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ストーカー系女子とアンニュイ系男子の攻防戦  作者: 緋色
四章

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28/30

編まれる積層

 始まった新プロジェクトの進捗は、芳しいものではなかった。

 どうも、発注元でも機能やデザインをまとめ切れていないようで、それは修正という形でのしかかってくる。

 休日出勤するまでではないが、日に一、二時間の残業が慢性的に発生してしまっており、やや神経をすり減らしてくる毎日となっていた。

 滝原課長が開発に携わっていなかったら、どうなっていたことか、という状態だった。

 ふと視線を上げると、その先に滝原課長と千佳が会話と笑みを交わす光景があった。

 部下が男ばかりだから、同性の千佳が入ってきたことで気もほぐれているような滝原課長だった。

 休憩室で談笑しているところもよく見かけ、良好な人間関係を築いている、らしい。

 俺からすると、信頼している上司を横からかっさらわれた気もするが、昔から千佳は人の懐に入るのがうまかったし、今更か、と思いもする。

 視線をパソコンのモニターに戻すと、その千佳からチャットを通じてファイルが届いていた。

 それをダウンロードし、開いて目を通す。

 すると、横合いから落ち着いた靴音が近づいてきた。

「寺島さん、資料はご確認いただけましたか?」

「……ああ、佐倉さん。今、確認していたところです」

 ふわり、とした微笑みに他人行儀に返す俺。

 そんな俺を認めてモニターに視線を移し、少しかがみこむとモニター上の資料を、千佳は指差した。

「すみません、ちょっとここがわかりにくいですね」

 千佳の声と、泣きぼくろが近くなる。

 流れる髪を抑えたからか、微かな柑橘系の香りが漂ってきた。

 俺は考えながら、行動方針を口にした。

「……そうですね。とりあえず、ざっと目を通してみて、疑問箇所をまとめますね」

「……はい。お願いしますね」

 千佳は俺の反応が物足りなかったのだろうか、細めた視線を俺に落とした。

「あ、あのあのっ! 佐倉さん、僕も質問がありまして!」

「あ、はい、なんでしょうか、瀬戸さん」

 何やら対抗心を燃やしたような瀬戸の声が響く。

 千佳はそれに微妙な表情を浮かべながら、俺のそばから離れていった。

 俺は資料を読み込む前に一息入れようと、飲み物を求めて席を立つ。

「俺も行くわ、幸人」

「ああ」

 隣のデスクの亨も立ち上がり、俺たちは部屋を出て廊下の自販機に向かう。

 フロアの片隅に置いてある自販機周辺には人がおらず、少し薄暗いのでいつも人気(ひとけ)はない。

 先に亨がコーヒーを購入し、俺も硬貨を投入。そしてボタンを押そうとしたタイミングで、それは投げかけられた。

「――さっきの千佳さん。どう思った、幸人?」

 視線を向けると、手にしたコーヒーの缶に視線を落とした亨の姿。その様は、銘柄を間違えて買ってしまった――という風には見えなかった。

 俺は首を傾げつつ、自販機のボタンを押す。

 落ちてきた日本茶のペットボトルを取り上げ、それをもてあそんだ。

 そうして、思い返す。

「……そう言えば、あいつって香水つけてたことないな……かな」

「……は?」

 戸惑ったような亨。戻ろうとする俺。

「い、いや、ちょっと待て」

 足を踏み出したら、肩を掴まれて止められた。

 その急な動作に、俺の方こそ戸惑う。

「どうした、亨?」

「いや、どうした、って……」

 そうして、やっと俺が言った意味がわかったようだった。

「あいつって……竜禅寺さんのことか?」

「そうだが」

 返事をしたはいいものの、俺は人が来ないか気になっていた。

 誰かに「千佳」や「竜禅寺」を聞かれると、それこそややこしいことになりかねない。

 亨の態度に首を傾げたものの。

「仕事が待ってるだろう?」

「……待たせとけよ、そんなもん。嫌なことを思い出させやがって」

 嘆息して現実を突きつけた俺に、言葉通りの表情を浮かべた亨。

 俺たちは肩を落として、戦場に戻るのだった。



「って、終わらねえじゃねえか……!」

「ぼやくなよ、亨。気が滅入る」

 定時では終われず、そこから二時間も過ぎていた。

 亨が天を仰いで、焦りで目を回している瀬戸に声をかける。

「瀬戸ちゃん、今日はもういいぞ」

「わかりました! お疲れさまです!」

 気が変わらないうちにと思ったのか、瀬戸はパソコンをスリープの状態にして逃げ帰っていった。

「仕事もあれだけ早けりゃな」

 と、俺があえて言わなかったことを、亨は瀬戸が慌ただしく閉めた扉にぶつけていた。

 それを背後に、俺も滝原課長に呼び掛けた。

「課長、すみません。こちらの対応にまだ時間がかかりそうで、今日は成果物をお渡しすることが難しそうです。もし差し支えなければ、おあがりいただいた方がいいかと思うのですが」

