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ストーカー系女子とアンニュイ系男子の攻防戦  作者: 緋色
五章

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32/54

凪の午後

 ――本当に、久しぶりだった。

 ゲームが、じゃない。

 あのクローゼットを開けたことだ。

 たくさんのゲームは、それより多くの楽しさ、家族との思い出をあたしにくれた。

 最後にプレイしたのは、特別な思い出のある、このガラスのチェス。

 これだけは、あたしの寝室の奥にしまってあった。

 これをすんなりと持ってこれたのは、自分でも驚きだった。

 とっさに口走った「応援してほしい」。

 それに幸人さんは明確に答えてくれたわけではないけれど、あたしの(がわ)に立ってくれたのはわかった。

 多分、千佳さんはチェスが強くて、それを幸人さんは知っていて、あえてそれを勝負に選んだ千佳さんに非難の目を向けた。

 それだけで十分。

 思いが伝わってきて、それがあたしを立たせ、歩かせ、それを手にさせた。

 そうして久しぶりに開けたガラスの箱の駒たちは、あの時とめてしまった何かのまま、静かにそこにあった。

 ――待っていてくれた。

 そう感じとれるほど、それはそのままで。

 あたしは逸る気持ちを抑えて、次々と駒を取り出す。

 初めてこれらを見たとき、目を引かれたのはフロスト加工の黒い駒たちだった。

 鈍い輝きに一目惚れし、少しざらついている感触が手に馴染んで、もう虜になった。

 後から、黒が不利な後手だと教えられたけど、そんなことはどうでもよくてそれを使い続けた。

 対する千佳さんの手によって整列していくのは、透明に近い駒たち。

 その手で置かれていく音がリズミカルで心地よく、大事に扱ってくれているのが伝わってくる。

 それだけでも見直してあげていいくらいだったけれど――。

「幸人、これがキング。それで、こっちがね――」

 「また教えてあげるね」との宣言通り、静かな口調の中にも熱をもって幸人さんに駒の説明をしていく千佳さん。

 それに、ただ教えるだけではなく、「また」と来た。

 さりげなく幸人さんとの歴史の長さをアピールしてくる千佳さんに、あたしの内心はざらついた。

 けれど、幸人さんはその千佳さんの説明を聞いてはいるようだけれど、時折あたしに視線を投げかけてきてくれた。

 心配そうなその瞳に、あたしの心は冷めるどころか静かに温まっていき、それが指先を通じて駒たちに乗り移っていくかのようだった。

 駒の説明を終えた千佳さんが、口火を切った。

「そして、白が先手。――よろしくね、美咲ちゃん」

「こちらこそ――千佳さん」

 そうして、一手一手がゆっくり進んでいく。

 ゆっくりなのは、千佳さんが駒の動き方を逐一、幸人さんに教えてあげているからだ。

 あたしとしても、それには異存はない。

 千佳さんが最初にポーンの動きを教えるなら、あたしはナイト。

 そういう具合に、代わる代わる説明を加えていく。

 そうしていると、徐々に幸人さんは心配そうな表情から楽しそうに変わっていき、チェスのゲームとしての面白さに理解と感心を深めていく。

 その表情が、あたしにはすごく眩しく愛おしい。

 しかもこんなに近くに寄り添ってくれている。

 それだけであたしは、今日のこの場を整えた甲斐があった、と思うほど。

 徐々に手番は重ねられ、千佳さんのナイトが陣地に飛び込んできて、あたしのキングを射程に収めた。

「チェック」

 千佳さんから声が上がった。その唇から、説明が続く。

「詰みそうだから逃げてね、っていうこと。ナイトは他の駒を飛び越えられるから、遮ることはできない。だから、このナイトを取るか、キングを逃がすか、だね」

 あたしは後者を選択し、キングを逃がす。

 それにしても、とあたしは思う。

 そもそも、こんな風に千佳さんと向き合えるなど、あたしはほとんど期待していなかった。

 こそこそ会うのが関の山、だとばかり思っていた。

 なにしろ、あの日の幸人さんの態度は千佳さんに絶縁を言い渡したも同然で、当の千佳さんに「とりなしてあげる」とは言ったものの、それを撤回させる方法など思いつかなかったからだ。

