共犯者
「ふふ、ふふふ」
あたしこと竜禅寺美咲は、表情が緩むのを抑えきれなかった。それどころか、浮ついた心が唇から零れてしまうほど。
晴れて幸人さんの恋人としての地位を得て、初めておうちに伺うのだ!
もう、もう万全よ。準備色々OK、あれもこれもOK、すべて大丈夫!
扉を開けたが最後、色々漏れちゃうかもしれないけど、閉めるまで持てばいいの!
この後の展開をあれこれ妄想し、幸人さんのアパートへとたどり着き、インターホンを押す。
さあ天国よ、あたしを迎え入れなさい!
「はいはーい」
「え」
聞こえてきたのは幸人さんとは違う軽い声。思わず表札を確認するも寺島で合っていて、そこをあたしが間違うはずはない。
戸惑っている間に扉は開き、声の主と思しき人が姿を現した。
「……おや」
「……あなたは」
値踏みするような視線があたしを刺してくる。もっとも、あたしの方もそれ以上に剣呑でしょうけど。
「ああ、そりゃそうなるよな……」
奥から聞こえてきたのは、どこか諦めたかのような幸人さんの声。
あたしは玄関に陣取った人物を改めて確認した。
なぜこの人――藤井亨さんがここにいるの?
あたしはぎこちなく、藤井さんの背後に現れた幸人さんに視線をやった。
「エプロン!?」
困惑はどこかに吹き飛び、貴重な幸人さんのエプロン姿を網膜に焼き付けた。
「ど、どうしよ。しゃ、写真写真……!」
「……あー、幸人? このお嬢さんは? もしかして、前に言ってた?」
「ああ、まあ……うん。とりあえず上がれ、そこの不審者」
「それ、あたしのこと!?」
まあ、スマホのカメラを連射してたら、そう言われても仕方ないかもだけど!
とにかくよくわからない状況ながら、あたしは勝手知ったるとばかりに幸人さんの部屋に足を踏み入れた。
道を空けてくれた藤井さんの瞳は、まるで追跡するかのようにあたしに張り付いていた。
それは性的なものではなく――どこか訝しむ視線で、要するに――あたしを計るものだった。
――へえ。そういうこと?
あたしはどこか納得したように、けれどそれにすぐに興味をなくして、改めて幸人さんの部屋に歩みを進める。
幸人さんの家はアパートの一室、1Kとこじんまりしている。
あたしはその雰囲気が好き。幸人さんとの距離が自然と近くなるから。
けれどそこに今は、異物がいる。
「幸人さん。紹介してもらっていい?」
「まあ、そうなるよな」
幸人さんにとっても、この邂逅は望んだものではないようだった。
「同僚兼友人の藤井亨だよ。今日はたまたま遊びに来てた」
「親友兼同僚だろー? つれないこと言うなよー」
「なんでまとわりついてくるんだよ」
幸人さんと馴れ馴れしく肩を組む藤井亨!
こ、この男! あたしが望んでやまないスキンシップをこんなに軽々と……!?
わなわなしているあたしに、ちらり、と飛んでくるのは藤井亨の勝ち誇ったかのようなまなざし。
な、何なのこのわざとらしさ……も、もしかしてこれが幼なじみムーブってやつ!?
こ、こいつ敵なの!? 共犯者から裏切り者に転じたってわけ……!?
「で、幸人。このお嬢さんは?」
ざーとらしい! あんた、あたしのこと知ってるでしょうが!?
唇の内側まで来たその下品な叫びを、あたしはぎりぎりと噛み砕いた。
よくわかんないムーブをされてるけど、あちらがこちらと初対面という体裁を取っている以上、まだ密約はぎりぎり保たれている。
あたしも、幸人さんに近いこの人脈をやすやすと捨てるわけにはいかない。
けど、それを差し引いてもこの態度、見過ごせるわけないわよ……!
