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ストーカー系女子とアンニュイ系男子の攻防戦  作者: 緋色
四章

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24/30

撚れる仮面

 あたしは、スマホを思い切り床に投げつけた。

「ミサ!」

 驚きの声が耳に入るも、それはただの情報として流れていく。

 落ち着くようにだろうか、おそらくは肩を掴まれているんだとは思う。

 けれどそれらはあたしの激情の前ではささやかで、何の爪痕も残すことはない。

 視界が赤く染まっている。

 怒りでどうにかなりそうになる。

 アレはいけない。

 アレはもう二度と、絶対に近づけてはいけなかった。

 こうなったら、もう仕方ない。

 こうなったら、もう■■スしか――。

 頬が熱を持った。

 頭を揺らされ、視界が傾く。

 一瞬、赤く染まっていた視界がひび割れて、その隙間から誰かの顔が覗く。

 それは、銀のピアスが印象的な、不機嫌な顔だった。

 呆然と、熱い頬に手を添えるあたし。

 ぶたれたのだと、ようやく気づけた。

「謝らないよ?」

「……ええ」

 振りぬかれた右手に――あたしをぶったその手に、視線が導かれる。

 その手首にはブレスレット。

 視線は下に落ちる。

 へこんだ床、その先にはあたしが投げつけたスマホ。

 ゆっくりと視線を巡らせると、そこはあたしの家のリビングだった。

 そうして視線は旅をして、最後には腕を組んで、やっぱり不機嫌な彼女の元へ。

 あたしは、まだ熱を持つ自分の頬を擦った。

「……ありがとう。嫌なことをさせてごめんね。もう大丈夫だから」

 返って来るのは、ほっとしたような、リコの小さな頷き。

 そこにどれだけの安堵が込められているのか、はっきり伝わってくるようだった。

 そうだ、もう大丈夫。しっかりしなくては。

 そう、あたしの相手はかつての幸人さんの恋人、佐倉千佳。

 ――子供のままでは対峙すら許されない、大人の女だった。

 あたしはスマホを拾い上げた。

 特注のそれは丈夫で、画面や外装に損傷はない。

 ひび割れたのはあたしだけ。

 スマホから得た情報が原因だった。

 それは佐倉千佳の、幸人さんの会社への出向という事実。

 それだけで本気ぶりがわかるというものだ。

 だからあたしは、以前のどこか気弱なあの女の印象を拭い去って、強敵と認識するしかなかった。

 幸人さんの会社は、まだ学生のあたしが決して足を踏み入れられない場所。

 なのに、今は佐倉千佳の独壇場となってしまった。

 あの女にいい感情を抱いていない藤井さんがいるとは言え、どこまで有用な盾となるのか。

 人任せの状況に焦燥が募る。

 けれど、それを堪えなければ考えもまとまらない。

「……リコ、彼氏さんとお話していい?」

「もちろんいいよー。でも、亨くんが頼りになるかな?」

「それはわからないわね」

 あたしはともかく、リコもなかなか酷い物言い。

 いえ、そのラフさ自体が信頼の証なのか。あたしと幸人さんの間にはない関係性に、少しばかり嫉妬を覚える。

 そんな思いを抱えつつ、藤井さんへ連絡。

『はいよ』

「幸人さんの様子はどう?」

『一途なあいつを裏切る気はない、ってよ』

「……はうああっ!?」

 あたしは一瞬で真っ赤になってしまった。それ以上言葉を紡げずにいると、リコが近づく。

「亨くん? まさかミサに愛の言葉でも囁いたんすか?」

『そんな訳ないだろう? 俺の愛はいつだって瑠璃ちゃん宛さ』

「いやん、亨くん。うちも大好き、ってか照れるうー」

「あたし越しにいちゃいちゃしないでくれるっ!?」

『そりゃ失礼』

 二人を引き離すように、リコを遠ざけるあたし。話が進まなくなりそうだったので、スマホをスピーカーに切り替えてテーブルに置いた。

「今日が初日と聞いたけど。あっちはどんな様子なの?」

『……普通、だな。今んとこ、付け入る隙がねえ』

「情けないわね」

『うっせ、初日なんだよ。だからまだおとなしいんじゃねえのかな』

「……これから、というわけね」

『多分な。つーか、俺より幸人にラブコールする方が先なんじゃねえの、あんた』

「ラブコールって、何年前すか亨くん。今は恋電(こいでん)って言うんすよー」

『ああ、じゃあ俺がいつも瑠璃ちゃんとやってるのは恋電なのか』

「そうっす、お勉強になったっすねー」

「こ、こい、でん? なんて恥ずかしい表現なの?」

 口に出すのも恥ずかしい。世の恋人たちは、本当にそんな言い方をしているの?

