鳳雛たち
いい天気の日曜の午後。
俺、寺島幸人は昨日に引き続いて、数駅先に足を延ばしていた。
服を買ったショッピングモールを横目に向かったのは、このあたりでも有数の、十階建てほどあろうかという総合書店である。
モール内を冷かしがてら歩いていた時に窓から見えたここは、以前にも何度か来たことがある。
最近行ってないな、と思いはしたものの、その時にはすでに遅い時間帯だったので今日に回したのだった。
ちなみに今日は一人である。
美咲は八重垣さんと用事があるらしく、亨もこれまた同じく別件があるとのことだった。
実際にはそうではないはずだが、一人を久しく思う。寂しくもあり、また身軽さも感じて、少々複雑な感じだ。
書店のドアをくぐる際、ガラスに自分の姿――服装が映り込む。
ショルダーバッグ付きのその姿がおかしくない事を確認し、意識して胸を張って歩を進める。
目的階は決まっていて、コンピューター技術書関連が多く集まる場所である。そこにたどり着き、奥へと歩いていく。
書籍独特の匂いで満たされたその階は、ジャンルのためか人はまばらで、俺が行く先も一人くらいしか客はいなかった。
たまたま目的の書籍がそのあたりだったので、邪魔にならないように本棚を窺う。
と、その一人の客は本棚の上の方に手を伸ばしたが、どうやら届かないようだった。
目的と思しき本に手を伸ばして抜き取ると、本を手渡した。
「これかな?」
「あ、ありがとうございます」
本を受け取った人物と目が合う。さわやかな服装に身を包んだ高校生くらいの好青年で、戸惑ったようにこちらを見上げてくる。
「あ、いや」
ここに来て、俺は自分がしてしまったことを振り返って驚いていた。
以前の俺はこんなに積極的でも社交的でもなく、こんな場面に遭遇したら、見て見ぬふりをしていたはずだ。
それが何のためらいもなく、こんなことをしてしまったとは、何かが乗り移ってしまったのかと思ったほどだった。
「申し訳ない。余計なお世話だったかな?」
相手が青年なので、背の高さについてプライドを傷つけてしまったかもしれない。
それこそ余計な気を回してしまった俺だったが、相手は気を悪くした風もなく、笑みを返してくれた。
「いいえ、助かりました。ありがとうございます」
きっちり頭を下げて、再度感謝を示してくれた。どうやら受けた印象は間違いではなく、好青年のようだった。
「どういたしまして」
そう交わして、俺は本棚へ。青年は、その場で受け取った本に目を通していくようだった。
しゃがみ込んで、目的のタイトルを見つけて開く。
最近、業務で少々難しいところがあって、知識の補充が必要だったのだ。
昨今は電子書籍と言うものもあるが、どうも俺は古いタイプなのか、紙から情報を得る方が腑に落ちる傾向にある。
内容が納得いくものであることを確認すると、俺は頷いて本を閉じ、立ち上がった。
顔を上げると、先ほどの好青年と目が合った。咄嗟に逸らされてしまったが、彼の持つ本のタイトルが目に入る。
俺が手にしている本の初学者版、と言う位置づけの本だった。
「プログラミングが好きなのかい?」
そう、俺と彼の本は、その系統の技術書だったのだ。
彼の顔が、きょとんとしたものに変わる。
またもや、意図せず質問を繰り出してしまっていた自分自身に驚きつつ。
――いや、近くの本棚なんだからジャンルが似通っているのは当たり前じゃないか。
などと内心で弁解しているうちに、またも余計な言葉が飛び出す。
「さっきからなんだか怪しい人だな。決してそうではないのだが」
困ったように頭をかくと、彼はむしろ安心したように目を細めた。
「いえ、こちらこそすみません。じろじろみてしまっていたようで」
「いや、気にしてない。これが気になっていたのかな?」
図らずも謝りあうことになってしまった俺たちだが、それはほどほどにして自分の手元を示してみる。
彼は頷くと、同じようにタイトルを見せてくる。
「はい。上級者の方だ、って思ったら気になってしまって」
「ああ、これでも一応プロなので。でも、まだ学ぶべきところは多いかな」
「おおー……!」
少し気取って言うと、彼は目を輝かせた。しまった、返って恥ずかしい。慣れないことはするものじゃないな、と思っていると彼は身を乗り出して来た。
「ゲームを作ったことはありますか?」
「あるよ」
「本当ですかっ!」
