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ストーカー系女子とアンニュイ系男子の攻防戦  作者: 緋色
四章

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26/30

繰られる記憶

 千佳が出向して来て数日。

 歓迎会の後のやりとりはまるで嘘だったのではないか、そう思うほど俺と千佳の間にはそれ以上のやりとりはなかった。

 俺と亨は千佳を「佐倉さん」と、千佳は俺を「寺島さん」、亨を「藤井さん」と呼び、業務以外の接触はない、という環境に慣れてきた頃だった。

「寺島くん、ちょっといいかな?」

「あ、はい」

 その日の午前、俺は滝原課長に会議室に呼ばれた。

 それはいつも使う大人数用ではなく、例えば面談などで使われる少しこじんまりとした部屋で、小さなテーブルと向かい合う二脚の椅子しかない。

「時間取っちゃってごめんね。ちょっと確認しておきたいことがあって」

「はい、なんでしょう」

 実のところ、俺は少し身構えていた。

 面談用途が多い会議室に呼ばれたということもあって、なにかやらかしてしまったのか、と思ってのことだ。

 しかし、いつもの穏やかな口調で語られたことは、俺にとっては意外過ぎる事柄だった。

「佐倉さんとの関係についてなんだけど」

 俺は咄嗟に何も言えなかった。

 その反応で十分だったのか、神妙の色を覗かせて、滝原課長は軽く頭を下げた。

「プライベートなことでごめんね。今朝に佐倉さんから直接、以前に色々あったことについてお話があってね」

「……どのようなことでしょうか」

 何もやましいことはない。

 しかしそれにしては、俺の反応は機械的だったと言わざるを得ない。

「言おうかどうか迷いましたが、という切り出しから始まってね。今は完全に終わっている、ただ、気まずい場面があった時にご迷惑をおかけしてはいけないから、という感じのニュアンスだったよ。それで歓迎会、ちょっとぎくしゃくしてたんだ、って合点がいったところはあったかな」

「す、すみません」

 申し訳なさそうな滝原課長に、やはり気を遣わせていたか、と俺の方こそ申し訳ない気持ちだった。

「先に、こちらから話しておくべきでした」

「いやいや、切り出しにくいことだし、わざわざ確認を取ってごめんね。ただ、認識したから大丈夫だよ、ってことを言いたかったんだよ。みんなには気持ちよく働いてもらいたいしね」