 あの後のあたしと千佳さんのやり取りを知らない幸人さんは、律儀にあったことを伝えてくれて、もう二度と私的な場では接しないとまで言ってくれたほどだった。

 それはそれで嬉しく、その誠実な態度に何度目かの惚れ直しをしたものだったけれど。

 そこに差す、わずかな影をあたしは気にした。

 それは後ろめたさか気まずさか。

 でもあたしを思って見ないふりをしてくれた幸人さん。

 そう悟ったあたしは、やはり幸人さんの安寧のほうが大事で、ダメもとで仲直りを後押ししたのだった。

「チェック」

 再度、千佳さんの宣告が聞こえる。

 今度はビショップが間隙を縫って、キングの首を捕えようとしている。

 あたしはポーンを二マス進め、阻む位置に移動させる。

 面白くなさそうな千佳さん。

「まだ動かしていないポーンは、二歩動いてもいいの」

「そうなのか」

 あたしの説明に、意外なルールだったのか軽く驚く幸人さん。

 その驚きを引き出したことに、ひそかに喜びを感じてしまう。

 ――でも、こんな親睦会を開きたいと、千佳さんが言い出すのは予想外だった。

 いえ、幸人さんをまだ諦めていない千佳さんからしたら当然なのだろう、と考えて思い直したのだ。

 職場は公であって人目がある。

 幸人さんと個人的に接する機会など早々は作れない。

 そうなると、あたしを介したほうがむしろ接触の機会は増える。

 そういう考えだったのだろうけれど、あたしはあえてそれに乗った。

 単純に幸人さんに会う機会が増えるのはあたしとしても嬉しいし、他の人たちがいる場所での幸人さんはまた違った表情を見せてくれるかもしれない、と思ったからだ。

 それはやっぱり当たっていたし、何より幸人さんとの仲を見せつけることもできる。

 そうして、思わず披露宴なんて言ってしまって、まさかのファーストバイトなんてものまでできてしまった。

 今は勝負中なので顔が緩むのをこらえなければならないけれど、そうでなければ飛び跳ねてしまいそう。

「……大丈夫か、美咲?」

 少しの間動きを止めてしまっていたのだろう、幸人さんの心配そうなまなざしと声。

「……チェック」

 そして、千佳さんの不審そうな宣言はあたしの表情の変化が妙だったからか。

 ナイトを動かして遮る位置へ。それは、次の一手で千佳さんのキングを脅かしそうな場所だった。

 そのナイトを取ってしまうと不利になると踏んだのか、少し考えた千佳さん。

「キャスリングするね」

「え、二つ同時に?」

 驚く幸人さんの視線の先で、千佳さんのキングとルークが動く。

 千佳さんは静かな表情で説明を加えた。

「キングとルークの間にほかの駒がない、二つともまだ動いていない、チェックされていない――っていう状態の時、一度だけ使える手だよ」

 付随するほかのルールを説明し、少し得意げな千佳さん。

 確かに、あまり実戦ではお目にかかれないものね。

 あたしも数えるほどしか見たことはない。

 キャスリングは割と奇策の部類で、そんなことをする人には見えなかったけれど――と考えて、そうでもないか、と考え直す。

 あたしはビショップを進め、難しい表情をしている千佳さんに、ちらり、と視線をやる。

 みんなを集めての親睦会なのに、まさかチェスなんて言い出すとは思っていなかった。

 けれど、それはあたしには僥倖となった。

 このチェス盤は、もう二年以上も触っていなかった。

 元々は、チェスが好きなママにパパが送ったものだった。

 これで遊んでいる二人を見て、ほかの家族も次々と興じ始めて。

 あたしも、もちろんそう。

 なにしろとても綺麗で、眺めているだけで時間が過ぎる。

 それが他の人の手で飛び交う様も美しく、それを自分の手で自由自在に動かせた時には、心底からの震えが身体を満たしたものだった。

