表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
55/55

場外:ホワイト・ルシアン

「――そっか、丸く収まっちゃったかあ」

 佐倉千佳は、残念そうに呟いた。

 出向先として在籍している、今の職場。

 そこは状況を有利に導くための環境づくりの場だった。

 彼――寺島幸人はきっと何かあったのだろう、見たことがないほど気落ちしており、声をかけづらいほどだった。

 それは、隙と見るには不謹慎なほどで。

 ――自分が手を出していい領分ではない、と思わせたのだった。

 だから千佳は、彼が望むまま何も知らないふりで自然に接した。

 そうして見守っていたことが功を奏したのかはわからないが、ことは終わったようだった。

 スマホで送られてきた、彼からのメッセージに目を落とす。

「心配をかけた。もう大丈夫だ」

 こちらの内心も知らず、けれど気遣いには応える。

 そんな彼の姿勢に、唇が苦笑を形作る。

 彼が自分をどう思っているかなど、以前から明白だ。

 とうに情を絶った元カノで、同じ職場の同僚。

 そして、友人。

 そんなふうに整理して自分に接してくる。

 いまだに未練がましい自分と違って、なんて大人な態度なのか。

 だからだろうか、彼のまなざしは生き生きとして遠くを見始めたように、千佳は思う。

 そして、自分はその視界の外にいるのではないか。

 視線を上げると、鏡に映る泣きそうな顔があった。

 ここは、彼の職場の給湯室。

 今は休憩の時間で、それはもうすぐ終わる。

 そうやって、千佳は我に返った。

 鏡の中の自分が、笑みを浮かべる。

 大丈夫――いつもの自分だ。



 千佳が藤井亨と、退勤時のエレベーターに乗り合わせたのは偶然だった。

「珍しい。幸人、一緒じゃないんだね?」

「滝原課長と相談があるってよ。……転職の話だろうな」

 大きくため息をつこうとして、ガーゼに隠された頬の痛みに、顔をしかめる亨。

「寂しい?」

「当たり前だろ、親友だぜ? つーか、そりゃあんたもだろうが」

「わたしは、ついて行こうかなって」

「……ああ?」

 亨は、痛みも忘れたようだった。

 歪めた唇が歯を、瞳が睨みを覗かせる。

 エレベーターが地上に到達する音が響く。

 千佳は、亨の様子にかまわず、開いたドアから歩み出た。

 舌打ちをした亨は、彼女を追うようにして早足になった。

「おい、アンタ――」

 オフィスビルのエントランスから外に出る。

 残業後のこの時間帯は、いつも暗くあたりを見通せない。

 そしてそれは、いつかの対峙の光景を二人に思い出させた。

 だからか、千佳は立ち止まり、亨も少し距離を空けて立ち止まる。

 あたりに人影はない。

 千佳は、背中で宣誓するようだった。

「勝率ゼロでも、まだ信じてるもの」

「もう状況が違うだろ」

 亨がついたため息には、憤りよりは呆れと困惑が強く混ざっているようだった。

「大体、何を信じてるってんだ?」

「……それは」

 どれだけ見返しても、盤面のどこにも勝ち筋を見つけられない。

 だから亨のシンプルな問いに、千佳はなにも答えられなかった。

「あんたはもう言われてるんだよ。――チェックメイト、ってな」

 見透かされたような言葉に、千佳は肩を落とした。

「……ひどいなあ。もう少し、オブラートに包んでくれてもいいんじゃないかな」

「あんたにかける情けは俺にはねえよ」

 期待した慰めは返ってこず、手厳しい意見だけが叩きつけられてくる。

「……せめて、送ってくれない?」

「瑠璃子との約束があるんでな、お断りだ。せいぜい気をつけて、一人で帰りな」

 足音は遠ざかっていった。

 本当に、置き去りにされたらしい。

 辛辣と思う反面、遠慮のない物言いに妙な安心感を覚えてしまうあたり、今の自分は気弱なのかなんなのか。

 千佳は考える。

 先ほど、亨は「瑠璃子」と呼んだ。

 それは関係性が変わったからなのだろう、と推測できた。

 前へと進んでいる証であり、それは自分が恋い慕う彼も同じ。

 一年先輩として先を行っていたはずなのに、もう背中が見えないほどに置いていかれているのを感じる。

「……そっかぁ」

