繕われる均衡
――きつい。
あたしがもし面と向かって言われたら、きっと気絶じゃなくて即死だ。
実際、当事者でもないのに、足が震えている。
あたしでさえそうなのに、それを直接ぶつけられた佐倉千佳は、一体どうなのだろうか。
思っていると、その姿が崩れ落ちた。
固いアスファルトに手をついて、身動き一つしない。泣き声が聞こえて来るわけでもない。
暗いし後ろ姿だし、表情もわからない。
――放心状態、というところかしら。
これ以上は悪趣味な気がして、あたしはその女に近づいた。
「『ざまあ』、だったかしら。こういうのって」
けれどさすがに、穏やかな心境ではいられなかった。
自分でも、柄ではない、と思いつつ、そんな言葉を浴びせかけてしまった。
その女の肩が震える。
「――ふ、ふふ。お、怒られちゃった」
「そうね。怒った幸人さんはとっても怖いわよね」
あたしは、うんうん、と頷く。
普段は温厚な幸人さんだもの。その落差も相まって、とても焦るし背中に変な汗をかくこともある。
でも、それはすべてあたしを思ってのことで、とても暖かい気遣いに満ちている。
そしてその時の眼差しと来たら、あたしを貫くようで、息が詰まるのに、奥底をうずかせるかのようで――。
って、今回はそんな次元じゃないか、とあたしは妄想に片足を突っ込みかけていた自分を引き戻す。
その間に、その女はよろよろと立ち上がり、壁に身を預けていた。
よく立てたわね、とまんざらでもない賞賛を内心で送る。
けれどさすがに、汚れた膝に気を回すような余裕はないようだった。
「……笑いに来た、ってことなのかな」
そして、その声はとても弱々しかった。
それを受けて、あたしはここに来た意味を考える。
幸人さんの欠乏が限界に達したあたしは、なんとかリコに拝み倒して、この場に来れた。
一目見れたら、という程度だったけれど、そうしたら幸人さんの言葉が聞こえて来て――その冷徹さに瞳が潤み、腰が甘く震えた。
そうしてこの場となったわけだけど。
何をしに来たか、か。
「――いいえ? 真意を聞きに来ただけよ」
「……真意?」
「ええ、そう」
あたしは、訥々と思い返す。
「本当に諦めたくなかったのか。その為に職場を変えたのか。その為にあたしを封じ込めようとしたのか。その為に藤井さんを貶めようとしたのか。それらすべては幸人さんのためだったのか」
「それだけ聞くと、わたしは痛い女だね」
「そうかしら?」
あたしの評価に、目の前の女は意外そうな顔をした。
「腹は立ったわよ? でも、同時に感心もした。ここまでやっていいんだ。許されるんだ。そう、ばれさえしなければ、何をしても――って」
よほどの何かを声に込めてしまったのか。その女は、壁に沿って後ずさりした。
あたしはそれを、ふ、と緩める。
「でも、それを隠し続けて苦しくなっても幸人さんの近くにはいられない。それを知ってしまった幸人さんが不幸になってしまっても本末転倒。そして軽蔑されてしまえば――あたしは生きていけない」
それは、幸人さんのお母様の一件で思い知ったことだった。
あたしはその時、結果的に免れることができたけれど。そうできなかった女は、視線を落とすしかなかった。
「……ずいぶん、乙女なんだね」
「ええ、そうよ。恋する乙女ですもの。あなたと同じに、ね。だからこそ確認したいのよ。それが真意だったのかどうか」
「そうだよ」
返って来たのは、力ある宣言と、熱情のこもった瞳と、歯を食いしばった表情だった。
「わたしは人を駒のように動かし、右往左往する様を眺めるのが好き。人を言い負かすのが好き。自分の意志で動いているように思わせ、所詮わたしの手のひらだと思うのがなにより好き。でも、そんな計算を軽々と飛び越えて、素直な好意を寄せてくれた幸人が好きなの」
言うにつれて、歯を食いしばる意味合いは、何かをせき止めるものへと変わっていくようだった。
「そうだよ。何を引き換えにしても、そばに居たかった」
そうして零れ落ちるものを掬い取る資格はあたしにはなく、その気もなかった。
「ふうん。見上げたものね」
だからこそ、あたしの言葉は平坦であり、熱量も存在しないのだ。
そのあたしの態度が決定打になったのか、その女は観念したように、声を震わせた。
「……でも、もう終わりだね。いい夢を、見れたよ」
「いいわよ、いても」
「うん、おとなしく――――え?」
