場外:ホワイト・ルシアン
「――そっか、丸く収まっちゃったかあ」
佐倉千佳は、残念そうに呟いた。
出向先として在籍している、今の職場。
そこは状況を有利に導くための環境づくりの場だった。
彼――寺島幸人はきっと何かあったのだろう、見たことがないほど気落ちしており、声をかけづらいほどだった。
それは、隙と見るには不謹慎なほどで。
――自分が手を出していい領分ではない、と思わせたのだった。
だから千佳は、彼が望むまま何も知らないふりで自然に接した。
そうして見守っていたことが功を奏したのかはわからないが、ことは終わったようだった。
スマホで送られてきた、彼からのメッセージに目を落とす。
「心配をかけた。もう大丈夫だ」
こちらの内心も知らず、けれど気遣いには応える。
そんな彼の姿勢に、唇が苦笑を形作る。
彼が自分をどう思っているかなど、以前から明白だ。
とうに情を絶った元カノで、同じ職場の同僚。
そして、友人。
そんなふうに整理して自分に接してくる。
いまだに未練がましい自分と違って、なんて大人な態度なのか。
だからだろうか、彼のまなざしは生き生きとして遠くを見始めたように、千佳は思う。
そして、自分はその視界の外にいるのではないか。
視線を上げると、鏡に映る泣きそうな顔があった。
ここは、彼の職場の給湯室。
今は休憩の時間で、それはもうすぐ終わる。
そうやって、千佳は我に返った。
鏡の中の自分が、笑みを浮かべる。
大丈夫――いつもの自分だ。
千佳が藤井亨と、退勤時のエレベーターに乗り合わせたのは偶然だった。
「珍しい。幸人、一緒じゃないんだね?」
「滝原課長と相談があるってよ。……転職の話だろうな」
大きくため息をつこうとして、ガーゼに隠された頬の痛みに、顔をしかめる亨。
「寂しい?」
「当たり前だろ、親友だぜ? つーか、そりゃあんたもだろうが」
「わたしは、ついて行こうかなって」
「……ああ?」
亨は、痛みも忘れたようだった。
歪めた唇が歯を、瞳が睨みを覗かせる。
エレベーターが地上に到達する音が響く。
千佳は、亨の様子にかまわず、開いたドアから歩み出た。
舌打ちをした亨は、彼女を追うようにして早足になった。
「おい、アンタ――」
オフィスビルのエントランスから外に出る。
残業後のこの時間帯は、いつも暗くあたりを見通せない。
そしてそれは、いつかの対峙の光景を二人に思い出させた。
だからか、千佳は立ち止まり、亨も少し距離を空けて立ち止まる。
あたりに人影はない。
千佳は、背中で宣誓するようだった。
「勝率ゼロでも、まだ信じてるもの」
「もう状況が違うだろ」
亨がついたため息には、憤りよりは呆れと困惑が強く混ざっているようだった。
「大体、何を信じてるってんだ?」
「……それは」
どれだけ見返しても、盤面のどこにも勝ち筋を見つけられない。
だから亨のシンプルな問いに、千佳はなにも答えられなかった。
「あんたはもう言われてるんだよ。――チェックメイト、ってな」
見透かされたような言葉に、千佳は肩を落とした。
「……ひどいなあ。もう少し、オブラートに包んでくれてもいいんじゃないかな」
「あんたにかける情けは俺にはねえよ」
期待した慰めは返ってこず、手厳しい意見だけが叩きつけられてくる。
「……せめて、送ってくれない?」
「瑠璃子との約束があるんでな、お断りだ。せいぜい気をつけて、一人で帰りな」
足音は遠ざかっていった。
本当に、置き去りにされたらしい。
辛辣と思う反面、遠慮のない物言いに妙な安心感を覚えてしまうあたり、今の自分は気弱なのかなんなのか。
千佳は考える。
先ほど、亨は「瑠璃子」と呼んだ。
それは関係性が変わったからなのだろう、と推測できた。
前へと進んでいる証であり、それは自分が恋い慕う彼も同じ。
一年先輩として先を行っていたはずなのに、もう背中が見えないほどに置いていかれているのを感じる。
「……そっかぁ」
