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場外:対応記録

 仕事終わりの八重垣瑠璃子からの呼び出し。それは珍しいことではなかった。

「……ここで合ってんのか?」

 亨がスマホに目を落とすと、無機質な住所と一文。

「来られたし」

 そう記された場所に来たが、そこは昼間にもかかわらず妙に薄暗い裏通りだった。

 バーだろうか、かろうじて読み取れる擦れた看板がひしめく雑居ビルが点在し、ごみが散乱しているわけでもないにもかかわらず不衛生な印象だった。

 亨は、親友の家から二つほど区画を外れるだけで、ここまで様相が変わるとは思っていなかった。

 そんなところへの呼び出し。

 押し寄せてくる不穏な雰囲気に、思わず躊躇する。

 しかも目的地はまだここではなく、さらに奥。それは、危険度も高まるであろうことが容易に予測できた。

 本能に従って引き返そうとして――それを、脳内の瑠璃子の笑顔が引き止める。

 屈託のない、裏表もないその笑顔の奥にどれだけの物が潜んでいるか、想像もできない。

 ――が、今のこの危険度よりもよほど高いリスクを感じ取れてしまった。

 亨は舌打ちして、スマホをしまった。

 ここから先は角を曲がるだけなので、もうスマホに頼らなくていいのだ。

 そうして進み、角を曲がると見えたのは。

「っ!?」

 飛んでくる大柄な人間の後ろ姿。

 反射的な動きで、それは回避できた。

 投げ出されたのは、どこかの定食屋の従業員なのか、エプロンをした男の姿。気を失っているようで、受け身を取った様子もなくマネキンのように力が入っていない。

 それを認めたのは一瞬で、亨はすぐさま飛んできた方に目をやった。

「何やってんだ!?」

 そこには、亨も見知った瑠璃子の姿。

 しかしそうやって亨が声をあげたのは、瑠璃子が別の男の手首をつかみ掻い潜りながら、身を沈めての肘打ちを食らわしていたからだ。

「掃除っすー」

 がくり、と力が抜けた相手には構わず、瑠璃子は身を翻し――壁を駆け上がり、その相手の向こう側へと走りこんだ。

「……は?」

 呆気にとられた亨の視界で、瑠璃子の蹴りが別の相手を強襲する。

「くそっ!」

 蹴られた男は諦めたのか悪態をついて逃げ出した。――亨の方に。

「ダーリン、なんとかしてー」

「はあっ!?」

「どけっ!」

 のんきな要望、驚き、粗暴な声が交錯する。

 瑠璃子が取り逃がした相手は大柄な男で、ナイフなどは持っていそうにないが、その突進でなんでも吹き飛ばしそうだった。それこそ、亨自身も。

 亨が咄嗟に選択したのは、思い切り深く身を沈め、タイミングよく、これまた思い切り力を込めて立ち上がることだった。

 それは男の腹部への頭突きとなり、痛撃を与えて、身体を浮かび上がらせ回転させ、地面へと叩きつけた。

「いってえ……!」

 もちろん亨も無事ではない。

 身構えもなしの状態から頭頂部と首を衝撃が襲い、目がちかちかする。

 しかしそれでも、自分が引き起こした事態を見下ろした。

 亨が突き上げた男は、どの衝撃が原因なのかはわからないが目を回していた。

 一息つく間もなく、後ろから交通事故のような衝撃音が響いてくる。

 なんだ、と思いながら亨が振り返ると、肩で体当たりをしたような姿勢の瑠璃子があった。

 瑠璃子の足元には、これもまた気絶した人物。

 その瑠璃子は隙なくあたりを見渡し、脅威がもうないことを確認すると、人差し指を立てて、そこにふっと息を吹きかけた。

「状況クリアっすっ」

 亨に投げかけられたのは、微笑みとウインク。

 それと、足元の累々と転がる者たちとの落差に、亨は現実味がまるでない。

「……ああ、お疲れさん」

 亨にできたのは、とりあえずは社会人のマナーを掘り起こす事だった。

 足元に気を付けながら近づいてきた瑠璃子が手を上げると、反射的に亨もそれに倣う。

 両者の手の間で軽快な音が鳴らされた。

「ダーリンも」

 そのハイタッチで、ようやく亨は我に返った。

「いや、なんなんだ、この状況は?」

「んー、掃除?」

「……なんで疑問系なんだ」

「あー、ちょっと待ってね?」

 瑠璃子は横を向くと、ピアスを何やら操作した。そうして、どこかここにいない人物に向けて話し出した。

「どーも瑠璃子っす。場所、把握済みっすよね? はい、そこっす。いやいや大丈夫っす。はい、はい、はい。そんじゃ、片付けよろしくっす」

 そうして、おそらく通話していたのだろう、それは終わった。

「行くっすよー」

「お、おい」