退場する、とでも言おうとしたのだろうか。それは驚愕の息づかいに消えた。
「い、今、なんて?」
「いてもいいわよ、幸人さんの職場に」
「……え、ええと?」
頭の中で繰り返して、やっと理解ができたのか、しかしそれでも実感が湧かないようだった。
「ほ、本当に?」
喜びより、疑問が多い表情だった。だからだろうか、重ねて聞いて来る。
「で、でも。幸人がなんて言うか」
「あたしが取り成してあげるわ。ついでに藤井さんもなんとかしてあげる」
とは言いつつ、藤井さんを何とかできる目算は余りない。幸人さんを説得できれば、そちら経由であるいは、という程度だ。
あたしの申し出に、やはり信じられないようで疑問が大勢を占めるようだった。
「……ど、どうしてそこまで……?」
「重宝しそうだからよ」
「……重宝?」
「そう」
なぜかしら、あたしの力説に、訝しげな表情が返って来る。
「幸人さんの情報源として、藤井さんの次に有用よ。大学の話しとか絶対に聞きたいし。それは藤井さんも知ってるでしょうけど、女性視点は特に知りたいわ。特に好みは何とか、今とは違ってどんなだったかとか。それは職場の幸人さんについても同じね。どんな様子なのか、どんな横顔なのか、どんなキータッチでお仕事しているのかとか。小型カメラを持たせるからよろしくお願いしたいわ。もちろん録音もね。どんな理知的なやりとりをしているのか、それとも激しい議論なのか、もう気になって気になって。それから――」
「ちょ、ちょっと待ってほしいな」
「なによ?」
想像上の幸人さんをまだまだ堪能していたかったというのに。
「とりあえず、涎を拭いてから確認してほしいんだけれど」
幸人さんが見ていなくて良かった。
ハンカチで口元を拭うあたしを尻目に、何やら考えているようだったけれど、そう間を置かずして言いたいことの整理ができたようだった。
「わ、わたしは嬉しいけど、美咲ちゃんはそれでいいの?」
その呼び方に眉をひそめつつ、意図を理解できなくて尋ねる。
「何が?」
「何がって」
訳がわからない様子。それはあたしも同じ。何を言いたいのかがわからない。
「わ、わたしが幸人のそばに居ていいのかな?」
それは挑戦的な視線ではあったけれど、あたしからしてみれば、何を言うかと思えば、だ。
「あなた、まだ幸人さんが自分に靡くと思っているの?」
あたしの心底からの疑問に、その女は顔をひきつらせた。
「つ、つまり美咲ちゃんは、幸人を好きなまま、幸人に好かれないまま、そばに居ろって言いたいの?」
「他の人と付き合ってもいいんじゃない? 藤井さんは目がなさそうだけれど」
藤井さんにはリコというお相手もいるしね、と思っていると、絶句と傷ついたような表情。
しかしそこから奮い起こしたのか、徐々に仰け反っていた姿勢が前に出た。
「た、大した自信だね。いいのかな、そんな余裕で?」
本当に、何を言うかと思えば、だった。
「自信なんてないわよ」
「え?」
「自信なんてないって言ったのよ」
本当、思い知らされた。
モデルをやって少しはついたかと思っていたのに、それはちょっとつつかれたくらいでへこむような、ただのメッキであると判明した気分だった。
「あたしはただ、幸人さんを好きなだけ。自信はこれからつけるわ。あなたを実験台にしてね」
そう、それが本当の目的。
鏡として用いる、ただそれだけのために、この女を生かす。いえ、活かす。その後は知らないけれど。
「実験台、かあ」
なにやらその言葉を噛みしめているみたい。そうして、ふふ、と零す。
現れたのは、目を細くした、値踏みする笑みだった。
「報酬はあるのかな?」
「幸人さんの近くに居られるだけじゃ不満?」
「それには満足しているけれど」
「チップが必要なら、そうね。あたしの呼び方を訂正しないでいてあげるわ」
「それだけ?」
あたしはため息をついた。
「千佳さん、と呼んであげてもいいけど?」
「……それならいいかな」
あたしは、話はもう終わり、とばかりに身を翻した。
なのに、千佳さんは横に並んでくる。
「美咲ちゃん、意外と話せるんだね? わたし、もう少しお話したいな」
「お酒の席には行けないわよ?」
「喫茶店ならいいよね?」
「幸人さんの過去話がついて来るなら」
「決まりだね。ところで、その顔。モデルのお仕事は大丈夫なの?」
「やっぱりあなただったのね」
「なんのことかな?」
