれて、謝られてブチ切れて、悲劇のヒロインぶって!
それは藤井さんにも失望の目を向けられるし、お姉ちゃんにこんなヘンテコな評価もされるわ!
「あ、謝ってくるうっ……!」
「美咲、そのテンションダメ。二の舞になる」
「はうううっ……!」
立ち上がったり座りなおしたり、あたしは忙しい。それがさらに羞恥を上積みし、小さくなるばかりだ。むしろ、迷惑客として追い出してほしい!
しかし、客の少ない時間帯で店員さんも引っ込んでいるようで、あたしが望むような展開にはならず、お姉ちゃんのフォークの音が響くばかりだ。
「落ち着こう。というか疑問」
「な、なに?」
また正論の弾幕にさらされるのか、とあたしは身を竦ませる。
「どうして高校卒業で? 大学卒業後でも結婚できる」
「……そ、れは」
口ごもるあたしを急かさず、お姉ちゃんは待ってくれる。それが逆に申し訳ない。
「早く一緒になりたい、っていうのもあるけど」
あたしは恥ずかしさのあまり、顔を伏せるしかなかった。
――言えない。
照れじゃない。自分の不甲斐なさ、空虚さを告白するのがとてつもなく恥ずかしい。
内心で振り返ったその理由に、幸人さんへの申し訳なさも募る。
ぼろぼろと、涙がこぼれた。
「ごめ、おねえ、ちゃ。い、いえな」
「とりあえず顔拭こう」
顔に張り付いてきたのは、かさかさとした感触だった。何枚もの紙ナフキンのようで、角が刺さってちょっと痛かった。
「って、普通ハンカチでしょおっ!?」
「手持ちがなかった」
あたしの心境そっちのけで、凜花お姉ちゃんは通常運転だった。
いえ、心配そうな感情は伝わって来るけど、どこか行動は的外れで。
――そこが凜花お姉ちゃんらしくて、あたしは思わず笑ってしまう。
あたしは自分でハンカチを取り出して、なんとか涙をぬぐうことができた。
「ごめん、言いにくいこと聞いた」
謝罪に、あたしは首を横に振るしかできない。
そう、お姉ちゃんは当然の疑問を尋ねただけだ。
相談を持ち掛けたにもかかわらず、それに答えようとしない、あたしが悪いだけ。
「でも、久しぶりの美咲は辛そうだけれど」
そっか、そんな風に見えるんだ。
「生き生きもしていて、なんだか眩しい」
「そう、かな」
「うん。好きのパワーがずんずん響いてくる」
テーブル上に散らかった紙ナフキンを集めながらお姉ちゃんは言う。その手つきはまるで、別の何かをかき集めているかのようだった。
「……好きのパワー」
自覚はある。
それで脇目も振らずに、幸人さんへと突き進むつもりだった。
「……確かに我ながらすごいパワーだとは思うけど、それだけでうまくいくわけじゃないもの」
「うん。制御を間違うと諸刃の刃」
それはまさに今のあたしの状況だった。
制御に失敗し、傷ついた。
いえ、あたしだけならまだしも、幸人さんを巻き込んだ。
あたしの視線の先で、お姉ちゃんは集めた紙ナフキンを集めてぎゅっとして――手を離した途端膨れ上がって、またテーブルに広がってしまった。
その有様にちょっとびっくりしたお姉ちゃんに、あたしは思わず突っ込んだ。
「まとめ下手か!」
「お姉ちゃんっぽいところを見せたかったのに」
「紙ナフキンで表現できるお姉ちゃんっぽいって何!?」
「さあ」
「もお、笑わせないでよ……!」
今度は別の涙が出てくる。あたしは何とか、それを笑いの涙にごまかせた。
「とりあえず、これはさておいて」
お姉ちゃんは紙ナプキンの山をテーブルの脇に寄せた。
「寺島さんとは別れる?」
「別れないわよ!」
「さっきそう言ってた」
「き、気の迷いよ!」
「理由は?」
問われ、あたしは詰まった。
あたしはそばにいない方がいい、と思ったのは事実。
あんな顔をさせてしまったのも事実。
最低な自分に気づいたのも事実。
色んな事実があるけれど――。
たった一つ、間違いない事実があった。
「やっぱり、好きなの」
「それって、俺のことで合ってるか?」
お姉ちゃんの視線があたしの背後に向いた。
まさかの声に、あたしは茫然と振り返る。
そこには幸人さんがいた。所々を雨で濡らし、肩で息をしている。
「噂の寺島幸人さん?」
「え、あっと。君は?」
幸人さんは、初めて同席の人間がいることに気づいたようだった。
まさか、だけど。
あたししか見えていなかった?