「あー……うん」
幸人さんは何かをためらった後、意を決したように頷いた。
そうして、あたしを真剣に見てくれた。
「美咲、竜禅寺美咲。俺の大事なやつだ」
卒倒するかと思った。
すとん、と視界が上がった。
腰が抜けた、と気づいたのは膝を打ったからだ。
こんなシーンをずっと夢見てきて、その度に悶々と身体をくねらせてきた。
けれど、唐突に訪れたその機会は、どんな心構えも役に立たず、あたしを呆けさせた。
「お、おい。大丈夫か、美咲」
幸人さんが気遣いの表情を浮かべて近づいてくる。
その様が、あたしにこれが現実だと告げていて。
そうしてようやく、あたしの内心に津波のような激情がせりあがって来た。
「う、うえ」
「上?」
怪訝そうに見上げる幸人さん。その隙をついたわけじゃないけれど。
「うええええええええええんっ!!」
「おわっ!?」
あたしは思いっきり幸人さんに抱き着いて、その胸に顔を埋めていた。
「あ、あたしも、幸人さん大事いいいいいっ! ふええええええ……っ!」
「お、おい。ええ……?」
髪に柔らかな感触。戸惑いながら、撫でてくれているのだろう。その優しさに、暖かさに、涙を止められるわけがない。
どこか頭の片隅で客観的に、けれどだからと言って何も止められない。
「好き、好き、大好き! もお、もお、絶対旦那様にするうううっ! 寺島美咲になるううう! もらってええええ!」
「いや、まあ、うん? と、とりあえず落ち着け」
「すげえ自己紹介だな」
頭の上で交わされる会話にも、あたしの熱暴走はしばらく止まることがなかった。
「あー、それじゃあ改めて、だが」
一つ咳払いする幸人さん。ちゃぶ台を囲んでの一幕だ。
「高校時代からの友人、藤井亨だ」
「どーも、初めまして」
「で、こちらが竜禅寺美咲」
「幸人さんがいつもお世話になっています。初めまして、妻の美咲です」
「って、おい」
幸人さんの腕を抱きかかえたまま、あたしは藤井亨に不敵なまなざしで挑みかかる。
高校時代からが何よ、あたしにこのぬくもりがある限り何があっても無敵よ。
ま、まあホントは胸を押し当てているのが恥ずかしくて、表面ほどは平気じゃないんだけど。
ど、どうしよ。汗臭くない、あたし? 心臓がマシンガンみたいに鳴ってるし、うるさくないかしら。
それでも、振りほどいたりしない幸人さんの優しさが心地よくて、もはや成仏しそうだわ。
「まっさか、こんな感じとはなー。予想外だったわ、色々」
おかしそうに、けらけらと笑う藤井亨。その様子からは、あたしの態度に思うところは特にないように見受けられる。
あたしだけが警戒心丸出しってことなのかしら? いまいちよくわからないわ、この男の内心は。
対して、見上げた幸人さんの表情は居心地が悪そうだった。
――って、近っ!
今更ながら、今までとは比べ物にならないほどの近さに、思わず背筋が伸びる、というか反り返りそうになる。
頬の滑らかさとか、可愛い耳たぶとかに、目が釘付けになる。それをぎこちなくずらせば、すぐにそこには柔らかな唇。ちょっと背伸びすれば届くんじゃない、これ!?
一瞬、あたしの中で悪魔と天使が言い争う。
――いっちゃえいっちゃえ!
――そこです、今です!
争ってなかった。
背中を押され、目を閉じて唇を尖らせ――たところで、わしっ、と顔面を幸人さんに掴まれた。
「んむうっ」
「アホか。人前で何するつもりだ」
指の間から覗くのは幸人さんの呆れた表情。
それと、面白そうにこちらを眺める、無粋な観客。
一気に頭に血が上る――羞恥で。
その感情は瞬く間に全身に巡り、あたしはいたたまれなくなって後ずさった。
まだ腰に力が入らず女の子座りを維持しながら、我ながら器用だと思う動きで、部屋の隅に逃げ込む。
できたのはそこまでで、顔を覆うのは止められなかった。
そうしても感じ取れたのは、藤井亨のこらえ切れない笑いだった。腹を抱えて、膝を打っている。
「く、くくっ。か、可愛いストーカーちゃんだことで。な、なあ、そう思うだろ、幸人?」
「笑いすぎだろ」
こらえきれず苦しそうな藤井亨に対して、幸人さんは呆れているようだった。
この男、許すまじ……!