「ありがとうございます」

 滝原課長も業務の一環として確認しなければならず、さぞかし心苦しかったのだろう。どこかほっとした様だった。

「じゃあ、この話はここまでね。次は瀬戸くんのこと。教育の進捗というか、手ごたえを確認したくてね。彼、どんな感じかな?」

「ええとですね――」

 俺も話題が他に移って、安堵のため息をついた。

 もっともそれは、瀬戸の勤務態度というか、諸々への愚痴に近く、別のため息に変わっても行ったが。

 それを聞く滝原課長は困ったような、同意するような、けれどもいつもの穏やかさは健在で、部下想いの上司のままだ。

 そのはずなのに。

 半ば自動的に口が動くような感覚。

 なぜか、俺は滝原課長がまるで見知らぬ人のように見えて。

 きっと、それは脳裏にへばりついた何かのせいだ、という言い訳の大半に、意識を奪われていたのだった。



 会議室を辞した時には昼休みに近かった。

 なんとなく疲労感を覚えた俺は、そのまま休憩室を目指す。

 と、その際に千佳と出くわした。

 彼女は軽く頭を下げ、そのまますれ違おうとする。

「千佳」

 俺は思わず、呼び止めてしまった。

 千佳は歩みを止めたがすぐにはこちらを向かず、辺りを見渡して誰もいないことを確認してから、小さな苦笑をこちらに向けた。

「勤務中だよ、幸人」

「わ、悪い」

 今まで取り決めていたかのように「佐倉さん」「寺島さん」と呼び合っていたのに、なぜか意識から抜け落ちてしまっていた。

 俺を見る千佳の眼差しは、まるで「しょうがないなあ」とでも言わんばかりだった。

 そうして、視線を無人の休憩室へと巡らせる。

「……お話しかな? そこでいい?」

「あ、ああ。すぐ終わる」

 千佳を先導し、休憩室へ。

 扉が閉まるのももどかしく、俺は切り出した。

「滝原課長に確認された。なぜ、あんなことを?」

「ただの予防線、かな。確かにわざわざ言うことでもないけど、知っておいてもらった方が、リスクが少ないかなって」

 千佳は何を聞かれるのか予想していたようで、返答に淀みはなかった。

 そうして、目を細めて笑う。

「理解者は多いほうがいいでしょ?」

 それは誰の、何のための理解なのか。

 喉に何かがつっかえた気がして、俺はそれ以上言葉が出ない。

 それを見て取った千佳は、腕時計を確認して外を気にした。

「人目につくとそれこそリスクになるから、もういいかな? 失礼するね」

 俺の返答を待たず、千佳は退出した。

 一瞬、呼び止めようと手が浮き上がる。

 しかし、それは途中で力を失い。

 どこか嗅ぎ覚えのある空気の中に、俺は取り残されたのだった。



「おい幸人、今日付き合え」

「……え?」

 終業間際、帰り支度をしていると唐突な亨の呼びかけ。

 それは呆れと疑念を含んだような色だった。

「なんだいきなり」

「いきなりじゃねえよ」

 ここは会社だと思いなおしたのか、亨は声を潜めた。

「お前、今日はなんかおかしいぞ。話しておいた方がいいこととか、あんじゃねえの?」

「……ああ」

 言われずとも自覚はあり、午後の俺はどこか上の空だった。仕事自体は進めているが、今となっては漏れがないか焦る程だ。

「すまん、気を遣わせたな。お言葉に甘えるよ」

「そう来なくちゃな」

 一転、楽しそうになる亨。

 千佳の歓迎会は妙な雰囲気で楽しめなかったのもあって、俺も渡りに船の心境でもあった。

 しかし、そこに水を差すかのようなメッセージがスマホに届く。反射的に目を通すとそこには。

『わたしもいいかな?』

 差出人を確認し、見なきゃよかった、と顔をしかめてしまった。

 怪訝そうな顔をした亨にそれを見せると、表情が伝染した。

 同時に視線を向けると、そこには同じく帰り支度をしている佐倉千佳の姿。

 しかし、先ほどのメッセージが何かの間違いであるかのように、まるで知らんぷりを装っている。

「どうする?」

「断れ」

「だよな」

 視線で応酬した俺たち。