 何に納得したのか、自分でもわからないまま――千佳はその場所へと、歩みを進めていた。



 千佳がそのバーに足を踏み入れたのは、三度目だった。

 一度目も二度目も自分たちしか客はおらず、そして今回も同じだった。

 手狭なカウンターが広く感じるほどで、空虚さを伝えてくる。

 今の自分に合っている気がして、千佳はためらいなくバーに踏み入ると、左端の席に着いた。

 マスターが静かに奥から現れ、落ち着いた無言でメニューを尋ねてくる。

 千佳はボトルが整列した棚を眺めやると、ふと思いついたカクテルを挙げた。

「……ホワイト・ルシアンを」

 やはり静かな頷きが返ってくる。

 千佳は、マスターの手元が躍るのを何とはなしに眺めやる。

 ――手順を間違えたら、おかしくなるのはカクテルも人生も同じかあ。

 そんなことを、ぼんやりと考えていた。

 いつの間にか、カウンターに頬杖をついて頭を預けてもいた。

 そうして思い出すのが、今の席は、一度目にここへ来て醜態を見せた時に座っていた場所だ、ということだった。

 あの時は右隣に彼が座っていた。

 過去へとそれていた千佳の意識を、カウンターに置かれた微かな音が引き戻す。

 視線の先には、白と黒が重なったグラス。

 最初ははっきりと二層に分かれていた液体が、ゆったりとグラデーションとして混じっていく。

 それは選択肢が曖昧になっていくさまを思い起こさせた。

 内心が訴えかけてくることを無視するように、千佳は手早くマドラーでかき混ぜた。

 薄い茶色となったカクテルを口に含むと、最初に感じたのはまろやかな甘み。

 そして、ビターな香り。

 それを「美味しい」と思う自分を、少し意外に思う。

 ――また泣いてしまうと思ったのに。

 困惑気味の千佳の耳に届いたのは、バーの扉が開く音だった。

 千佳が抱いたのは、淡い期待だった。

 焦がれている彼が、自分を追いかけてきてくれたのかも。

 千佳が逸る気持ちを抑えながら何気ないふうを装っていると、来客は一つ席を空けて座った。

 自分の時と同じように奥から出てきたマスターに、注文の声がかかる。

獺祭(だっさい)(ひや)で」

 期待とは違う声、バーにそぐわない日本酒の注文に、思わず千佳の視線がそちらを向いた。

 その動きに気づいたのだろうか、同じように視線が向く。

 かちあった視線に千佳の記憶が刺激され、来客の名前が口をついて出た。

「……竜禅寺蒼真(そうま)さん……?」

「……君は」

 品のあるスーツに身を包んだその男性、竜禅寺蒼真は、初めて千佳の存在に気がついたかのように、目を見開いていた。

 おそらくは、一瞬の動揺。

 彼はそれをすぐさま消して、千佳も知っている硬い表情へと取り繕ったようだった。

「佐倉千佳さん……あの旅行以来か。壮健だったか?」

 聞きなれない単語が出てきて、千佳は咄嗟に意味を掴み損ねた。

 健康状態を聞かれているとようやく把握できて、自分を振り返る。

「なんとか、というところです」

「ふむ」

 追求せずに視線をそらしたのは、気遣いなのか、カウンターに小さなグラスが置かれたからなのか。

 千佳にはわからなかったが、彼が透明な液体の入ったグラスを掲げてきた意味は理解できた。

 一席挟んで、グラス同士が触れ合う。

 それを合図としたように、マスターが奥へと消える。

 千佳はグラスを傾けたが、先ほどより苦みは増したような気がした。

 竜禅寺蒼真に対する感情は、整理しづらいものがあった。

 寺島幸人に対する、面談という名の圧迫。

 伝え聞いただけの内容でも不快感や敵愾心を抱くに十分であり、友好的でいられるはずもなかった。

 しかし面談された幸人自身は、もうさほど気にしていなかった。

 おまけに、旅行で全員が揃った時の、とある少女の自己紹介中にあった出来事で、悪い印象はだいぶ払拭された。

 旅行中にも硬い言動は見られたものの、幸人と蒼真の会話も緊張感を孕んだものではなかった。

 つまり、千佳には目の前の人物に悪感情を抱くだけの材料がもうない。

 ただ、積極的に仲良くする材料もない。

 それが居心地の悪さを感じる理由だった。

 なのに、そんな空間を提供してくる当の本人は、バーの雰囲気と酒の味を純粋に楽しんでいるような面持ちだった。

 そして、会話を向けてくる余裕もあるようだった。