あたしと幸人さんの逢瀬を邪魔しただけじゃ飽き足らず醜態を笑うとか、どうしてくれようかしら……!
それに比べて、幸人さんはなんて気遣いができる人なの!
笑いに同調せず諫めるなんて、そうそうできることじゃない。
そればかりかその前、二人の愛情表現を見せてたまるか、とばかりの自己主張。
いいの、あたしはわかっているから、それが幸人さんの優しさで照れ隠しだってこと。そういうさりげないところに、どんどん惹かれて行っちゃうの。
あたしの情緒は上がったり下がったり、恨めしく思ったり焦がれたりと忙しい。
オーバーヒート気味の思考のあたしをよそに、幸人さんは静かに立ち上がった。
「はあ。とりあえず、食事の準備進めるぞ。手伝え亨。美咲はちょっとゆっくりしてな」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。腹痛い」
「一発入れたら落ち着くか?」
「い、いや、遠慮しとくわ。はー、筋肉痛になりそうだ」
「まだ言うか」
「落ち着いたって!」
――――。
そのじゃれ合いのようなやり取りは、あたしの内心をいささかならず落ち着けた。
落ち着き過ぎて吹雪くくらいだった。
「包丁出すぞー」
「ああ。使う前に研いでくれるか? 最近切れ味悪い」
「了解。相手は鶏肉?」
「まだ冷蔵庫な」
軽快に動く後ろ姿が憎たらしい。
ただのお客さんとして遇されている今に歯噛みする。
何なの、こいつ。
ええ、料理の準備のために幸人さんがエプロンをしていたってことは理解したわ。その最中にあたしがやって来たってことも。さらにその前からこいつがいたってことも。
でもその前って、一体いつからなの?
あたしは包丁の場所なんて知らない。
料理の会話なんてしたこともない。
どうしてそこに、あなたがいるわけ?
あたしがいるべき場所に、どうしてあなたが?
妻と名乗ったあたしが。
幸人さんと一緒に!
迎える立場であるはずなのに!!
「美咲ー?」
「えっ、はい」
狭く昏くなっていた視野が広がり、瞬時に色彩を取り戻す。
呼びかけられて、手のひらの痛みに気づいた。随分握りしめていたのか、爪が食い込んでしまったみたい。
そこまで考えて、自分がどんな表情をしていたのか気になった。
けれどそんなあたしを振り返っていたのは藤井亨で、そいつはどこか冷たい瞳であたしを見下ろしていた。
声をかけてきた幸人さんは野菜の皮でも剥いているのか、視線はシンクに注がれたままだ。
「な、なに、幸人さん?」
どもってしまったけど、普段通りに返せた、と思う。
けれど、そんなあたしに何かを感じてくれたのか、手を止めてあたしの方を向いてくれた。
それだけなのに、さきほどまでの泥のような感情は吹き飛ばされて、鼓動が高鳴る。
「昼ごはんどうする予定だった? 今カレー作ってて、食べていってもいいけど。とは言っても、もう少しかかるが」
「ほや、やったあ! た、食べる食べる! 幸人さんの手料理、絶対食べる!」
思いがけない申し出に嬉しくて、声が上ずって変な喜びになってしまった。
どこか安心したように頷いて作業に戻る幸人さん。そのあたしの視界に、冷めたような表情で肩をすくめる動作が入り込む。
「ゆ、幸人さん? 何か、手伝えることない?」
もう反射だった。
幸人さんに背中を向けられているこの状況。
まるで、世界から切り離されたかのような孤立感。
それは私にとって思いの外、辛い状況だったのだ。
「あー、いや、大丈夫だ」
けれど、返って来たのは無情とも言える宣告で。
切りつけられたように、あたしは身をすくませた。それは身だけではなく涙腺も刺激した。決壊の気配に、ただただあたしは戸惑う。
「もう後は煮込んで、食べる前にルーを入れるだけだから。もう少し待ってくれな」
火加減を気にしながらもあたしを気遣うその姿勢に、今度は別の意味の涙がこぼれそうになる。
