幕引きと幕開け
雨がざあざあと降り注ぐ。
まだ午後三時だというのに暗く、差した傘が雨を弾く音がうるさい。
今頃、美咲とそのお姉さん、凜花さんはこれに負けないくらい、はしゃいで話しているだろうか。
いや、凜花さんは物静かな風だから、騒がしいのは美咲だけか。
思い出し、頬が緩む。
それにしても、さっきはやばかった。
堰を切ったような告白に続こうとした別離の言葉。
自分に言い聞かせるような、まるで遺言のようなそれ。
もう力任せに止めるしか思いつかず、キスをした。
俺らしくもなく、客が少なかったとはいえファミレスなんて公の場で、大胆なことをしたもんだ。
しかもきっと凜花さんもそれを見ていたはずだし。まあ、何も言われなかったし、許してくれてそうではあったが。
仲のいい姉妹だろうからもっと話をしてもらおうと言って出てきたが、立ち去り際に余計なことも言ってしまった。
冷静ではない故の戦略的撤退。
凜花さんの言葉を借りたそれは全くの嘘でもなく、俺は頭を冷やす時間が必要だったのだ。
美咲に別れを告げられる瞬間、辛そうな言葉を止めたいと思ったのは確かだが、それ以上にその先を聞きたくなかったのだ。
そうだ、俺はあの時怒ったんだ。
何を勝手なことを。
俺の気持ちはどうなる。
ふざけるなよ。
そう怒鳴りつけないようにするのに、とんでもない労力が必要だった。
そのせいでぎこちなさが出て、いつもならしないような言い回しで場をおさめたわけだが。
けどそれ以上に、キスの後のあいつの表情に、見惚れてしまった。
今まで見ないようにしていたあいつの魅力に気づいてしまった。
――欲しい、と。
とうとう、自覚してしまったのだ。
このままあいつを見ていたらどうなるか分からない。
だから、凜花さんの再訪を渡りに船とばかりに、背中を向けたのだ。
ただ、関係性を進めた癖に、それでいいのか、という想いも拭えない。
いずれ同棲、という未来もあるだろう。
そこでの苦い思い出がぶり返す。
前の彼女、佐倉千佳。
彼女へだって、今のこの想いに勝るとも劣らない熱量があったはずだ。
今ではもう、それは幻とばかりに現実感の薄い過去となっていて、果たしてどんな思いだったのか。
この想いがそうならないと、なぜ言えるのか。
また同じことになってしまうのではないか。
「我ながら優柔不断……いや、ネガティブと言うべきか」
気づけば、自分のアパートが見えて来ていた。
もしかしたらスマホを忘れたことに気づいた美咲が、戻ってくる可能性もあったので亨にはまだ家にいてもらっている。
美咲に無事会えたことは先ほど連絡した。安堵の返事と共に呆れも返って来たのが印象的だったが。
ふと、こちらに背を向けて佇む女性の姿に気が付いた。
俺のアパートを見上げて、所在なさげなその後ろ姿に、俺は見覚えがあった。
「……まさか、千佳か?」
「……えっ」
半ば呆然とした俺のささやきは、雨の間を抜けて到達してしまったようだった。
ぎょっとした表情で振り返ったその女性――佐倉千佳は俺を認めた瞬間、慌てて身を翻し――。
「きゃあっ!」
盛大に足を滑らせて、水たまりへと腰を打ち付けたのだった。
「……お人好しにもほどがあんだろが、幸人」
「しょうがねえだろ。そのまま帰れなんて言えるかよ」
お叱りの亨に、同意の表情と諦観の言葉で返すと、さらに返って来たのは肩をすくめる動作だった。
泥と雨水に服を汚した千佳は現在、シャワールームである。
この家は1Kの間取りには珍しくユニットバスに続く洗面所があり、そこは扉で隔てられていて奥から洗濯機の動作音が響いてくる。
ドライヤーの位置も伝えてあるし、特に不自由はないはずだ。
「にしても、俺、竜禅寺のお嬢さん、そんで千佳さんか。千客万来だねえ」
