紡がれる縁
俺、寺島幸人が務めているのは、いわゆるIT系と言われている会社だ。
自社開発も受注開発も行っており、直属の上司は滝原志津課長である。
滝原課長を筆頭に、同じ開発チームには友人の藤井亨と、後輩の瀬戸神奈が所属している。
その合計四人は会議室に集まり、今後の業務方針――新規プロジェクトのすり合わせを行っていた。
まずは滝原課長がいつもの穏やかな調子で、パソコンに接続された大型モニターとホワイトボードを使って、概要を話し終えたところだった。
「と、ざっとこんな流れだね。要は、発注元である他社の社内システム開発だよ。インフラは別チームが担当してくれるから、わたしたちはアプリケーション部分を受け持つことになる。これが予定しているスケジュール」
滝原課長はパソコンを操作して、モニターにスケジュールを映し出した。
それを見て、俺は眉をひそめた。視界の端の亨も同じような表情、瀬戸はあまりよくわかっていなさそうだ。
俺と亨の態度に、滝原課長は満足そうに「うんうん」と頷いた。
「見ての通り、ちょっと詰まってるよね。だから、発注元から調整役を兼ねた業務支援の人が一人、出向という形で加わることになってる。その人がわたしの業務の一部を引き受けてくれる予定で、その分わたしも開発に参加できる。だから、このスケジュールでもある程度バッファは取れる見込みだよ」
にこやかな滝原課長に、俺は腑に落ちると共にいくばくか興奮もしていた。
滝原課長は、以前は現役のプログラマーで、未だその見識は俺など足元にも及ばず、時々指導を受ける。
その時間が増えるかもしれない、ということで少しばかり胸を高鳴らせたのだった。
見ると、亨もスケジュールに納得しているようであるし、瀬戸はほっと胸をなでおろしつつ何やら考え込んでいる風だった。
全員に特に質問はないと見て取ったのか、滝原課長はモニターの電源を落とした。
「出向は、スムーズな引継ぎなどを考えてプロジェクト開始前、来週の月曜日になっているよ。それを認識の上、準備をお願いするね」
「はい」
三者三様のトーンの返事が重なる。
滝原課長が一足先に会議室を後にすると、瀬戸がうきうきとした様子で話し出した。
「どんな人が来るんでしょうね? 美人さんだと嬉しいんですがっ」
何やら考え込んでいたと思ったら、ある意味で瀬戸らしい心配だったようだ。
亨が呆れたように、瀬戸の丸顔を視線で突き刺した。
「サキちゃんはもういいのかよ?」
「遠くの女神と近くの美人は別に決まってるじゃないですか!?」
それはそれ、これはこれ、と言いたいらしい。
そもそも女性とも限らないのだが。
瀬戸のはしゃぎぶりは止まらない。
「来るの月曜って言ってましたよね。歓迎会とか、してくれないかなあ」
夢見るような口ぶりだが、言っていることはそう的外れでもない。
昨今、社員間での飲み会は敬遠される傾向だが、滝原課長以下、俺たちの間では度々開催されていて終始和やかだし、悩みなども共有できて悪くはない雰囲気なのだ。
「別に問題ないか。みんなが特に用事ないなら、俺から滝原課長に通しておこうか?」
「さすが寺島先輩! ありがとうございます!」
腰を直角に折って、勢いよく頭を下げてくる瀬戸。現金なものであった。
「じゃあ話してくるわ」
「おう」
声をかけて、滝原課長の後を追うように会議室を後にする。
背中でされるのは亨と瀬戸の会話だった。
「むさい大男が来たとしても参加しろよ」
「ええ!? そ、それは考えてなかった……! て、寺島先輩!?」
その呼びかけに、俺は聞こえないふりで返した。
土曜日、休日。
今日は午後から人と会う約束があり、近くの駅前に出て来ていた。
以前に服を買いに行った場所とは違ってモールなどがあるわけではないが、最近は再開発が入っているようで新しい施設が建ち始めている。
今日も俺は身だしなみ――特に服装には気を付けてきた。
服選びで気づいた緊張感は、今も持ち続けて居られている。
ましてや、これから会う人物を考えれば、下手な状態ではいられなかったからだ。