彼の瞳が熱を持つ。高揚が顔色にも表れ、衝動を本を抱きしめることで食い止めているかのようだった。
が、次の瞬間、そんな自分に気づいたのか慌ててしまった。
「す、すみません。興奮してしまいました」
「いや、わかるよ。俺も似たようなものだった」
その部署に配属されたときは、夢が叶ったと有頂天になったものだった。
「ただ、タイミング悪くその時は新人としてデスマーチ……過酷な現場に放り込まれてね。右も左もわからず足手まといになって、ちょっと心を病んで部署移動。苦い思い出だ」
「な、生々しいですね」
「そうだね。実力をつけて、また再挑戦できたらいいな、とは思うかな」
「おおー……」
またもや目を輝かせる彼。この純朴さが、俺の話を引き出しているかのようだった。
「ゲームが好きなのかな?」
「はいっ」
「なるほど、転じてゲームを作りたい、ってことなんだね」
「わ、わかりますか?」
「わかるとも。俺もゲームは好きだからね」
「や、やったぁ」
何を喜んだのかわからないが、彼としては同好の士に巡り合ったような感じなのだろうか。
「す、すみません、プログラマーのお仕事について、もっとお話をお聞かせ願えませんでしょうか?」
少々丁寧が過ぎるが、その分情熱も伝わってくる。
こんな時、いつもの俺なら遠慮するか、逃げるかしそうなものではあるが。
「いいけど、幻滅するかもしれないよ?」
「か、構いません。頑張りますっ」
何を頑張るのかは不明ではあるが、彼の目にはかつての俺のような眩しさがあった。
それに俺は抗えず、頷きを返した。
「じゃあ、頑張ってもらおうかな。俺は寺島幸人。幸人でいいよ」
「あ、はい。僕、田坂悠里と言います。悠里と呼んでください、幸人さん」
二人とも本を購入し、同じ建物内の喫茶店へ移動する。
そこに移動する間も悠里くんは興味津々に俺の話を聞いてくれて、まるで小型犬のようだった。決して本人には言えない印象だが。
あいにくテーブル席は満席だったのでカウンター席で横に並び合う。
席が近いせいもあって、彼の熱量が伝わらんばかりであった。
「ゲーム制作と言っても、関われるところは限定的なんですね」
しかし熱量ばかりではなく、理解も早く表現も的確であった。
「そうだね。スケールの大きいものになると、分業が普通で全貌なんてまるで見えない。この機能は何のために作っているんだろう? と思うばかりだ」
「なるほどー……」
納得しながらも、やはり自分の考えていた現場とは違うと認識できたよう。それでも、熱い吐息は変わらない。
「もしもレベルデザイン……難易度設定や脚本、キャラデザに携わりたいなら、それはプログラマーではなくディレクターやデザイナーの領分になるかな。俺も昔はそのあたりを混同していて、現場に入って愕然としたものだよ」
カラン、とグラスの氷がバランスを崩す。
悠里くんは難しい顔で悩み始めてしまった。
俺は急かすことなく、しかし、「やっぱりなあ」と言う諦観――あるいは期待を込めて待った。
「……でも、楽しそうです」
やがて、俺を見て出した結論はそれだった。
「そう思ったか」
「だって、実際楽しそうじゃないですか、幸人さん」
その言葉に、俺は虚を突かれた。悠里くんは当然のように続ける。
「さっきから、嬉しそうにプログラマーのお仕事の事、教えてくれてますよ?」
「……そんな顔をしていたかい?」
「それはもう」
悠里くんの大人びた笑みがその証拠なのだろう。
まるで自覚はなかったのだが、そうだったか。
「……自負があるのは、確かかな」
「か、かっこいいです」
「よしてくれ、調子に乗る」
「乗っていいと思いますっ」
なんだか嬉しそうに悠里くんは言う。しかしいい大人の俺がそれに甘えるわけにもいかずに、咳払いした。
「悠里くんも、やってて楽しいかい?」
「楽しいです。自分の思った通りの動作ができた時とか、たまらないです」
同じく、と俺は頷く。しかし悠里くんは、しゅん、と気を落としたようだった。そう、耳を畳んだ子犬のように。
「うまくいかないことも多いんですが。それで、本を買いに来たんです」
「身近に教えてくれる人はいないの?」
楽しさばかりで顔を彩っていた悠里くんの表情が、この時初めて灰色に染まった。
その急落に、俺は腫れ物に触れてしまった事に気づく。
「悪い。踏み込み過ぎたようだ」
「あっ、いえ、そんな」
むしろ俺に気を遣ってくれるその様が、返って痛々しい。
どうする、と悩む事一瞬。