何に納得したのか、自分でもわからないまま――千佳はその場所へと、歩みを進めていた。
千佳がそのバーに足を踏み入れたのは、三度目だった。
一度目も二度目も自分たちしか客はおらず、そして今回も同じだった。
手狭なカウンターが広く感じるほどで、空虚さを伝えてくる。
今の自分に合っている気がして、千佳はためらいなくバーに踏み入ると、左端の席に着いた。
マスターが静かに奥から現れ、落ち着いた無言でメニューを尋ねてくる。
千佳はボトルが整列した棚を眺めやると、ふと思いついたカクテルを挙げた。
「……ホワイト・ルシアンを」
やはり静かな頷きが返ってくる。
千佳は、マスターの手元が躍るのを何とはなしに眺めやる。
――手順を間違えたら、おかしくなるのはカクテルも人生も同じかあ。
そんなことを、ぼんやりと考えていた。
いつの間にか、カウンターに頬杖をついて頭を預けてもいた。
そうして思い出すのが、今の席は、一度目にここへ来て醜態を見せた時に座っていた場所だ、ということだった。
あの時は右隣に彼が座っていた。
過去へとそれていた千佳の意識を、カウンターに置かれた微かな音が引き戻す。
視線の先には、白と黒が重なったグラス。
最初ははっきりと二層に分かれていた液体が、ゆったりとグラデーションとして混じっていく。
それは選択肢が曖昧になっていくさまを思い起こさせた。
内心が訴えかけてくることを無視するように、千佳は手早くマドラーでかき混ぜた。
薄い茶色となったカクテルを口に含むと、最初に感じたのはまろやかな甘み。
そして、ビターな香り。
それを「美味しい」と思う自分を、少し意外に思う。
――また泣いてしまうと思ったのに。
困惑気味の千佳の耳に届いたのは、バーの扉が開く音だった。
千佳が抱いたのは、淡い期待だった。
焦がれている彼が、自分を追いかけてきてくれたのかも。
千佳が逸る気持ちを抑えながら何気ないふうを装っていると、来客は一つ席を空けて座った。
自分の時と同じように奥から出てきたマスターに、注文の声がかかる。
「獺祭、冷で」
期待とは違う声、バーにそぐわない日本酒の注文に、思わず千佳の視線がそちらを向いた。
その動きに気づいたのだろうか、同じように視線が向く。
かちあった視線に千佳の記憶が刺激され、来客の名前が口をついて出た。
「……竜禅寺蒼真さん……?」
「……君は」
品のあるスーツに身を包んだその男性、竜禅寺蒼真は、初めて千佳の存在に気がついたかのように、目を見開いていた。
おそらくは、一瞬の動揺。
彼はそれをすぐさま消して、千佳も知っている硬い表情へと取り繕ったようだった。
「佐倉千佳さん……あの旅行以来か。壮健だったか?」
聞きなれない単語が出てきて、千佳は咄嗟に意味を掴み損ねた。
健康状態を聞かれているとようやく把握できて、自分を振り返る。
「なんとか、というところです」
「ふむ」
追求せずに視線をそらしたのは、気遣いなのか、カウンターに小さなグラスが置かれたからなのか。
千佳にはわからなかったが、彼が透明な液体の入ったグラスを掲げてきた意味は理解できた。
一席挟んで、グラス同士が触れ合う。
それを合図としたように、マスターが奥へと消える。
千佳はグラスを傾けたが、先ほどより苦みは増したような気がした。
竜禅寺蒼真に対する感情は、整理しづらいものがあった。
寺島幸人に対する、面談という名の圧迫。
伝え聞いただけの内容でも不快感や敵愾心を抱くに十分であり、友好的でいられるはずもなかった。
しかし面談された幸人自身は、もうさほど気にしていなかった。
おまけに、旅行で全員が揃った時の、とある少女の自己紹介中にあった出来事で、悪い印象はだいぶ払拭された。
旅行中にも硬い言動は見られたものの、幸人と蒼真の会話も緊張感を孕んだものではなかった。
つまり、千佳には目の前の人物に悪感情を抱くだけの材料がもうない。
ただ、積極的に仲良くする材料もない。
それが居心地の悪さを感じる理由だった。