「ここを紹介してくれたのは幸人くんでな」

「幸人が?」

 その話題は、千佳の興味を最大限に惹くものだった。

 身体ごと向いた千佳に対し、蒼真の目は次に飲む銘柄を探しているのか、カウンターの奥を眺めやっていた。

「一人で飲めるいい場所はないか、と聞いたら教えてくれてな。彼もなかなか、いい店を知っている」

 どうやらこの店は彼の眼鏡に適ったらしい。

 酒には強いようで、すいすいとグラスを口に運んでいた。

 小さなグラスはすぐに空き、お代わりの要求に応えてマスターが姿を現す。

 そうして再びグラスは満たされ、マスターはやはり静かに姿を消した。

 蒼真は、今度はすぐにグラスを手に持つことなく、かすかに揺れる水面を眺めていた。

「……随分と、幸人を買っているように見えますが?」

 今度は千佳から話しかけた。

 それに蒼真は顎に手を添えて、少し上を見上げた。

「投資という意味ではそうなるな」

「……投資?」

 蒼真の言いように、千佳の声音に険が差す。

 そこで蒼真は改めて千佳に視線を巡らせて、彼女の雰囲気の変化に気がついたようだった。

「……失礼。デリカシーがない、とはよく妹たちに言われるが、どうにも俺はまだわかっていないようだ」

 その眉を落とした表情は、千佳が初めて見るものだった。

 それに免じて、というわけではないが、千佳は視線にも籠っていた鋭さを、少しは緩めることにした。

 しかし、聞き捨ててはおけなかった。

「それで、投資とは?」

「あ、ああ」

 少し口ごもった蒼真だったが、咳払いで整えたようだった。

「美咲に相応しいか、という一点においては見定めざるを得ない。そして及第点となった今は、さらにそれを伸ばしてもらわないと、こちらとしても困るのだ」

「困る、ですか。ずいぶん、利己的なご意見に聞こえますが?」

 そこに彼や彼女への思いやりはあるのか、という言外の指摘は届いただろうか。

 蒼真は腕を組んで考え込んだようだった。

 それを待つ間、千佳は氷が溶けつつあるグラスを傾ける。

 少しマイルドになったのか、飲みやすかった。

 やがて蒼真は腕をほどき、グラスを手にした。

「困る……は語弊があるかもしれんな。彼には、美咲を支え続ける丈夫な幹であってほしい。……改めて言葉にすると、そんなところだろうか」

 言った後に千佳を見る蒼真。

 まるで、この表現なら問題ないか、と確認しているようだった。

「まあ、それでしたら言いたいことはわかりました」

「そうか」

 どこか、ほっとしたような蒼真だった。

 反面、千佳としてはまったく穏やかな心境ではいられない。

 家族が幸人との仲を認めている、という事実が目の前で証明されているようなものだからだ。

 自分自身が言った、勝率ゼロ。

 藤井亨が言った、チェックメイト。

 それが改めて突きつけられた形だった。

「その様子では、まだあなたの心は幸人くんにあるようだな」

「いけませんか」

 蒼真の語尾を断ち切るように、自分でも棘があると自覚する声音で、千佳は言っていた。

 その勢いに圧されたように、蒼真はほんの少しのけ反った。

「いや。心はどうにもなるものではないだろうしな」

 圧を緩めようとしない千佳に対し、蒼真は姿勢を正す。

 そして、ひた、と千佳を見つめて言った。

「現に、俺もあなたに、結婚前提での交際を申し込みたいと思っているところだ」

「……は?」

 千佳の口から漏れたのは、まったく彼女らしくない、呆けた声だった。

「夏の旅行で会った時に一目惚れしてな。家に話を持って行く段取りを整えていたのだが、ここで会ったのがいい機会と思い、述べさせてもらった」

 淡々とした蒼真の声が、右から左に抜けていく。

 千佳はそんな有様で、内容をうまく咀嚼できないでいた。

 困惑を強める千佳に対し、蒼真は商談でもしているかのように平静そのものだった。

「この話、是非受けてもらえないだろうか」

「すみません、今、会社の合併の話をされていますか?」

「あなたと俺の結婚の話だが」

「どうしてそうなるの……!?」

 とうとう千佳は頭を抱えた。

 こんな流れの口説き文句、聞いたことがない。

 酔っぱらいの戯言にしても幻聴にしても、(たち)が悪かった。

 いつものように、頭が回らない。