「……あ、もうそんな時間?」

 モニターを難しい顔で睨みつけていた課長が、まるで目を覚ましたかのように、こちらに視線を投げかけてきた。

 亨にも視線を巡らせて、そちらも俺と同じような状況であることを確認し。

 そして、視線は最後に千佳へ。彼女は、すでに椅子ごと滝原課長に向いていた。

「わたしはもう少し、切りがいい所まで進めておこうかと思います」

「そう? じゃあ……」

 俺たちを見渡して、少し考えて、滝原課長は頷いた。

「……お言葉に甘えさせてもらおうかな。くれぐれも、無理しないようにね」

「はい、お疲れさまでした」

 各自挨拶を交わし、滝原課長は帰宅の途についた。

 俺としては、こちらの遅延でこれ以上迷惑をかけるわけにはいかなかったから一安心、というところである。

 肩を回して首も回すと、フロアががらんとしていることに気づく。

 パソコンに向かっているのは、俺、亨、千佳だけとなっていた。

「亨、今どんな具合だ?」

「ユーザー登録画面が何とか片付いたところだ」

「ありがたい。これで少しは捗りそうだ」

「DBの方は?」

「やっと全部定義できた。これから反映だ」

 そんな感じで、進捗状況の確認をしていく。

 亨とはだいぶ前からの付き合いで話が通じやすいが、それですませると逆に齟齬が出るとわかっているので、慎重にすり合わせていく。

「お疲れさま、幸人、藤井くん」

 話が一段落して、さあ作業に戻らねば、というタイミングで千佳からの呼びかけ。

 俺と亨は、反射的に周りを見渡してしまった。その俺の耳に、くすり、とした笑みが届く。

「もう、わたしたちだけだよ」

「……そうだった」

「視野が狭くなっているあなたたちに、はい、差し入れ。もう少し休憩したほうがいいよ」

 差し出されてきたのは、昼にも買った日本茶。

 亨にはやはり同じ缶コーヒー、その千佳の手にはペットボトルのストレートティー。

 どうやら、俺と亨が話している間に買ってきてくれたらしい。

「ありがとう」

「お金はいいからね」

 財布に手を伸ばそうとした動きは、先んじて封じられた。亨に目をやると、同じように妙な体勢で止まっている。視線が合うと、それはお互い苦笑へと変わった。

 そうしている間に、千佳は俺たちの近くに椅子を持ってきて座った。

 どうやら、休憩がてら雑談をしていくようだった。

「千佳のほうはどんな具合だ?」

 しかし、現状では進捗のほうが気になってしまう。

 千佳は苦笑して、ペットボトルの蓋を捻った。

「要望の取りまとめとすり合わせが大変だね。実は中身を把握していなかった、っていうケースもあって、ちょっと驚くことも多い、かな」

「なんだそりゃ」

 思わず、と言った具合に亨の目が細くなる。が、次の瞬間、気づいて目をほぐした。千佳を睨んでも仕方ないことに、思い至ったのだろうか。

 俺は俺でため息をついた。

「千佳もまだ帰れそうにないのか?」

「ううん。切りよくなったから、そろそろ終わるね」

「……そうか。ありがとう」

 その俺の礼に、笑みを深くした千佳。

 休憩させるための差し入れと雑談の提供、だったのだろう。

 雑談はあまり機能しなかったが、その心遣いに亨も気づいて目礼していた。

「そろそろ、仕事に戻る」

「うん」

 千佳のほうに向けていた椅子をデスクに回し、そちらに向かう。

 そこで、肩にそっと手を這わされる気配。

 千佳が優しく肩を揉んでくれていた。

 ――俺は、身体を捻って千佳を振り仰ぐことで、やんわりとそれを振り払った。

「セクハラだぞ、佐倉さん」

「――藤井くんしかいないのに?」

「滝原課長に、くれぐれも、って言われただろう?」

 深読みし過ぎかも知れない。

 だが、帰る間際、滝原課長が俺たちを見回した視線。俺はそれを覚えていた。

 千佳は伸ばしたままだった手を、そっと引っ込めた。

「……ガードが固いね」

「コンプライアンスが厳しい世の中なもんでな」

 冗談に紛らわせた俺のセリフをどう取ったのか。

 静かに微笑んだ千佳は、静かに離れると帰り支度をし、俺たちに背中を向けた。

「……お疲れさまでした」

「ああ、お疲れ」

 千佳への返事は一つだけだった。

 柑橘系の香りが去って、俺は亨を見た。

 デスクに向いているのに、視線を落として微動だにしない親友を。

 俺の視線を感じたのか、亨はのろのろと顔を上げ――俺に弱々しい視線を合わせた。

「……幸人」

「なんだ?」

 重苦しい雰囲気の亨に、俺はなるべく普段通りに返事をした。

 そして、亨はためらいがちに口にした。

「――吹っ切れた、ってことか?」

「……わからない」

 本当は全面的に頷きたかったが、それが偽らざるところだった。

 千佳を交えたバーでの一件。

 最後、俺は一人にしてくれと言って、亨に帰ってもらった。

 その後にかかってきた美咲からの電話。

 それに元気を取り戻したのは事実だ。

 けれど、それがすべてを解決したわけでもないし、納得したわけでもない。

 何も変わっていない。

 だが、と思う。

 ――じゃあ、千佳が来たからって何が変わったっていうんだ?

 確かに、千佳が職場に来た影響自体はあるのだろう。

 でも、俺と美咲の関係は変わったか? 悪化したか?