 そうしてそれは、ずいぶん前にあたしへのプレゼントとなった。

「……チェック」

 再度かかる宣告。

 心なしか、それを告げる千佳さんの声は震えている。

 額に汗の球すら浮かべている。あたしが視線を落とすと、その指先も声を反映していた。

 あたしはそれを阻む位置へポーンを移動。

 それは次の千佳さんの手番で取られてしまうけど、それを取り返す位置にルークを移動。

 ガラスの盤上を行きかうその動きは、かつてはあたしの胸をときめかせていた。

 けれど、その情熱は徐々に冷めていった。

 対戦相手が、次々とその表情を凍り付かせていったのだ。

「チェックメイト」

 ――それをあたしに告げられた、千佳さんのように。

 それを前にしても、あたしの声は平坦だった。

「あなたのキングにもう逃げ場はない。選択肢も、猶予もない。決着、勝負あり、っていう意味よ。――幸人さん」

 最後にあげた名前に、誰に説明していたのか――そして、何を見せていたのか気づいて、あたしの方こそ凍り付いた。

 ――きっと、圧倒的だった、と思う。

 強い、とされている千佳さんに何度も窮地に追いやられていたのに、唐突に逆撃を開始し、まるで即死させてしまったような印象を与えてしまったに違いない。

 それは冷酷で冷徹で殺伐としていて、「ゲーム」というよりもはや無情な「殺し合い」。

 かつて、最後のチェスで兄に言われた言葉が蘇ってくる。

「まるで暗殺されたみたいだ」

 雌伏して一気に勝負を決めるところを、そう称された。

 悪気のない、何気ない一言は、それこそあたしの消えかかっていた熱にとどめを刺した。

 そうして、そのクローゼットには二度と近づかず、それでも未練がましくチェス盤だけは身近に封印していたというのに。

 それを忘れて、また、こんな。

 浮かれて、一番大事な人に、こんな姿を。

 どんな言葉が、表情が襲ってくるか怖くて、身動き一つできない。

 そうして、その言葉は降ってきた。

「か、かっこよかった……! なんだ最後の!?」

 熱量と共に、肩に手をかけられた。

 思わず顔を上げると、間近に興奮した幸人さんの顔。

「負けるかもってはらはらしてたのに、最後の局面で全部ひっくり返すとか、どんな魔法を使ったんだ!? なにが起こったんだ!?」

 とてもきらきらした瞳で、とにかく凄い凄いとあたしを褒めちぎってくる幸人さん。

 あたしの勝ちを喜んでくれる幸人さんが、そこにいた。

「……すげえ。あの千佳さんに勝っちまった」

 呆然とした藤井さんの声が聞こえてきた。

 いつの間にか、隣のゲームのプレイは止まっていて、ずっと見られていたらしい。

 藤井さんの言葉に飛びつくような幸人さん。

「そうだな、すごいな! チェスって面白かったんだな、初めて知った!」

「俺もだよ。勝手に千佳さん専用ズタボロ製造機ってずっと思ってたわ」

「そんな風に思ってたの?」

 額の汗を拭いて、苦笑する千佳さん。

 その表情には悔しさも滲んでいたけれど、暗さはなく充実感が覗いているように、あたしには見えた。

「確かに美咲ちゃんはすごかったけど、わたしを慰めてくれてもいいんだよ、幸人?」

「亨、初心者同士でやってみないか!?」

「わかったから、ちょっと落ち着けよ」

「幸人が聞いてくれない……!」

 あたしは呆然と、その光景を眺めるしかなかった。

 あたしをすごいと称し、成したそれを新しい「ゲーム」として友人に持ち掛け、はしゃぐ幸人さん。

 それを受け、落ち着けと抑える中にもわくわくした雰囲気を覗かせる藤井さん。

 負けはしたものの、それをダシに幸人さんへと忍び寄るしたたかな千佳さん。

 ――今まであたしの勝利がもたらしてきたものは、暗いものばかりだったんじゃないの?