なのに、そんな空間を提供してくる当の本人は、バーの雰囲気と酒の味を純粋に楽しんでいるような面持ちだった。
そして、会話を向けてくる余裕もあるようだった。
「ここを紹介してくれたのは幸人くんでな」
「幸人が?」
その話題は、千佳の興味を最大限に惹くものだった。
身体ごと向いた千佳に対し、蒼真の目は次に飲む銘柄を探しているのか、カウンターの奥を眺めやっていた。
「一人で飲めるいい場所はないか、と聞いたら教えてくれてな。彼もなかなか、いい店を知っている」
どうやらこの店は彼の眼鏡に適ったらしい。
酒には強いようで、すいすいとグラスを口に運んでいた。
小さなグラスはすぐに空き、お代わりの要求に応えてマスターが姿を現す。
そうして再びグラスは満たされ、マスターはやはり静かに姿を消した。
蒼真は、今度はすぐにグラスを手に持つことなく、かすかに揺れる水面を眺めていた。
「……随分と、幸人を買っているように見えますが?」
今度は千佳から話しかけた。
それに蒼真は顎に手を添えて、少し上を見上げた。
「投資という意味ではそうなるな」
「……投資?」
蒼真の言いように、千佳の声音に険が差す。
そこで蒼真は改めて千佳に視線を巡らせて、彼女の雰囲気の変化に気がついたようだった。
「……失礼。デリカシーがない、とはよく妹たちに言われるが、どうにも俺はまだわかっていないようだ」
その眉を落とした表情は、千佳が初めて見るものだった。
それに免じて、というわけではないが、千佳は視線にも籠っていた鋭さを、少しは緩めることにした。
しかし、聞き捨ててはおけなかった。
「それで、投資とは?」
「あ、ああ」
少し口ごもった蒼真だったが、咳払いで整えたようだった。
「美咲に相応しいか、という一点においては見定めざるを得ない。そして及第点となった今は、さらにそれを伸ばしてもらわないと、こちらとしても困るのだ」
「困る、ですか。ずいぶん、利己的なご意見に聞こえますが?」
そこに彼や彼女への思いやりはあるのか、という言外の指摘は届いただろうか。
蒼真は腕を組んで考え込んだようだった。
それを待つ間、千佳は氷が溶けつつあるグラスを傾ける。
少しマイルドになったのか、飲みやすかった。
やがて蒼真は腕をほどき、グラスを手にした。
「困る……は語弊があるかもしれんな。彼には、美咲を支え続ける丈夫な幹であってほしい。……改めて言葉にすると、そんなところだろうか」
言った後に千佳を見る蒼真。
まるで、この表現なら問題ないか、と確認しているようだった。
「まあ、それでしたら言いたいことはわかりました」
「そうか」
どこか、ほっとしたような蒼真だった。
反面、千佳としてはまったく穏やかな心境ではいられない。
家族が幸人との仲を認めている、という事実が目の前で証明されているようなものだからだ。
自分自身が言った、勝率ゼロ。
藤井亨が言った、チェックメイト。
それが改めて突きつけられた形だった。
「その様子では、まだあなたの心は幸人くんにあるようだな」
「いけませんか」
蒼真の語尾を断ち切るように、自分でも棘があると自覚する声音で、千佳は言っていた。
その勢いに圧されたように、蒼真はほんの少しのけ反った。
「いや。心はどうにもなるものではないだろうしな」
圧を緩めようとしない千佳に対し、蒼真は姿勢を正す。
そして、ひた、と千佳を見つめて言った。
「現に、俺もあなたに、結婚前提での交際を申し込みたいと思っているところだ」
「……は?」
千佳の口から漏れたのは、まったく彼女らしくない、呆けた声だった。
「夏の旅行で会った時に一目惚れしてな。家に話を持って行く段取りを整えていたのだが、ここで会ったのがいい機会と思い、述べさせてもらった」
淡々とした蒼真の声が、右から左に抜けていく。
千佳はそんな有様で、内容をうまく咀嚼できないでいた。
困惑を強める千佳に対し、蒼真は商談でもしているかのように平静そのものだった。
「この話、是非受けてもらえないだろうか」