 そう返そうとスマホに目を落とすと、新しいメッセージが届いていた。

『職場じゃし辛いお仕事の話をしたいんだけど』

 断りにくい申し出で、亨に見せると、こちらも思案の表情だった。

 昼の様子からすると、きっちり線は引いているようなので本当に仕事の話なのかも知れない。

 なら職場で、と思うが、わざわざし辛いと注釈をつける以上は、他に聞かれたくないことだと窺えた。

 俺がためらいがちに亨に視線を投げかけると、深いため息が返って来た。

 それを見届け、「前のバー」とだけメッセージを送る。

 そこは千佳にとってはあまりいい思い出のない場所だ。躊躇してくれたらと思ってだったが、すぐに了承のメッセージが届く。

 それどころか、

『一緒に行こうね』

 とまで来た。

 あの辺りは奥まっているので女性一人では心もとない。良心を刺激されてしまい、何とも言えない気分になってしまった俺だった。

「しょうがねえ、とりあえず行くか」

 亨は何やら重くなってしまった腰をあげた。そうして、必死にキーボードを叩く瀬戸を振り返る。

「じゃあ、頑張れ瀬戸ちゃん。影ながら応援してるからよ」

「助けてくださいよおっ!?」

「まずはできるところまで頑張れ。それが成長につながるんだからよ」

 含蓄があるような、ないような言葉と悲鳴を置き去りに、俺たちは職場を後にした。

 会社のビルの前で千佳を待つ間、スマホにメッセージを打ち込む。

「なにしてんだ、幸人?」

「こうなったらしょうがないからな。せめて、美咲には経緯を伝えておく」

「ああ、それがいいな」

 送信を終えた直後、千佳が現れて俺の横に並んだ。

「久しぶりだね、飲み会」

「歓迎会、やったでしょう?」

「なんだか楽しめなかったもの」

 俺を通り越しての千佳と亨の会話。

 千佳は俺に話しかけたが、俺に変わって亨が返答した形である。それに千佳は、気を悪くした様子もない。

 一瞬、大学時代に戻ったかのような錯覚に陥る。

 千佳がつけている仄かな香水が、記憶を巻き戻したのかもしれない。

 それは覚えのある、石鹸の様な落ち着いた香りで。

 だからなのか、俺の口も少しは軽くなってしまったようだった。

「歓迎会は、瀬戸がうるさかったからな」

「歓迎してくれているのは伝わって来たんだけどね」

 三者三様の苦笑が俺たちの表情を彩る。

 そうして歩く間に、奥まった道を抜けていく。

 俺、亨、千佳は等間隔の距離を保ちつつ、バーの扉をくぐる。

 そのバーは来るたびに出迎えるのがマスターだけ、つまり他の客はいない。

 俺たちは悠々と席に着いた。

 前の並びは左から、千佳、俺、亨だった。今日は千佳、亨、俺。

 意図的にそうしたわけだが、その際、千佳の表情によぎるものは特になかったように思う。

 そんな俺の違和感をよそに、千佳はホワイトミモザを注文。

 俺はジンバック、亨はスクリュードライバーを頼んだ。

 マスターが手際よく作ってくれるのを眺めながら、俺は自分が注文したものに思いを馳せる。

「久しぶりだな、スクリュードライバー」

 実際に声に出したのは亨だった。そう、俺も前にジンバックを選んだのはいつだったか、と振り返っていたのだった。

「わたしも、かな。なんだか懐かしくなっちゃって。レッドアイは当分、飲む気になれないし」

「……ああ」

 懐かしさと自嘲と冗談が、複雑なカクテルになった千佳の声に――ここであったことを思い出す俺。

 以前は、千佳が切望する復縁を俺が拒絶し、大泣きさせてしまった。

 その時のことを後悔する気もないし謝る気もないが、申し訳なさがこみ上げるのはどうしようもない。

 亨の背中越しに千佳に視線をやると、首を横に振られた。

 やんわりと断って来た千佳に大人を感じる。

「ああ、こんな風に気遣える人だったな」

 そう、思い出してしまう。

 そうこうしているうちに、各自の前にグラスが並ぶ。

 亨の前にはオレンジ。警戒色と攻撃色を兼ねているということか?