「……ん」
声を出すと溢れそうになるので、喉を鳴らすだけの返事。たったこれだけに、あたしは酷く労力を要した。幸人さんの視線の向き先を確認して、素早く目尻に浮かんだものを拭う。
「じゃあ、後は待つだけ……どうした、美咲?」
「……え?」
驚いた幸人さんが、あたしを見て近づいてくるとそばにしゃがみ込んで、あたしを覗き見た。
どきり、と肩が跳ねる。
「目が赤いぞ。どうした?」
「あ、と。大丈夫。擦りすぎちゃったみたい」
「……そうか」
「なんとまあ、仲のいいことで」
「茶化すな」
「へえへえ」
まぜっ返して来たのは、あたしにとっては異物でしかない男だった。
本当に、なんなの。
幸人さんに心配してもらって嬉しかったのに、余韻もなしにかき消されて澱んでいくようだった。
「と、悪い。電話だ」
ズボンのポケットからスマホを取り出して確認した幸人さんは、なんとも言えない表情を浮かべた。
「あたしなら大丈夫だから、出て」
急用みたいだし、それが一番。
一瞬迷った幸人さんだったけど「ありがとう」と一言あたしに告げると、その男を振り返った。
「現場でトラブルっぽい。亨、美咲と火、頼めるか」
「了解。瀬戸ちゃん?」
「ああ、すまんな。終わらないようなら先に食べててくれ。もしもし? 何かあった?」
前半をあたしたち、後半を電話に投げかけながら、ベランダへと移動した幸人さん。
ベランダへの窓ガラスが静かに閉まる。
そうすると、聞こえてくるのは遠い街の喧騒、鍋が火にかかっている音、ガラス越しの幸人さんの声。
いつもの幸人さんの部屋が、まるで決闘場のよう。
あたしは立ち上がった。
「どういうつもり?」
「どうって何が?」
返ってくるのは、ヘラヘラとした笑み。なのに目は笑っておらず、あからさまな嘲弄だ。
幸人さんはすぐ近くにいる。だから怒鳴り声なんて以ての外。自然、あたしは声を潜めて苛立ちを噛み砕く。
「あんたが幸人さんの知人なのは事実。だからここにいるのも仕方ない。けれど、どうして今? 教えていないのはどういうこと?」
「おいおい、俺にだってプライベートってもんがあるんだぜ? そこで唐突に親友に会いたくなったからって、別にいちいち報告の義務はないと思うんだが?」
思わず叫びそうになって、それに先んじるように、男は口を開く。
「あんただって、今日来るって俺に言ってないだろう? もし言ってくれたら、タイミングをずらすことだってできただろうに」
彼氏の家にサプライズで訪問、というシチュエーションに酔っていてお膳立てを失念していたのは事実。それ以上は追及できず、あたしは急停止して矛先を変えざるを得なかった。
「……親友、ね」
「ああ。あいつがどう思ってるかは知らね。俺は少なくともそう思ってる」
「……初対面のあんたにあたしを預けていったことが、その証明ってわけ?」
「証明なんかいるかよ。俺がそう思ってりゃいいことだ」
「ふうん。でも例えば、あたしがここで悲鳴でもあげれば」
服の胸元を握りしめて力を込めたあたしの口元に、三日月が煌めく。
「あんたは親友から陥落するって訳ね」
「やれるものならどうぞご勝手に、ってな」
あたしはその自信に眉をひそめた。
「俺とあんた、どっちの言い分を信じるべきか。さぞかし幸人は苦悩するだろうよ。で、あんたが見たいのはそんな幸人なのか?」
思わず舌打ちが漏れ、手から力が抜ける。確かに、容易に想像できる。幸人さんは優しい人で、あたしの計略はそんな幸人さんを利用することだ。自省の念を隠しつつ、あたしは睨みつけるしかない。
「……あたしと敵対しようって言うの?」
「敵対ねえ」
どこか嘲るように、そいつは笑う。
でも、次の瞬間にそこに浮かんだのは冷たい表情だった。
「あんたにとっちゃ、誰も彼も敵ってことなのかよ?」
「……どういうこと?」