「そう。じゃあ、瑞鳳館に通っているあなたの従妹についても、しらばっくれているといいわ」
「……ごめんね」
「いいわ。どうせ解決するもの」
連れ立って歩き出す。
その耳に、囁き声が忍び寄る。
「後悔しないといいね?」
「藤井さんに感謝するのね」
あたしは問いかけとは全く別のことで切り返す。
それに口を封じられたのか、返答の気配はない。
「藤井さんが言ったのよ。過去も周囲の人間も含めて幸人さん。それを削いでいったら、それはもはや好きだった人じゃない、って」
「……もはや、好きな人じゃ、ない」
「ええ。だから千佳さんを残してあげる、ただそれだけ。危なかったわね? 利用しようとした人に助けられるなんて。ホント、『ざまあ』って感じ」
それは、過去のあたしにも向けてのものだった。
消沈したような気配が着いて来る。
それに構わず、あたしは足を進める。
さて、蜘蛛が出るか蛇が出るか。
なんでもいいわ。
この女も含めて、幸人さんの過去。
それらすべてを、あたしは飲み込んで見せるだけなんだから。
次の土曜日。あたしは瑞鳳館高等学校――自分の学校に向かっていた。
授業自体はないけれど、今日は特別なイベントがあるのだ。登校日というわけでもないので、私服が許可されている。
通学路にはあたしと同じように、私服に身を包んだ生徒がちらほらいて、家族と同伴している姿も見られる。
リコは先に学校に向かっていて、あたしは一人徒歩。とは言っても、姿の見えない護衛はついていて不安はない。
困ることといえば、頭というか顔というか、痛みが振動でぶり返すこと。
顔を顰めるあたしに、視線が向くことも多い。
頬に湿布が貼られて腫れているとなれば、いつものあたしを知っている人からすれば、比べてしまうのも無理はないのだろう。
学校に着くと、さて、と見渡した。
イベントの場所は教室。普段、あたしが立ち入ることはない三年生の教室がそこだったはず。
そこに向かうとすでに順番待ちのような人混みとなっていて、あたしが分け入る隙はなさそうだった。
「もーっ! お兄ちゃんがもたもたしてるから、間に合わなかったじゃない!」
と、あたしのすぐ後ろに駆けつけて来た足音に重なって、そんな嘆きが聞こえてきた。
「ご、ごめん。でもそもそも、千紘が準備に手間取ったからじゃないか」
「女の子は準備に時間がかかるの!」
背後のそんなやり取りに、つい頬の痛みも忘れて唇がほころぶ。
あたしは振り向きながら言ってみた。
「そうね。千紘ちゃんのお兄ちゃんは、女の子がわかっていないわね」
「そうそう! って、え! ミサちゃん、久しぶり!? わ、どうしたの、とっても痛そう! 大丈夫!?」
相変わらず賑やかな田坂千紘ちゃんだった。
あたしはどの言葉に反応するか迷いながら、千紘ちゃんの隣にいる男の子に視線を投げかける。
そこにいたのは、少し驚いたような田坂くん。
彼はクラスメイトということもあってあたしの負傷はすでに目にしているから、驚いたのはそこではなく、あたしがここにいたことだろう。
そんな二人に、あたしは返答も兼ねた挨拶を投げかける。
「こんにちは。お久しぶりね、千紘ちゃん。ちょっと転んじゃったの。千紘ちゃんも気を付けてね」
最後は白い湿布で目立つ頬を指さしながら、結局、あたしは全部に返答することにした。これは以前、リコの対応に学んだことだった。
「うん、気を付ける!」
「あら、いいお返事ね」
気持ちのいい返答と笑顔に、つられてあたしも笑顔になる。
その間に少しは落ち着いたのか、田坂くんが軽く頭を下げてきた。
「こんにちは、竜禅寺さん。竜禅寺さんも興味あるんだ、今日の?」
「そうね。なにせ、今をときめく人だもの。それに近くだし」
「そうだよね! 絶対来なくちゃね!」
はきはきした返事の後、唇を尖らせて田坂くんに視線を巡らせる千紘ちゃん。
「なのに、お兄ちゃんってば……!」
「ごめんって」
辟易と苦笑が混ざったような田坂くん。あたしはそれを見て、さすがに田坂くんが可哀想になった。
あたしは一歩、目的地とは逆方向に踏み出して、二人を手招きした。
「じゃあ、穴場に――ちょっといい所を教えてあげるわ。いらっしゃいな」
千紘ちゃんにも通じるように、少し言い換える。二人は顔を見合わせて、歩き出したあたしについてくる。
そうして、手をぎゅっと握られた。体温が高いその手は千紘ちゃんだった。
