face to face
あたしは、ずいぶん長い間リコの部屋となっていた客間に足を踏み入れた。
荷物をひっくり返して雑然としているのに、どこか空虚なその空間に足を踏み入れて、目についたのは。
サイドテーブルにぶちまけられたような幾つものピアス。
そしてそれらに囲まれるような、アクセサリーがじゃらじゃらついた、カラフルなスマホだった。
――まさか。
息をつまらせたあたしが、何も考えずに咄嗟に手を伸ばしたスマホは、先んじて一報をもたらしてきた。
「黒瀬さん」とディスプレイには表示されていた。
あたしが所属するモデル事務所の所長だった。
さすがにこの現状ではモデル業をする気になれないから、乱暴にスマホ越しにしばしの休息を投げつけて、そのままにしてあった。
それがこんな時に、と舌打ちしそうになりながらも、もしかしたら、と思い直して通話を受けた。
「はい」
短く答えながらも、あたしの足は玄関に向いた。
『……忙しいかしら』
「それはもう。で、瑠璃子のことかしら」
せわしなく移動して、靴を履き、玄関を出た。
『やっぱり、何かあったのね。台北のローンチメンバー加入、いきなり引き受けてくれてびっくりしたのよ。しかも、もう現地入りしたいって』
エレベーターが到着する時間ももどかしい。
「それで?」
やっとエレベーターが来てくれた。
ドアが開き、閉まる時間がスローモーションに見える。
『――――空港、二十一時三十二分、六番ゲートよ――』
「ありがとう、貸しにしてあげるわ」
相手の反応を待たず、通話を切った。
あたしが知らない間にリコに声をかけていたことは腹立たしいが、それを超えて有用な情報だった。
やっとエレベーターが地上に辿り着き、エントランスを抜ける。
――雨はもう止みかけていた。
今度はタクシーを呼ぼうと立ち止まってスマホに視線を落とすと、視界の上半分が濃い色彩に染まる。
過去を刺激するそれに思わず顔を上げると、目前の道路沿いに深い赤を纏う、少し年季の入ったスポーツカーが乗り付けられていた。
その電動ルーフがたどたどしく開き。
「――美咲?」
怪訝そうな声が、運転席から届く。
あたしは一瞬、呆然とした。
「――紗月お姉ちゃん?」
青い瞳の姉が、そこにいた。
「法定速度しか出せないわよ」
紗月お姉ちゃんは、そんな言い方で車を出してくれた。
ちょっとした忘れ物を家に取りに来たらしいけれど、それを置き去りにしてくれたお姉ちゃんに感謝の念が募る。
けれど、それ以上に。
スマホのディスプレイ上で刻まれていく時間に、追い立てられていく。
――間に合って。
そう祈り、内心暴れそうになるあたしと違って、運転は丁寧だった。
やがて海沿いの道に出て、風が車の上を駆け抜けていく。
もう雨はなく、けれど雲は分厚いままで、のしかかってくるようだった。
時折きらきらと遠くに見える街の光が裏腹に美しく、あたしの情緒をかき乱す。
――お姉ちゃんは何も聞いてこなかった。
ただ空港へ、というあたしの願いに、顎で助手席を指す動きで答えただけ。
やがて車は橋へと差し掛かった。
ここを渡り切れば、あと少し。
ひと際強い風が、あたしの髪をさらっていく。
――けれど、もう。
そんな思いも吹き散らしてくれたらいいのに。
そうして、やっと出発ロビー前の車寄せへと辿り着く。
止まるが早いが、車を降りた。
「ありがとう、お姉ちゃん!」
「姉は妹を助けるものよ」
そんな声に背中を押され。
もう時間が遅く、それでも人が多い建物内を駆け抜けていく。
人にぶつかりそうになりながら、案内をせわしなく探す。そうしてまた駆け出す。
足がもつれそうになりながらも――それでもとめられない。
目の端に浮かんだ涙を拭い、その姿を探す。
――だって、もう。
そんな声を無視して、そこを目指した。
――もう、間に合わないのに。
無視して、それでも走る。
――がらん、としたそこへ。
足を止めた先には、六番ゲートの文字が見えた。
機材の光は落とされ、これ以上の進入を拒む色となっていた。
職員の姿もなく、これ以上の機能は提供されないことを無機質に示している。
見渡しても、やっぱりその姿は見当たらない。
ふと、目立つ位置にあった時計を見ると、もうすでにフライト時間を十分以上も過ぎていた。
とっくに気づいていたそれに、あたしは――落胆すらできなかった。
ふと気づくと、あたしはエスカレーターに上へと運ばれていた。
案内板には展望ロビーの文字が見える。
「……何を見送るっていうんだか」
自嘲ともつかない声音に、我ながら惨めさを覚える。
あたりに人影はなく、ただ一人暗い夜を眺めるためのその場所へ運ばれていく様は、どんな風に見えるだろうか。
そんな風に思うあたしの前に、視界は開けた。
海風が心地よく、遠く街の明かりがきらめいて、こんな曇天でなければ――。
「写真撮ってよ、リコ――」
