umbrella
もう返そう。
ふと、湧き上がってきたのはその思いだった。
それは、ぼうっと部屋の壁を眺めていたからこそだったのかもしれない。
壁際の棚上のショーケース、その中にそれはあった。
馬鹿みたいに仰々しいそれに守られているのは、一本の傘。
――幸人さんと出会うきっかけになった、あたしの宝物。
それは学校でいじめられていた時期。
その日も鞄を隠され、探す気力もなく下校し、雨に降られ。
雨宿りしていた歩道橋下でふさぎ込んでしまって、心が落ちていくのを止められなかったあの時。
不意に手をつかまれて、そこに傘を渡されたのだった。
何が起こったのかわからなかったあたしを置いて、傘を渡した人は言葉もなく走り去った。
それからあたしはそんな――晴れ間のような人を追いかけ始めたのだった。
そこまで思い出したあたしの口元に浮かんだのは、自分でも「力ない」と感じる苦笑だった。
そうして、あたしはそっと傘をショーケースから取り出して、それだけをお供にして外に出た。
時刻は午後七時、曇り空ということもあって、視界は暗い。
街灯が照らす道を、傘の揺れに引きずられるように、あたしは歩く。
つらつらと、風景を横目に歩く。
あると信じてきた赤い糸を、巻き取っていくかのように。
――学校。毎日の登下校を思い出す。
――商店街。さ迷っていたあたしを、凜花お姉ちゃんが見つけてくれたことを思い出す。
――本屋。幸人さんを待ち構えて、勇気を振り絞って声をかけたことを思い出す。
ずきり、と胸が痛む。
幸人さんの職場近くに向かおうか、と思ったものの、徒歩では遠いと思いなおす。
未練がましい、と自分を叱咤して、幸人さんの家へと向かおうとして――その足は、別の欲求をあたしに突きつけてきた。
それまでの時間を引き延ばそうとする自分に浅ましさを抱きながら、足を引きずる。
と、そんなあたしを哀れに思ったのか、空から涙のようなしずくが落ちてくる。
それは数を増し、あたしに傘を開かせた。
大きく丈夫なそれは、あたしを覆い上から見下ろし――容赦なく幸人さんを連想させる。
「――これで最後かしらね」
何の、とは自問せずに、濡れていく道を歩く。
そうしてやがて、ところどころ錆が目立つ歩道橋へとたどり着く。
――こんなにみすぼらしかったかしら。
という感想は、はたして歩道橋への感想だったかどうか。
そばに佇み見上げ、そうしてなにげなく回り込むように歩道橋の下へ。
「――美咲?」
そこから呼びかけられ、あたしの心臓がはねた。
かつて、あたしがうずくまっていたそこには。
夜に塗りつぶされるかのように、幸人さんがたたずんでいた。
降られたのだろうか、幸人さんの全身はびしょぬれだった。
「……あ、ええと」
そうして、困惑した声を返してくる。
――ああ、幸人さんだ。
理性は拒絶を求めているのに、会えて声を聴けた喜びが胸を満たし、頬が緩む。
もはや本能というべきそれに抗うこともできずに反応を決めかねていると、幸人さんが奥へずれて空間をつくった。
「……え、あ」
うまく言葉を作れないあたしなのに、足は勝手に動いてその空間へと誘う。
諦めて傘を畳むあたしの視界の隅に、微妙な距離を空けてたたずむ幸人さんが見える。
はしゃぎそうになるのを罪悪感で押しつぶす。
相反する心の動きにぎこちなくなるのを自覚する。
そして、今すぐ駆け出して逃げ出せばいいとわかっているのに、そうできない自分を恥じる。
だから、とっさに出した言葉は上ずっていた。
「き、奇遇ね」
「あ、ああ、そうだな」
そうして気まずさを呼び込んでしまう。
こんな天気だからか、他に道行く人は見えなかった。
時折、車道の車が水たまりを跳ね上げる音と、ヘッドライトの光が作り出す陰影が背景を切り取っていく。
「…………」
やっぱり、言葉は出てこない。
けれど、相反するように胸は一杯になるばかりで、ごまかすように夜の空を見上げる。
雲は分厚く星は見えず、大量の雨粒を降らせてくる。
それが現状を表しているようで、ふいに笑いがこみあげた。
「……どしゃぶりね」
「……ああ。いつ止むんだろうな」
幸人さんを盗み見ると、同じように空を見上げていた。
そのまなざしには、何がこもっているのだろうか。
あたしにはわからない――いえ、もう想像すら許されないかもしれない。
それさえダメなのに、こうやって顔を合わせたり、会話を交わすことなんて論外なんだろう。