 千佳の前には白。それはまるで、無垢を主張しているかのようにも見える。

 俺の前には透明。これからどう染まるのか――それはそう問いかけてくるかのようで。

 俺が迷いと疑念を深めた見方をしている間に、千佳がグラスを持ち上げた。

「押しかけてごめんね? その代わり、今日はわたしが奢るから」

「大丈夫なんですか? 慰謝料で貯金吹っ飛んだって言ってませんでしたっけ」

「藤井くん、思い出させないでくれるかな?」

「なら、亨だけ自腹でいいんじゃないか」

「そうだね、それがいいね」

「すみませんでしたっ」

 亨の謝罪を音頭に、グラスを奏でる俺たち。

 屈託ない笑い声をBGMとして傾けたグラスは苦みと甘みのバランスが絶妙で、よく飲んでいた頃――大人ぶっていた大学時代を思い起こさせた。

「……こんな甘かったっけ、これ」

 対して亨は「うへえ」という表情を隠しもせず、自分が頼んだスクリュードライバーをしげしげと眺めやっていた。

「大人になったってことかもね」

 くすり、と千佳が笑みをこぼす。

 そんな彼女がグラスを傾ける姿は絵になっている――という想像をする。隣の亨で遮られていなければ、それを直に目にできたはずだ。

 代わりに蘇るのは、大学時代でもよく三人で飲み屋に行っていたな、という思い出。

 大抵は四人テーブル席で、俺と亨が隣り合わせ、正面に千佳という位置だった。

 亨が茶化し、俺が冷静にツッコミを入れ、それに千佳が静かに笑う、という構図。

 その集まりは、俺と千佳が付き合い始めるといつしかなくなってしまった。

 亨が場をお膳立てしてくれた所もあったのか、と今は思う。

「素直に瀬戸ちゃんの好意を受け取ればいいんじゃないですかね」

「それはお断りかなあ」

 グラスの底から湧き上がってくる気泡を眺めている間に、千佳の「職場ではし辛い」話題になっていたようである。

 瀬戸の態度はあからさまで、その表し方は俺も少々危惧しているところだった。

 今日の午前の滝原課長との面談でも、それとなく話題にしたところだ。返って来たのは苦笑であったので、同じ懸念を抱いていると知れたのは僥倖だったが。

「それとなくセーブする様には言っておくよ。下手したらセクハラ案件になるしな」

 言い方を間違えてもパワハラ案件になるが、あまりよくない未来を想像して、とりあえず対策をひねり出す俺。あんなのでも戦力だ、離脱となっては痛いのだ。

「ふふ、良かった。――第一、わたしが好きなのは幸人なんだもの」

 一瞬の空白をついて投げかけられたかのような、微笑みと視線。

「好きな人が庇ってくれる機会がなくなるのは、ちょっと惜しい、かも」

 あまりに唐突で、それらの言葉を遮る様な動きはできなかった。

 咄嗟に目を逸らしたものの、その直前の表情は目に焼き付いた。

 アルコールで上気した肌、投げかけてくるうっとりしたような瞳は潤んでいて。

 この心の動きこそ、アルコールのせいであってくれ、と俺は願わずにはいられなかった。

「……トイレに行ってくる」

「……ああ」

 俺が選んだのは逃走だった。

 亨は興ざめしたような反応。

 当の本人は、黙ってグラスを傾けるだけだ。ごくり、と動く喉が艶めかしい。

 そうして、千佳を凝視していたことに気づいて、止めていた動作を再開させた。

 切り取られた空間に閉じこもると、重苦しさが押し寄せてくる。

 洗面台で顔を洗い、備え付けの鏡を確認すると、そこには追い詰められたような顔。

 ――服を選んだ時のような、堂々とした男の姿はどこにもなかった。

 ポケットに手が伸び、スマホを取り出す。

 ここに来る経緯を告げたメッセージに、返信が来ていた。

『気を付けてね』

 メッセージは短い。

 けれどこれに、美咲は何を籠めたのだろうか。

 亨がいるとは言え、元カノが同席する飲み会にいい気でいられるはずはない。

 しかし仕事がらみだから、我を無理やり抑え込んでの、必死のこの文面なのだろう。

 ――もしくは、特に興味がないのか。

 よぎった思考に、激しく動揺する。

「……何を考えているんだ、俺は」

 揺らいでいる。けれど、その自覚があっても立て直せないものを感じた。

 はっきりと客観視できているのに、まるでそれが自分の物ではないような感覚だった。

「俺は美咲が好きだ」

 はっきりと声に出す。

 ぐらついていた視界が、平衡を取り戻していく。

 そう、それは何が回っていたとしても揺るぎない芯のはずだ。

 自身の落ち着きを自覚して、千佳との再びの対峙のため、力を入れてその場から出る。

「帰ったぜ、千佳さん」

「……え?」

 拍子抜け。

 その表現が相応しく、亨は何とも言えない表情をしていた。

 のろのろとカウンターに戻ろうとして――千佳の席に目が留まった。

 一瞬、そこに千佳の残り香を感じたような気がして、頭を振る。

 腰を落ち着けると、なにやら亨は考え込んでいた。

「何か言われたか?」

「そりゃお前だろ、幸人。そもそも何があったんだよ?」

「……ああ」

 そうだ、ここに来たきっかけは、今日の俺の様子がおかしかったからだ。

 俺は聞かれるままに、滝原課長との会話内容を語った。

 その後に続く千佳とのやり取り、「予防線」についてもだ。

 聞き終わり、亨は不可解そうな表情を浮かべた。

「……わざわざ言うことか? いや、必要なくはねえのか。……何考えてやがんだ、本当に?」