 そんなことはない。

 俺は美咲が好きだし、美咲は俺を好きでいてくれる。

 確かに、ぐるぐる回って自分を見失ったり、流されたりすることはあるだろう。

 けれど、俺と美咲は共に、お互いに錨をおろしている者同士だ。

 それなら、回ったっていつも視界に美咲はいるし、流されたって一緒に流されるだけのこと。

 だったら、心強いってだけの話じゃないか。

 亨は深いため息をついた。

「わからないって割りには、やけにすっきりしてるじゃねえか」

「そう見えるか」

「ああ」

 亨は頭の後ろで手を組み、椅子に背中を預けて伸びをするようにした。

「俺はな、幸人。諦めたら楽になるのにな、とちょっと思ってたんだぜ」

「……諦める」

「そうだよ。んで、とっとと千佳さんとくっつけば、それで終いだ、ってな。俺としちゃ、不本意な結末だが」

 理性的な分析の最後に、不愉快そうな本音が付け足された。

 その物言いに、俺は不思議と頭に来ることはなかった。

 確かに、それは一手間違えればあり得たかもしれない、幸せな未来だったのかも知れない。

 そう、一手。

 俺たちは、かろうじて悪手を指さなかった、というだけのことかも知れなかったが。

「千佳さんとは同じ世界で、お互い安全で、割とお似合いで、幸せが約束されているかもしれねえ。幸人、お前は」

 そう列挙した亨の瞳は、確かめるかのように光っていた。

「あえて、そっちは選ばねえってんだな?」

 選ばない、か。

 俺は自分の内心を整理してみた。

「なら聞くが。同じ世界だからと言って、感情を共有できるとは限らない。安全はぬるま湯に通じるかも知れない。お似合いかどうかなんて、所詮は他人の物差しだ。それが――果たして本当に幸せか?」