「竜禅寺凜花。姉です。美咲がお世話になっています」
お姉ちゃんはおもむろに立ち上がると一礼した。
それに、幸人さんも同じように礼を返した。
「寺島幸人です。その……」
気遣わしげにあたしを見た幸人さんは、お姉ちゃんに向き直った。
「美咲さんと、お付き合いさせて頂いています」
その瞬間、あたしの涙腺のバルブは弾け飛んだ。
「う、うえええええええんっ!」
「わ、なんだっ?」
「ご、ごめんなさいいい。わ、我がまま言ってごめんなさああいいいいいい……! う、うえええええん……!」
「あ、ああ……?」
幸人さんが戸惑っているのがわかる。
でも止まらない。号泣が止まらない。
「あの、お客様? 他のお客様のご迷惑にもなりますので、申し訳ございませんがもう少し……」
「す、すみません。なんとかしますので」
「ついでにこれもなんとかしてもらっていいですか。このナフキンの山」
お姉ちゃんはマイペース過ぎよお!
なんとか泣き止めて、店員さんに追い出されずに済んだあたしたち。
お姉ちゃんに飲み物を勧められて、幸人さんの前にはコーヒーが置いてある。
「察するに、美咲を追いかけてきたのかな、この雨の中」
「あ、はい。見つかってよかったです」
「ごめんなさい、幸人さん……」
申し訳なくも嬉しい。
「よく見つけられたね。店内だというのに」
「雨が近いからむしろ店内かな、と。窓際じゃなかったら見つからなかったかもしれません」
「なるほど」
お姉ちゃんと同じく、みんなして窓の外を見た。雨が激しく、もはや人通りはない。
それにしても、方向が違えばどれだけ店内を探しても見つからなかっただろうに、もはや運命を感じずにはいられない。
いえ、まず幸人さんの労力あってのことだから、もちろん感謝の念しかないけれど、それでも内から込み上げてくるものはどうしようもなかった。
それを口にしたのはお姉ちゃんだった。
「ダメヒロインに対して、格好良すぎないか、このイケメン主人公」
「だ、誰がダメヒロインよっ。幸人さんは渡さないんだからねっ」
「美咲。濡れてるから」
「いいのっ」
隣の幸人さんを、渡すまじ、と腕にしがみつくあたし。
言う通り雨で濡れているけれど、冷えてもいる。だからあたしが暖める!
「寺島さん、いつもこんな感じなのかな、美咲は」
「はあ、概ね」
「敬語はいらないし、凜花お姉ちゃんと呼ぶことを許す。凜花姉さんでも可」
「……なんとか凜花さんで収まらないかな。後、俺のことも幸人でいいんで」
「残念。ならわたしも幸人くんと」
「なあっ!?」
幸人さんの体温を堪能している間に物騒な交渉が成立していた。
「い、いいわけないでしょ!? 馴れ馴れしすぎでしょ、お姉ちゃん!」
「なぜ。妹の彼氏くんを他人行儀に呼ぶとか、それこそ交際を否定していると思うがいかに」
「そ、そうかもだけどお……! ね、ねえ、幸人さんもお姉ちゃんのこと、そんな風に呼ばないでほしいんだけどおっ!?」
「いや、言いたいことはなんとなくわかるけど、他にどう呼べばいいんだ? 竜禅寺さんもおかしいだろ」
「う、ううぅっ……!」
これ藤井さんとの会話にもあった、あたしの家族とも仲良くしてほしい、ってやつだ。
あの時はあんまりお姉ちゃんに構ってほしくないって言っていたけど、実際目にすると平静じゃいられない。
家族とはいえ、他の女の子と仲良くする様は思った以上に拒否反応を生んでいた。
「独占欲の権化」
「うっ」
お姉ちゃんの直接的な指摘にあたしは呻く。
「そうよ、独占したいのよ。なんか文句ある……!?」
選択したのは開き直りだった。
こんな態度じゃいけない、とわかっていても抑えられない。
「美咲」
静かな声に恐る恐る顔を上げると、そこには申し訳なさそうな顔があった。
「美咲の家族と、仲良くさせてくれないか」
「……幸人さん」
そうだ、幸人さんには、もう家族がいないんだった。
お母様との縁はあたしが奪った。
なのに、あたしの家族とも仲良くしてくれようとしているのにそれを遮るなんて。
「心狭いなあ、あたしって」
どこまで最低なんだろうか。
どこまで落ちれば気が済むのか。
本当に、こんなあたしが幸人さんの傍にいてもいいんだろうか。
そんなあたしの心境が届いたのだろうか。
幸人さんが隣で大きなため息をついた。
――いい加減、愛想を尽かされるだろうか。