「そう悪くない話でもないと思うが……と、こういうところがデリカシーがない、と言われる所以(ゆえん)なのだろうな」

 言葉半ばで千佳の視線が刺さり、咄嗟に言い繕ったような蒼真だった。

 それを見て、千佳は頭を抱えていた手をおろして、ため息をついた。

「少し落ち着かせてください」

 返ってきたのは無言の頷きだった。

 それを尻目に、千佳は手元のグラスを傾けながら、言われたことを思い返す。

 一時の感情に流されるのは、もう懲りていた。

 だから、ここに至った経緯を俯瞰して考える。

 一目惚れという感情、釣り合う家格、人格とスペック。

 それらの判断がうまく噛み合ったのだろう、と千佳は分析する。

 そうでなければ、幸人と美咲の関係に対して面談をした蒼真が、自身のパートナーとして自分に合格を出すわけがない。

 むしろ、そうでなければ不公平というものだ。

 千佳は蒼真を、そんな偏った考えをする人物ではない、と見ていた。

 そして思うのは、幸人がもう今の職場からは羽ばたこうとしている現実。

 ならば自分がそこにいる意味はない。

 けれど追いかけて何になるというのか。

 そこに未来はあるのか。

 信じるものなんて、何もないのに。

 飲み干して軽くなったグラスに、視線を落とす。

 これと同じで、空っぽになるだけ。

 いくら好きを注いでも、満たされない。

 ――今みたいに、涙が溜まるだけだ。

「……よければ」

 平坦ながらも遠慮がちな声とともに、横からハンカチが差し出されてくる。

 千佳はそれを、微かに首を横に振って断ると、バッグから取り出した自分のハンカチで拭った。

 この時ばかりは、多くを語らなかった蒼真に感謝する。

 ぐっ、と千佳は顔を上げて、色々なものを飲み込んだ。

「わたしは、幸人がまだ好きです」

「だろうな」

「もしあなたと結婚したとしても、それはあなたの妹の美咲ちゃん、そのそばにいる幸人の近くにいたいから、かもしれません」

「む」

「そんな身勝手な女でもいいんですか?」

「……善処しよう」

 諦めさせるように、または挑発的に言ったのに、そんな定型文が返ってきて千佳は思わず笑ってしまった。

 蒼真の表情が、言葉とは裏腹に真面目くさって見えたからだった。

 だからだろうか、千佳はあることに気づく。

「……もしかして、今のは冗談だったりします?」

 蒼真は、深刻そうにため息をついた。

「……俺はどうにも、ユーモアというもののセンスが絶望的なようでな」

 蒼真の目が、遠くを見るように泳いだ。

「以前、幸人くんに『本当に美咲の兄なのか』と問われた時に、『ならば免許証なりなんなり見せるが』と返して、微妙な反応をされた」

 それは緊張が解けるはずもなかっただろうな、とその時の幸人に同情する千佳だった。

 そして思うのは、竜禅寺蒼真という人は、不器用なのだな、ということ。

 その性根はまだわからない。

 けれど、まっすぐ伝えすぎるが故の語弊がある。

 そんなところだろうか。

「……とりあえずは、飲み友達から始めましょうか」

 だから千佳はそう言って、けれど誤解のないように、一つ空いた席にバッグを座らせた。

 突然割り込んだ邪魔者に、蒼真は眉をひそめた。

 しかしそれが今の距離なのだと理解したようで、ゆっくりと頷く。

 蒼真は、空いているグラスたちを見渡して、メニューを取り上げた。

「何を頼む?」

「そうですね……」

 二人してメニューを覗き込む。

 これが二人の間に架かる橋となるかどうか。

 そして、別の未来への道となるのか。

 千佳は、思いを巡らせながら、色とりどりのカクテルに視線を走らせたのだった。

読んでくださり、ありがとうございました。

よろしければ、下の☆をぽちっと押して頂ければ、作者緋色が泣いて喜びます。

励みにもなりますので、よろしくお願いします。


また、「雷姫いかずちひめは避雷針執事に依存しています」という、

王女×執事+幼馴染、のファンタジー学園ロマンスも掲載しておりますので、よろしければぜひ。

https://ncode.syosetu.com/n7853md/

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