千里を超えて
――あたしの心はぐらついていた。
ただ、頭を下げた幸人さんの姿が繰り返し脳裏で再生され続けている。
それはあたしがさせたことで。
あたしこそ幸人さんに謝りたいくらいだったのに、そう気づいた時には車の後部座席だった。
隣には、あたしのママがいる。
その存在は感じ取れる。
けれど、視線を向ける気にもならない。
「――美咲」
その呼びかけは、あたしにさざなみも立てなかった。
口を堅く封印してしまったよう。
今、口を開けば。
罵倒が飛び出すか。
懇願に膝をつくか。
自分でも、どんな暴発を引き起こすかわからなかった。
「美咲」
再度かかる声。
それでもあたしは、動かない。
――動けない。
そうしていると、ママの手があたしの頬にかかり。
ぐいっ、と無理やりそちらに向けられた。
「いっ……!」
「あら、ごめんなさい。力が入り過ぎましたね」
よほど全身が強張っていたのか、首が軋みに痛んだ。
視界に入ってきたのは、結い上げたダークブロンド、ネイビーブルーのリップ、あたしとは違う――深いサファイアの瞳。
そこに浮かんでいるのは、困ったように目を細めた微笑み。
久しぶりに会う大好きなママがここにいるというのに、視線が下に落ちる。
視界を埋めるのは、深い海を思わせる青い生地。
あたしを受け止めるようなそれを、あたしは受け入れられずに、そこからも目をそらしてしまう。
「……ごめんなさいね、美咲」
今更、何をいうのか、と。
あたしの心によぎるのはそれだけだった。
なのに、身体が震えてくる。
それはまるでマグマが吹き上がる前兆のようにも思えて。
「好きを押しつける代償を、知ってほしかったんです」
けれどそれは、一瞬で鎮火させられた。
それどころか、あたしは凍り付かされた。
「押しつけてなんてない」
なのに、口は否定に動く。
ゆっくりと顔が持ち上がり、視線が目の前の相手を突き刺した。
「あたしたちは、好きあって」
「だから何をしてもいい、と言いたいんですか?」
そうだ、と以前ならそう答えたかもしれない。
けれど、今は。
答えない、いえ、答えられないあたしに、ママは視線を受け止めたまま、ただ静かだ。
「何を払わせてもいい、と?」
「……いいえ、ママ」
あたしは認めるしかなかった。
好きを貫くために、幸人さんに頭を下げさせるなんて。
できるわけがない。
涙が零れ落ちる。
けれどあたしはもう、それをさせてしまった。
合わせる顔がない。
取り出したハンカチで、ママは涙を拭いてくれた。
「あたし、どうすれば」
思わず出た言葉に、ママは静かに身体を離して。
「考えなさい」
ただ、そう突きつけてきた。
あたしはまるで、海の真ん中に放り出されたような感覚に陥った。
「――と、言うだけでは、さすがに無責任ですね」
ママは小首を傾げて、少し笑って。
けれど、より難解な言葉を投げかけて来るのだった。
「好きを言い訳に使うのは、もうやめることです。それはあなたが好きな方の格を落とすだけですよ」
言葉の意味を掴みかねている間に、あたしは車を降ろされていた。
夏の日差しが降り注ぐ。
あたしは半ば機械的に荷物から日傘を取り出すと、それを差した。
色濃く影が、地面に横たわる。
影ですらくっきりしているのに、あたし自身はぼんやりしていて、輪郭も定まらないようだった。
なぜ、ママはあたしをここで降ろしたのだろうか。
そこは見覚えのある景色、いつもの通学路だった。
いえ、本当はわかっている。
「歩いて考えて。いつもの道で頭を冷やして、落ち着いて」
それはママが昔、あたしに言い聞かせてくれた言葉。
癇癪を起こすあたしを、そう言って優しく見送ってくれた。
着物の青と同じ、その瞳はやっぱり優しくて。