ぎゅっ、と傘の柄を握る手に力がこもる。
この期に及んでも未練がましく、あたしの何かを染み込ませるかのように、伝わって、とばかりに。
ふと気づくと、幸人さんの視線があたしの手元――傘に向いていた。
「……それって」
幸人さんの記憶の底から、何かが立ち上ったようだった。
それをきっかけにだろうか、あたしの心境がフラットになっていく。
手の力を緩め、目を閉じて、神聖な儀式に向かうように、心身をコントロールする。
そうして、断ち切るように目を開けた。
「――はい。返しに、来ました」
幸人さんは目を見張った。
それはあたしの姿勢に対してか。
手の中のものが示す意味についてか。
あたしの言葉遣いに対してか。
――いえ、もう些細なことね。
「……そう、か」
幸人さんは一瞬視線を落とすと、傘に視線をやり、手を伸ばしてくる。
それを合図として、あたしも傘を差しだそうとして。
――その瞬間、風が吹いた。
あ、と思った時にはもう、その手から感触は失われていた。
突風をはらんで開いた傘はさらわれていき、一瞬で夜の雲、雨の彼方へ消えていく。
「――待って!!」
だめなの。
それがないと、無理なの。
伸ばした手は、もちろん届くはずもなく。
だから追いかけようとしたのに。
「馬鹿、危ないぞ!」
幸人さんがあたしの手首をつかむ。
「いや、離して!」
幸人さんの手は冷たい。
そして、ちっとも緩んでくれなかった。
――あたしを、追いかけさせてはくれなかった。
「う、嘘。そんな――」
傘はもう視界のどこにもない。
風の勢いを考えたら、どこに行ったかなんて予測不可能。
もう見つからない。
その事実が、あたしに絶望的な影を落とす。
「あ、ああ」
「……どうして、そんなに」
あたしの嘆きの理由が分からないのだろう。
幸人さんの戸惑いの声が耳朶を打つ。
「……か、返さないといけないのに」
あたしは膝をつきそうになる。
「あれを返せば、幸人さんと出会う前に戻れたのに」
頬を流れるそれが、雨なのか涙なのか、あたしにはもうわからない。
「別れ、られたのに」
幸人さんの言葉はない。
「あ、あたし。ほかに、幸人さんから離れる方法なんて思いつかない……!」
どういうことなの。
「あれだけ散々この世界は、あたしたちに『別れろ』って言ってきたじゃない」
なのに。
「なのに、どうして――!?」
膝が水たまりに浸かる。
立っていられない。
離れないといけないのに、別れないといけないのに、あの子をあんな目に合わせて不幸にしたのに犠牲にしたのに自分だけが幸せになるなんて卑怯なことできない幸人さんも巻き込む不幸にするだから出会いまで巻き戻したいのにもう何をどうすればいいのかいっそもうここで――。
「世界なんて知るか!」
なのに。
その人だけは、沈みゆくあたしを引き上げた。
それは怒りの声。
「俺が知っているのは、美咲と、俺たちを支え思ってくれた人たちがいる、ということだけだ」
大きく息を吸い込む気配。
「何もかも奪われる、そう俯いていた俺を、引っ掻き回して引っ張り回して、元気づけてくれた奴がいた、ただそれだけだ」
雨を貫き、それはあたしに届いた。
「見たことも聞いたこともない、『世界』なんて奴のことなんて、俺は知らない。俺がはっきりさせたいのは、これだけだ。美咲、俺はお前が好きだ。お前はどうなんだ」
「好きよぉっ……!」
ごまかせるはずない。
そんなもの今更。
けれど、ごまかせないのは罪の意識も同じ。
親友のあの子を踏みつけにして歩む道は、あまりにも辛すぎる。
激情がどうしようもなく雨と混ざって流れ落ちる。
「好きに決まってる。諦めたくない。離れたくないよおっ……」
――雨音がかき消してくれることを願って。
――お願い、聞き届けて。
――どうか、お願いします。
色んな思いがぐちゃぐちゃになる。
なのに、それだけは明確にこぼれ落ち続けてくる。
好き。
それだけで、全てが許されるはずないのに。
だって、許されたらリコはどうなるの。
「なら、これも聞かせてくれ。俺は亨と話していない。美咲は八重垣さんと話したのか」
なんてことを聞いてくるんだろうか。
「……できるわけない」
「……だろうな。俺もそうだ」
幸人さんの声が、未だ掴まれたままの手首も通じて伝わってくる。
この後に及んでも、物理的な繋がりがまだあることに安堵を覚える。