あたしの身体が、拒絶に身構えて強張る。
けれど、次の瞬間に訪れたのは、頭を撫でられる感触だった。
「まあ、ほどほどにしてくれると助かる」
いつものあやすような声音に、あたしは心底安堵した。
思わず幸人さんの腕に顔をうずめてしまう。
暖めたいのに、また袖を濡らしてしまう。
こんなに泣き虫だったっけ、あたし。
「お見事な女たらしっぷり」
「言い方!」
気が抜けたような拍手と同時の感想に、あたしは異議あり、とばかりにお姉ちゃんに食って掛かった。
「いくらなんでも失礼でしょ!」
「反省その三」
お姉ちゃんは苦笑いの幸人さんに頭を下げると、立ち上がってテーブルの伝票を手にした。
「なので逃げる。もとい戦略的撤退」
「え、もう行っちゃうの?」
幸人さんを見ると、名残惜しそうにしている。
それはあたしも一緒だ。確かに幸人さんと二人っきりの方がいいけど、久しぶりに会ったから話したいのに。
お姉ちゃんは眼鏡の奥の瞳をそっと細めると、ひらひらと伝票を振った。
「できるお姉ちゃんは空気を読むもの。さらば」
そしてガラガラ、と。
お姉ちゃんは赤いスーツケースと一緒にその場を後にした。
「挨拶の暇もなかった……なんか、独特な世界観の人だな」
そこに肯定的な色を感じて、あたしは嬉しくなった。
「自慢のお姉ちゃん。ちょっとわかりにくいけど、とっても優しいの」
「きっとそうなんだろうな。おっと、忘れてた。これを届けに来たんだった」
差し出されたのはあたしのスマホだった。
「ご、ごめんなさい。わざわざありがとう」
「いや。不便だろうと思ったし」
その至近距離の優しい表情に苦しくなり、そっと幸人さんの腕を解放した。
「美咲?」
怪訝そうなその声に、あたしは顔を伏せた。
「ごめんなさい、幸人さん。あたし、ひどいこと言った」
「……ああ」
区切るように、幸人さんはコーヒーを口にする。
「気にするな。ちょっと驚いただけだ」
「あたしっ」
気が急いて、幸人さんの語尾にかぶせてしまう。
落ち着け、泣くな。ちゃんと言え、飲み下せ。
そうして、なるべく淡々と、冷静に。
「あたし、彼女でいて、いいのかな」
――卑怯な聞き方を、した。
この期に及んでの、この浅ましさ。
どうして、こうも。
コーヒーカップをソーサーに戻す音が、判決に聞こえた。
「美咲こそ、俺が彼氏でいいのか?」
幸人さんがいい。
彼氏でいて、幸人さん。
お願い。
「結婚話を持ち出されても、謝ることしかできない男だぞ、俺は」
「それは」
聞きたい。
どうしてあの女は良くて、あたしはだめなの?
違う、そうじゃない。
また隠すつもり?
お母様の時みたいに!
「あたしは、幸人さんを利用しようとしていただけだから」
「……どういうことだ?」
ほら、通じてない。
ちゃんと話を組み立てなさい。
ごまかさず説明しなさい。
お姉ちゃんには言えなかったこと。
当の幸人さんには言わないといけないでしょう?
ほら、はっきりしなさい。
竜禅寺美咲!!
「あ、あたし、お姉ちゃんみたいに、漫画家の夢とか、やりたいこととかないの。たくさん学ばせてくれたのに。恵まれた環境にいるのに。あ、愛してくれてるのに。それがわかってるのに、見つからないの。なんにも思いつかない」
あたしには最初から、諦めるような、奪われて困るような将来なんてない。
それをさもあったかのように見せつけて、責任を負うように仕向けるなんて。
あの女と比較にならないくらい、本当に最低。
この調子で、全部、全部吐いてしまえ。
「あたしは将来が不安なの。やりたいことがなんにもなくて。行きたい大学もない。けれどそこに幸人さんのお嫁さんになりたいって明確な未来が見えた。ただそこに飛び込みたかっただけなの。ただ逃げ場所がほしかっただけなの。お、おかしいよねあたし。だから大丈夫、結婚の話なんて忘れてくれていいから」
熱に浮かされたように、呪文のように早口に、勢いに任せたまま制止されないように。
お願い、最後まで言わせて。
お願い、最後まで言わせないで。
「こんなあたしにもう構わなくていいから。だからだから、だから。あ、あたしあたし、か、かの、あなたの彼女、もう、もうおわりでい――」
――――え。
声は止められた。
すぐ近くに幸人さんの顔。
唇は塞がれていた。
物理的に、幸人さんの唇で。
――――え?