「瀬戸のトラブルもあったけどな」
「ああ、あれな。で、お嬢さんとはどうだった?」
「改めて話はしないといけないだろうけど、関係は継続だ。なんで結婚を急ぐのか理由も多少話してくれた」
「仲直り、ってことか。それは良かった……のか?」
「良かったんだろうよ」
少なくとも、別れ話に二人とも同意はしていないのだから良かったと言っていいだろう。
亨はあまり俺と美咲の関係継続に納得はしていないようだったが、それ以上は何も言う気はないようだった。
「美咲のお姉さんがいてくれたのも大きかったのかもしれないけどな」
「お姉さん公認になったってことかよ?」
そして俺は少し美咲のお姉さん、凜花さんのことについて話した。
とは言っても会話自体は少なかったので、あまり話すこともなかったのだが。
「で、美人だったか?」
「そうだな。そこはさすが、美咲のお姉さんという所か」
「羨ましい話だこって。せいぜい刺されないように気をつけろよ」
「それはお前の話だろ」
「俺は後腐れないようにしてらあ」
ドライヤーの音が聞こえ始めたので、もうシャワーを終えて出てきたのだろう。
後腐れ、と聞いて自然に俺の意識はそちらへと向かう。
同じことを思ったのだろう、亨は視線を向けていた。
「俺、いた方がいいよな?」
「そうだな。そうしてくれると助かる」
「今度はハンバーグでも食べさせてくれよ?」
「ああ、頑張ってみるよ」
ドライヤーの音が途絶え、しばらくして洗面所の扉が開いた。
「あ、ありがとう、シャワーと着替え」
「……どういたしまして」
俺のスウェットに身を包んだ千佳の表情は紅潮していた。それが温まったからなのか、恥ずかしさからなのかは俺には分からない。
亨はため息をつくと立ち上がった。
「お茶でも淹れるわ」
「悪いな」
「あ、ありがとう、藤井くん」
俺はもうそうでもないが、千佳の俺への所業にまだ亨は腹を立てているところがある。
それでも茶を淹れようとしているのは、さすがにまだ洗濯も終わっていないから、ということだろう。
もっとも、亨にとってあまり見ていたい顔でもない、というところが大きいだろうが。
千佳は立ったままちらちらと、伏し目がちに俺を見やる。
「あ、あの、幸人」
俺は答えず、千佳を見返した。跳ね返されて驚いたように、千佳が俯く。
「……お母様に、お線香、あげさせてもらってもいいかな……?」
「……ああ」
思いがけない申し入れに、声が上ずる。
それでも俺は立ち上がると、部屋の片隅の小さな仏壇を開いてろうそくに火を灯した。
俺が場所を空けると、千佳が代わりにその場所へ。
お鈴の音、漂う煙、しばしの祈りが部屋を満たす。
「ありがとう」
「ううん」
感謝とそれへの返答。
半ば事務的に感じるそれを終え、俺はろうそくなどの後始末をした。
俺が腰を下ろすと同じに、千佳は所在なさげに、俺とは微妙に距離を取った位置に腰を下ろした。
そうこうしているうちに亨がお茶を淹れ終わり、三つの湯飲みが並ぶ。
少し前にも同じ光景があったというのに、空気は大分違う。
それを決定的にしたのは亨であった。
「で、どうやって幸人の家を知ったんで?」
悪事を見とがめられたかのように背を伸ばした千佳。
やはりとは思ったが、偶然ではなかったようだった。
思わず、という感じで俺に助けを求めるような視線が向けられたが、それは俺も気になるところである。静かに見返すしかなかった。
そんな俺に観念したのだろう、千佳は俯いた。
「……あ、後をつけたの」
俺は呆れたが、亨は冷たいまなざしだった。口調もそのままに、亨は追撃する。
「バーでの一件の後にってことっすか? 諦められない、とは言ってましたが、まさかストーカーまでするとは」