駅前に新設されたコワーキングスペースに立ち入ると、メッセージで指定されたテーブルに近づく。
そこにはもう待ち合わせの人物は着いていた。
俺に気づいて立ち上がると、きっちり頭を下げて挨拶してくる。
「こんにちは、幸人さん。今日もよろしくお願いします」
「やあ、悠里くん。こちらこそ、よろしく」
席に着くと、悠里くんが生き生きとした顔で待ち構える。
その姿勢に、俺も情熱を分けてもらっているかのような気持ちになる。
今日は、田坂悠里くんと知り合って二回目の勉強会であった。
お題はプログラミング。
一回目は喫茶店で行ったのだが、白熱して周りの目も気にならず、時間も忘れて長々と居座ってしまった。
追い出されるまではいかなかったが、終えてから二人して反省したものだったのだ。
そこで、悠里くんが長居できそうな所を色々調べてくれたのだった。
俺がすると言ったのだが、教わっている身でそれは申し訳ないと遠慮された。ただ、こういう場所は未成年では手続きできないはずであった。
「場所の用意、ありがとう。手続き、大変だった?」
聞くと、悠里くんはいたずらっぽく笑った。
「母さんにしてもらいました。たまには社会勉強も兼ねて違う環境で勉強してみたい、って言ったら快諾でしたよ」
「勉強、ね」
「間違ってはいないでしょう?」
満足げな悠里くんの表情に、以前あった時とは違う、ただの優等生ではないしたたかさが見えて俺は苦笑した。
なにやらいけないことを覚えさせてしまったような気もするので、機会があればご両親に謝罪へ伺いたい所だった。
だが今は、彼の熱意をただ受け止める時間にしたいと思う。
「ではさっそく、勉強と行こうか。いくつか課題を持ってきたので、まずはこなしてもらおうかな」
「はい!」
わくわくした様子の悠里くん。
俺が見せたのは紙の資料で、実際の業務に使うフォーマットに即したものだった。
とは言っても、内容の難易度は初学者向けである。少しでも気分を味わってもらうため、に加えて、俺自身の資料作成の練習も兼ねている。
悠里くんはさっそく、その資料を片手に自分のノートパソコンを開いて作業を開始した。
資料と作ったアプリを見比べ齟齬がないか確認し、不明点は俺に聞いて来る。
それを繰り返し、ようやく動くものが完成するまでに二時間は経過していた。
「できました! ご確認いただいてよろしいでしょうか……!」
「了解、確認させてもらうね」
試験結果を張り出される心境の悠里くんに、俺はなるべく気楽に応じる。
動作確認してみて、俺はやや驚く。
「ちゃんと仕様書通りだ。変な動きもしないし、落ちたりもしない。すごいね、悠里くん」
「よ、よかった。あ、でもそれって、普通じゃないんでしょうか?」
喜んだのもつかの間、悠里くんは少々気落ちしたようである。
俺は首を振る。
「いや、この仕様書――資料通りに作るのは案外難しくてね。どこかしら抜けたり、自分の裁量が入ってしまって、違うものができあがることも多いんだよ。それに、悠里くんは動作がいまいちイメージできないところはちゃんと聞いてくれただろう?」
「す、すみません。重箱の隅をつついたようになってしまいまして」
「いやいや、それがとても大事なんだ。きちんと内容を受け取るけど、不明点もきちんと聞く。とても素直なそれは、なかなかできないことなんだよ」
「そ、そうなんですね」
ちゃんと褒められたようで、悠里くんは照れてしまった。
俺が考えたような言い草だが、これはまさに俺が滝原課長から言われたことそのままである。もっとも、俺の場合はその時に少し鬱屈していたので素直に受け取れなかったのだが。
「でも、二時間もかかってしまいました」
「想定は三時間だったし、完成まで行かないことも考えていたから、ずっと早いよ」
「そ、そんなにお時間を取らせるわけにはっ。せっかくの土曜日ですし、お付き合いされている方に申し訳ないと言いますか」
申し訳なさの余りなのか、やや短絡的な想像を膨らませた悠里くん。
彼女の存在を明かしたことはないのだが、なにやら悠里くんの中では居る前提になっているようだった。