それはゆっくり離れていった。
眼前には、幸人さんの呆れた顔。
「また一人で決めるつもりかよ」
「え」
「勝手に結婚、勝手に取り下げ。あげくに彼女まで終わりにしたいってか」
幸人さんの人差し指が、放心状態のあたしの唇に、触れるか触れないかの位置に伸ばされる。
「本当に、これが最後でいいんだな?」
これ?
あたしの視線は幸人さんの人差し指に。
次いで、幸人さんの顔へ、その唇へ。
これって。
キス?
びくん、と鼓動が跳ねた。
「やだ」
「だったらどうする」
「か、彼女終わるのやめます」
「彼氏は俺でいいんだな?」
「幸人さんじゃなきゃ、やだ」
「そうかよ」
現実味のない気分の中、幸人さんはテーブルに向かって座りなおすと、落ち着いた様子でコーヒーを傾けた。
そうして、一息ついた幸人さんは言った。
「美咲の将来が俺のだって言うなら、どうするか一緒に考えさせてくれてもいいんじゃないか?」
「……一緒、に」
あたしの将来を、幸人さんが一緒に考えてくれる。
それは、なんて。
「いいかなお二人さん」
「うわっ」
「お姉ちゃん!?」
スーツケースが転がる音と共にいきなり声をかけてきたのは、立ち去ったはずの凜花お姉ちゃんだった。
こんな場面だし、さすがに驚いた。幸人さんも声を上げる位だ。
「帰ったんじゃなかったの!?」
「お金貸して。財布どこか行った」
「先にできるお姉ちゃん返して!? じゃあなに、ずっといたの!?」
「シリアス終了まで待ってた」
「終わってないし! もうちょっと待てなかったの!?」
「レジの人がタイムアウトしそうで」
「もおおおおー!」
笑いをかみ殺す声が聞こえる。
それは幸人さんからだった。
「え、っと。ご、ごめんなさい、幸人さん。こんなお姉ちゃんで」
「反省その四」
「い、いや。楽しいお姉さんだと思うぞ。楽しませてくれたお礼と言っては何だけど」
幸人さんは、笑いが収まらないままにお姉ちゃんが持っていた伝票を、するりとその手から抜き取った。
「久しぶりの再会みたいだし、ごゆっくり」
「幸人くん、それは」
「え、わ、悪いわよ……!」
「いいんだ」
あたしたちの声を振り切って、幸人さんは背中を向けた。
「俺も今は冷静じゃないみたいだからな。戦略的撤退が必要なんだよ」
そういうと、お姉ちゃんと違ってちゃんとレジを通過し、傘も忘れず立ち去って行った。
「さすができるイケメン主人公彼氏くん。惚れそう」
「……お姉ちゃん……?」
あたしの低い声と冷たいまなざしに、お姉ちゃんは表情一つ変えない。
「冗談」
「笑えないわよ! だからお姉ちゃんの漫画って売れないんじゃないの!?」
「痛恨の一撃」
がくり、と項垂れたその拍子に、お姉ちゃんのパンツの後ろポケットから飛び出すものが見えた。
「お財布、それじゃないの?」
「あれ。発見、灯台下暗し」
「だったら、今度こそ奢ってもらうわよ。なんだか小腹空いてきちゃったし、騒いだ分注文しないとなんだか悪いし」
「同感。貢献する」
言いつつ席に着き、なんだか辟易していそうな店員さんに注文した。ごめんなさい。
ちなみにお姉ちゃんはまだ食べたりないのか、大盛チャーハンだった。
「ホント、どこに入るのよ。それにしても、お姉ちゃんが財布なくしたって勘違いしてなかったら、いい雰囲気がまだ続いてたのに」
これぐらいの愚痴は許してほしい。さすがにお姉ちゃんはばつが悪そうだった。
「そうしたら、幸人さんと一緒に、将来の話を――」
――え、一緒に?
将来の、話?
「え、それってやっぱり結婚してくれるってことじゃないの?」
「また飛躍してる」
「だ、だって! だってキスだって――!」
キス。
瞬間、頭が沸騰してあたしは座席に倒れこんだ。
――キス、したんだ、あたし。
しかも、幸人さんの方から強引に、有無を言わさず奪ってくれた。
その後の真剣な表情と来たら。
「ほ、惚れ直すに決まってるわよお……!」
「お見事な女たらしっぷり」
「ホントに! さっきは失礼って言ったけど、むしろ妥当よ順当よ! どこであんなの覚えたの!?」
あたしは息も絶え絶えに、テーブルに手をかけて身体を起こした。
「お、お姉ちゃん」
「なに、美咲」
「ホ……ホントに、好きになっちゃダメだからね?」
割と本気の懇願に、お姉ちゃんは一瞬考えこんだ。
「うん」
「その間は何なの!?」
「冗談」
「だから笑えないのよー!」
もお!
あたしのお姉ちゃんはマイペース過ぎよおー!