「すみません、今、会社の合併の話をされていますか?」
「あなたと俺の結婚の話だが」
「どうしてそうなるの……!?」
とうとう千佳は頭を抱えた。
こんな流れの口説き文句、聞いたことがない。
酔っぱらいの戯言にしても幻聴にしても、質が悪かった。
いつものように、頭が回らない。
「そう悪くない話でもないと思うが……と、こういうところがデリカシーがない、と言われる所以なのだろうな」
言葉半ばで千佳の視線が刺さり、咄嗟に言い繕ったような蒼真だった。
それを見て、千佳は頭を抱えていた手をおろして、ため息をついた。
「少し落ち着かせてください」
返ってきたのは無言の頷きだった。
それを尻目に、千佳は手元のグラスを傾けながら、言われたことを思い返す。
一時の感情に流されるのは、もう懲りていた。
だから、ここに至った経緯を俯瞰して考える。
一目惚れという感情、釣り合う家格、人格とスペック。
それらの判断がうまく噛み合ったのだろう、と千佳は分析する。
そうでなければ、幸人と美咲の関係に対して面談をした蒼真が、自身のパートナーとして自分に合格を出すわけがない。
むしろ、そうでなければ不公平というものだ。
千佳は蒼真を、そんな偏った考えをする人物ではない、と見ていた。
そして思うのは、幸人がもう今の職場からは羽ばたこうとしている現実。
ならば自分がそこにいる意味はない。
けれど追いかけて何になるというのか。
そこに未来はあるのか。
信じるものなんて、何もないのに。
飲み干して軽くなったグラスに、視線を落とす。
これと同じで、空っぽになるだけ。
いくら好きを注いでも、満たされない。
――今みたいに、涙が溜まるだけだ。
「……よければ」
平坦ながらも遠慮がちな声とともに、横からハンカチが差し出されてくる。
千佳はそれを、微かに首を横に振って断ると、バッグから取り出した自分のハンカチで拭った。
この時ばかりは、多くを語らなかった蒼真に感謝する。
ぐっ、と千佳は顔を上げて、色々なものを飲み込んだ。
「わたしは、幸人がまだ好きです」
「だろうな」
「もしあなたと結婚したとしても、それはあなたの妹の美咲ちゃん、そのそばにいる幸人の近くにいたいから、かもしれません」
「む」
「そんな身勝手な女でもいいんですか?」
「……善処しよう」
諦めさせるように、または挑発的に言ったのに、そんな定型文が返ってきて千佳は思わず笑ってしまった。
蒼真の表情が、言葉とは裏腹に真面目くさって見えたからだった。
だからだろうか、千佳はあることに気づく。
「……もしかして、今のは冗談だったりします?」
蒼真は、深刻そうにため息をついた。
「……俺はどうにも、ユーモアというもののセンスが絶望的なようでな」
蒼真の目が、遠くを見るように泳いだ。
「以前、幸人くんに『本当に美咲の兄なのか』と問われた時に、『ならば免許証なりなんなり見せるが』と返して、微妙な反応をされた」
それは緊張が解けるはずもなかっただろうな、とその時の幸人に同情する千佳だった。
そして思うのは、竜禅寺蒼真という人は、不器用なのだな、ということ。
その性根はまだわからない。
けれど、まっすぐ伝えすぎるが故の語弊がある。
そんなところだろうか。
「……とりあえずは、飲み友達から始めましょうか」
だから千佳はそう言って、けれど誤解のないように、一つ空いた席にバッグを座らせた。
突然割り込んだ邪魔者に、蒼真は眉をひそめた。
しかしそれが今の距離なのだと理解したようで、ゆっくりと頷く。
蒼真は、空いているグラスたちを見渡して、メニューを取り上げた。
「何を頼む?」
「そうですね……」
二人してメニューを覗き込む。
これが二人の間に架かる橋となるかどうか。
そして、別の未来への道となるのか。
千佳は、思いを巡らせながら、色とりどりのカクテルに視線を走らせたのだった。
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