「そのままさ。あんたにとっちゃ、俺はさぞかし邪魔みたいだな? で、どうするよ? 排除すんのか?」
「あんまり目に余るようならね」
「おお、こわ。だったら、今幸人が相手している後輩ちゃん、瀬戸神奈って子だけど、そいつは結構幸人のことを慕ってるっぽい。その子も?」
「…………」
何を言ってるの? 真意が読めない。
「黙ってるってことは肯定なのか? 幸人を独り占めしたい、それに支障があるなら、誰だって排除対象。そうなのかよ?」
「ええ、そうよ。まずはあんたからになりそうね」
「へえ」
そいつは冷たい瞳のまま、唇を釣り上げた。
「正体見たり、ってな」
「……なにを」
「幸人にはあんたは相応しくない。とっとと退場することをおすすめする」
「……!」
頭に血が昇る。何を言うか整理できないまま、一歩踏み出す。
「幸人を不幸にする奴を、そばに置いておけるかよ」
「……何ですって」
それは到底、承服しかねる評価だった。
誰よりも幸人さんの幸せを願っているあたしにそう言うのか。
目の前が真っ赤に染まる。自分でも何をしでかすか、もはや見当もつかない。
けれど、その男は唇を歪めてなおも言うのだ。
「あんたはよほど幸人が大事なんだろうな。一緒に過ごす時間もさ。それは合ってんだろ」
「……そうよ」
「で、それを得るためには周りが邪魔、と」
「……だから何?」
「……頭いいと思ってたんだが、どうやらそうでもないみたいだな。ここまで言ってもわからないとは。いや、幸人限定で視野狭窄になってるのか?」
真意が掴めない。はぐらかすような自問するような。間をもたされて、あたしは正常ではいられない。
「何の話をしてんのよ……!?」
そいつは、深々とため息をついた。
「聞いたのかよ」
「だから何をよっ!」
「幸人に、あなたの大事な人たちを排除していいか、ってよ」
――何を言っているの?
意味がわからない。そんなこと、聞くわけないじゃない。
「まだわかんねえのかよ」
そいつは眉を釣り上げた。
そこでようやく、先ほどからの表情を、怒りをごまかすためのもとだと気づけた。
今あたしは、こいつに怒られている。
でも、わからない。こいつは何を怒っているの?
「幸人の周りから人を削ぎ落として、孤立させるつもりか。もう家族もないあいつに、それを強いるのか。そばにいるのはあんただけ。そんな状態が、幸人の幸せだと?」
あたしの目が泳いだ。
幸人さんの親友を自称する、静かに佇むそいつ。
ようやくわかった。そして思い知らされた。
こいつは幸人さんのことをわかっていると、あたしなんかより、よっぽど幸人さんに寄り添っていると――感情も理性も認めてしまっていた。
目の前の――藤井さんから、顔を背けて俯いてしまった。
なんて無様。いつから始まっていたのかわからない藤井さんの試験に、あたしは落ちてしまったのだ。
あの、あたしが最も忌み嫌っているあの女。あの佐倉千佳と同じように、幸人さんを害する者と見なされてしまったのだ。
それが言われた、「正体見たり」の意味。
門番、なのだろう。
彼――藤井さんは、それを自任して、まさにそうあった。揺るぎなく信念に則って、ただただ幸人さんのために、自分が憎まれ役になろうとも。
そう、あたしは認めるしかなかったのだ。
「……さすが、幸人さんの親友というところかしら」
藤井亨という人を、ただの共犯者ではなく、幸人さんのかけがえのない人だと。
あたしは認めるしかなかった。
「ちょっとはわかったかよ、お嬢ちゃん。だから遠ざかるべきだってことが」
「いやよ」
藤井さんの語尾を断ち切るように、あたしはそう切り返していた。
視界の片隅で、藤井さんの目が鋭くなるのが見えた。
「確かにあなたの言う通り。あたしが浅はかだった」
以前に幸人さんのお母様のことがあったというのに。
それを忘れてあたしはまた、同じ過ちを繰り返すところだった。