――ええい、どうせなら。
俺はある人の姿勢を思い出して、踏み込むことにした。
「どうせ行きずりの相手だ。旅のプログラマーだと思って、コードを書き散らすといいよ」
しかしあまり上手くもない言い回しにしかならなかった。
思わず恥ずかしくなり、目をそらしてしまう。さてどうなった、と思っていると、小さく吹き出す音が聞こえてきた。
「では、お言葉に甘えます」
それでも礼儀正しく、俺を大人として尊重してくれる悠里くんの方こそ、大変に大人だった。
「家の方針で、あまりそういうのに触らせてもらえないというか、近づけてもらえないんです。なので身近に教えてくれる人はいません」
ため息をつく悠里くん。しかしそこには先ほどのような熱量ではなく、鬱憤が込められているようだった。
「方針、ときたか」
「はい。古い血筋の家でして、ちょっとなんというか。レールが整備されがちと言いますか。……瑞鳳館なんですよ、僕」
最後、声を潜めた名詞に聞き覚えがあった。
瑞鳳館高等学校。
元はお嬢様学校で、少子化に伴い近くの男子校と統合された、有数の進学校。
そして、美咲が通っている高校でもある。
しかし、だからこそ納得したところがあった。
「それで悠里くんは、礼儀正しく知的なんだな」
頷きと共に感心して悠里くんを見ると、ぽかん、としていた。
「どうした?」
「あ、いえ、その。そんな反応をされたのは初めてで」
「そうなのか。大体どんな反応をされるんだ?」
「『金持ってるなー』……ですかね」
視線を遠くして苦笑いの悠里くん。俺は思わず、その肩を慰める様に、ぽんぽん、と叩いてしまった。
はっ、と意識を取り戻したかのように、表情を取り繕う悠里くん。
「ですから、幸人さんのような反応は新鮮で。ありがとうございます」
「いやいや」
よほどうんざりしていたのか、それは過剰な謝意であった。
「そう言う事もあって、将来を定められているところがあって、近くの人は選別されているんです」
「そんな世界があるんだね」
言いつつ、それは俺にとっては実感を伴ったものである。
もちろんすべてを聞いたわけではないが、悠里くんの立場は美咲に近そうだった。
美咲は末っ子と聞いているが悠里くんの、選別されている、との言い方は長男を思わせ、その重さに差はありそうではあるが。
俺の知らない世界の住人、と言う点では同じだった。
同じ高校、という事であれば何らかの接点があってもおかしくはない。
同じ世界、近い年に加え、おそらく価値観も近い。
ならば。
俺よりよほど、お似合いなんじゃないのか――。
「幸人さん?」
「あ、ああ」
声をかけられ、俺は自分の世界から引き戻された。
不思議そうな、心配そうな視線が覗き込んでくる。
俺は慌てて言い繕った。
「けれど、世界を繋げることはできるんじゃないかな」
「……繋げる、ですか?」
「例えば社長をやりながら、ゲーム会社を立ち上げるとか」
しまった、と思った時には遅かった。
悠里くんから表情が消えてしまったのだ。そして俯き、どこか目が虚ろになる。
「悪い、軽々しかった」
しばらく反応はなかった。
焦りが迫り上がって来るのを自覚する中、悠里くんがぽつりと呟く。
「……そんな手が」
虚ろだった目に光が灯っていき、拳が握られる。
「幸人さん」
それが俺の方向へと向く。
「引き抜いていいですか?」
「はあ?」
思わず素っ頓狂な声を発してしまった俺に、悠里くんは我に返ったようで恥ずかしそうにする。
「し、失礼しました、いきなり。幸人さんの言に感銘を受けまして」
「感銘って」
そんな言いようをされては俺の方こそ恥ずかしくなってしまう。
なにせ適当な思いつきだったのだ、それを重く受け取られても、むしろ抵抗感がある。
「いや、落ち着いてくれ。検討もなしに飛びつくのは危険だ」
「そ、そうですね。まずは十分なお給料を払えるかの検討から始めないと」
「そうではなく」
思わず苦笑が零れる。
「悠里くんは意外と情熱的なんだな? 落ち着いたタイプかと思っていたよ」
「お、落ち着きます」
目の前のリンゴジュースでクールダウンするようだった。
俺もアイスコーヒーを味わう。
そうして腰を落ち着けた悠里くん。それを見計らって俺は切り出した。
「悠里くんの家庭事情をそこまで詳しく聞いてもいない旅のプログラマーの無責任な意見なので、話し半分どころか聞き流す程度にしておいてもらいたい、というのが正直なところだ」