「あ、あなたに言われなくても、この後で幸人さんとは話すわよ」

 駄目、無理。あたしの口から出ていい単語じゃない。

 あたしは一つ咳払いすると、気を取り直した。

「じゃあ、お願いね。一応、頼りにしてあげてるんだからね」

『へえへえ。じゃーな瑠璃ちゃん』

「亨くん、まったねー」

 あたしへの挨拶はおざなりに、藤井さんとの通話は切れた。

「じゃ、うちはうちで恋電してくるんで。美咲のお邪魔はしないからねー」

「か、からかわないでよ」

 いい笑顔で、リコは客間へと消えていった。そこは、リコがあたしのマンションに泊まる時の定位置だった。

 正座し呼吸を整えて、まずはメッセージで電話できるかのお伺いをしようとスマホに指を伸ばす。

 その直前で、幸人さんからそれがやって来た。

『今、話せるか?』

「は、はい!」

 思わず、メッセージに声で返事をしてしまうあたし。

 数秒後に、それでは伝わらないと気づいて同じ返答を打ち込むと、今度は通話を知らせる震えが手に伝わってくる。

 動揺を抑えて、ちゃんとスピーカーで通話を開始した。

『こんばんは。悪いな、こんな時間に』

「こ、こんばんは、幸人さん。ううん、声が聞けて嬉しい」

『ああ、俺も嬉しいよ』

 こ、恋電、まさしく恋電よねこれ!? あたし恋電してる、幸人さんと!