ええ、ちょっとは感謝してあげてもいいわよ、それに気づかせてくれたことを。
でもね、だからと言ってあなたの退場勧告に易々と乗ってあげるものですか。
あたしにだってあるのよ、信念が。その前には、あなたの試験に落ちたことなんて、どうでもいいことなのよ。
だから、あたしは真っ向から藤井さんを睨み返すのだ。
「あたしは幸人さんが好き。幸せにしたいし、一緒に幸せになる。大体、幸人さんにそばにいるなと言われたならともかく、どうしてあなたに言われてそうしなきゃいけないのよ?」
「へえ? さっきの排除発言。そいつを俺が幸人に言ったら、そうなるかもしれないぜ?」
おかしそうな藤井さんに、あたしは不敵な笑みで返せた。
「幸人さんは苦悩するでしょうね。あたしとあなた、どちらの言うことを信じるか。あなたは幸人さんを困らせたいの?」
さっきの言葉をそのままお返しした。
予想していたのか、意外そうな表情は引き出せなかった。その代わりに笑ったのだ、吹き出すように。
それはきっと、あたしに初めて向けられた、藤井さんの本当の笑顔。
くっく、と笑いながら、藤井さんは踵を返した。向かう先は火がかかった鍋。
お玉で灰汁を掬い取り、火加減を調整する。そうして藤井さんは、にやり、と笑う。
「さすが、幸人が大事と言うだけはあるみたいだな」
……少しはあたしの気概が伝わったと思っていいのかしら。
その言いように、あたしは顔の紅潮を抑えることができない。せいぜい憎まれ口を叩くだけだ。
「……光栄ね。お眼鏡にかなった、というところ?」
「はっ、俺の審美眼なんざ当てになるかよ。派手に外れを引いた前科があるしな」
「……ああ」
あの元カノのことね。
確かに、結局あたしはあの佐倉千佳と差があるとも思っていない。むしろ、この感情は同族嫌悪とでも言うべきものだろう。
不快な回想を頭を振って追い払うと、藤井さんはカレールーを割り入れているところだった。
「ま、悪いとは思っちゃいるよ。長年のつきあいを押し出して、疎外感食らわせたことについてはな」
「わざとだったの?」
せっかく認めてあげたというのに、この男は。敵愾心がまたも、ぶり返しそうになる。
藪にらみになった視線に返って来たのは、同等以上の冷たさだった。
「ささやかだが体感できたろ。あれが、お嬢ちゃんが幸人にしようとしていた仕打ちだよ」
「…………え?」
言っている意味がわからず、あたしは聞き返していた。でも、なのに、指先から震えが走る。
その寒気は、藤井さんの視線からもたらされたのか。
「人間関係の断絶。ちょっとは理解できたか?」
「…………う」
根源的な恐怖に、あたしはよろめいた。それだけで済んだのは、弱みを見せたくないという、ただそれだけがあったからだ。
そうでなければ、悲鳴をあげて脇目も振らず走り出していたかもしれない。
――幸人さんをこんな目に合わせようとした、あたし自身をどこかから突き落とすために。
だというのに、あたしにそんな絶望的な想像をさせた藤井さんはまるで呑気に、お玉でカレーをかき回していた。
食欲をそそる匂いが鼻腔を満たす。話の内容とは違うそれに、あたしは逆に非日常を感じて戸惑いを強くした。
「させねえよ。俺がいるしな」
「……大した自信ね」
息苦しさを感じるあたしは、かろうじてそれしか言えなかった。
悔しく思ったのは、藤井さんは得意そうでもなく誇らしげでもなく、ただ平然とそう言ったところにだった。
この人にとって、幸人さんとの関係性は、そういった気負いとはもはや無縁のものだからなのか。
「お嬢ちゃん、家族と仲はいいのか?」
「……いいけど」
急に話を変えたことより、あたしは気になっていることがあってそちらを先に話題にあげた。
「藤井さん、お嬢ちゃんって止めてくれる? なにかいや、その呼び方」
「失礼。なら、竜禅寺さんで。美咲ちゃん、なんて馴れ馴れしく呼ぶと幸人に怒られそうだしな」
