場外:解かれる綾
そこは小さなマンションの一室だった。
一人暮らしのために用意されたそこに足を踏み入れるのは、主である八重垣瑠璃子。
そして、その後から入ってくるのはモデルのサキ。彼女はすでに瑞鳳館の制服ではなく、カジュアルなものとなっている。
「お疲れさまっしたー」
八重垣瑠璃子の気楽な声。
それを受けてサキはテーブルに突っ伏した。艶やかなロングヘアがテーブルの上に広がる。
「……疲れた」
黒い髪の隙間から漏れる声は、囁きよりも小さかった。
それをかろうじて耳にできた瑠璃子は、苦笑を浮かべるとロングヘアの間から手を差し込み、肩を揉んだ。
それにほぐされたのか、囁きよりは大きな声が瑠璃子に届く。
「……顔が、筋肉痛」
「普段あんなに笑わないっすもんねー」
ぐい、と瑠璃子はその身体をテーブルから引き起こし、椅子にもたれかけさせる。
そうして、なにもする気が起きないでいる、表情すら死んでいるそこを化粧落としなどを駆使して、皮膚呼吸を再開させ――あらわになった素顔をのぞき込む。
「や、本当にお疲れさまっした。――凜花さん」
「……うう」
がっくり、と。
凜花は疲れ果てて頭を落としたのだった。
――そう。瑞鳳館でプロモーション撮影をしたのは、サキに変装した竜禅寺凜花――美咲の姉だったのだ。
美咲と凜花は姉妹だけあって顔立ちが似ている。
そこにモデルのサキ風の化粧を施せば、もはや彼女の家族であろうと見分けるすべはないほどだった。
体形で言えば、凜花は美咲より身長も低くて細い。
しかし、撮影の設定は秋なので長袖ブレザーで細さはごまかせるし、身長差は数センチもないので靴に細工すれば済んだ。
撮影はプロモーションおよび文学少女ということで今回セリフはなく、ポーズだけ。
そのイメージからロングヘアは設定として定まっており、凜花はポニーテールを下すだけでいい。
しかも凜花は美咲に劣らず幼い頃から色々な習い事をしていたということもあり、気合を入れれば姿勢も美咲に遜色なく似せることができる。
美咲曰くのオーラもそれほど必要なく、物静かさは凜花のままでいい――と色々なことが重なり、凜花のサキへの変装を可能とした。
唯一、美咲も瑠璃子も危惧したのは表情の差だった。
そればかりは凜花自身に頑張ってもらうしかなく――その結果、凜花は現在、ベッドに運ばれて顔をはじめとした全身マッサージを瑠璃子から受けている。
「また機会があったらお願いするっすねー」
「……ううー」
それが肯定なのか否定なのか、マッサージの気持ちよさに呻いているだけなのかもわからない。
しかし瑠璃子は労うだけである。
そうしながら、瑠璃子はあの日のことを思い返していた。
「……ご、ごめんなさい」
白い湿布が痛々しい美咲の第一声に何も答えられず、絶句した瑠璃子。
「――誰にやられたの」
そして瑠璃子がかろうじて出したのは、押し殺した声。
完全に殺意がこもっていたそれに、大慌てで説明した美咲。
犯人は自分で、活を入れるためだった、だから先んじて謝った、ということだった。
それを聞いて、瑠璃子はむしろ、そばについていられなかった自分自身を木っ端微塵にしたい心境ではあったものの。
美咲の不敵な表情がそれを引き留めた。
「――怪我の功名にするわ。凜花お姉ちゃんにもお願いして、ね」
そこで初めて、瑠璃子は旧知の凜花が佇んでいることに気づけたのだった。
かくして、凜花のサキ変装作戦が実行されたわけである。
そうした後は。
モデルのサキは竜禅寺美咲である――という「噂」が。
モデルのサキは竜禅寺美咲ではない――という「事実」に上書きされるのを待てばいい。
ちなみに、この変装作戦。
知っているのは、美咲、瑠璃子、そして凜花の三者だけである。
事務所には、サキは少し喉を悪くした、と説明しただけだ。
事務所など美咲も瑠璃子も信用していない。その姿勢が如実に表れた結果だった。