「ス、ストーカーとかじゃなくて」
勘違いされてはたまらない、といった態度の千佳だったが、俺は落ち着いてお茶を口にした。
――後をつけるくらい可愛いもんだよな。
と思うあたり俺は随分、美咲に毒されて危機感がなくなっているようである。
「ど、どうしてるかな、って。ちゃんと食べてるかな、って。き、気になって」
「そうだとしたら千佳さんのせいでしょ。自分が原因の癖に、何言ってんだか」
顔を強張らせて涙目になってしまった千佳に、俺はため息をついた。
「亨」
「んだよ、幸人」
「とりあえず落ち着いて、お茶でも飲め」
「まだ熱くて飲めねえよ」
亨は猫舌だった。
肩をすくめた俺だったが、亨は俺が止めたことで多少は落ち着けたようである。とはいっても、腕組みをして険しい表情であったが。
「千佳」
「ゆ、幸人。また、そう呼んでくれるの?」
希望が芽生えたことにだろうか、千佳は涙の浮かんだ瞳を輝かせた。
俺はあえて千佳を名前で呼ばないようにしていた節がある。それを千佳の方も気づいていたのだろう。
壁と感じていたそれが取り払われた、そう感じさせてしまったようだ。
が、俺にとってはそれはもう、あまり意味のない行為のようにも思えていた。
だから、家の前で出会った時も今も、意識せずに出てしまったのだろう。
「今更、別の呼び方も思いつかないしな」
「…………そ、う。……でも……嬉しいよ」
頬を緩ませた千佳に対し、亨は「何やってんだお前は」と言わんばかりの表情であった。
「母さんに線香、ありがとう。亨に聞いたのか?」
「……うん。本当は……な、なんでもない」
途中に亨の舌打ちが聞こえ、千佳は口ごもった。
「ああ、俺が教えたんだよ。葬式だのなんだののごたごたの時に、無遠慮に押しかけて来ないようにな。それは守って頂けたようですが、ね」
冷たい視線が千佳を俯かせる。
「悪いな、気を遣ってもらって」
「そのくらいしかできなかったってことだよ」
「ありがたかったさ」
「そうかよ」
ああ、確かに俺はあの時、自分のことしか考えられなかったから、例えば千佳の訪問があったらとてもじゃないが対応できなかっただろう。
どんなことを言ってしまうか分からなかったから、遠ざけてくれたことはありがたい。
「千佳も、もういいよ」
「……え?」
「幸人?」
最近、思っていたことがある。これはいいきっかけなのだろう。
「もういいから。許すよ、千佳」
「…………えっ」
「……おい?」
状況が呑み込めずうろたえる千佳に対し、亨は苛立たし気に千佳を見て、俺を見た。
「亨。お前が怒って俺の味方をしてくれるのは嬉しいが」
俺は天に向かってため息を吐き出した。
「俺も、俺の過去から解放されたいんだよ」
「……それでいいのかよ、幸人?」
「いいか悪いか、とかじゃない、のかな。正直、もうあの時の……なんだ、怒りや悲しさとか……は、なんというか」
しっくりくる表現が見つからない。
まだ呆然としている千佳を尻目に、俺は愛くるしい彼女の一生懸命さを思い浮かべていた。
「……浄化された、のかな」
「……なるほどね」
まだ承服しかねる亨に対し、千佳はようやく感情が追い付いてきたようだった。それがそのまま、瞳からあふれ出そうとしている。
「あ、ありがとう、幸人。あ、ありがとう……! ご、ごめんねぇっ……ほ、本当に、ごめんね……! わ、わたし、本当に、馬鹿だった……!」
「もういいよ。後悔して反省してるんだったら、もうそれでいい」
色々、罰めいたものも受けたみたいだしな。
とは、さすがに言わずにおいた。因果応報を感じてくれていれば幸いである。
亨は目を閉じて、苦虫をかみつぶしたような表情だ。