 次々と疑問が沸き上がる。

 俺に気圧されたのか、亨の戸惑いが伝わってくる。

「確かに一理あると思うよ、亨がそう感じたのと同じようにな。それに従うのが妥当で理性的だ、とも思う」

 美咲の顔を思い浮かべる。

 俺の胸を熱くする、ヒーローの姿を。

 だったら俺は、その熱さに従うだけだ。

「けど、俺たちがしているのは恋だろう? だったら、感情で選択するのが当たり前なんじゃないかな」

「なるほど。そいつは、一理どころか真理ってやつだな」

 亨は腑に落ちた表情で膝を叩いた。

 そうして、今度は苦笑を向けてくる。

「――けど、言うほど簡単じゃねえぞ」

「だろうな。ヒーローとヒロインに、逆境はつきものだしな」

「なんだそりゃ」

 俺の例えに、亨は吹きだした。そうして、それは笑い声へと変わっていた。

「よっし、なんかやる気出てきた。叩き潰すとするか、幸人」

「仕事の話だよな?」

 俺は苦笑し、向き直ったのだった。



 それから一時間後、俺と亨はなんとか目途をつけて、ようやく職場を後にすることができた。

 出てきたビルの窓は大半が暗くなっていて、それは夜の街も同じだった。

 特に、ビルのエントランス付近はビル間ということもあって、照明を落とされると暗がりになってしまう。

「あー、くそ。まだ水曜なんだよな。本当は金曜だったりしねえかな」

「納期が前倒しになるだけじゃないか」

「真面目かよ!」

 セリフで突っ込まれ、拳で肩を押されてしまった。

「よせ、割とふらふらなんだ」

「俺もだっつの。はあ、ベッドが恋しいぜ」

 ぼやきつつ、さすがに連日の残業のせいで足元がおぼつかない俺たち。

 しかし、やり切った感があるので気分が落ち込んでいるわけでもない。

 が、それも暗がりから、遠くの街明かりを反射する一対の瞳が現れるまでのことだった。

「うおっ!?」

 それを目にしたのだろう、亨が驚きの声を上げてのけぞる。

 俺は声も出せず立ち止まるしかなかったが、そのシルエットが認識できるようになると、胸を撫でおろした。

「脅かすな千佳……!」

「ふふ、ごめんなさい。お疲れさま、幸人、藤井くん」

「なんだ千佳さんかよ! びびった……!」

 亨はよほど驚いたのか、膝に手をついて安堵のため息を吐くほどだった。

 千佳が一歩踏み出すと、丁度街明かりに照らされてその輪郭を浮かび上がらせた。

 どこか違和感を抱かせるその姿に、俺は心配になる。

「こんなところで何やってるんだ。危ないだろ」

「心配してくれるの? 嬉しいな」

「当たり前だろ」

 こんな時間に暗がりで、しかも女性一人とか心配しないわけがない。

 その俺の言葉をどう取ったのか、千佳は本当に嬉しそうに唇を緩ませた。

 が、それに水を差すように、亨が訝し気な声を上げる。

「幸人を待ってたってことか?」

「うん、そう。ついでに藤井くんもね」

「ありがたくて涙が出るね」

 亨の言葉には、内容とは裏腹に苦々しさがこもっていた。

「……だったら、こんなところじゃなくて部屋で待っていたらよかっただろうに」

 俺は思ったことを口に出したが、千佳の思惑はきっとそういうことではないのだろうな、と頭の片隅で悟っていた。

 千佳はやはり、静かに笑う。

「だって、わたしがいたらできない話もあるでしょう?」

 亨は舌打ちでもしそうな声音で返す。

「すべてお見通しってか? 盗聴器でも仕掛けてるのかよ」