美咲のタフさ、切り替えの早さに、瑠璃子は感心とともに尊敬、そして怖気すら覚える。
そこから生じる震えをごまかすために、一心に凜花へのマッサージを行う。
そうして沸き起こるのは、凜花への感謝の念。
彼女は、自分がモデルなどできるのか、という自信のなさこそ見せたものの、作戦自体はまるで否定もせず。
それどころか、なぜこの作戦を行うのか、その理由すら聞いてこなかった。
作戦を聞かされた瑠璃子は、その効果がわかっていたので、その時は特に疑問に思っていなかったが、いい機会と思って聞いてみる。
「凜花さん。この作戦、どうして乗ってくれたんすか?」
「……んー……」
どうやら、うとうとしている凜花。大分、反応が鈍い。
聞くタイミングを間違えた、と思った瑠璃子が苦笑した時、それは聞こえてきた。
「……お姉ちゃんは……妹を、助けるもの。……それ以上でも、以下、でも……ない……」
そうして、完全に眠ってしまったようで、規則正しい寝息が聞こえてくる。
そうであろうとする、その姿勢。
美咲にも凜花にも通じるその強さに、瑠璃子は不意に涙ぐんだのだった。
「こ、こんにちは、藤井くん」
「つくづく待ち伏せが好きだな、アンタ」
現状をそのまま言い表し、藤井亨は舌打ちした。
その向き先は佐倉千佳だった。
彼女はおどおどとした態度を隠しもせず、うつむきがちであった。
二人が会った――あるいは千佳が亨を待ち伏せしていたのは、亨が街へ出掛けようとしていたタイミング、休日の午前であった。
幸人と千佳が決定的に決裂したあの日以降、職場での幸人と千佳、亨と千佳のやりとりは、無機質かつ最低限のものとなっていた。
そのぎこちなさに気づかざるを得なかった滝原課長に、今度は幸人が先に事情を濁して報告。
「業務に支障はありませんので」
淡々と報告した幸人に何かを感じ取ったのか、滝原課長は頷くに留めたのだった。
そうやり過ごすしかなくなってしまったわけだが、佐倉千佳はそれに耐えられなくなったらしい。
そうしてまずは、自分を手懐けようと出向いてきたわけか――そう思う亨。
しかし、そんな彼に向けられたのは、深々と下げられた頭であった。
「ご、ごめんなさい。あの時のことを、謝りに来ました」
「先に幸人に謝るべきだろうが」
にべもない亨。ましてや、人通りが少ないとは言え外である。とっとと払いのけたい心境だった。
おずおず、と頭を上げた千佳は泣きそうな表情を浮かべていた。
「そ、それが。謝るなら、まずは亨にだろ、って幸人に言われちゃって」
「……あいつ」
されたことを思えば、「知るかよ」と返して、自分と幸人との間で右往左往するさまを眺めるのも一興ではあるが。
誰が一番傷ついたのか、を考えて真っ先に自分を思い浮かべてくれた幸人に対し、それも不誠実か、と思ってしまう。
千佳の表情を眺めやり、話しを聞く価値くらいはあるか、と亨は仕方なしに結論付けた。
それに、言いたいこともあった。
亨は視線を巡らせると、カフェがあることに気が付いた。
「奢るくらいはしてもらうぜ?」
「お、お手柔らかに」
歩き出した亨に、恐縮した様子で着いて来る千佳。
まるであの時みたいなおとなしさだな。
千佳が浮気相手と破局した直後に、姿を現した時のことを、亨は思うのだった。
カフェ店内に入ると、涼しさに身体が弛緩する。
どことなく、亨からは千佳がやけにほっとしたように見えた。
ああ、それはそうか、と亨は思う。
見れば千佳の顔は紅潮していて、それは日射によるものだろう。亨が家から出てくるまで待っていたということなら、それも当然のことであり。
それだけ反省している、ということでもあるのか。
しかし、それを真に受けるには亨の内に猜疑心が溜まりすぎていた。
そういう演出か、とすら思ってしまうのはどうしようもなかった。
それをおくびにも出さず、亨は千佳と席に着く。