その様に、俺は少しおかしくなってしまった。
「大丈夫。彼女はそれくらいで怒ったりしないよ」
言ってから、本当にそうだろうか、とは思いはしたが。
「心の広い方なんですね!」
ほっとしたのか、語尾が強調されている。それを聞いて、俺は思案した。
「心が広いというか。器が大きい、という表現が合うかな」
狭くて小さい時もあるのだが、それは言わずにおく。
「す、すごいですね。幸人さんがそこまで言うだなんて」
「君の中で、俺はどういう人物になっているんだ?」
「尊敬の対象です! こうやってわざわざお時間を割いて教えてくださるとか、聖人君子なのかと!」
「わかった。それくらいにしておいてくれ」
「ええー……?」
言い足りないのか、とても残念そうな悠里くん。だが、それ以上は俺が恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。
なので、矛先を変えることにした。
「そういう悠里くんはどうなんだ? 好青年の君のことだ、彼女の一人や二人はいるんじゃないのか?」
「二人もいたら好青年じゃないでしょう!?」
「それもそうか」
好青年は否定しないんだな。いや、否定する余裕がなかったという所か。
様子を窺うと、悠里くんは観念したように視線を逸らした。
「き、気になっている子はいます」
意外にも、現在付き合っている相手はいないようだった。少し興味が出て、つい聞いてしまう。
「どんな子?」
「いつも凛としていて、芯が通っているというか。立ち姿がとても美しくて、堂々としている、んです」
「へえ。悠里くんと並んだら、絵になりそうだね」
「そ、そうですか?」
言われて、まんざらでもなく相好を崩す。照れた様子は年相応で微笑ましい。
そんな俺の視線に気づいたのか、悠里くんは恥ずかしさを振り払って前のめりになって来た。
「そ、そういう幸人さんの彼女さんはどんな人なんですか? もっと聞かせてくださいっ」
「……そうだなあ」
改めて聞かれると気恥ずかしい部分はあるのだが。
「可愛い奴、かな。猪突猛進なところがあって、時々とんでもないところをやらかすところが、玉に瑕だけど。そこも含めて一生懸命なところが微笑ましい、かな」
予想通り、恥ずかしさが襲ってきた。近くにきらきらした瞳の悠里くんがいるとなおさらだった。
「こ、これってのろけってやつですよね? いいなあ、同じ職場の人なんですか?」
「……ああ、まあ。そんな感じかな」
「いいですねっ!」
のろけ、とやらを嬉々として聞いている悠里くんだったが。
俺は一気に、鉛でも飲み込んだかのような気分になってしまった。
咄嗟に、同じ職場の人間だ、と取れる返答をしてしまったこともそうだが。
「普通は同年代と付き合うでしょう?」
そう言われてしまったような気がしたからだ。
悠里くんに悪気がないのはわかっている。
けれど、それが普通の感性で、二十三歳が十六歳と付き合っていることは非常識だ、と突き付けられた気がしたのだ。
見ないようにしていたそれに、咄嗟に曖昧な返答でごまかしてしまった。
正直に言えない関係など、維持するべきではないのかもしれない。
そんなことまで考えてしまう。
「……しかし、悠里くんは呑み込みが早いね。好きこそ物の上手なれ、とも言うが、やっぱり向いているのかもしれないね」
だから俺は、それに向き合いたくなくて話をそらしてしまった。
「ゆ、幸人さんの教え方が上手だからだと思います」
「いやいや。性格もあってね。いくら教えても、こいつは――っていうのはやっぱりあるんだよ」
「……経験談ですか?」
「おっと。今のは聞かなかったことにしてくれるとありがたい」
「わかりました、男同士の約束ですねっ!」
悠里くんは俺のあからさまな話題変更にも乗ってくれて、嬉々として秘密の共有を申し出てくれて。
そんな彼とは違って素直に美咲との関係を明かせない今に、俺は言い知れぬもやもやを抱くのだった。
「今日が出向社員の来る日だったっけか」