 新しく覚えた言葉を内心で連呼するあたしに対し、幸人さんの声は少し硬かった。

「幸人さん、何かあった?」

『ああ、ちょっとな。美咲のことだから、どこかからか聞いているかもしれないが』

 ぎくり、と教師に叱られる生徒のように背を伸ばしてしまうあたし。

『千佳がな。……いや、悪い。他の女性を名前で呼ぶとか、美咲に対して真摯じゃないよな』

「い、いいいいいいいいいえ、だ、大丈夫、幸人さん。あたし大丈夫。なんの問題もないから、そのままで大丈夫よ」

 舌がもつれて今度は大丈夫を連呼してしまう。

 幸人さんの気遣いというか、その真心が嬉しくて体温が急上昇する。その前では、前の女をどう呼ぼうがまるで気にならない。

『そ、そうか。……千佳がな。どういう訳か俺の職場に出向してきた。で、……その』

「うん、わかったわ、幸人さん。それ以上は言わないでくれていいから」

『……そうなのか』

「ええ。だって、言いにくいことなんでしょう? 甘えてくれていいから、幸人さん」

 そう、甘えてほしい。幸人さんにとっての、安らぎでいたい。だってあたしは彼女なんだもの。

 しばしの沈黙。

 その時間が、あたしが与えた安らぎなら嬉しい。

『いや、これは甘えじゃないな。美咲を雑に扱っているだけだと思うから言うよ。表現は伏せるが、千佳に言い寄られた』

「え」

 どきり、とあたしの心臓が跳ねる。

 言い寄られた、という事実があたしの焦燥を煽ったのは確か。

 けれどそれ以上に、あたしに対して誠実でいようとしてくれる気持ちが嬉しい。

 自然と内股がすり合わさってしまう。

『悪い。不安を煽るようなことを言ってしまって』

「……ううん。とっても嬉しい。あたし、そんな誠実な幸人さんが好きだから」

『……そ、そうか』

 そうなってから、自分が何を言ったか気づいて頭に血が上る。

 その後は、気持ちを落ち着ける意味もあって、少し違うお話をした。

 何気ないそれらが、幸人さんの安らぎになりますように。

 そんな感情があたしを高ぶらせたのか。

 電話が終わって眠る時間になっても、あたしはなかなか寝付けなかった。



「竜禅寺さんがモデルのサキさんって、本当なの?」

 見たことのない顔ぶれがそう聞いてきたのは、学校の教室、休み時間のことだった。

 自分の席に座ったまま、あたしは首を傾げて、その面々を見た。

 あたしに話しかけてきたのは二人組の女子生徒。

 ちらり、とその後ろに目をやると、教室の外、扉付近に鈴なりになっている人影がある。

 改めて見上げると、二人組はおどおどとした表情で、けしかけられたことが窺える。

 それらを確認し、あたしは不思議そうにしてみせた。

「誰がそんな嘘を?」

「え、あ、そ、そうだよね?」

 二人組の内、一人はあたしに気圧されでもしたのか、慌てて逃げ腰になった。

 しかしもう一人は、態度こそ落ち着かないものの、さらに追及の姿勢になった。

「で、でも、竜禅寺さんの名前って、ミサキ、だよね」

「そうね。でもそれ、割とある名前だと思うけど」

「そ、そうだよね、ごめんなさい、変なこと聞いて」

 あたしが動じずに返したことで挫けたらしい。二人組は慌てて踵を返して逃げ、扉付近の人たちと合流する。

「ほら、やっぱり違うじゃん!」

「ええー、そうだと思ったんだけどなー」

 そんなやりとりが遠ざかっていく。

 おそらくは他クラスの生徒だろう彼女たち。

 彼女たちが逃げ去った方とは逆の方向からリコが顔を覗かせ、そちらを気にしつつあたしの席に近寄ってくる。

「リコ」

「あいあい、確認しておくね」

 リコの席はあたしの隣。そこに腰掛けつつスマホを取り出し、何やらいじり始めた。

 その作業を尻目に、あたしは先ほどのやり取りを思い出す。

 あたしの返答は、あらかじめ定められたものだった。

 モデルのサキの正体は不明とする。

 その方が希少価値を押し上げるから、というのが事務所の方針であり。

 彼氏の存在を公言しているあたしとしては、あたしから幸人さんに繋がって迷惑をかけてはいけないから、という前提があるからだ。

 もっとも、その方針は最初からであり、騒がれたくないから、というあたしの意図が反映されたものだ。

 それが後付けの理由で補強されているに過ぎない。

 視線を上げて周りを見渡すと、薙ぎ払われたかのように伏せる顔がいくつもあった。

 先ほどのやり取りは注目されていた、ということ。

 つまり、真偽不明の噂はすでに蔓延していた、と取れた。

 それが水位を超えて、あたしへの直接的な問いかけとなった――か。

 出所はどこか?

 それはすでに、リコが調べてくれている――が。

 後手に回ってしまった、という感覚があった。

 どこから、は、誰から、にも通じる。

 あたしの脳裏に、一人の女の顔が浮かぶ。

「……まさかね」

 それを、あたしは冷静に打ち消す。

 単なるタイミングの問題であり、それと関連付けるのは早計に過ぎる。

 そう結論を下したのだった。

 ふと、零した言葉とともに首を振った時に、印象深いものが目に入った。

 それは幸人さん。

 そんなまさか、とそれをもたらした原因をさりげなく探す。

 目が引かれたのは、リコとは逆側、斜め前の席。

 男子生徒が座っていて、スマホで動画を見ていた。

 それはなにやらノートパソコンでの作業を映し出したものだった。

 気取られないようにしばらく注視していると、ノートパソコンの画面を指差す手が映りこむ。

 あたしが見間違えるはずはない。

 あれは幸人さんの右手だ。

 その瞬間、あたしは椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がった。

「ミサ?」

 横合いからのリコの声に、あたしは我に返る。

 幸い、あたしの動きに反応したのはリコだけだった。

 あたしは、ワイヤレスイヤホンで動画を視聴しているその男子生徒の横顔を盗み見た。

 ――どうして田坂くんが?