「ううん? 女の勘、っていうやつかな」

 亨の疑念に、俺は思わず吹き出していた。

 まさかだろう。そんなこと、きっと美咲でもしない。

 亨はますます、千佳を胡散臭く見たようだった。

「で、待ち伏せのご用件はどのようなもので? 俺も幸人も、とっとと帰りたいんだが」

「ああ、それは同感だな。なにしろ、明日もまたしんどいだろうし」

「幸人を送っていこうかな、って思って」

 違和感が強くなる。

 いい加減煩わしくなったのか、亨が語気を強めた。

「幸人はもう眼中にないそうなんで、お引き取り願えませんかね」

 さすがに、千佳は驚きに目を見張った。

 俺は思うところがあって、静かに千佳の出方を待った。

 千佳は亨に、そして俺に、また亨に、と視線を往復させると、何やら得心したように頷いた。

「――その方が、藤井くんにとっては都合がいいから、っていうことなのかな」

「……ああ?」

 威嚇するような亨の声。それを意に介さず、千佳は何度も頷く。

「そっか、そっかぁ」

 千佳の声音は、過去を懐かしむ色を孕んでいた。

「幸人、覚えてる? わたしたちが出会ったのって、大学のボードゲームサークルでだったよね」

「……ああ、そうだな」

 警戒感を強めながら頷く。

 サークル紹介イベントで、ゲームを大っぴらにできる所があるんだ、と興味を引かれて亨と覗きに行ったのだ。

 そこにいた先輩の中に千佳がいた。

 その時から美人であったが、どこか周囲に埋没するかのような影があり、最初は存在に気づけなかった。

 しかし同席したゲームで物腰柔らかくルールを説明してくれて、その優しさに触れ、ゲームの楽しさにはまってそのサークルに所属することになった。

 まあ、その時は手加減していたらしく、後からイカサマじみた強さに舌を巻くことになるのだが――。

「その時から幸人と藤井くんは仲が良くて、その内、そこにわたしが入って三人で遊ぶようになったんだっけ」

 それも覚えている。

 俺と亨のどこに興味を持ったのか、千佳のほうから近づいてきたのだ。

「それで、わたしは幸人と付き合うようになった」

「……何を言いたいんだ、アンタ?」

 亨と同じ疑問を、俺も抱く。

 そうして千佳は、まるで無邪気に――あるいはそう装ったトーンで言った。

「でも、ちょっと藤井くんに申し訳ない気持ちもあったの」

「おい、アンタ」

 亨の焦ったような声。

 それに俺は首を傾げる。

「……なんの話だ?」

「いい、幸人、聞かなくていい。早く行こうぜ」

 俺の肩に、亨の手がかかる。それを打ち払うように、千佳の声が振るわれた。

「ねえ、幸人。知ってた? その時、藤井くんもわたしを好きだったってこと」

「おい!!」

 肩にかけられた亨の手が浮いた。

 語気の強い、しかしそれだけしか言えなかったことが、なにより事実だと告げていた。

 俺が亨に視線を向けると、咄嗟に目をそらされた。その瞳は暗がりでもわかるほど泳いでいる。

「もしかして、今もそうなのかな、って。だから――わたしと幸人が元鞘になったら――都合が、悪い」

「そんなわけあるか!」

 亨の声が必死に聞こえる。

 俺はそれをどこか遠くに聞いていた。

 先ほどから抱いていた違和感。それはこれだったのか。

「……なるほどな」

 俺の口から、無機質な感想が零れる。それは亨の身体を震わせ、千佳の笑みをますます深くした。

「ち、違う、幸人」

 亨は何とか抗弁しようとする。