ひとしきり泣いた後、袖で涙を拭って、千佳は表情を輝かせた。
「だ、だったら、あの話、前向きに考えてくれる?」
「そんなわけねえだろ」
何のことか、と思い出せなかった俺に対し、亨が目を見開いて速攻で切り捨てた。
「ふ、藤井くんには聞いてないよ。幸人に」
「幸人はもう彼女いるっての。それも、とびきり可愛い一途なお嬢さんがね」
続く千佳の言葉を途中で打ち消し、特大の爆弾を亨は投げ込んだ。
おい、と反射的に咎めそうになったものの、その必要もないか、と思い直す。
それは確かに事実で、なにより否定してはいけないことであろうし。
この会話の流れでようやく気付けた。よりを戻さないか、という話であろう。
そうであれば亨の言う通りで、そんなことがあるわけがない。
しかしそれは友人に言わせることではなく、俺がきちんと言うべきことだろう。
「ああ、そういうわけだ。俺にはもう彼女がいる。亨の言った通り一途な奴で、俺はそれを裏切るつもりはない」
落ち着いた俺の言葉に、千佳は息を飲んだ。
「なかなかきついねえ、幸人も」
思わず漏れたのか、亨が小さく零す。
そうだ、俺なりに一線を引いたつもりだ。
確かに許しはしたが、それでもあの裏切りは俺にとって身を切られるような思いだった。
だからこそ、俺からそれを行うことは絶対にない。
色々なものを飲み込んだのか、千佳は一際大きなため息をついた。
「……そっ、か。……確かに、可愛い子、だもんね」
「……うん? ああ、見たことがあるのか」
「声をかけようと思った時に、何度か遠目に」
その度に、美咲が先んじていたってことか? だとしたら、何度美咲は防波堤になってくれていたんだろうか。
今回はお姉さんとの時間もあったから、その間隙を抜けて、ということだったのだろう。
まあ、この機会は俺にとっても丁度いいものではあったのだが。
自嘲が複雑に入り混じった声音で、千佳が悔やむ。
「そっか、そっかあ……っ。あの洗濯機、まだ置いてあったから、チャンスがあるかと思ったんだけどなあ……」
「いや、あんな高い物、そうそう買い換えられる訳ないだろ。仕方なしに使ってたんだよ」
俺の家にある洗濯機は、千佳との同棲時代に買い揃えた物だった。
千佳は浮気相手の元へ行くからと、半ば俺に押し付けて行った。
俺は同棲解消のための退去費などがかさんで、節約しなければならなかったし買い替えにも限度があった。
洗濯機だけではない。食器や家具なども同じで、俺はそれを目にするたび、苦い思いに襲われたものだった。
それを見かねた亨がいくつかは引き取りや交換を申し出てくれたが、それがなければ俺は鬱でも発症していたかもしれない。
だが、さすがに洗濯機のような高価なものになると、亨にも経済的な負担となる。
俺は洗濯機だけなら、ということで何とか単なる家電として見る努力をしていただけで、それを未練の象徴と取られるのはいくら何でも心外だった。
けれど、最近はもうそれも忘れ気味になっていて、千佳にはこの洗濯機の使い方を教えなくていいんだ、と先ほど気づいて思い出したくらいだ。
亨は洗濯機の背景を知っているので、舌打ちせんばかりの表情だった。
「ストレス解消に物をぶっ壊せる倉庫みたいな店があってな。何度そこに持ち込んでやろうと思ったか」
「そんなこと思ってたのかよ」
「けど便利なんだよな、多機能で。俺も散々世話になったから、さすがに恩を感じるまでになったからやめといた」
「掃除も小まめにしてくれたしな」
「お前がほったらかしにし過ぎなんだよ」
「ふ、ふふ」
唐突な小さな笑い声に、俺と亨の視線が向かう。
千佳は、泣きながら笑っていた。
「ふ、二人とも、相変わらず仲いいんだね」
「ああ。俺と幸人の友情は永遠だぜ」