注文し、時間が過ぎ、それぞれの前にアイスコーヒーとストレートティーが置かれ、そうしてやっと千佳が動く。
「改めて、あの時はごめんなさい。利用するようなことを、してしまいました」
「……してしまいました、ねえ」
静かに頭を下げる千佳に、呆れたような亨。
下げた姿勢が揺れたのは、ぎくり、としたことの証明か。
まるで「故意ではなかった」と言いたいようではないか。
亨はあえてそれを指摘せず、コーヒーを口に運ぶ。そうして、腕を組んだ。
「とりあえず、頭を上げてもらおうか。人目もあるんでな」
決して許したわけではない。
言外のそれに、頭の位置を戻される千佳。
今度は青ざめているかのようでもあり、泣きぼくろの存在もあって罪悪感を刺激してくる――と、普通はなるのだろうが。
やはり、亨の目には疑いばかりが映る。
自分を攻略しないと、幸人への挑戦権すら得られないとあっては、そうなるのかもしれないが。
そんな風にも解釈してしまう。
「千佳さんよ。アンタ、幸人をぐらつかせるために大学時代のことをあれこれ語ってたよな」
「う、うん」
目が泳ぐ千佳。
「確かにあんたは強かった、色々な。けど」
その頃に、亨は思いをはせる。
「協力ゲームだけは、ずっと戦犯だったな」
「……よく、覚えてるね」
「忘れられるか。あんだけ台無しにされちゃな」
そう、千佳は頭がよく、それを反映してか、将棋やチェス、ディベートなどの対人ゲームに強かった。
それは、自分の思考と行動を最適化し、他者の動きを予測し利用する、ということに長けていたから。
それが対人ゲームのみならず対人関係にも応用され、人の懐へ忍び寄る技として昇華された側面もあるだろう。
しかし、こと協力ゲーム――人との信頼を前提したものに置いては、それが役に立つことはなかった。
人を指揮すると言えば聞こえはいいが、進言を切り捨て、自分の考えをやんわりと――だが、強引に押し付けるプレイは不和を呼び、必ずしもいい結果にはつながらず。
いつしか、千佳と協力ゲームを囲むものは少なくなっていき、最後に残ったのが幸人だったのだ。
「俺は確かにアンタが初恋だったが、そういうところが見えたから冷めたんだよ。で、みんな忌避していく中、幸人だけは能天気にアンタの相手をしてたっけな」
「……能天気、はひどいね」
亨の評に、思わず苦笑する千佳。
しかし、それを見る亨の目は冷めたものだった。
「何言ってやがる。アンタ、幸人のそんなトコに惹かれたんじゃねえのか」
亨のその言葉は千佳を容赦なく貫いて、呆然とさせた。
だが、それで亨が止まることはない。
「だからこそあいつは、色眼鏡で見るとかせず、ちゃんとアンタの本質に惚れたんじゃねえのか。それは俺には到底できなかったことで、だからこそ俺はあいつを凄え奴だと、ずっと親友でいたいと思うんだよ」
千佳の唇が震えている。
「そんなあいつを、よくも二度も裏切ってくれたな」
「う、うう……!」
千佳はもう、泣くしかなかった。
「ご、ごめんなさい……。ごめんなさい……!」
何度も何度も謝り、涙を流すしかない千佳。
謝罪と悔恨がこもったそれを、亨は冷静に眺めやる。
彼としては、こうして女性を泣かせている自分が、ほかの客や店主にどう見られているか、そっちの方が気になるくらいだった。
それとなく見渡し、礼儀正しく無視されていることに安堵のため息を内心で漏らす。
千佳の嗚咽は続く。
「そう、そうだった……! わたしは、そんな幸人だったから好きになったのに! なのに甘えて、いつの間にか自分の思う通りにしたくなって……! いつ? いつからそんな風になっちゃったの……!?」
「さてな。幸人が優しすぎたのか、アンタが傲慢だったからなのか。そんなの俺は知らねえよ」
なんで俺はまたこんな懺悔聞いてんだ、と辟易する亨。
「ゆ、幸人お。幸人に謝りたい。でも、どうしたら……!」
「……謝りたいなら、謝ればいいんじゃねえの」