 頑張るほど勝てたけど。

 勝つほどみんなが遠くなる。

 それはわかっていた、けれど一時だけならきっと楽しい、それが過ぎればまたこれはきっと封印。

 幸人さんとの時間のために、冷めた感覚を取り繕うはずだった。

 そう思っていたのは。

「――美咲の勘違い」

 そっと肩に手を置き、静かに話しかけてきたのは凜花お姉ちゃん。

 その向こうで、事情を知っているリコは涙ぐんでいる。

 続けて、凜花お姉ちゃんは言う。

「みんな、美咲の強さにびっくりしてただけ」

「……そう、なんだ」

 あたしのどこかを、ぎこちない優しさが熱していく。

 そうして、続く凜花お姉ちゃんの言葉は、そんな凍り付いた歯車を動かした。

「――みんな、待ってた」

「――ごめんね……!」

 あたしの頭を抱きかかえたのは凜花お姉ちゃん。

 それごと覆いかぶさるように、リコが抱きついてくる。

「な、なんだ? どうしたんだ?」

 驚いたような幸人さんの声が届く。

 抱きしめられて顔も上げられず見えないけれど、それはきっと藤井さんと千佳さんも同じだろう。

 しかし、凜花お姉ちゃんの静かな声はそれを気にしないのだった。

「――家族の事情。なので、ご遠慮願う」

 ごめんね、幸人さん。そういうことだから。

 今回ばかりは、あたしは凜花お姉ちゃんとリコの温もりに、身を任せてしまうのだった。



「面白いな、これ。今まで損してた」

「千佳さんのせいだな」

「それは言いがかりだよ」

 幸人さんと藤井さんのチェスの感想に続く、千佳さんの声。

 とは言っても、そのチェス盤はあたしのではなく、クローゼットにあった少し安っぽいつくりのものだった。

「落としたらと思うと怖い」

 と尻込みする幸人さんに、クローゼット内にあったものを凜花お姉ちゃんが思い出して、取り出してきたものだった。

 あたしたち女子四人は、それを尻目に少し休憩してお茶を楽しんでいる。

 というのも、先ほどまでその四人で協力ゲームをしていたのだが、なんといってもみんな我が強い。

 主張しあってかみ合わず、クリアに失敗してしまった。

 それを落ち着けるための休憩でもあったのだ。

「よし勝った!」

「ちっ、負けたか」

 幸人さんたちも勝負あったようだった。

 勝利に腕を振り上げる幸人さんが無邪気で可愛らしく、あたしにとっては眼福だった。

 対して藤井さんは不満そうで、再戦の準備を始めていた。

 リコが立ち上がるとそんな二人に声をかける。

「お二人とも、なにか飲むっすか?」

「ありがとうよ、ハニー。コーヒーまたもらえるか?」

「ありがとう、俺も同じものをお願いできるかな」

「あいよっ」

 景気よく台所へ去っていくリコ。

 それを見送り、藤井さんが視線を千佳さんへと巡らせた。

「しかし千佳さんよ。アンタまだ協力ゲームのなんたるか、わかってねえのか?」

 それは先ほどまでの、ゲーム中の千佳さんの振る舞いについての指摘のよう。

 呆れた声は千佳さんに突き刺さり、その華奢な身体をぐらつかせたみたいだった。

 視線を逸らす千佳さん。

「う、うーん。そんなに急には無理だよ」

「そうかい。まあ、せいぜい頑張るこったな」

「応援してくれるってことかな?」

「そこだけ都合よく切り取るんじゃねえよ」

 千佳さんと藤井さんのやりとり。

 何の話かわからず、それは幸人さんも同じみたい。

 そしてそれは、藤井さんの背後に佇むリコも同じみたいだった。

「……亨くん?」

「うおっ、なんだ?」

 リコの低い声に揺さぶられる藤井さん。

 なんだろう、こんなリコ見たことない気がする。

 リコが持って来たコーヒーのグラスがテーブルに置かれる音は静か。

 なのに、逃げ場をなくする門が落ちるように聞こえたのは気のせいだろうか。

 幸人さんもそれを察したのか、自分の分のコーヒーグラスを手にすると、すすっと遠ざかるようにあたしのそばに来た。

 それはそれで嬉しい動きだった。

「……亨くんが、なんか千佳さんをわかってる感じっす」

「いや、へ、ああ?」

 焦ったような藤井さん。

 その視線が、咄嗟なのだろうか、千佳さんに向いた。

 それを千佳さんは振り払い、明後日の方向を見た。

「あのことは言わない方がいいよね?」

「おおい! 思わせぶりなことを言ってんじゃねえ!」

 その反応が決定打になってしまったのか、リコはとても魅力的な笑顔を浮かべてしまった。

 そうして、その手が藤井さんの肩を掴む。

「亨くん、ちょーっとこっちに来てくれるかなあ?」

「い、いや、ちょっと待てお前、って痛いっつの! ゆ、幸人おっ! た、助けてくれ親友!」

「すまん。なにかよくわからないが、俺も命は惜しいんだ」

「は、薄情者おおおおっ!」

 藤井さんはリコに引きずられて、客間へと消えていった。

 取り残されたかのようなコーヒーがもの悲しさを放っている。

「あれを、同情を誘うような声、って言うんでしょうね」

「その言い方だと、美咲はそう感じていないように思えるが?」

「だってそうだもの。あたしはいつだってリコの味方よ」

 胸を張るあたしに対し、友人を売ってしまったようで心苦しそうな幸人さんだった。

 それをフォローするわけでもないだろうけれど、千佳さんは澄ました表情。

「きっと大丈夫だよ、だって仲がいいみたいだし」

「なるほど、スパイスっていうやつ」

 納得したように頷きながらの凜花お姉ちゃん。

 さっきから静かだと思っていたら、ずっとお茶菓子を楽しんでいたらしい。

 凜花お姉ちゃんは見た目によらず大食いだ。

 それを考慮して買い足してあるから、特に不足はないけれど。

「とりあえず、休憩しましょ、幸人さん?」

「……そうさせてもらうか」

 客間での騒動はもう気にしないことにしたのか、あたしの隣に腰を落ち着けた幸人さん。

 あたしはそれに寄り添う様に、少し椅子を移動させる。

 その際に、幸人さんの向こう側に、立てかけられた写真が見えた。

 それは何年か前に撮った、竜禅寺家の家族写真。

 お姉ちゃんたちや兄さんたちが独立し、広さを持て余すようになってしまったので、もう手放した屋敷前でのものだった。

 その頃は、とても賑やかで楽しそうな声が絶えることはなかった。

 そう、今日のように。

 あたしはそれを懐かしく思いながら、次はどのゲームをしようか、とクローゼットを振り返るのだった。

読んでくださり、ありがとうございました。

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