「お前、恥ずかしくないのか?」
「俺とお前の間だろー、何を恥ずかしがる必要があんだよー」
「やめろ、人聞きが悪い」
「そっか、そっかぁ。本当に仲よしさんなんだね、二人は」
そう笑って、千佳は、涙も一緒に何かを飲み込んだようだった。
「……ちゃんとご飯食べてるんだね、幸人は」
「……ああ。なんとかな」
洗面所から、規則正しい電子音が響く。
洗濯機の乾燥が終わったんだろう。
それを聞いた千佳は、先ほどまでの笑顔を消して肩を落とした。
タイムリミットだった。
「……ありがとう。着替えてくるね」
「ああ。スウェットは洗濯機に放り込んでおくだけでいいから」
それに名残惜しそうに頷くと、千佳は静かに洗面所へと消えていく。
それに対して、俺は思うことはない。
「……まあ、いい区切りだったか?」
感想なのか疑問なのか、亨がようやく冷めたであろうお茶を口に運ぶ。
と、インターホンが鳴った。
それも何度も。というか、連打されている。
「幸人さん! 幸人さん!? 無事なの、ねえ!? 無事!?」
インターホンが鳴りやんだと思ったら、悲鳴のような声に重なりドアをノック――というか乱打する音。
「やめろ、ご近所迷惑だろうがっ」
最近はなかった所業に戸惑いつつも、急いで玄関に向かうと鍵を開けた。
「おい、一体なん――」
「ぶ、無事なのおっ!?」
なんの真似、と聞こうとした俺は、美咲の突進を受けきれずよろよろと後ろに倒れこんだ。
必死に慄いた表情の美咲は靴を脱ぎ散らかしながら、倒れた俺に覆いかぶさらんばかりだった。
「ご、ごめんなさい、慌てて――別のメスの匂いがする」
「メスって」
泣きべそから一転、凍ったような表情へ。
美咲は玄関を振り返ると、きっちりと揃えられた女物の靴を睨みつけた。
ああ、これは確かに俺が悪い。美咲という彼女がいながら、安易に他の女性を家に上げるなど怒られても仕方がない。
しかもその相手は元カノである。
俺は姿勢を整えると、頭を下げた。
「すまん美咲。事情があるとはいえ、女性を家に上げてしまった」
「いいえ。どうせ幸人さんの優しさに付け込んだ毒婦なんでしょう。なんて浅ましいのかしら」
ぎりぎり、と歯を食いしばり地団太を踏みそうな美咲を、亨がまぜっかえす。
「それ、お嬢ちゃんのことじゃねえの?」
「どこがよっ! あと、お嬢ちゃんって呼ばないでって言ったでしょおっ!」
「へえへえ」
「な、なんの騒ぎ?」
千佳が戸惑いながら、おっかなびっくり顔をのぞかせた。この声の大きさだ、いやでも聞こえただろう。インターホン、連打されてたしな。
着替え終わった千佳は、すっかり雨や泥が落ちた清楚な服装に着替えていた。
待ち構えていたように、美咲がすっくと立ちあがる。
そしてにっこりと。貼り付けた、と俺にも分かるような他人行儀な笑みを浮かべた。
「初めまして。竜禅寺美咲です」
「は、初めまして? さ、佐倉千佳、です……?」
気圧されたような千佳は、助けを求めるように俺を見た。
俺は嘆息すると、美咲の横に並んだ。
「さっき言ってた、一途な奴だ」
遠目に見ただけだったから分からなかったのだろう。千佳は本人と認識して、ひくっ、としゃっくりのように驚きで喉を震わせた。
「や、やだ、一途とか。あ、合ってるけどお」
対して美咲の仮面は剥がれ、その代わりと言わんばかりに赤くなった顔を手で覆ってしまった。
「た、しかに。か、可愛い子、だね?」
唇を震わせ、かろうじて感想を述べる千佳。
言われ、俺は美咲を見下ろした。
耳どころか、首筋まで赤くなっている。
「ああ、そうだな」
「は、はあああん……っ」
「き、聞いたのはわたし、だけどぉっ……」