 最後の自問に、俺も同意見である。

 本当にわからない。

 おかげで俺は、滝原課長の視線を意味もなく意識するようなことになってしまった。やましいことなどないはずなのに、だ。

「……出向先に気を遣って、なんだろうな。千佳はそういうことに気が回るし」

 結局、そんな風に解釈するしかなかった。

 何か、これに囚われるのが苦しく、俺は話題を変えた。

「で、千佳はなんでいきなり帰ったんだ?」

「……あー」

 口が重い亨。

 どうやら、今日の俺の様子について説明を求めたのは、本当に確認したかったこともそうだが、突っ込まれたくなかったからのようだった。

「亨」

「あー、わかったよ」

 亨は両手を上げて降参のポーズを取って、マスターに追加注文。

 それに続くように、俺も追加で頼む。

 しばしの沈黙。

 そして、グラスに注がれる琥珀色の液体と氷の音。

 バーボンのロック、それは亨の元へ。

 俺には、赤紫の淡さが控えめな主張のカシスソーダ。

 見比べると、まるで大人と子供の飲み物のようだった。

「……真面目な話か。そういう時、亨はいつもそれだよな」

「知ってたか。なら話しは早い。まあ、とりあえず乾杯しようや」

「ああ」

 まるで、話しを先延ばしにしたいかのような亨。

 俺はそう感じつつも、それに乗る。

 小さく響いた乾杯の音は、嫌な予感のシグナルのようで。

 喉を駆け降りる甘い炭酸は、それを拭い去ってはくれなかった。

 亨も飲み下す。詰まった栓を取り除くように。

 そうして、重い口を開いた。

「つっても、そんなに多くはない。千佳さんに言われただけだ」

「なんて?」

「私たちの恋を応援してくれると嬉しい、だとよ」

「……それで?」

「それだけだ。で、払って帰った」

「…………」

 ――本当にそれだけか?

 いや、確かに千佳が言いそうなことだし、それは事実なのだろう。

 そうして、俺の心を乱したまま姿を消し、余韻がそれを煽るように演出した――という所か。

 そこまで分析出ているにもかかわらず、俺は背中に何かが忍び寄ってくるような感覚を覚えた。

 そうだ、これのどこが真面目で、引き延ばしたいような話だ?

 ああそうか、で終わるだけじゃないか。

 そう、亨は横顔を向け、話しはこれで終わりだと言わんばかりだった。

 俺は舌を湿らせた。

「――で。それを聞いて、お前はどう思ったんだ?」

「――聞くかよ、それを」

 参った、と肩を落とした亨。頭を抱え、吐き出した琥珀色のため息は苦さの象徴のようだった。

「くっそ。なんだってこんな時だけ勘がいいんだ。スルーしてくれてもいいじゃねえかよ」

「亨」

「いや、待て待て待ってくれ。言葉を選びたい」

 こちらに視線を向けずに、落ち着かない様子の亨。

 俺は手元のグラス――どこか美咲を思い出させるその色に目を落とした。

「……気を悪くしないで聞いてくれ、幸人」

「……努力はする」

 カラン、とグラスの中で氷が動いた。

 それをきっかけに、亨は重く口を開いた。

「一理ある、と思っちまった」

 亨のその言葉を飲み込むのに、大分時間がかかった。

「一理、ってなんだよ」

「歓迎会の後、千佳さんが言ったよな。『幸人と恋を始められそうな環境』とかなんだか」

「ああ」

「で、さっきのセリフは実は全部じゃない。本当は、『同じ世界の住人である、私たちの恋を応援してくれると嬉しい』――だ」

「……同じ世界」

 途端湧き上がる、生木を引き裂かれるような感覚。

 もうわかった。

 その指摘は、俺の急所そのものだ。

 俺は、手元のグラスから視線を逸らした。

 亨の苦悩の声が響いてくる。

「すまん幸人。一理ある、と思っちまったんだよ。あのお嬢さんは危うい。そのそばにいるより、千佳さんと同じ世界の方が安全なんじゃないか、って思っちまったんだ」

「……安全」

 感情をかき乱されながらも、どこか腑に落ちるその結論。

「ははっ」

 乾いた笑いを零したのが自分だと、しばらく気づけなかった。

「……それが美咲にとっても安全……。で、俺には千佳がお似合い、ってことか」

 俺のような異物が近くにいては、何が起こるかわからない。

 千佳は想いを寄せてくれていて、静かに待ってくれている。

 迷う余地はないのだろう。

 理性ではそう判断できる。

 けれど、だったらこの感情はどうなるんだ。

「幸人。なんだかんだ言っちまったが、結局は何が一番か、なんて俺にはわかんねえ」

 俺にもわからないよ、亨。

「が、俺にとっての一番は、幸人。お前が幸せになることだと思ってる」

「……亨」

 その力強い言葉は、わずかに俺の顔を上げさせた。

 視界に映るのは、美咲の健気な姿を思い起こさせるグラス。

 俺の幸せは、美咲と共にあること。

 けれど、それにはそこにいる美咲も幸せでないと意味がない。

 すなわち、美咲の安全がやはり大事で。

 それには、俺の存在は足枷で。

 ぐるぐる、と回る。

 確かな芯が、錨があれば、そこを支点に立ち直れ、流されないこともできるだろう。

 けれど、それ自体が不確かなら一体何を頼ればいいのか。

「……――美咲」

 俺にはもうわからなかった。

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