「……怒ってくれるかしら」
「さてな。俺が思う幸人はそうだってだけだし」
呼び方を改めさせたのは、歯牙にもかけない存在ではいたくないと思ったからだった。
でも、藤井さんの言動は逐一幸人さんとの付き合いの長さを感じさせて、あたしの対抗心を徐々に萎えさせていく。
「で、あたしの家族が何なの?」
だからあたしはらしくなく、話題を進めるしかできない。
「仲いいんだったらさ、その内幸人を家族に紹介する機会があるわけじゃん?」
「そ、そうね。もちろんそうよ」
その光景を想像して、あたしの脳内がピンク色に染まった。チョロいのかしら、あたしって。
「で、幸人と家族が仲良くしてほしいと思う?」
「もちろん! あ、でもお姉ちゃんたちにはあんまり構ってほしくないかも」
「お姉さんいるんだ? そっちも美人なんだろうねえ」
「……なんなの? 紹介してほしいわけ?」
「いんや? 俺が言いたいのはさ。俺の友人とも仲良くしてほしい、って幸人も言うんじゃない? ってこと」
「……そ……うね……」
息が詰まって、それしか言えなかった。脱力しそうになって、シンクにつかまる。藤井さんはカレーの出来の方が大事なようで、支えてくれたりはしなかった。もっとも、あたしとしても幸人さん以外はお断りしていたと思うけれど。
「過去も周囲の人間も含めて幸人なんだよ。それを削いでいったら、竜禅寺さんが好きな幸人じゃなくなるんじゃねえの?」
「わかったわよ、降参よ……!」
目に涙が浮かぶ。
「排除は言い寄ってくる女だけにしておくわっ!」
「いや、わかってねえだろ?」
「だっていやなんだもん!」
「ま、そのあたりの対応は俺に任せとけよ」
「できるの、藤井さんに?」
「少なくとも竜禅寺さんよりは穏便にはな。そういうやり方の方が幸人の平穏のためだし、あんまり派手にやると、それこそ幸人に怒られるんじゃね?」
「う」
幸人さんに怒られるとか、想像しただけで嫌だ。
「俺としても下手な女を幸人に近寄らせるよりは、竜禅寺さんのがまだましなんでな。ここは協力者に任せるところだぜ」
「ましって随分な表現ね。っていうか協力? せいぜい共犯ってところじゃないの?」
鼻で笑うあたしに、藤井さんは火を消して鍋に蓋をかぶせる落ち着いた動作で答えた。
「表現は何だっていいだろ。幸人幸せ化計画、存分に推し進めていこうぜ」
「それには同感ね」
と言いつつ、あたしたちはわかっている。
幸人さんの幸せの邪魔になるなら、躊躇なくお互いを切り捨てるだろうことを。
だから、協力なんて平和な表現は使わないのだ。
それはそれとして、せっかくの戦力なのだから使わない手はない。
「じゃあ、さっき言ってた、セト? さっそく、それの対処をお願いするわ」
「それって。いや、瀬戸ちゃんは男だぞ」
「え、はあ? いや、さっき藤井さん、『セトカンナって子』って……! どう聞いても女の子じゃない!?」
「よく覚えてんな? ああ、本人も女の子みたいな名前って嫌がってたな」
「く、か……! わ、わざと!? わざとだったのね!? 煽ったのね!? というか、今日玄関からなんか嫌な感じだったの、全部全部、まさか……!?」
「親友との楽しい時間を邪魔されて、へらへらしてられるわけねーだろ。覚えとくといいぜ、意趣返しっつーんだよ、こういうの。勉強になったろ?」
「こ、この、こんのおおおお……!」
「おっと大声出すなよ、幸人まだ電話中だぜ? 邪魔してやるなよ、瀬戸ちゃんとの大事な会話」
「こ、こ、この、この……!」
怒りのあまり言葉を紡げず、視線に力を籠めるしかないあたし。それに抗するのは、煽り目的のニヤリとした顔だった。
「あんたなんか、やっぱり嫌いよ……!」
「お互い様ってやつだなあ、お嬢ちゃん?」
きっとあたしたちは、幸人さんに見られたら縁を切られそうな、ヤバイ表情をしていたに違いない。