「わかりました。貴重なご意見をありがとうございます」
その真摯な姿勢は、保険をばらまいた玉虫色の大人には眩しすぎるよ。
そうも言えない俺の前で、悠里くんは霧が晴れたような表情で頷いた。
「でも、蒙を啓かれた気分です。そんな考え方もあるんですね」
「また難しい言葉を知っているね。悠里くんは文系かい? だとしたら、プログラマー向きかもね」
「ほ、本当ですか? むしろそれは理系だと思っていましたが」
とても嬉しそうな悠里くん。またも失礼ながら、尻尾がぶんぶんと振られているかのようだ。
「個人的意見だけどね。プログラムイコールロジックを考えることは、文章を編むのに似ていると思っているよ、俺は」
「文章を編む。素敵な言い回しですね」
「ちょっとキザっぽかったな。まあ、個人的意見だ。気にしないで」
「いえ、大いに気にさせていただきますっ」
勢い込む悠里くんだった。
その後も色々な話をして、連絡先を交換して別れた。
何やらプログラミングを教えることまで取り付けられてしまい、若き手腕に脱帽するばかりであった。
彼と別れた道を背に歩きながら、つらつら思う。
終始、尊敬の念を向けられてしまい気恥ずかしい時間ではあったのだが、俺自身得るものも大きかった。
その一つが服装であった。
ただ一人きりでの外出だったが、手を抜かず、誰に会っても恥ずかしくない格好を心がけた。
自ずと姿勢も良くなり、それが心境にも現れ、見知らぬ人に声をかける原動力に繋がったのではないか。
本を取れずに困っていた彼を捨て置いて、果たして次に堂々と美咲に会えたかどうか。そんな事すら考えてしまう。
きっと美咲はあの行動力で、困っている人を見捨てることなんてないんだろうな。
そう思うと、やはりあの行動は正解だった、と誇らしく思うと共に、新たに紡がれた縁を嬉しく思う。
その縁が、過去の俺をも手繰り寄せる。
「夢か」
かつて俺にもあり、一度は実現させたかと思ったそこから追い落とされ、現在地に定着し。
そこは充実した場ではあるし、特に不満もない。
しかし、彼も見せたほどの熱量がそこにあるか、と聞かれたらどうだろうか。
美咲はモデルとして輝かしい一歩を踏み出している。
それは夢――将来へ向かっての確かな軌跡だ。
俺は以前、やりたいことがない、と言う美咲の将来を、一緒に考えさせてくれ、と言ったことを思い出す。
今の俺が、そんな美咲に並んで一緒に考えるなど、どんな顔で言えるのか。
天気はよく日差しが眩しいというのに、俺の心には影が落ちる。
自問する俺を、ショルダーバッグ内のスマホが揺らした。
木陰によって立ち止まり取り出すと、なんと思い返していた美咲からだった。
なんとなく、怒られそうな心境のまま電話に出る。
「もしもし?」
『いやあんっ!?』
耳元から艶っぽい悲鳴があふれ出す。俺は思わずスマホから距離を置き、ジト目を投げかけた。
『ご、ごめんなさい。スピーカーにし忘れてたわ』
「もういいか?」
『切らないで!?』
「そうじゃなくて、もうスピーカーに切り替えたかと聞いているんだが?」
『そ、そう言う事ね。もう大丈夫よ!』
何の話かと言うと、俺に耳元で囁かれるとダメ、らしい。それはスマホの受話の方が威力が増すらしく、それを忘れて耳にあててしまっていた、という事だろう。
そんな美咲のありように、先ほどの落ち込んだ気分は、それこそ影も形もなく追い払われて、俺に笑みをもたらした。
「で、どうした?」
『あ、幸人さん、外? 話せる?』
「ああ、大丈夫だ」
俺は美咲の声を引き連れて歩き出す。
『次の土曜日! 空いてる?』
「ああ、空いてるよ。デートするか?」
『はあああん……っ!』
なにやら倒れこむような音。
『気絶しちゃった? なら、うちが話し進めちゃうねー』
『駄目に決まってんでしょ!?』
向こうには八重垣さんもいるようだ。その相変わらずの仲の良さに、俺の足取りも軽くなる。
『する、デート! 遊園地がいい!』
「いいぞ。思いっきり遊ぶか」
オーソドックスな行先でむしろ意外だったが、合っているような気もする。不思議な気持ちだ。
『うん! 貸切るから遊び放題よ!』
「やめろアホ」
美咲の抗議が届く。
それを打ち返しながら見上げる空は、高く眩しい。
まあ、色々と難しいこともあるのだろうが。
――せめて、瑞々しい鳳雛たちに失望されないようにはするか。
俺はそう思うのだった。