何やら、美咲は熱いため息をつきながら身悶えし、千佳はよろめいてしまった。
「おいよせ、幸人」
「俺が何をしたってんだ」
「女たらしたじゃん」
「女たらしって動詞か?」
「か、帰るね」
千佳はよろめきながら、玄関で靴を履いていた。
半ば義務感で見送るために近寄って来た亨に対し、なにやら美咲はへたりこんでいた。まあ、そっとしておくか。
「……ね、幸人」
靴を履き終えた千佳は振り返ると、力なく笑った。
「……なんだか、逞しくなったね」
「褒められてるのか?」
「そうだよ。……なんだか、大人の男の人って感じ」
「おかげさまで、って言っておくよ」
「耳が痛いな……」
視線を落とす千佳。
そして気を取り直したように、精一杯の笑顔を浮かべた。
「また来てもいい?」
冗談めいたそれに、俺も同じく冗談で返そうとした。
「いいわけないわよ!」
全力の否定の後に、力強い足音が俺の隣に並ぶ。そしてそれは、俺の腕を抱きかかえてきた。
「あたしと幸人さんの愛の巣なんだから! 他が入り込む余地はないのよ!」
セリフの半ばで、視線は亨に向いている。向けられた方は、呆れたように肩をすくめていたが。
千佳の目には、どこか幼い子をあやすかのような慈愛の色が浮かんでいた。
「美咲ちゃん、だっけ。少しは落ち着きを持ったほうがいいんじゃないかな、とお姉さんは思うよ」
「馴れ馴れしく呼ぶのはやめてくれますか、佐倉さん? それに落ち着きがなかったのはあなたの方だと聞いていますよ?」
「……それ、幸人はもう、許してくれたから」
「へえ、そう。まあ確かに、幸人さんは優しいですからねえ」
「ええ、幸人は優しいの。とってもね。わたしは良く知ってるわ。付き合いが長いから」
「長いだけが取り柄ってことで合ってますか? それに胡坐をかいてしまったって――」
「美咲」
俺が静かに声をかけると、冷え冷えとしていた美咲の表情が、焦りに染まった。
「言い過ぎだ。俺のことで怒ってくれるのは嬉しいが、それで人を悪く言うのは違うだろう」
「そ、そうね。ごめんなさい、佐倉さん。言い過ぎました」
「……いいえ、こちらこそ、ごめんなさい」
何やら始まってしまった女性同士の応酬に、俺は返そうと思った言葉を忘れてしまっていた。
その間に、千佳は傘立てから傘を引き出すと、改めて俺に向き直った。
「……じゃあね、ありがとう、幸人。竜禅寺さん、藤井くんも」
「ああ」
声で返したのは俺だけで、美咲は一礼、亨はひらひらと手を振った。
玄関の扉を開け、くぐり、閉まる瞬間。
「やっぱり、諦めないからっ」
扉の隙間から覗いた瞳は、いたずらっぽく輝いていた。
そうして閉まる扉。
ぶるぶる、と美咲が大きく身体を震わせた。
「なんなのあの女!?」
「いや、あんたが煽ったからじゃん」
あーあ、とばかりに亨が頭を押さえて嘆く。
「どういうことよ!?」
「千佳さん、冗談っぽくシメて退場しようとしてたのに。なにを真に受けてんだ、あんたは」
「え」
思いがけないことを言われたようで、美咲が言葉に詰まった。
しばし反芻していたようだが、ぎこちなく俺の方を、確認するかのように向いた。
俺は頷く。
「多分だけどな」
「で、静かにフェードアウトしてくれただろうに、誰かさんが燃料を投下してくれたもんだから、火が着いちまったようだぜ」
俺にも、その事実がじわじわと実感できていた。一縷の望みをかけて、亨に確認してみる。
「冗談って説は?」
「俺もそう思いたいが……千佳さん、ああ見えて、したたかだからなあ」
過去の千佳を振り返って、俺は唸るしかなかった。
思わず美咲を眺めやると。
「や、やっちゃったあ……っ」
やっと事態を把握できたのか、俺の可愛い彼女は、頭を抱えて悲痛な声をあげたのだった。