 瑠璃子は亨が来た方向へと歩き出した。止める間もなくで、仕方なく亨も転がる人体に足を取られないよう気を付けて瑠璃子に付いて行く。

 いくらも歩かないうちに、亨が侵入を躊躇した通りへと出た。

 亨が後ろを振り返ると、先ほどの騒動の場所はもう見えなかった。

 瑠璃子は立ち止まって亨に向き直ると、歯を見せて、にーっ、と笑った。

「把握した?」

「できるわけねえだろ――と言いたいところだが」

 亨もライトノベル、アニメ、漫画といった文化には詳しい。だから現実味がないこの事態も、すんなり自分の理解に落とし込むことができた。

「詳しくは聞かねえが、言った通り『掃除』ってことか」

 瑠璃子は何も発しない。ただ「よくできました」と言わんばかりに目を細めているだけだ。

 亨はこれまでの長くない時間を振り返る。それは主に瑠璃子の身のこなしについてだった。

 目で追えないほどの瞬発力、一撃の威力、相手の意表をつくために壁を駆けるほどの身体能力。そのどれも敵う気がしない。

 なのにそれが必要な場面に自分を導いた。

「……わざとだな?」

「なんのことっすかねー」

 彼女と亨の親友が付き合い続ける限り、裏でこういった事態に遭遇することはおそらく避けられないだろう。

 そのような事態に突発的に遭遇した場合、訳がわからず対応の遅れにつながりかねない。

 ならばあらかじめ経験させておけばいい――ついでに、対応能力も確認しておこう。

 だからわざと、うち漏らしをけしかけた。

「とぼけやがって」

 苦々しい亨に対して、瑠璃子は嬉しそうだ。

「ダーリン、ほんと頭いいね? これでケチじゃなかったら、もっとよかったんだけどなー」

「ぬかせ」

 視線を逸らし、亨はため息に気苦労を乗せた。

「こんなの聞いてねえぞ」

 思わず不満を漏らすと、がくん、と視界が落ちた。

 首が締まっている。

 瑠璃子がネクタイごと胸倉をつかんで、引き落としたのだ。

 亨にはそうなるまで、瑠璃子の動作を一切認識できなかった。

「降ろさせねえっすよ?」

 すぐ近くには瑠璃子の赤いカラーコンタクトレンズが光っていて、亨を覗き込んでいる。

 明確な攻撃色に、亨の足がすくむ。

 実力の違い、踏んだ場数の違い、そして経験の違いを認識させられ、気圧される。

 ――が、むしろ亨は、だからどうした、と自分も顔を近づけた。

「誰がそんなこと言った。あんまり大人を舐めてんじゃねえぞ、ガキが」

 それは意外な反応だったろうか。

 瑠璃子は僅かに顔を引くと、目を細めた。

「……ふうん」

 そして面白そうな笑みに切り替わると、瑠璃子は急接近した。

 亨の唇をついばんだかと思うと、吐息とともに重ね合わせる。わずかの次に、貪るために舌を伸ばす。

 胸倉をつかまれたままの亨は、特にこちら側からは何もせず、仕方なしとばかりに身をゆだねていた。

 ようやく満足したのか、一瞬の銀の橋とともに、瑠璃子はそれを終えた。

「まあ、頑張ってもらおうかな……それなりのリターンも、あるんで」

 目を細めた微笑みにどのような意図があるのか、はたまた言葉通りなだけなのか、亨には真意は掴めなかった。

 ただ、瑠璃子が胸元を整えてくれるのを、眉をあげて確認するだけだ。

 なんにせよ、ぽん、と瑠璃子が軽く胸元を押したことにより、亨はようやく中腰の姿勢から解放された。

「まずはファーストキス。法外なご褒美に泣いて喜ぶといいっす」

「そりゃどうも」

「テンション低ぅっ!?」

 今度こそ意外な反応が返ってきて、瑠璃子は心外とばかりに嘆いた。

 それに対し、亨は整え切れていない胸元――特に、ネクタイのディンプルが行方不明になったことに大層な不満顔だった。

「必死で結んだネクタイをこんなにされたら、誰だってそうなるわ」

「いやあ……誰だっては違うんじゃないかなあ……」

「そいつはハニーが男を知らないだけだな」

 亨はネクタイの修復を諦めざるを得なかった。その不満がなげやりな言葉として飛び出したわけだが、そうなると瑠璃子も面白くはないわけで。

「そう言うダーリンもデリカシーを知らないんじゃないっすかねえ?」

「そう言う事にしといてやるよ」

 逆なでようとした発言は、あっさりといなされた。瑠璃子は目を細めて口を尖らせるしかない。

「用事は終わったな? じゃあ帰るわ」

「あー……はいっす」

「そんじゃな」

 想定外の敗北感を植え付けられて、瑠璃子はその後姿を見送らざるを得なかった。

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