けれど、それは前触れなく解かれた。
呆然と、力無く落ちた自分の手首、そうして幸人さんを見上げる。
幸人さんは、耐えかねたように眼差しを空に逃がしていた。
「……俺も、諦めるべきだと思った。それどころか、何もかも放り出したいくらいだ」
ああ、そうか。
あたしからじゃなくて、幸人さんから切り出してくれれば、それで終わるのか。
そう気づいてしまった。
それであっけなく終わる、のだと。
ぞくり、と背中を寒気が這い上がってくる。
雨の、地面からの冷たさじゃない。
あたしを本質的に殺す刃が、もうすぐ振り下ろされるのだと、気付かされた。
楽になれる。
だから、そんな感想さえ抱いてしまう。
「……けど、何だろうな。同時に思いもした。それでいいのか、ってな」
――何を言いたいのだろうか。
そんなあたしの視線にも気づかないのか、幸人さんは暗い空を見上げたままだ。
「……ああ、いや。何だろうな。うまく言葉にならないが……なんかさ、腹が立っているんだろうな」
「……腹が立つ?」
思いがけない感想だった。それは、何に対してだろうか。
「勝手なことをした、あいつに対してだよ」
――あいつ。
それはきっと、幸人さんの親友の、あの人のことだろう。
「美咲はどうなんだ」
あたしへの何度目かの問いに、息苦しさを覚えた。
幸人さんと違って、あたしには申し訳なさしか抱けない。
なんてことをさせてしまったのか、と思うだけだ。
そんなあたしのそばで、逆に幸人さんは、まるで大木のように地面を踏みしめつつある。
「ショックでふらふらで、考えが全然まとまらなかったけどな、降られて少しは頭が冷えたよ。――お前はなんてことをしたんだ、なんで八重垣さんを巻き込んだ、お前のほうが大人だろうに、とめなきゃいけなかっただろ、ってな」
ふつふつ、という表現がふさわしく、幸人さんの声に力がこもってくる。
そうして、同じく熱がこもった視線を、あたしに向けてきた。
「とりあえず叱ってやる。俺にはその権利があるはずだからな」
「――どう、して。そんなこと、思いつくの」
幸人さんのその熱に、あたしは恐怖すら覚えていたかもしれない。
あたしはそれどころじゃない。
傘が失われたとわかった時、あたしのどこかは喜んだのだ。
――これで現状維持、別れなくていい。
――あたしのせいじゃない、あたしは世界に許されたんだ。
――だから、きっとあの子も許してくれる。
自分が惨めになるほど卑屈な姿勢だったというのに、目の前の人は、それを容赦なく小さな微笑みで照らした。
「あいつがいないのは、俺にとっては不自然なことなんだよ」
――――。
一瞬、なにも考えられなかった。
そうして次の瞬間、自覚したのは自分の馬鹿さ加減だった。
あたしはリコが大好きだ。
そう、その事実だけで充分だったのに。
あれこれ理由をつけて、あたしは。
世界のせいにして、あたしは。
「――あんたなんかに」
あたしの大好きなリコを、あんたなんかに、誰が。
ぐっ、と足に力を入れて立とうとする。
その気配に、支えてくれようとしたのか幸人さんの手が伸びてくる。
「お願い、自分で立たせて」
あたしのそれに、幸人さんの手が止まった。
それに感謝しつつ、あたしは支えなしに立ち上がる。
顔を上に向け、雨に向かう。
それで、さっきからずっと雨に打たれていたことに気がついた。
そんなことにも気づけなかった。
だから、リコがあたしの親友だということも、抜け落ちていたのだろう。
「――幸人さん」
あたしは呼ぶ、愛しい人の名を。
「なんだ、美咲」
幸人さんは呼んでくれた、確かな熱をもって、あたしの名を。
「行くわ、あたし」
「ああ、俺もだ」
「うん。それじゃ――」
あたしは、幸人さんの気配を振りきって歩き出す。
「……――」
幸人さんの声は、雨音に紛れて聞き取れなかった。
今はそれでいい。
また会ったときに聞けたらいい。
あたしは全身を雨に打たれ、足取り重く歩く。
雨は降り続く。
むしろ、それが火照った身体に心地よい。
そう、勝手に降ればいい。
勝手に吹けばいい。
でもね、それで止まるものなんて、もうなにもない。
あたしはこう宣誓するだけだ。
――返してもらうわ。
読んでくださり、ありがとうございました。
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