 休み時間はまだ残っている。

 それを認識すると、もう静かにしていることはできなかった。

 落ち着けた動作で田坂くんに近寄ると、後ろから肩を叩く。その途端、彼は慌てた様子でこちらを振り返った。

「す、すみませんっ。ってええっ!? りゅ、竜禅寺さん!?」

 あたしを教師だと思ったのか、イヤホンを外しながら、立ち上がらんばかりに驚く田坂くん。

 と、イヤホンがその手から落ちた。

 あたしはそれを掬い上げ、そこから漏れる音声を耳にした。

『うん、綺麗にかけてるね。インデントもちゃんと揃ってるし』

 ぞくぞくとするその声は、まさしく幸人さんだった。

 囁き声でさえ恥ずかしく、通話越しでは逆に感じすぎてダメ。

 今も、田坂くんと交互に聞こえてくる声が振動となって、手のひら越しにあたしに甘美な刺激を伝えてくる。

 そんな声を、イヤホンで独占しているこの男は一体何なのか。

「……どういうこと?」

 イヤホンを手のひらで示しながら、問い詰める形になったあたし。

 田坂くんは、問われていることの意味がわからないのか目を白黒させている。

「ミサミサ。なんだかわかんないけど、落ち着いて」

 田坂くんへの視線を遮る形で、金髪と赤い瞳と銀色のピアスを割り込ませてきたのはリコだった。

 じゃらり、と胸元から垂れ下がった数々のアクセサリーも、落ち着け、と促してくるかのようだった。

 ため息をついたあたしに、リコは顔を引っ込めた。

 そうすると現れるのは、いまだ戸惑った表情の田坂くんだった。

「……ごめんなさいね。最近、プログラミングに興味あって。こんな風に教えてくれるところがあるんだ、って気になってしまって」

 なんとかそれらしいストーリーをひねり出し、イヤホンを差し出すあたし。

「そ、そういうことなんだね」

 なんとかごまかせたようで、ほっとした顔の田坂くん。

 田坂くんは、あたしの手からそっとイヤホンを取り上げた。遠ざかる幸人さんの声が惜しく、あたしは足を踏ん張らないといけなかった。

 そこで授業開始のチャイムが鳴った。

 あたしは、そこでのさらなる追求を諦めざるを得なかった。

 席に戻るあたしたち。

 そうしながら、少し田坂くんのさっきの態度が気になった。

 あたしの手のひらからイヤホンを回収する時、彼は極力、あたしに触らないようにしていたのだ。

 ――紳士なのね。

 幸人さんにも通じるその態度を、あたしはなんとなく好感をもってとらえたのだった。



「それが、とてもわかりやすくて。間違えても優しく訂正してくれるし、本当にすごい人なんだ!」

「……そうなのね」

 時間は進んでお昼休み。

 偶然隣り合った席となった田坂くんに先ほどの話題を振ると、食べるのも忘れての熱弁が返って来た。

 顔を紅潮させてのそれは、まるで好きなアイドルの魅力を語る風だった。

 それに先駆けて、知り合ったきっかけも聞いていた。

 本を取れずに困っていた田坂くんを、何も言わずに助けたと聞いて、あたしは「さすが幸人さん!」と嬉しくなったものだった。

 食べることを忘れていると指摘される、熱弁を奮いだして食べることを忘れる、を繰り返す彼を見て、あたしは思ったことを口にした。

「……千紘ちゃんにそっくりね」

「うちも思った」

「そ、そんなにっ?」

 あたしと共に同席のリコにも指摘されて、田坂くんは恥ずかしそうにした。

 対して、あたしは複雑な心境だった。

 どうしてあなたが幸人さんとの時間を過ごしているの? という嫉妬がまずある。

 けれど、幸人さんの一面を知れて嬉しい、というのもまた事実。

 動画は教わったことを後から見返すために録画したもので、参考にしたいと言ったあたしに共有してくれるそう。それは絶対に何度も見返すと思う。

 田坂くんの、幸人さんを褒めちぎる言葉には全面的に同意で、何度も頷き返しそうになる。

 それどころか、あたしの方から「こんな話もあるのよ」と自慢げに切り出してしまいそうになる。

 けれど、それはできない。

 それどころか、それは知っている人だ、と言うことも出来ない。

 口火を切ったが最後、あたしが幸人さんの彼女であることを隠し通すことはできず、言ってしまうと思ったからだ。

 そうなると、もしあたしがモデルのサキと知られた場合に、幸人さんへと辿り着いてしまう。

 それはすなわち、迷惑をかけてしまうということ。それだけは絶対に避けなくてはいけない。

 ――それに。