小さい頃は、ママと同じがいいって、駄々をこねたんだっけ。
ドイツ人の――ヘレーネ・マイヤー、帰化して玲仁となったママ。
ママの外見的特徴を受け継いだのは兄姉のうち、長女の紗月お姉ちゃんだけ。
それが羨ましいって、強く当たってしまったこともあったっけ。
そんなときは、ママは困ったように仲裁してくれて。
――けれど、そんなママは今、味方ではいてくれない。
それどころか、とても厳しかった。
なぜ、お願い、否定しないで。
そんな心境が渦巻いて、そして――幸人さんにただ、謝らせてしまった。
結局はその光景に行きついてしまう。
立ち止まって振り返っても、ママが乗った車はもう見えず、当然、幸人さんの家も見えない。
それどころか、どこに向かうべきなのかも見えない。
見慣れた通学路だというのに、まるで知らない外国映画の一シーンのよう。
そこに迷いこんだあたしは異物で――もしかしたら、幸人さんの世界においても、そうだったのかもしれない。
幸人さんの日常に紛れ込んだ、異質な存在。
あの人を惑わし、迷わせ――苦しめてしまったのか。
もし、そうなのだとしたら。
もう、いっその事。
「あーっ!」
突然、そんな喜色のこもった叫びが、あたしの鼓膜を打った。
それは、目の前の小道から飛び出してきた少女が発したもので。
そうして、明るい足音とともに近づいてくる。
「ミサちゃんだ! やっほー!」
近づいた満面の笑みが、あたしを見上げてきた。
それは自然と、あたしに笑みを形作らせた。
「こんにちは、千紘ちゃん。今日も元気ね」
「うん、チヒロ元気!」
言葉通り、身体を跳ねさせながらピースサインを送ってくる。
この子がここにいるということは、と千紘ちゃんの後ろに視線をやると。
「お、置いていかないでよ、千紘……!」
予想通り、お兄ちゃんの田坂くんも後ろから現れた。
なんだか、田坂くんはいつも千紘ちゃんを追いかけているわね。
「こんにちは、田坂くん」
「え!? 竜禅寺さん!?」
驚いた顔の田坂くん。
前にもしたわね、このやり取り。
と思っていると、千紘ちゃんに手をつながれた。
「ミサちゃん、その傘可愛い! お嬢様みたい!」
「あら、ありがとう。千紘ちゃんも可愛いわよ。とっても涼しげ」
「えへへ、うれしい!」
暑いからか、千紘ちゃんはキャミソールワンピースに身を包んでいた。
白地に青いストライプがよく似合っている。
あたしは褒められた日傘に千紘ちゃんを入れる。
その後ろには、おそらく千紘ちゃんのためであろう、同じく日傘を広げた田坂くんの姿。
彼は見慣れた苦笑を浮かべていた。
「こんにちは、竜禅寺さん。どうも、みっともない所ばかり見られている気もするけど」
「あら、そんなことないわよ。いいお兄ちゃんしてるじゃない」
「えー、そんなことないよ。お兄ちゃん、いつも遅れてるし」
手厳しく言いながらも、嬉しそうな顔の千紘ちゃん。
内心がわかっているのか、田坂くんは怒ったりせずに、苦笑の中にも優しさを混ぜている。
「二人はお買い物?」
「ううん! 冷たいの食べに来たの!」
あたしの質問に、勢いよく千紘ちゃんが返してくる。
「この辺にスイーツ屋さんができてね。暑いし、ちょうどいいかと思って」
「チヒロが見つけたの! おしゃれなカフェ!」
補足した田坂くんの語尾に重ねる様に、得意げな千紘ちゃん。
その元気な様子に、あたしはますます笑みに誘われる。
「お手柄ね、千紘ちゃん」
「うん! ミサちゃんも一緒に行こ!?」
「あ、こら、千紘」
天真爛漫な、千紘ちゃんのその笑顔。
けれどあたしの心は、ざわり、と揺れた。
ふと視線を逸らした先の田坂くんは、申し訳なさそうで――けれども、少しの期待を含んでいた。
結局あたしは千紘ちゃんの申し出に頷いた。