出勤前、会社のビル前で鉢合わせた亨が、エレベーターに乗り込みながら思い出したように話し出す。
「ああ、そうだな」
「どんな感じなのかねえ。瀬戸ちゃんみたいなのはごめんなんだが」
「おい、本人の前で言うなよ?」
エレベーター内で二人、聞いている者がいないからこその発言だとわかっていても、一言添えずにはいられない。
「言わねえよ。言っても効果なさそうじゃねえか」
「そういう意味じゃないんだが」
パワハラだからだ、という意味は伝わっていそうだが、返答は肩をすくめる無言の動作だった。
デスクに着くと、瀬戸はすでにいたので挨拶を交わした。
が、なにやらそわそわした表情と難しい表情が微妙にブレンドされていて、上の空で返されただけだった。
「美人かむさい大男か、賭けの判定待ちなんだろうよ」
「ああ、なるほど」
割とどうでもいい説明を亨がしてくれた。どっちもない可能性もあるはずだが、瀬戸の中では二択らしかった。
「おはよう。みんないるかな?」
滝原課長が部屋の扉から顔をのぞかせた。
各々返事を返すと、滝原課長は頷いて、部屋の外にいる人物に呼びかけたようだった。
「じゃ、紹介するね。ステラリス・テクノロジー社からの出向社員で、今回のプロジェクトで調整と業務支援をお願いする――佐倉さん」
「はい」
聞き覚えのあるその苗字、そしてその声に一瞬、顔を見合わせる俺と亨。
滝原課長に促されて部屋に入ってくる人物は、やはり俺の見覚えのある人物で。
艶やかな黒く長い髪と白い肌。華奢な立ち姿は、大和撫子を思わせる。
目に留まったのは泣きぼくろと、そこから導かれる瞳。
そこには、かつて俺の心をさらった面立ちがあった。
やや呆然としている間に、彼女は礼儀正しく一礼した。
「初めまして、佐倉千佳と申します」
形作られた笑みが俺たちの間を行きかう。一瞬、俺の顔に止まったのはおそらく、錯覚ではないのだろう。
「うはっ」
小さく、宝くじに当たったような瀬戸の声が響くが、すぐさま亨の肘が脇腹に入って黙らされた。こればかりは咄嗟の処置として仕方がないことだろう、と俺は思う。
いまいち現実感がない俺の思考は、そのやりとりで引き戻された。
千佳が一礼した流れで俺たちも挨拶を返したわけだが、俺も亨も判を押したように「初めまして」となり、瀬戸のテンションの高さを目立たせる結果となってしまった。
「じゃあ佐倉さん。他の部署も案内するから着いて来てもらえるかな?」
「はい、承知いたしました。それでは、皆さん。一旦、失礼いたします」
一礼し、滝原課長に連れられて行く千佳。
十分に離れたのを見計らったのだろうか、しばらくして瀬戸が小さく歓声を上げた。
「やった! 賭けは僕の勝ちですね、藤井先輩!」
「そんな賭けしてねえわ」
「またまた負け惜しみー。正直に認めた方が、傷は小さくて済みますよー?」
「うっせ。つーかお前、初対面相手に変な声あげんじゃねえよ。今度やったら本気の肘入れんぞ」
「それは勘弁してくださいよーっ」
じゃれ合いに近いやり取りをしつつ、仕事にとりかかろうとデスクに向き直る亨と瀬戸。
その際に送られた、亨の目配せに頷く俺。
自分もデスクに戻りながら思う。
千佳のこの会社への出向はきっと偶然だろう。それを必然と思うのは単なる自意識過剰に違いない。
――とは、どうしてもならない。
先ほどの意味ありげな視線、それ以前に、和解した時の「諦めない」という宣言を重ね合わせると。
やはり、俺が目的だろうか。
となってしまう。
途端に背筋に寒気が走る。
家の前で待ち伏せされていた比じゃない。
職場という、生活のベースをこちらに移すという行動力は、美咲に匹敵するものがある。
美咲のそれはまだ可愛いと思えるものだが、千佳のそれは湿度と粘度を感じずにはいられなかった。
――と、警戒していたのだが。
「……特になんもねえな。そっちもか、幸人?」
「ああ」
昼休み、示し合わせたようにトイレに立った後、そのままトイレ内で亨と確認し合う。
そう、千佳は特にアクションを起こさなかった。