亨はいささか投げやりになって放り投げた。
しゃくりあげながら、千佳は亨に訴えかけるような瞳を向けた。
「で、でも幸人。すごく、怒ってた」
泣きながらなので、短く単語でしかしゃべれない千佳に、亨は幸人を思い浮かべた。
「ああ、ありゃ確かにおっかなかった。激怒ってやつだな」
「そ、そうだよね……!?」
望みは絶たれた、とばかりに落ち込む千佳。
しかし、と亨はその怒りの源泉を思う。
「ありゃ、俺をダシにしたからだろ。俺と幸人の信頼関係を見くびったアンタの下策が招いたんだ」
「そ、それ、自分で言う?」
まだわかっていない千佳に、亨はむしろ誇らしげに唇を釣り上げた。
「信頼こそ協力ゲームの要だろ。それがわからないから、アンタは脱落したんだろうに」
今度こそ、千佳は黙らされた。
自分にとっては好手だと思っていたのに、それがわからなかったから極悪な手になってしまったのだと、実感させられたのだった。
「……だったら、もう」
千佳は、望みがもうない時は、涙すら出ないのだとも思い知らされた。
「何をしても、駄目なんだね」
「本当に、何にもわかってねえんだな?」
亨は自分の親友を侮られて、それこそ逆鱗に触れられた気分だった。
千佳は、びくり、と震えた。
「な、なに、を」
「アンタ、幸人が好きなんじゃねえのか」
「そ、それはそう、だけど」
「だけどなんだ。アンタが知っている幸人はそんなに薄情なのかよ。謝る相手を無下にする、そんなヤツが幸人だってのか」
亨は火を吐きそうだった。
「アンタ、本当は幸人を信じてねえんだな?」
「そんなことない!」
それだけは否定させない。
そう言わんばかりに、千佳は瞳に力を込めた。
「幸人はそんな人じゃない……! わたしを信じてくれたほどの人を、信じられないわけがない!」
怒鳴るほどの勢いを静かに受け止める亨。
その目に宿る光に嘘はないと感じ、亨はいつの間にか前のめりになっていた姿勢を落ち着けた。
「――だったら、謝りに行けばいいんじゃねえの」
もう一度そう言い、落ち着いてコーヒーを口にする亨に、千佳は瞳を瞬かせた。
そうして、おずおずと切り出す。
「お、応援してくれるってことかな?」
亨は心底呆れた。
「アンタ、まだ見込みがあると思ってんのか?」
「それ、美咲ちゃんにも言われたよ……」
項垂れた千佳だったが、ゆっくりと顔をあげた。
「そばに居られるなら、可能性はゼロじゃないからね」
「そうかよ。ま、好きにしな。勝率ゼロを信じる権利は誰にでもあるしな」
「ゼロじゃないって言ったよ!? ……た、多分」
いそいそと立ち上がった千佳。その前に、すっと差し出された伝票。
「ごっそさんした」
「……ごまかせると思ったのにな」
「だからアンタは信用ならねえんだよ」
苦笑してそれを受け取り、身を翻す千佳。
その後ろ姿は、まさしく羽が生えたかのようだった。
後押しするようなドアベルの音色が空気に溶けて消え、落ち着きを取り戻す店内。
そうして亨が思い返すのは幸人の意図である。
「まずは亨」
というそれ。
それは即ち、自分は次でいい、という意味であって、謝罪そのものを受け入れない訳ではない、ということ。
そしてそれは、親友が許せば自分も許そう、という姿勢でもあって、最初から許す気があった、ということでもある。
千佳がそれに最後まで気づけなかったのは、人を信用できないという本質の根深さでもあり。
一時はそれを包み込んだ幸人の能天気さ、そして許す甘さを、
「やっぱりあいつには敵わねえな」
と亨が心地よく思う理由でもある。
だから、身を引いたのだ。
背伸びして、大きくため息をつくと、結局は一滴も減らなかったストレートティーを眺めやった。
「ま、せいぜいあのお嬢様を刺激して、二人の仲を強固にしてくれや」
亨はそんな言い方で、自分の中の何かを成仏させて。
遠ざかる初恋に今度こそ、さよならを告げたのだった。