 田坂くんの熱のこもった視線。

 それが幸人さんへの敬意と信頼だけではなく、あたし自身へ向けてのものが含まれている、ともう知ってしまっている。

 あなたが敬愛している人は、あなたが恋慕しているあたしの恋人なの。

 そんな残酷なことを、どうして突き付けられるのか。

 あたしは田坂くんの視線にさらされながら、曖昧な笑みの下に、その心苦しさを隠すしかなかった。



 下校時、ここは竜禅寺の車の中。

 定位置となっている後部座席で、隣にはリコ。

 リコは難しい顔でスマホを睨みつけていた。

「状況は悪そう?」

「そうだねー……。ミサ、寺島さんとの接触禁止、何日耐えられる?」

「そんなに悪いの!?」

 思いがけない通告に、あたしはリコに詰め寄ってしまった。

 どうどう、と手をかざされ、なんとか落ち着かされる。

 スマホに視線を落としつつ、考えながらリコは話し出す。

「黒瀬さんとも、やりとりしていたんだけど」

 黒瀬(くろせ)柚乃(ゆの)さん。あたしが所属するモデル事務所、オルビス・ヴェイルの社長だ。

「業界内で、サキの素性調査が進んでる気配があるんだって」

 あたしは首を傾げた。

「今までだってそうじゃない?」

「うん。それは業界主導、つまり頭が明確に存在する組織だから、それを押さえつけて目を逸らせた所もあるんだけど。って、それはミサの方がよくわかってるか」

「そうね」

 その通り。あたしはその特性を理解し、そう仕向けた張本人なのだから。

「でも、今回の噂の出所は瑞鳳館(ずいほうかん)――つまり、うちらの学校みたい」

 思わず舌打ちしそうになる。

 学校内の噂は、根も葉もない。つまり、押さえつけるべき頭がない。

 そして、その噂はどこまで広がるかわからない。

 生徒から家庭へ、家庭から職場へ、そして職場から――と、どこまでも広がるだろう。

 つまり、誰に見られているかわからない。竜禅寺は有力だが、有限でもある。誰も彼もを押さえつけられる訳じゃない。

 あたしは、手の中の空気を誰かの首に見立てて、握りしめるしかなかった。

「……誰かが、火を投げ入れた」

「って、なるよね。火元は現在調査中」

 天井に向かってため息をつくリコ。その動作が、現状の困難さをなによりも雄弁に物語っていた。

「いっそ、モデルやめちゃう?」

 冗談じみたリコの声。

 あたしは、その提案を真剣に吟味する。

 元々、自信をつけるために踏み込んだ業界だった。

 言うなれば利用対象で、そこに恩も借りもあるわけではなく、切り捨てても惜しくはない、というのが正直なところ。

 しかも、そこを利用した幸人さんへのアピールは、うまくいっている様子はない。

 「俺の前では、演技が下手でもいいんじゃないか?」

 デートで倒れた後に、そう言われたことを思い出す。

 つまりそれは、モデルとして背伸びをするあたしではなく、等身大のあたしを好いてくれている、という証拠でもあり。

 だったら、もういいんじゃないか、とも思ってしまう――けれど。

「逃げてたまるもんですか」

「だよねー」

 あたしの返答を予想していたように、リコは歯を見せて笑った。

 それはむしろ楽しそうで、つられてあたしも笑みを返してしまう。

「ごめんね。リコにも面倒をかけちゃうと思うけど」

「今更じゃん? 言い出さないなら、うちが尻を撫でようかと思ってたくらい」

「尻を叩く、の間違いよね?」

「め、目が怖いし。あ、あれこれ手続しないとだった。ちょっと集中するねー」

「お願いね」

 わざとらしくスマホをいじりだすリコ。

 あたしはシートに背中を預けた。

 とても残念だけど、幸人さんとの接触はしばらく控えざるを得ない。

 幸人さんのアパートも、喫茶店でのお話もお預け。デートなんてもってのほか。

 そう考えると挫けそうになるけれど、それがあたしの選択。

 そうして思う。

 これははたして、本当に偶然なのか、と。

 何かがひたひたと迫ってきているのではないか、と。

 そうして考える。

 ここで逃げたら、幸人さんの彼女として立ってはいられない。

 そう、それはあたしのプライド。

 だからそう選択したのだけれど。

 けれど、もし。

 ――このプライドさえも利用されているのだとしたら。

 あたしは、唇が弧を描くことを止められなかった。

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