 千佳は何も言わない。

 あがけばあがくほど、傷口は深くなる。その様を、高みから見物するような視線だった。

「いや、いい、亨」

「……幸人」

 俺の制止に、亨は力なく手を、肩を落とした。まるで、何を言っても無駄なのか、とばかりに。

 ――ああ、そうだな。何も言わなくていい。

「千佳」

「うん、幸人」

 今か今か、と何かを待っているかのような、千佳の雰囲気だった。

 それはまるで、自分好みの調味料を振りかけた極上の獲物が、皿に乗るのを待ちわびるかのようだった。

「昔からゲーム系、強かったよな」

「…………え? う、うん」

 予想を外されたのか、千佳の声に戸惑いが乗った。

 ああ、これも昔からだ。計算外に弱い。

「将棋、チェスなんかのメジャーどころだけの話じゃなかった。いや、ボードゲームだけじゃないな。ディベートとかも負けなしだった。俺や亨は、いつも転がされてばっかりだった」

「そ、そうだった、かな」

 称賛しているのに、千佳の表情はぎこちない。必死で笑みを形作ろうとしているのに、それに失敗し続けている。

「でも包容力があってたおやかで、物腰が柔らかく、なにより優しく。俺はそんな千佳に憧れて、好きになった。告白した時に即座に頷いてくれて、どれだけ嬉しかったか」

「そ、そう。そうよ、幸人。わたしもそう。幸人がわたしを好きと言ってくれて、わたしも嬉しくて」

 だったらなぜ、そんなに怯えた顔で震えているんだ?

「同棲までして、結果別れた。千佳、あの時、間違えたよな」

「あ、あの時はごめんね、幸人? も、もう大丈夫だから。今度はもう、絶対に間違えない、から。ね、幸人……?」

 ディベートの時の活舌はどうした。目の前にいるのは凡百の男だぞ。

「いいや、お前はまた間違えた」

「何を!?」

 取り繕えなくなったのか、千佳が絶叫をあげた。

 その剣幕に、亨も驚いている。俺もこんな千佳は初めて見た。けれど、俺の心はどこまでも凪いだままだ。

 強烈な違和感。それを抱いたきっかけは、振舞いが自然ではなく、意図的となったからだった、と俺は気づけたのだ。

「亨が千佳を好きだった。それ、いつから知ってた?」

「い、いつからって」

「ああ、いや。いつから、はもうどうでもいいか。で、なぜそれを今言った?」

「なぜって」

「そんな亨の言い分なんて、と俺が意見を翻すとでも思ったか」

 俺の視線はきっと、冷え冷えとしている。

「それを言えば、俺と亨の間に亀裂が入るとでも思ったか」

 人は沸点を超えると、無感情になるんだな。

 俺はそれを実感している。

 千佳は今更ながら、舌禍(ぜっか)を招いたそこを両手で塞いだ。

「離間の計でも気取ったか? ああ、もしかして焦ったのか――そんな策に乗るかよ。嵌ると、そう思いあがっていたのなら――俺と亨を舐め過ぎだ」

「……幸人」

 どこか呆然と、亨が俺を見た。俺は、にやり、とそれを見返す。

「貸しだぞ、亨」

「……っ。わ、わかってらあ」

 顔を背け、拭う亨。その仕草に、俺は何も言わない。

「ゆ、幸人」

「千佳」

 縋ってくるかのような、千佳の声。伸ばされて来るその手。だが、俺はそれをつかむ気にはなれない。

 それどころか。

「――幻滅したよ、千佳」

 言い捨てて、俺は亨の肩を抱いて、その場を後にした。

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