そう、言ったかもしれないのに。
あたしの肩に手を回して、スマホを自撮りモードにして、顔を寄せあって。
はい、チーズ。
なんて、写真を撮るときだけは、そんな一昔前のフレーズのあの子の声を。
――もう、聞けないんだ。
「う、く」
心の奥から、巨大なものが込み上げてくる。
それに押されるようによろめく。
そんな傾いた視界の隅に。
青と――金が見えた。
展望ロビーの端。
鉄柵の隅に見えた青いスーツケース。そしてそれに隠れるような人影。
――金髪をうずめるように、膝を抱える姿が見えた。
「リコぉ!!」
あたしの声に跳ね上がる顔。
遠めに見えたその顔は怯えていて――だからそれを何とかしてあげたくて、あたしは走り寄る。
リコも弾けたように立ち上がって駆けだした――あたしから逃げるように。
「待って、リコ……!」
かろうじてしがみついたけど振り払われ、あたしは転倒し、ロビーの床にたたきつけられ。
――ショックで、もう動けなかった。
遠ざかるリコの足音。
そしてそれが立ち止まり。
「ミサ!?」
足音が戻ってくる。
「ミサ、大丈夫……!?」
そうして、リコがあたしを抱きかかえてくれようとした瞬間。
あたしは全力でリコにつかみかかった。
視界が揺れ、二転三転した後。
あたしは、リコを仰向けにする形で組み敷いていた。
「――捕まえた」
「ミ、ミサ……!?」
何が起こったかわからず、呆然としたリコの顔を真正面から見つめる。
そして、やっと笑えたあたしに、リコは気づく。
「え、演技……?」
「そうよ。迫真だったでしょ? 女優の経験さまさまね」
そう。
あたしがしたのは、
――ショックで、もう動けなかった。
という演技。
とっさのそれに、リコはまんまと騙されてくれた。
それを理解したのか、リコの顔が怒りでか、紅潮していく。
「し、心配したのに……騙したの!?」
「あなたがよく、それを言えたものね」
リコの舌は縫い付けられた。
怒りは一瞬で吹き飛び、今度は目を泳がせ始める。
あたしは全力でリコを押さえつけている。
だけどきっとそれでもリコには敵わない。
でも力で押しのければ、今度こそあたしを傷つけるかもしれない。
だからリコは、この状況から逃げられない。
あたしはそれを利用する。
我ながら意地が悪いと思う。
けれど、そんなもので許せるはずがない。
「――黙ってあたしを置いていこうとしたの?」
そう、許せるはずがない。
「だ、だって」
リコは顔を背けて目をぎゅっと閉じた。
そんなので、せき止められるはずがないのに。
「だってぇ……!」
零れ落ちるそれを拭いてあげたいのを我慢する。
「だったら」
あたしは、リコの耳に唯一残る銀色に、胸を押しつぶされそうになりながら、あえて言う。
「置いていってよ、それ」
リコが目を見開いて凍りついた。
「それはあたしの大事な親友にあげたプレゼントなの。やめるというなら――置いていって」
「や、やだ」
怯えの光――そして懇願がその目に宿る。
「こ、これだけは、お願い。ゆ、許して。これだけは――!」
リコは訴えてくる。
あたしはそれを、どこか他人事のように聞こうとする。
「お願い。これがあれば、うち、どこでも生きていける。これさえあれば、どこでも……!」
「だったら、あたしのいる場所にしてよ」
もう抑えられない。
声が震える。
「そのどこでも、あたしにしてよ。あたしに申し訳ないっていうなら、それ、あたしに頂戴よ。ねえ」
涙に濡れた、呆然とした表情が見返してくる。
冷静でいたいのに、激情が渦巻く。
「ごめんなさい、リコ。あなたの夢を奪うことかもしれない。――でも」
ああ、もう駄目だ。
言葉を飾れるわけがない。
「行かないで、リコぉ……!」
あたしはリコにしがみついた。
行ってほしくないから、必死にすがる。
「お願い、行かないでよぉ……!」
「行きたいわけないじゃん……!」
強く抱きしめ返された。
「うちの夢、ミサに飼われることなのにぃ……!」
「それ、まだ言うのぉ……!?」
しかもこんな時に。
進路相談の時のふざけた回答だと思っていたのに、本当に、こんな時に。
あたしもリコも、泣き笑った。
「だから言ったでしょ!? 幸人さんとの新婚生活にそれはお邪魔なの!」
「こ、今度は本当に寝取られたあ……!」
「おかげさまでね! 悔しい!?」
「うん、うん……!」
あたしもリコも、涙でぐしゃぐしゃだ。
しかも、雨の後の空港、その展望ロビーの床で抱き合い寝ころびながら、服を汚しながらじゃれあうその様は、きっとおかしい。
「だったら、ずっとあたしのそばで悔しがっていなさい。それが――あなたへの罰よ」
「うん、うん……!」
けれどあたしは、そんな宝物を手放さずにすんでよかったと、また涙ぐむのだった――。
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