滝原課長からの業務の引き継ぎをスムーズに行い、出向元会社とのやりとりも問題なくこなしている。
そして、俺や亨との会話にも何も含むところがないように見える。
俺や亨にも「寺島さん」や「藤井さん」などと呼びかけ、知人であることを感じさせもしない。
構えていたこっちが拍子抜けするくらいで、まるで別人、とまでは言わないのだが。
それに俺は割とほっとしているのだが、亨は疑心を強くしているようだった。
「偶然なわけねえよな」
「ここに来たことだよな。正直、わからなくなってきた」
本当に、それが正直なところであった。
俺の感想に亨は考え込み、肯定も否定も返さない。
結局、その時はなんの結論も出ないままだった。
そうして、午後もそうであり、佐倉千佳の歓迎会においてもそうであった。
歓迎会では、滝原課長は千佳の手際を誉めそやし。
瀬戸は仲良くなろうとしてか、やけに千佳のそばに寄ろうとし、滝原課長にやんわり宥められていた。
俺と亨は千佳への態度を決めかね、どこかぎこちない振る舞いを滝原課長に訝しげにされる有様だった。
そうして、一部において和やかではない歓迎会は無事に終了して、の帰り際。
乗る電車の関係で、俺と亨と千佳、滝原課長と瀬戸の組み合わせで別れることになった。
程よく酔っても穏やかな滝原課長と、歯軋りでもしそうな瀬戸を見送り、ため息を一つついた俺。
「……ごめんね、幸人、藤井くん」
さてどうしようか、と迷った一瞬を突いたかのような、千佳の謝罪。その表情は、少し困ったようだった。
「仕組んだってことか?」
やぶ睨みな視線で問い質すような口調の亨。よほど溜め込んでいたのか、敬語での取り繕いもない。
「違う、って言ったら信じてくれる?」
「そんなわけねえだろ」
と、亨はにべもなく、対して俺は答えあぐねた。
ふふ、と千佳は笑みを零す。
「前に、やらかして針の筵だって言ったよね。それで、ほとぼりが冷めるまでの間の出向なんだ」
「今更?」
単に疑問に思って、素直に声に出した俺に千佳は微苦笑を投げかけてくる。
「冷める気配がないのが問題視されちゃってね」
なるほど、とつい頷きそうになる。
千佳は美人だ。異動した先でも目を引くだろう。
そうなれば、噂が下火になるのに時間もかかる。それを懸念した上役が、いっそのこと、と社外に置いた。
その理由は、一見筋が通ったもののようにも思う。
「でも、理由はどうだっていいの」
千佳は、小首を傾げて、俺を覗き込んでくるようにする。その様に、なぜか俺の背筋は震え、亨は視線を険しくした。
「また、幸人と恋を始められそうな環境に身を置けて嬉しい。それがわたしにとっての全て」
「ざけんな」
「藤井くんに関係ある? わたしと幸人の話しだよね、これ」
「かも知れないが」
一歩踏み出そうとした亨を抑えた。そばに熱くなる人間がいると、逆に冷静になるというのは本当なのだな、と思いつつ。
「悪いが、思うことは割と亨と同じだな。それに、前にも言った。一途なあいつを裏切る気はない、ってな」
「そうだね」
それでも、千佳の笑みが崩れることはなかった。
「同じだよ。わたしも、わたしの想いを裏切りたくないの。それに、わたしは美咲ちゃんから幸人を奪うつもりなんてないよ?」
「……どういうことだ?」
俺の疑問に、千佳は笑みを深くした。
「幸人はただ、自然でいてくれたらいい。わたしが望むのは、ただそれだけ」
その言葉選びに俺は、ぎくり、とした。
「それじゃ、改めて明日からお願いね。――あ、送ってくれなくて大丈夫だから」
「おいっ」
強い語気で呼び止める亨だったが。
千佳は気にせずその声を振り切って、静かに歩き去る。
その後姿に何もできず、俺はただ見送った。俺がそうしたからなのか、亨もそれ以上は何もしなかった。
どくどく、と心臓が蠢く。焦燥に追い立てられているかのようだった。
「おい、大丈夫か幸人」
「……ああ」
とは答えたものの、平静ではいられなかった。
千佳の言った「自然で」という言葉が脳裏に反響する。
「同じ環境で育む恋が、普通で、自然でしょう?」
そう、言われてしまった気がした。