「どこ行くのおっ?」
「ふふ、内緒。でも、とってもいいところよ」
「わあ、楽しみ!」
わくわくして駆けだしそうな千紘ちゃん、一歩遅れてついてくる田坂くん。
「今日の千紘ちゃんはおめかししてるのね。とっても可愛いわ」
「えへへ、ありがとう! だって憧れの人に会えるかもしれないんだもん!」
その通り、千紘ちゃんはフリルがたくさんついた、カラフルなワンピースに身を包んでいて、とても可愛い。
横に並んだ田坂くんはそのはしゃぎっぷりに苦笑を浮かべているけれど、そのまなざしは柔らかくて千紘ちゃんを大事に思っているのが伝わってくるようだった。
それはあたしも兄や姉から向けられたことのあるものだった。
「田坂くんは付き添いということかしら」
「そうだね。興味がないわけじゃないけど……あ、向こう側に回り込む感じ?」
あたしが行こうとしているのは、みんなが注目している教室を、中庭を挟んで見ることができる別校舎。
そちらにも人がいるかもしれないけれど、さっきの場所よりはまだましのはずだった。
「ええ、そう。あら、空いているわね」
予想は的中し、その廊下に人はおらず。
窓をのぞき込むと、準備中のそこが一直線に見えた。
「お兄ちゃん、だっこ!」
「はいはい」
高校の窓なので、千紘ちゃんには背伸びをしても高い窓。
当然のような千紘ちゃんの要求に、これもまた自然に答える田坂くん。
それは二人の仲の良さの象徴のようだった。
抱きかかえられた千紘ちゃんの視線の先、向こう側の教室の窓際にその姿は現れた。
瑞鳳館高等学校のブレザーに身を包んだ、艶やかなロングヘアの女生徒。
千紘ちゃんの瞳が、きらきらと潤んだ。
「サキちゃーん!!」
手を振りながら、向こう側の教室にいる、あたしではない――「モデルのサキ」を力いっぱい呼ぶ声は輝いていた。
そう、向こう側の教室に、「モデルのサキ」がいる。
あたしはそれを、田坂くんと千紘ちゃんのそばで、他人事のように傍観していた。
そして、その声が聞こえたのか、彼女――サキは小さく笑みを浮かべて千紘ちゃんに小さく手を振り返す。
千紘ちゃんは、感極まったように表情を輝かせた。
「み、見た見たお兄ちゃん!? サキちゃん、こっち見てくれたよ! やったやったあ!」
「うん、よかったね。……あれ、でもサキさんって、あんなに髪長かったっけ」
「ウィッグ! 今度やるドラマに合わせてるの! そんなことも知らないの!?」
「そ、そうなんだ。よく知ってるね、千紘」
「お兄ちゃんが知らなすぎ! わ、わ、サキちゃんこっち見てる! おーい!」
「多分、こっちを見るポーズなんだと思うよ。撮影始まってると思うから、静かにしようか」
「ええー……!」
千紘ちゃんの声を聞きつけたのか、ちらほらと人が集まってくる。
そうしてあたしたちは最前列となり、多くの人を背後にかかえるようになってしまった。
そこからも、モデルのサキを称える声が聞こえてくる。
「び、美人ー!」
「本当にうちに通ってくれないかなあ」
「絶対告白するよな、あれ」
「いやーん、友達になってー!」
それに混じって、小さく囁く声が聞こえてくる。
「――竜禅寺さんじゃなかったんじゃん」
「――モデルなら顔のケガとかないでしょ」
それは、あたしと比べたり揶揄するような声だった。
ちらり、と千紘ちゃんと田坂くんに視線を送ると、それが聞こえている様子はなさそうだった。
もっとも、田坂くんは一喜一憂する千紘ちゃんをなだめたり落ち着かせたり、抱っこから落ちそうな所を支えたり、とモデルのサキどころか千紘ちゃんしか見えていないようだったけれど。
――今日のイベントとは、モデルのサキ初主演二時間ドラマのプロモーション撮影をこの学校で行う、というもの。
この学校の生徒とその家族限定で、それを見学できるのだ。
彼女の配役は、学校で起きる不思議な現象を解き明かす文学少女。
だからそれに似合うようなロングヘアで、今も窓の外に物憂げな表情を投げかけている。
モデルとしての被写体とはまた違う面が見られる役、ということですでに大注目なのだとか。
大変そうね、とどこか他人事のように思いながら、あたしは仲のいい兄妹に視線を投げかける。
とある目的のために、この場であたしに注目を集める必要があったのだけれど。
それに利用してしまったような気がして、あたしは苦さと罪悪感に飲み込まれそうになるのだった。