あまりものを考えられなかった、というのが正直な所だった。
らしくなく、流されている自覚がある。
千紘ちゃんに手を引かれ、その後を田坂くんがついて来る。
その構図は、あたしがママの手を引き、後からパパがついて来る、という過去にも似ていて。
――あたしは少し、哀しかった。
店内は涼しく――だからなのか、千紘ちゃんはスイーツを食べ終わってすぐに船を漕ぎ始めたかと思ったら、テーブルに突っ伏して眠ってしまった。
その肩に、田坂くんが来ていたジャケットをかける。
彼の妹を見る目は優しく、「仕方ないなあ」と語っていた。
「ごめんね、竜禅寺さん。なんだか慌ただしくて」
「いいえ。楽しかったし、大丈夫よ」
食べながらはしゃぎながら喋りながら、と忙しかった千紘ちゃん。
その千紘ちゃんがまるで電池が切れたみたいになってしまい、ふと気づくと店内のざわめきが耳に入ってくる。
同時に、田坂くんの姿も。
彼はようやく千紘ちゃんから解放されて、溶けかけのスイーツにスプーンを伸ばしていた。
あたしも、千紘ちゃんの会話術に圧倒されて止まっていた動きを再開する。
すくったアイスは冷たく甘く、会話で火照った心身を落ち着かせてくれた。
――あたしたちは一体、どう見えているんだろうか。
ふと、そんなことを考える。
兄妹とその他、だろうか。
それとも、デートとそれについてきた妹、だろうか。
あたしと田坂くんは同級生で、それは同年代ということでもあり、しかも田坂家は資産家でもある。
そしてきっと、知識と教養も将来性も同レベル。しかも性格は温厚ときている。
つまり、あたしと田坂くんは、見た目も内実も釣り合いが取れている。
――幸人さんとあたしたちは、どう見えていたんだろうか。
そんなことも考えた。
精一杯、見た目が沿うようにおめかしをしていったけれど、それは所詮、背伸びに過ぎなかったのだろうか。
幸人さんに恥をかかせていたのだろうか。
もしかして、兄妹としてしか見えていなかったのだろうか。
いえ、それ以前に。
――幸人さんにも、妹のようにしか思われていないとしたら。
「だ、大丈夫?」
声をかけられて、視界が色を取り戻す。
目の前には、慌てたような田坂くん。
気づくと、頬を涙が伝っていた。
あたし自身は妙に落ち着いていて、ハンカチを取り出して顔を拭った。
「……なんでもないわ」
けれど、平凡な言葉しか出てこない。
千紘ちゃんはまだ眠っていた。
よかった、これを見られていたら心配をかけていたところだった。
田坂くんならいいというわけでもないけれど、小さな女の子にはあまり見せたくはなかった。
「そ、そう」
田坂くんは、深くは突っ込んでは来なかった。
それはありがたく、しばしテーブルの上を、スイーツをつつく音だけが過ぎる。
「そ、その」
ためらいがちな声。
視線を上げると、気遣いの色が浮かんでいる瞳があった。
「……もし、悩みがあるなら」
そこで一旦、言葉を止めて、ためらいを飲み込み。
田坂くんは、スプーンを置いた。
「……聞かせてもらえると、嬉しい、かな。……ぼ、僕でよければ、だけど」
言い切った割には、最後で気概がしぼんだ。
そうして田坂くんは、気まずそうに顔を伏せた。
「……田坂くんって、いい人ね」
「そ、そうかな」
思わず出たあたしの言葉に、田坂くんは恥ずかしそうにする。
同時に感じる、申し訳なさ。
まるで彼の心を弄んでいるかのようだった。
彼は、あたしに好意を抱いている。
それに相応しいものをあたしが返せば、ここで関係は閉じる。
幸人さんは晴れてあたしから解放され、田坂くんも思いを遂げられ何もかも、丸く収まる。
みんな幸せ、ハッピーエンド。
もう、それでいいのかもしれない。
「……もし、田坂くんに」
だから、あたしの口は勝手に問いかける。
「好きな人がいたとして」
ぎくり、とまるで擬音を生じさせたように、田坂くんの表情が動く。
それに構わず、あたしは続ける。
「でも、年の差、身分、生きる世界、すべてが違うとしたら」
そう、それは今の幸人さんとあたし。
「……やっぱり、諦める?」
今のあたしは、一体どんな表情をしているのだろうか。
もう、何もかも歪んで認識できない。
ただただ、問いに対する答えに、耳を傾けるだけ。
無言の時間が続く。
「――僕の、師匠みたいな人には、ね。お付き合いしている人が、いるんだって」
田坂くんの声が届いてくる。
あたしの心が傾く。彼は、何を言っているんだろう。
「――どんな人かって聞いたら、とても嬉しそうに、誇らしげに教えてくれたんだ」
早く、答えを教えてほしい。
「――器が大きくて、可愛くて、猪突猛進で、一生懸命なんだって」
――そんな風に思っていてくれていたんだ、嬉しい。
ありがとう、幸人さん。もう、それだけで充分。
「――同じ職場の人かって聞いたら――話を変えられた」
そう、違う。
同じ場所にもいられない。
何もかも違う。
だから、もう。
とどめを刺して。
「それでわかったよ。――ああ、それでもその人が好きなんだなあ、って」
視界が戻る。
目の前の田坂くんは、困ったように苦笑を浮かべていた。
「あの人なら諦めないんだろうね。――でも、僕ならどうだろう。わかんないや」
「――そう」
あたしは、ようやく返事をできた。
そうして、涙が零れ落ちないように上を向く。
――いったい、何をしようとしていたんだろうか、あたしは。
幸人さんは晴れて、あたしから解放されて?
自分が苦しいから放り出すっていうだけの話じゃない。
一人にはしない、そう誓ったのは誰だったの?
田坂くんも思いを遂げられる?
妥協の思いを返されて、彼が喜ぶとでも?
みんな丸くハッピーエンド?
あたしの気持ちはどうなるの。
なにより、本来なら自分自身で断ち切るべきものを、こんな優しい彼にさせようとするなんて。
それこそ、誰の前に立てるというの。
身分の壁なんて、ずっと前からわかっていた話じゃない。
それでも好き。
それは言い訳じゃなく、魂だ。
だから、投げ出したら死んでしまう。
こんな簡単なことを見失ってしまうなんて、あたしは相当、参っていたみたいだ。
それを引き戻すきっかけをくれたのは、テーブルですやすやと眠っている千紘ちゃん。
天使のような寝顔、とはこのことだろうか。
その姿に勇気を得て、あたしはどこか神妙な田坂くんに向き直った。
「田坂くん」
「うん、竜禅寺さん」
「ありがとう。それから――ごめんなさい」
頭は下げなかった。
あたしの幸人さんへの思いは、誰に憚るものでもないからだ。
まっすぐな視線に、すぐには反応はなかった。
けれど、それはじわじわと、苦い笑みへと変わっていった。
「――うん。元気になったみたいで、よかったよ」
優しい言葉に、ほろ苦さが混じる。
あたしは千紘ちゃんへと視線を向けた。
「千紘ちゃんにも、お礼を言っておいてくれると嬉しいわ」
「わかった。必ず言っておくよ」
「ありがとう。それじゃあ、学校でね」
「うん、また」
あたしは静かに立ち上がる。
千紘ちゃんに挨拶できなかったのは心残りだけれど、それを振り切る。
あたしは歩かなければならないからだ。
落ち着いて考えて、そうしてまた歩く。
どこまで続くか、どれだけ険しいかはわからない。
けれど、それが幸人さんへと続くと信じて。
共に歩めると信じて。
――そのための第一歩を、あたしは踏み出した。
読んでくださり、ありがとうございました。
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